放課後の校庭で 課外授業な愛を知る/相対性理論『地獄先生』
最悪。最悪、最悪、最悪、最悪。
「最悪」
何度言ってみても、心の中から、「最悪」が消えていかない。
それどころか、言葉にするたびにどんどん胸が重くなって、耐えきれなくなって、私は校庭のすみっこでうずくまってしまった。
植木に隠れちゃうから誰にも見つからないと思ってわんわん泣いてたのに、「こんなところにいたんですか」って声が降ってきたから、また「最悪」が一つ増える。
誰が来たのか、見なくても分かる。
涙とはなみずと涎でべちょべちょになってブサイクになった顔を、一番、見られたくない人が来ちゃった。
「担任の先生も探してましたよ。君にプリントのことを尋ねたら走ってどこかに行ってしまったから、って」
先生が葉っぱや枝をかき分けて、私の隣に座る気配がした。
たぶん、距離は、すごく近い。だって、…私の右側が、何となく、あったかいし。
「こんなところに座りこんでたんじゃ、見つけるのに手間取るのも当然ですね。僕だって、ゲッコウガに教えてもらったからようやく発見できたようなものですし」
はい、と、こちらの気をひくような声がかかる。
ちょっとだけ横目で見てみたら、ハンカチが差し出されていた。
「あげます。どれだけ汚してもいいですよ」
そんなことを言うから、私は引っ掴むように遠慮なくもらって、ぷんと鼻をかんだ。
目が腫れて見れたもんじゃないだろうけど、さっきよりはマシだと思うから、私は顔をあげた。やっぱり、夢でも何でもなく先生が隣にいて、いつもの胡散臭い笑顔を浮かべている。
「それで?進路調査、紙飛行機にしてどこかに飛ばしたわけじゃないんでしょ?君、ちゃんと提出するって言ってましたもんね」
「飛ばしてない」
破いて捨てたの。
そう返事をすれば、「おや、それは剣呑だ」と、先生は焦りもせずに平然としている。先生が使う「剣呑」って言葉と、先生の声の調子が合ってなくて、ちぐはぐで、心配そうな感じも全然なくて――慰めてすらもらえないのかと思うと、私は悲しくなって、また鼻が痛くなって、目の奥が熱くなってくる。
担任は私のこと心配してたんでしょ。先生は違うの。私は先生に「どうしたの?大丈夫?」って、言ってほしいのに。
「それが君の最善だったんですか」
「…え」
「君、おばあ様と約束してるんでしたよね。最善を尽くすんだって。提出物を捨てることが最善だった理由を教えてください」
「…ッ、ないよそんなの!」
ぐあっと勢い任せに立ち上がった。
私は初めて、教師に、それも、先生に向かって怒鳴った。
大声を出した瞬間、ぶわぶわと涙が溢れて、視界がにじんで、先生の輪郭がぼやけていく。
「何それ嫌味 ⁉ 最善じゃないよ!言われなくたってわかってるんだから!いちいち指摘しなくてもいいじゃん!約束も守れない子なんだって、先生も、私のことダメな子だって、そう思ってるんでしょ!
みんなバカにするんだ!あんな紙に何書いたってどうせあんたにはなれっこないって言われるんだ!私書いたんだよ!ほんとだよ!でも、…でもッ!意味ないんだもん!無理だって言われたんだもん!」
私にはノックしてから部屋に入れって言うくせに、お母さんは私の部屋に来るときノックしたことなんて一度もない。今朝だって勝手に入ってきて、机の上に置いてたプリントを見られてしまって、「先生?うそでしょ?」って。鼻で笑ってた。
お父さんもお母さんも、私には「頑張れ」なんて励ましの言葉を言ってはくれない。おにいちゃんみたいに成績がよくないし、顔もよくないし、スタイルだって悪いから。誰に似たのって、兄妹じゃないみたいって、何度も何度も言われてきた。私にはおにいちゃんと同じようなことはできない。おにいちゃんが通ってたすっごく難しい学校とか、おにいちゃんが働くことになってるすっごく有名な研究所とか、逆立ちしたって入れない。だから期待されてない。褒められたこともない。「どうせあんたは」とか「やっぱりあんたは」とか、決めつけてくる。何にもできないと思われてる。だから可愛がってもらえないんだ。おにいちゃんには最新のものも、高価なものも、いっぱい買ってあげるのに、私には何にもない。近所のお姉さんのおさがりばっかり。誕生日さえも忘れられてる。
嫌になっちゃうくらい、おにいちゃんは何でもできてしまう。スーパーマンみたい。親が自慢するのも分かる。私だって自慢に思ってた。でも、あのとき。あの夜に。おにいちゃんに同性の好きな人がいるんだって、それを家族では私だけが知ってるんだって、それに気付いたとき、おにいちゃんの弱みを握った気がした。本当は、弱みとか、そんなんじゃないし、おにいちゃんが誰を好きになったっていいし、悪いことでも何でもないのに、これを誰かに言ったらおにいちゃんもちょっとは困るのかなとか、お父さんやお母さんが失望してくれないかなとか、考えちゃった。
私は悪い子なんだ。
そんなことないよって髪を撫でてくれたおばあちゃんは、もう、いない。
こんなとき、おばあちゃんなら「あなたならきっといい先生になれるわ」って応援してくれたはずなのに。
一度、担任に相談したことがある。家に帰りたくないって。家族が嫌いだって。
担任は、困った顔してた。「でも、家族のおかげであなたは生活できてるんでしょう?」って返してきた。「お父様にもお母様にも御苦労があることを忘れてはいけないわ」って、…それはそうかもしれない。私の知らない、親の苦労ってやつがあって、疲れてるのかもしれない。イライラしてることも多いし。でも、それは、私を不幸にしていい理由になるの?私を傷つけていい理由になるの?私に八つ当たりしていい理由になるの?だから大人って嫌い。
嫌いだけど、
「君にしては珍しく間違いだらけなので、認識を改めなさい」
嫌いだけど、先生は、別。
先生も、ゆっくりと立ち上がった。
ぎゃあぎゃあとみっともなく叫んだ私を相手に、向かい合ってきた。お互いの間にはとんでもない身長差があって、私は、先生の影にすっぽりとおさまってしまう。
見おろされる。視線を感じる。これが親だったら、見くだされてるみたいでいつも怖いんだけど、先生は、ただ静かに見つめてくるだけだから、平気だった。
「まず、自分を『ダメな子』呼ばわりするのは止めること。
言葉は力だ。自己否定ばかりを繰り返していたら、そのうちに、本当に何もできなくなってしまう。…スポットライトを向ける箇所は他にもあるでしょう?もっと自分のいいところを認めてほしい。元気に挨拶ができること、友だちが沢山いること、明るくて人懐っこいところ、過ちを反省し本質を悟る聡明さ。全然『ダメ』なんかじゃない。君はとても素敵な子です」
鼓膜にそっと触れるような、おひさまみたいに優しくて温かな声。
表面的な慰めなんかじゃなかった。ちゃんと、先生の本音だった。この人には、泣いてる子に追い打ちをかけるような辛辣なところはない。向けられた厚意はとても単純で、まるっこくて、だから、するりと胸に入ってきた。
「そして、…いったい、誰と比べられて『無理』と言われたのか知りませんが、それは他者が決めることではない。君は君のやり方で生きていけばいい」
比べて優劣をつけて、それでどうするんでしょうね。
先生は、まるで世の中への不満を吐き出すように、嘆息した。
「世界を作るにはすべてが必要――この地方に伝わる有名な慣用句です。大体、誰かに褒められなくたって、成績で勝てなくたって、死にゃァしませんよ。でしょ?好きなことしてればいいんです。生きてて楽しいと思えるかどうかが重要なのであって。それ以外はどうでもいい」
ふはっ、と私は笑ってしまう。
私がずっと思ってたこと――この人が、全部、言ってくれた。
「先生、ぶっちゃけすぎ」
「だって、抑圧されっぱなしじゃ癪でしょうが。
…嫌いなんですよ。卑下ってやつ。自分で自分を傷つけて未来を閉ざしていく人を…僕は、もう、見たくない」
あなたは勘が鋭いものね。
これ、天国にいっちゃったおばあちゃんの言葉。だから私には、何となくだけど、分かってしまう。
今、先生は、…一番触れられたくない部分をあえて見せてくれたんだって。
私がこれ以上、泣かないように。
だから、戻ろう、と思った。
先生がくれた誠実さに、私も応えたくて。
「担任、…新しいプリント、くれるかな」
ぽつりと呟くと、先生は微笑んでみせる。「いくらでも」って。
「私、ちゃんと謝ってくる」
「それでこそ、僕が知るいつもの君です」
私が起こした騒ぎなんだから、私がきっちりとオトシマエをつけなきゃね。
茂みから出て、駆けだす。校庭を横切っていく。私は「またね!」と言って、手を振ってみせる。
すると、先生も振り返してくれた。「またお話しましょうね」なんて、いつも通り、社交辞令まるわかりのトーンで。
***
「世界を作るには、すべてが必要…」
繰り返し口に出しながら、私は言葉の意味を調べてみた。
ネットで検索したら沢山のページが見つかって、そのうちの一つに、分かりやすく書いてあった。色んな人がいるから世界は成り立ってる…って、ことみたい。
色んな人。私もその一部。他の人も。
他の人…って、とても漠然として、範囲が広い言い方だ。中には、仲良しの友だちとか、そういう私の好きな人たちだけじゃなくて、私が苦手に思ってる人たちだって大勢いる。でも、たとえ私にとっては嫌いな相手だとしても、他の人はそう思わないかもしれない。他の人はその相手のことを大事に思ってるかもしれない……そんなことも書かれてた。
――自分と意見や考えが合わない人だからといって、追い出したり敵対するのでは悲しい。社会には様々な考えを持つ人たちがいるということに思いを馳せましょう……って、これは、調べたことの受け売り。私には、そこまで深く考えたりかっこよく言い表したりできないけど、個人的な好き嫌いをわめいているだけじゃダメってことだけは理解した。
これから今すぐに家族のことを好きになる…のは、無理だけど、ちょびっと考え方を変えることくらいならできそう。
あんな親だって、必要とされてる場所があるんじゃないのかな。あの人たちがいないと困る誰かさんがいるんだよね。世間には。おにいちゃんなんて尚更だ。人気者なんだし。
そして、逆のことも言える。
親が私を気に入ってなくても、おにいちゃんが私のことに興味なさそうでも、私だけを見守って、好きでいてくれる人は他にいるんだ。絶対にいるんだ。絶対に。
私は、きらびやかな表舞台に立つ人間じゃない。それは、おにいちゃんみたいな人たちの役目なんだろう。私は主役になれないんだって寂しく思うこともあったけど、世界にはレギュラーじゃない人もいっぱいいる。支える脇役だって大事だ。これって映画と似てるよね。ハチクマンしか出てこない作品なんて、退屈に決まってる。
私は世界を作ってるって、そう考えたら、何だかすごいことのように思えてきた。
もう、いいや。
何だか、このとき、私は吹っ切れていた。
私を見てくれるのが家族でなくたっていい。おばあちゃんがいなくなっちゃったのは今でもすごく悲しいけど、これからは大丈夫。ちゃんと頑張れる。
学校に行ったら、先生がいてくれるもん。