ここの温泉は混浴ではない。
繰り返す、この温泉は混浴ではなかった!
考えてみれば真面目で冷静な吉備津チーム唯一の良心、雉屋たまきの旅館である。クマーラや乙姫のようなサービス精神があるはずもなく。
だがせっかくなら吾輩とも混浴でイチャイチャしたかった。
しかし少しぬめりのある熱い天然温泉に入ると煩悩もろとも洗い流されていくようで。人間さんはふーっと安らかな気持ちで息をついた。遅い賢者タイムともいう。
かたん
とそのとき、山から温泉を引く水音に紛れて、湯を隔たる仕切りから微かな物音がした。
この向こうは女湯か。吾輩が入ってまだ30〜40分かそこらである。女の子のお風呂は長いだろうし、まだ入っているのかもしれないと少し大きめに声を掛けてみた。
『うあっ!?にっ、人間殿っ!?』
すると間髪入れずに返事があった。くつろいで居たところにいきなり声を掛けたから驚かせたのだろうか、少し悪いことをした。
『だだ大丈夫、に、人間殿も……お風呂、だよね』
それはそうだ。まさか温泉旅館の風呂場に来ていきなり掃除をはじめる客もいるまい。
『そっ……う、いえば、そう、だよね……吾輩、何言ってるんだろ……くぅぅっ……れ、あ殿と、ティンカ殿は?』
水音が存外大きくて聞き取りづらい。
吾輩にクレアとティンカを部屋に置いてきた事を告げながらふと思ったのだが、今この旅館に来ている客は二組で、女性客は人間さん一行にしか居ない。つまり自分なら女湯側に行っても問題ないのではないだろうか?
『だっ!?だだだめえっ!だめだよっ……な、なぜって、ルールは守らなきゃ、怒られ、ちゃうよ』
せっかくのいい湯であるから、吾輩も一人でのんびりしたいのかもしれない。
『そっ、そんなことないよ!』
そうか、じゃあ。
『でもっ、だめえっ!……だ、だめじゃ、ないけどっ、今は、んっ、ダメでっ』
なんだか錯乱している様子である。
竹で編まれた仕切りに近付き覗こうとしてみるも、隙間なく芸術的に組まれていて覗き見ることが出来そうにない。
『人間、殿?……まだ、そこに、いるのっ?』
少し上擦った、不安そうな声。
大丈夫ここに居るよと仕切りに手を付いた。不思議と向こう側でも吾輩がそこに手を付いている気がした。
『ぁ、はっ……人間、殿がぁ、そこに、居てくれてる気が、して……安心、する……んん』
あのね、と途切れ途切れに聞こえてくる吾輩の声に相槌を打ちながら話を聞く。
『吾輩、あなたと一緒に居ると、とても幸せな気持ちになれるんだ』
『吾輩のわがままで結婚式になんて巻き込んじゃったけど、あのままあの時間がずっと続いたらって、今でも思うよ』
『ねえ、いつか……いつかでいいから、今度はふたりきりで、旅行したいな。絶対じゃなくていいから、今だけ、約束、してくれないかな』
思えば恥ずかしがりの吾輩とこんなに長く話をした事はなかった。
あの結婚式の初夜の時、深酒をして勇気を振り絞った吾輩と繋がった夜。ふたりで気持よくなって、手を握って笑った吾輩を思い出す。
ーーずっと、大切にしてね……。吾輩も、ずっと、そばにいて、大切に……。
あの瞬間、人間さんも幸せだった。その幸せがずっと続けと願って、彼女を大切にしようと誓いもした。
『お、覚えてくれてたんだ……嬉しい♡』
吾輩の甘く蕩けるような声。今どんな顔をしているのだろうか。
『だめ、だよっ……見せられない、幸せっ、すぎて……こんなのっ』
結婚しないと見せられない、か。
口にはしないが、それは少し難しいかもしれない。想いを寄せてくる子が多いのもあるし、いつ死んでもおかしくないのもあるし、他にも不安材料はあって、全てが片付くまで結論は出せない。
だから代わりに、人間さんは約束をした。
『次は……ふたりきりで、旅行?』
そう。それでたくさん甘やかして大切にして、幸せにするから、一緒に行こう。
『やっ、あっ♡そんな、そんなこと言われたらっ♡いく、イきたい、よっ♡』
いつか、必ず連れていきたい。
『一緒に、一緒にぃ♡いくっ♡イっちゃうううう♡』
がたん、がたがたっ
塀の向こうで吾輩がまた転んだような音がして慌てて声を掛けた。
『……は、は、だい、じょうぶ……ちょっと、ころんじゃ、ってえ……よろこび、すぎだよね』
そんなに嬉しいか、かわいいやつめ。
『ね、人間殿……。吾輩は、あ、あなたが……』
『だいすき』と小さな声がした。塀の向こうで吾輩が顔を真っ赤に恥ずかしがっている様子を思い浮かべて、股間に血が集まってくる。のぼせてしまいそうだ。
そういえば日課のオナニーもまだだと気付き、人間さんは吾輩にものぼせないように言って風呂を出た。
今日のおかずはもちろん吾輩である。