業深迷宮バビロン第四階層。現在の人類が到達し得た最下層にして、未だ未探索の部分が多い広大な領域。
そこは広場のように巨大な睡蓮の葉が足場代わりとなった、水深
その葉に見合った大きさの花が咲き乱れる様は幻想的であり、幻燈海月などの発光で色取り取りに輝く水も相まって夢の中を思わせる光景だ。
そして、階層の中心には城のように巨大な花が咲き誇り、階層全域をその甘い芳香で満たしている。
だが、この階層の恐ろしさを理解できるものにとってはその風景は悪夢に等しい。
迷宮全域が魔物で構成された地獄の階層。巨大な葉も、花も全てが魔物。魔物を足場として進まねばならぬ以上、ここでは地形すらも牙を剥く。
そしてとりわけ恐ろしいのが、この領域を支配する魔物『悪涜神樹・鉢頭摩王』ことヘラエの『選り好み』であった。
階層の葉の並びを自在に組み替えることで美男美女を自らの元へと誘導するこの魔物に気に入られれば『最上位級魔物を打倒しないと行きも帰りもできなくなる』というとんでも無く面倒なことになってしまうのだ。
この階層から生還できた冒険者が皆筋肉ムキムキのゴリラ体型であることから筋肉ダルマはこの魔物の好みではないらしいと判明しており、この階層をクリアするには筋肉を鍛え上げる事を推奨されている。
だが戦闘スタイルを阻害する、そもそも後衛である、筋肉の着きにくい体質であるなどの事情でなかなか簡単にはいかないのが現状だ。
また、統計的に女性の被害率が男性より遥かに高く、被害男性は華奢な美少年系の容姿であったことから、どうもこの魔物は女性的な容姿を好むとも推測されている。
これに対抗する手段としては男装が挙げられるのだが……そちらに関しては筋肉ダルマより効果は薄い。
特徴を纏めるならば、戦闘力では無く容姿で難易度が変動する奇妙な領域、だろうか。…………そんな第四階層に、新たな侵入者がやってきたようである。
* * * * * *
ジェミーという名は、珍しい名ではない。男女問わず一定数いる、ごくありふれた名前だ。
しかし、『陽炎のジェミー』と言えば、少なくともこの近郊の冒険者で知らぬ者は居ないビッグネームである。
冒険者・三段という人外の領域に到達した段位持ち。業深迷宮第三階層踏破者にして、世間的には稀な『冒険者集団に所属しない』冒険者。
そして何より、それほどの実力者でありながら『顔を見たことがあるものがほぼいない』というある種、伝説的な存在である。
にも関わらずその功績が知れ渡って居るのは、陽炎のジェミー宛ての指名依頼などでジェミーの『足取り』だけは冒険者組合で把握されて居るためだ。そしてこなした高難度の依頼が噂となり、名前だけがまた独り歩きするというわけである。
そんな陽炎のジェミーは今、業深迷宮第四層の入り口である3階層から続く下り坂を、静かに下っていた。
垂直に足を水中から抜き差しする奇妙な歩法で進むジェミー。その姿は滑稽にも見えるが、全くの無音で半水没した迷宮を歩むべく生み出されたそれは、極めて高い隠密性により先手を取る上で圧倒的なアドバンテージを持つ技術だ。
さらにその装備も業深迷宮に挑むための特注品。脚に纏った黒い艶消しのタイツの様な装備は凄まじい撥水性を持ち、歩みのために足を上げた際に水が滴る事は無く、また水中に漂う媚毒をも撥ね退ける。
そしてジェミーの腰までをすっぽりと包むフード付きのポンチョは表面に超吸水素材を配する事で天井から降りしきる媚毒の雨を音もなく吸いとり、裏地の撥水素材によって内部への浸水を防止。
さらに吸水素材と撥水素材の間に挟み込まれた布には乾燥の魔術が付与されており、染み込んだ水分と媚毒を水蒸気として大気中に逃がしてしまう。
もちろん気化した媚毒を吸い込まぬよう、浄化の術式を組み込んだ頰当ても抜かりなく着用済である。
そこまでして隠密に特化してなお、念には念を入れるのがジェミーの流儀だ。
『陽炎』の異名の元となった火と風の複合魔術『幻影蜃気楼』。
これによって大気の屈折により自身を不可視化する事で、ジェミーは無音かつ不可視の存在として、迷宮の中に溶け込んでいる。
しかし、残念ながら第四層においてその策は無意味だ。魔物の肉体である蓮の葉を渡る関係上、どうあがいても重量で察知されてしまう。これらの装備と術式は第四階層に至るまでの戦闘を避ける為のモノであるといえよう。
故にジェミーは第四層に到着する直前で、詠唱を開始する。
「時を跳躍する白兎、因果の簡略者、横着と怠惰と姑息の守護者。我が身に時の祝福を、過程の簡略を与え給え。我は姑息なる白兎の加護を希求せし者なり。————『因果超越・瞬間換装』」
因果における過程の省略。本来上級魔術に相当するそれを『目的を一種に限定し』、『制限を設ける』ことで中級魔術にまで低コスト化した因果改変術式。
その効果は『非戦闘状態でのみ発動でき』、『今所有して居る装備に着替える』という行為の過程を省略し『今所有して居る装備に着替えた』という結果のみを残すというものだ。有り体に言えば『一瞬で着替える』為だけの魔術である。
戦闘に従事するものでなければ、わざわざそれなりの量の魔力を消費してまで着替えを省略するのは無意味で無駄な行為に思える事だろう。
だが、『鎧』の着用の面倒さとそれに要する時間を知る者にとってはこの魔術は非常に有用なものだ。
この術でほぼノータイムでの武装変更が可能となれば、迷宮攻略におけるストレスはかなり減少する。
まさに今ジェミーが行なっているような『移動用の装備から戦闘用の装備に着替える』という選択肢を冒険者に与えてくれるのだから当然だ。初めからフル装備で迷宮を歩くというのはかなりの苦痛であるが故に。
さて、この魔術で着替えたジェミーだが、その装いは先程までと大きく変化している。端的に表すならば、死神とでもいうべきか。
一切の艶のない、光を極限まで吸い込む黒い外套は、一年を通じて深い霧に覆われた特殊な環境にのみ存在する植物魔物『
およそ光に分類されるものを際限なく取り込み光合成に活用するその生態を利用することで『完全なる黒』に染まったその外套はジェミーの立体感を消失させ、あるべき輪郭の無い『世界に出来た黒い染み』へと変えてしまう。
そればかりか、この外套は輻射熱すら飲み込む為、植物質でありながら高い耐火性を備える上『生きているが故に光さえあれば再生する』という便利な性質を持っている。
そんな外套の下に着込むのは、これまた黒い革鎧だ。胴を保護する胸甲と前当て、そして背甲。
それに加え、腰回りを守るフォールドと、腕全体を保護するように一体化した肩当てと籠手、長靴を兼ねる膝丈のブーツまで一式揃った完全武装。
こちらも表面に蝕光大石蕗を貼り合わせることで漆黒に染まっているが、可動部分などに僅かに覗く革自体の色も黒い。
革素材とはいえその強度は並みの金属を凌駕し、希少金属にすら勝るとも劣らぬ逸品である。『大河黒獣竜』と呼ばれる淡水域に住む河馬に似た竜種の皮を贅沢にも世界樹の樹皮から煮出した渋で鞣した最上級革鎧。
元が水竜の素材であることから尋常ならざる耐水性と強度を持ち、さらに鞣しに用いた世界樹の樹皮の効果により、装備者の魔術を増幅する効果と他者からの魔術的干渉への抵抗力を備えている。
そして最後。その下に着込んだ布鎧は今までと異なり黒ではない。その色は一見すれば茶色だが、光の具合や見る角度によって赤とも緑とも思える奇妙な色だ。近寄ってよく見れば、光沢のある赤と緑の繊維を縒り合わせた糸で出来ているのだと判るだろう。
これもまた革鎧と同じ竜素材であり、『灼炎紅玉竜』と『風衝翡翠竜』の
そして最後に肌着。これは別段防御力やら能力増幅やらに重きを置いた素材ではないが、たっぷり汗をかいても蒸れず、かといって乾燥もせず、冬暖かく夏は涼しい『機織蜘蛛』の糸で出来た高級下着である。
精神と肉体の両面における衛生に大きく関わることから初心者を超えた冒険者は下着に並々ならぬこだわりを見せることで有名だが、ジェミーも例外ではないようだ。
運動を考慮しサポート力と肌触りの良さの2点で厳選した胸当てとシャツ、そしてスパッツにサイハイソックス。これらはどれもオーダーメイド品であり、お気に入りの色なのか黒を基調としたシックな装いに仕立てられている。
————そう、胸当てとスパッツにサイハイソックスだ。陽炎のジェミーと呼ばれる凄腕冒険者の正体は、女性なのである。
輪郭を掴ませない漆黒の外套とゴツい竜の革鎧に隠されているのは猫のように柔軟で引き締まった女体。
しかしながらその身長は低く、初対面では『幼い少女』と認識されることが多いだろう。顔は外套と揃いの覆面に隠れて伺えないが、少なくとも起伏が乏しい体型であることは鎧の上からでも窺えるので余計にそう見えるのかもしれない。
しかしながら、彼女は冒険者になってもう20年を越えるベテランである。存在の格が向上する影響で高位の冒険者は老化が遅れる為、肉体的には20代並みだが実年齢の方はそろそろ四十路も間近。精神的にも落ち着いており見た目で侮って良い相手でないのは確実だ。
そんな彼女は無事問題なく着替えが終わったのを確認すると、腰に佩いた二振りの短剣を抜き放ち臨戦態勢で第四階層に続く坂を下りきった。
目の前には事前に確認した通り、巨大な蓮の葉がいくつも浮かぶ深い地底湖が広がっている。
この上を歩いて進めば間違いなく葉の持ち主である『悪涜神樹・鉢頭摩王』にジェミーの存在が知れるだろう。魔術で飛んで行こうにも、浮遊するからには揚力を得る為に下向きの風が発生することは避けられず、感知を逃れるには向かない。
ではワイヤーアンカーでも打ち込んで天井を渡ってはどうかと思いついたものの、この迷宮が無数の蠢く石像で構成されていることを考えればやめておくのが利口だろう。
最悪のタイミングで綱を切られて墜落する未来しか見えないのだ。水泳は無論論外である。
となればどうせ気付かれる以上、無駄に魔力を消費するよりは歩いて行くべきか。そう判断してジェミーは蓮の葉の上に一歩を踏み出し、迷宮第五階層への入り口を探るべくテクテクと歩き出した。
そんなジェミーの足音はほぼ無音。だが歩くという行為が片足ずつ地面を踏みつける行為である以上、振動が発生することは避けられない。
そして蓮の葉の裏から水中に突き抜けるその振動は水中という空気より遥かに振動を伝えやすい環境で第四階層全体に伝わり、水中に潜む魔物どもがジェミーの侵入に気づくまでほんの数秒もかからなかった。
その一番槍として水中からクジラのごときジャンプでジェミーに躍り掛かったのは体長10歩にも及ぶ巨大な肉蛇、淫猥大邪蟲。
二級以下の冒険者では殺しきれないと言われるほどの再生力と見た目通りの万力の様な締め付けを誇る淫系統魔物である。
だが飛びかかってきたその巨体に対してジェミーは目をやる事もせず、左手の短剣を無造作に振り抜いた。
直後、淫猥大邪蟲の身体にビシリと一閃の斬線が走り、次の瞬間その肉体の各所から噴き出した蒼炎が一瞬でその巨体を灼き尽くす。
肉の焦げる匂いすら出さぬ一瞬の出来事の後に残った僅かな灰が舞う中で、ジェミーは軽く左手をスナップさせて短剣に付いたほんの僅かな煤を払った。
金色の輝きを持つその剣は火属性を秘めた魔剣。その銘を『灼竜剣・
右手に構えるもう一振り、『嵐竜剣・銀星』もまた竜素材であり、風衝翡翠竜の犬歯で出来ている。
ちょうど今ジェミーが着込んでいる布鎧と揃えで作られた経緯のあるこの双剣は、ジェミーの名声が本格的に轟く様になった『ヘブア村の双子竜討伐』事件以降ずっと主力武器として使い込んできた彼女の愛剣だ。
故にこそ先ほどの様な『魔力を乗せた一断ちで相手を焼き尽くす』という奇術めいた技を半ば無意識に放つ事ができるのである。
無論それを可能とする要因が、段位に至った冒険者の超人的な動体視力や反射神経、瞬発力、そして一切の遅延なく思考と同じ速さで動く筋肉にあるのはいうまでもない。力と技の融合こそが先ほどの見せた一瞬の妙技なのだ。
だが、魔物も四階層産にもなれば一番槍の惨敗に怯む様なものは居ない。1体でダメなら数で押し潰すとでもいうかのように数匹の淫猥大邪蟲が四方八方から襲いかかった。
が、結果は同じ。ただ死に方に右の『銀星』が生み出す暴風で爆散するというパターンが加わっただけだ。
しかし戦力の逐次投入が悪手であるのは階層を支配する『悪涜神樹・鉢頭摩王』ことヘラエも承知している。
淫猥大邪蟲が身体を張って稼いだ時間を生かしてジェミーの乗る葉に多数の六脚回震蝦蛄——ドリルめいて回るバイブ腕が6本ある巨大シャコ——を乗せた葉を複数横付けして乗り込ませ、ヘラエ自身も『女体が雌しべとして生えている』女体花を咲かせて陣頭指揮と魔術による支援を開始した。
ジェミーの乗る葉を沈没させて水中に引きずり込めればいいのだが、なにぶんその大きさゆえに沈めようとすると水の抵抗を受けてろくな潜行速度が出ない。高位冒険者を相手に仕掛ける策としてはイマイチだろう。
故にヘラエは足場を崩すよりその足場の上でジェミーを圧倒する策を選んだ。
隊伍を組み包囲陣を敷く六脚回震蝦蛄を盾に後衛としてヘラエの眷属である『女体花を咲かせる巨大な睡蓮』の淫精芙蓉樹を展開。その魔術により対象を釘付けにし、遊撃手として沼稚児を投入。さらに空中には翼により飛行可能な白泥淫魔を配備し立体的に包囲陣を敷いている。
手堅く、堅実に、確実に相手を仕留めんとするその策は決して悪い策ではない。敵が単一であるのなら、戦力を集中させ数で囲んで殴り続ける、という策が間違いであるはずがないのだ。
だがそれは、質より量という前提が通じる次元での話である。
「——ッッ!!!」
呼気と共に勢いよく振るわれる双刃。魔剣に魔力を乗せることで属性を帯びた斬撃を『飛ばす』というのは段位に至らぬ冒険者も扱う事があるが、ジェミーのそれはこと規模という点において並みの冒険者と一線を画す。
独楽のように回りながら放たれた彼女の斬撃は彼女を中心とした風と炎の二重螺旋を描き、互いに干渉する事で相乗効果を発揮。炎の竜巻と化して彼女を包囲する六脚回震蝦蛄の壁を容赦無く灼き、斬り、吹き飛ばしたのだ。
その余波は後方に控えていた筈の淫精芙蓉樹の女体花すら容赦無く焼き焦がし、上空の白泥淫魔も回避し損ねた個体から撃墜されて派手に水中に落下する。
竜巻が与えられた魔力を消費し終えて消える頃には焦げ付いた葉の上に立っているのはジェミーのみになっており、その周囲を囲むのは焼き上げられて真っ赤に殻を染めた六脚回震蝦蛄の骸と焦げ付き萎びた淫精芙蓉樹の花達。
宙を舞っていた筈の白泥淫魔は悉く撃ち落とされ、数の優位で圧倒する筈が逆に階層内の戦力を大幅に削られるという状況に陥ってしまった。
だがヘラエは階層を支配する立場である以上、くよくよしてもいられない。幸い淫精芙蓉樹たちは花を焼かれたものの水中の本体は無事であり、白泥淫魔も灼き落とされたとはいえ水中に落下したのみで死んだわけでは無いのだ。
ここで侵入者を打倒すれば、再興を図ることは容易い。ならばとヘラエは迷宮核バビロンに非常事態を連絡した後、階層の中心にある巨大な花の中心から戦闘用の女体を立ち上がらせた。
その肢体は豊満な胸と尻、折れそうなほどに細い腰を備えた美しくも巨大な
だがその美しさとは裏腹に、上級魔物として十分な戦闘能力を備えたヘラエの決戦用の身体である。
そしてその巨体を起き上がらせるや否や、ヘラエはジェミーの乗る焦げた葉に向けて容赦無く拳を叩きつけた。
派手な水しぶきと共に勢いよく沈むその葉。だがヘラエは手ごたえを感じていない。とすると回避したジェミーは何処に居るのか。
水中か? ——否。 であれば空中——!
瞬間的なその判断と共に宙を舞うジェミーを見つけたヘラエはもう片方の手を伸ばし、羽虫を捉えようとするかの如くジェミーを握り潰しにかかる。
だがジェミーとて並みの相手では無い。空中で回転しながら双剣を振るったジェミーはヘラエの薬指の付け根を半ば程まで斬り、一瞬握るのが遅れたその指の隙間を掻い潜ってヘラエの手の甲へと降り立った。
そのまま転げるようにして勢いを殺しつつ、手首から前腕、そのまま肘に至らんと駆けるジェミー。
地を擦るように両手の剣で腕を斬りつけながら駆け上がってくるジェミーに対し、ヘラエはしかし冷静に対処した。
肩から腕を自切し、その断面から新たな腕を生やして落下する元の腕を掴み、勢いよく水面へと叩きつける。
無論大振りなその技をジェミーが回避するのも織込み済みだ。ジェミーが宙に身を躍らせたその瞬間には、ヘラエの魔術はほぼ完成していた。
「————電気魔術目、放電魔術科、電弧放電魔術族、『
「くっ、詠唱短縮、
詠唱短縮。それは詠唱における修飾的要素を破棄し、魔力消費の爆発的な増加と引き換えに発動速度を上げる裏技的な手段。
ジェミーがそんなものを咄嗟に使わざるを得ない程にヘラエの放った魔術は強烈だった。太陽表面に匹敵する超高温のプラズマで空間を薙ぎ払うその技は並の人間や下位の魔物では発動する前に魔力消費の激しさに気絶するような超大技だ。
それに対して咄嗟に性質を判断し、プラズマを希薄化させ消滅させるべく真空の防壁を展開したジェミーの判断も凄まじいものであり、魔術戦における互いの実力は拮抗していると言える。
だが、ヘラエはジェミーがこの大技を防ぐと確信し、最後の駄目押しを用意していた。
アークの閃光を目眩しにヘラエがジェミーに吹き付けたのは、高濃度の媚毒を混ぜ込んだ『毒の
流石に大技の後に広範囲に放たれたこれを避ける事は、ジェミーと言えども不可能だった。防毒マスクによって吸引することはなかったものの、あまりに高濃度の媚毒は目の毛細血管や毛穴を通じて体内に浸透し、ジェミーの肉体を発情させる。
しかし、たとえその身を媚毒に蝕まれようともジェミーは冒険者三段の超人だ。盛りのついた猿のように欲情する肉体を精神で捩じ伏せ、彼女は戦闘を続行してみせた。
「赤く熱く眩きもの。破壊と創造の力。原初の知恵。其れは焔。其は剣の記憶、産まれ出でし
「水魔術科、放水魔術族『ウォーターシールド』! ————んギぁッ!?」
水の防壁を貫き、水蒸気爆発を伴ってヘラエに直撃するのは、天を衝くほどの火柱、否、焔の剣。
咄嗟に片腕を盾にしたヘラエだが、その片腕ごと肩から腰にかけて袈裟斬りに叩き切られ、挙句に土台である巨大な蓮華も半ばほどまで断たれて炎上する。
焔を上げて燃え盛る山のような巨体は苦痛に悶え、熱から逃れようと水の中へ潜ることもできず、炭化して崩れ落ちる。
毒に蝕まれ、長期戦という選択肢を捨てたジェミーが放った大技の威力は最上級魔物に強烈な痛手を与えるに十分なものだった。
だが、其れは決して致命傷ではない。
水中から伸びた巨大なツタが燃え盛る蓮華の残骸をジェミーに叩きつけると同時に、水面を持ち上げて浮上する巨大な蕾。……あくまで、ジェミーが倒したものは花に過ぎず、ヘラエという巨大な魔物にとっては小指を一本切られたようなものでしかない。
もっとも、小指をぶった斬られて平気かと言われれば否だ。盛大な苦痛と確かな欠落をヘラエに与えたその一撃は決して無駄ではなかった。
「……素晴らしい一撃だったと賞賛します。戦闘用に構築したあの花を焼き切るとは驚愕しました。…………貴女を手に入れれば、この迷宮はより盤石となるでしょう。故に私は貴女に確実に勝利する義務があります。……そして————貴女の容姿は私にとって実に好ましい」
「容姿による選別……事前情報通りか。……毒を浴びた以上会話による時間稼ぎに付き合う余地は無い」
一瞬のコミュニケーション、或いはヘラエの宣戦布告。そこから一拍空けた次の瞬間、水中から凄まじい勢いで伸びてきた大量のツタがジェミーに襲いかかった。
それをまるで踊るように避けるジェミーは紙一重の回避の間隙にツタを踏みつけ空を駆けヘラエの新たな肉体を狙う。
風属性の銀星と火属性の金星。一方のみでも強力な魔剣を組み合わせて戦うジェミーが繰り出す獄熱の旋風は容赦なくヘラエの肉体を焼き焦がし、ジェミーを捉えんと追い縋るツタは燃える端から再生し、再生する端から焼け落ちていく。
永遠にも思える一進一退の攻防。両者の魔術が交錯する度に階層全体が吹き飛ぶのではないかというほどの衝撃が走り、幾度となく水面が裂け、海嘯の如き大波が彼方此方で巻き起こる。
激闘の余波は轟音となって迷宮全土を揺るがし、地上の迷宮入り口にすら雷鳴の如き重低音として伝わった。
そして、恐ろしい事にそれが三日三晩に渡り一切途切れることなく続いたのである。それはまさに神話の戦いと呼ぶに相応しい激戦だった。
それほどの戦闘を繰り広げ、互角に立ち回った両者。だがその肉体に負った傷の数は明らかに異なっている。
水面を切り裂き湖底にまで到達したジェミーの斬撃によってヘラエは多数の根と茎を断たれているのに比べ、ヘラエの追尾魔術から逃れる身代わりとして外套を失ったもののジェミーは未だ擦り傷すら負っていない。
にも関わらず、より消耗しているのはジェミーの方だ。
浴び続けた媚毒の影響でもはや我慢ならぬと主張するように勃起したクリトリスと乳首が、呼吸の度に起こる僅かな衣摺れですら絶頂を齎す事で、ジェミーの精神と体力はガリガリと削られている。
間断なく噴き出す潮と愛液によって急激な脱水を引き起こし気絶寸前の肉体を、人外の精神力で無理矢理動かしているのがジェミーの現状であった。
その身に受けた毒の総量は既に並みの冒険者を数十人絶頂死させる域に達しており、まだ二本の脚で立って剣を構え、戦い続けていること自体がある種の偉業であるとさえ言える。
だがそれももう、限界だった。唾液が出ず、目が乾燥して霞む程の極限の脱水。その前に遂に屈した彼女の肉体が、膝をよろめかせた。その瞬間を逃さず、ヘラエのツタがジェミーを捉え、何重にも拘束していく。
首に絡みつくそれに最後の力で争いながらも、ジェミーは霞む視界の中で自分の敗北を確信した。
それは、もはや種族的な問題。人間が生きるには水が必要であるという、どうあがいても越えられぬ限界の前に、彼女は敗北したのである。
だが冒険者三段にまで至った彼女の精神はその敗北の未来を確信して尚、悪足掻きを自らの肉体に強いてみせた。
カラカラに乾いた喉を濡らすべく奥歯を噛み砕いて血を流し、錆びついた声帯を無理矢理に動かして言葉を紡ぐ。
それは、最後にして最強の一手。冒険者ジェミーの、『最期』の奥の手だ。
「そ、れは、原初の、光。輝ける、星の……記憶。それは、ほの、お。それは、熱。それは、根源の、禁忌、の、ちから。地上に、在る、べからざる、もの。はか、いの、けしん」
「————ッ!? まだ魔術を、いや、まさか!? これはッ!?!!? させません!」
「グギッ……ガッ……! に、日輪の、落とし、仔よ。荒れ、狂う、神、の……ギッ……」
「やめろッ、やめろやめろやめろやめろやめろッッ! クソッ! こうなったら腹を括りますッ! ヘラエより迷宮に伝達ッ! ————超級魔術発動阻止不可能ッ、隔壁の緊急閉鎖をッ!!!!!」
「————グェッ……ガッッ…………あれ、荒れ狂う、か、神の、怒りよ。……今、此処に、かた、ちを…………ッ。形をッ成せッッ! 超、級ッ……魔術ッ! 『極星消滅波』ッ!」
その、直後。
一瞬の閃光。
音が消え。
無が来た。