おまえがいない世界を生きていく自信なんてなかったんだ。
これから新しく色付いていく、夜明けの白みがかった空が好きだ。
未だまどろみの中にいて、覚醒しきれず静まりかえっている野山の気配が好きだ。
この時間帯の空気はいっとう澄んでいて、翔けると胸がすく。上空から見下ろした先には、チャンピオンロードという仰々しい名がむしろしっくりくるほどに、雄大な景色が広がっていた。
こうしてひとりでいるのは随分と久しい。
群れる生態でない己が、他者と共同生活を送ることになるなんて思ってもみなかった。人間という生き物に対して良いとも悪いとも思っていなかったが、腹を決めてその手を取ったおかげで、結果としては視野の拡がりに繋がっている。今まで知らなかったことを教えてもらったり、見せてもらえることは単純に楽しくて、この旅の間ずっと、後悔を覚えた瞬間なんてなかった。
スワンナたちのように渡りをしない鳥だから、外部からの働きかけがない限り、自ら生まれ育った森を離れようとは思わなかっただろう。その必要性も特に感じていなかった。だから、南の森へと出向いたあの日のことだって、単なる偶然だった。翼のある自分はどこにでも餌を探しにいけるのだから、気候の影響で不足気味になってしまった森の食糧は他の小さなポケモンたちに譲ることにして、気まぐれに本来の生息地を出てみたら――彼らと遭遇した。
そこで初めて、己の力を以てしても容易く倒すことができない相手と出会った。
ある程度の実力を自負していただけに、驚きは大きかった。強い者と対戦することの高揚を知り、その時点で既に、いかに自分の知っている世界が小さいものであるかを悟った。
もっと強くなりたい。もっと未知のものに出会ってみたい。そうした欲求をいだくのに時間はかからなかった。
――ふと、様々なことを経験させてくれたトレーナーのことを思う。
机にうつぶせていたので、掛布団だけはかぶせて出てきたが…あれでよかっただろうか。彼は自分より数倍は長身なので、抱きかかえてベッドまで連れていってやれなかったことが心残りだ。
彼は、このところまともに寝ていない気がする。いよいよリーグ戦も近いのだし、やらねばならない事務処理などもあるのかもしれないが、…それにしても、ただでさえ険しい山道や洞窟を抜け、点在する山小屋に身を寄せて一夜を明かすことの繰り返しなのだから、疲労も蓄積されているはずだ。少しでも休んでもらいたいのだが、…これで食事まで摂らなくなったら鳴いて叱ってみよう。
時折、何か思いつめているようにも見えるけれど、彼はその胸の内を打ち明けてはこない。信用されていないのではなく、どうやら彼の癖だった。割と喋り好きなのに、肝心なことは隠す傾向にあって、…ただ、その隠し事によってこちらを陥れようと企てているわけでもなさそうなので、今のところは静観している。彼の思惑を無理に聞き出すつもりはないし、そもそも、彼との共通の言語を持たないのでそれは難しいだろう。
何が目的なのか知らない。だが、こんなにも過酷な環境に望んで赴くくらいだ。志を持って高みを目指しているのだろうと、その程度の推測はできるから、力を貸してやれたらと思う。
ポケモンの身として差し出せる対価は、彼が求めている成果をあげること。それだけだ。自分たちが勝つことで彼が多少なり楽な道を歩めるのなら、養ってもらっている恩に報いるためにも力を尽くしたい。
――さて、そろそろ戻ろうか。
パーティーは少数だ。自分の身に万が一のことがあって欠けを作ってしまえば致命的になる。
翼を翻すと、遠く、トレーナーが目指している建物が見えた。
鳥なら遮蔽物のない空路を通ってすぐにでも飛んでいけるのに、人間は二本の脚で一歩一歩と地道に進んでいくしかない――今日も、そんなひたむきな彼を支える一日が始まろうとしている。
++++++++++
東の空に、朝焼けの緋色が広がり始めている。
空を飛ぶ一羽の小鳥は、こちらの姿を見つけてかすぐに舞い降りて来てくれた。
ろくな言葉も交わさぬまま膝をつき、勢い任せに抱きしめると、この小さな温もりにひどく安堵している己とは対照的に戸惑った気配が伝わってくる。
『…ゲッコウガ?』
何と返事を寄越せば、この状況の説明がつくだろう。
目が覚めて、おまえがいないと知れたとき肝が冷えた。そう言えば女々しかろう。
日の出直後で眩しさのない太陽が放つ真っ赤な光に染まり、紅い翼が照らし出される眺めは恐ろしいほど美しく、そのままおまえが朝陽の中に溶けてしまいそうで怖かった。そう言えば笑われるだろうか。
もう二度とオレより先にいなくなるなと、残される側に立つのはごめんだと言えば、どんな反応をするだろう。
『 オレを置いていくな 』
思い巡らせた割には、あまりに情けない言葉が零れ落ちた。
しかし、ルチャブルは呆れを見せず、それどころか意外なことを言ってくる。
『……、……不安なら、俺の風切羽を斬れ』
――それは、鳥の飛翔能力を奪う行為。
はっとして思わず身を離し、彼の顔を見つめると、凪いだ視線が向けられた。
『いいぞ、別に。…おまえになら、何をされても』
彼にしてみれば何もかもが唐突でしかなく、加えて、鬱陶しい泣き言を口走るこちらの様子から何を察したのかも分からない。だが、ルチャブルの声は、優しかった。
『少しは落ち着いたか』
おずおずと、しかし、ちゃんと腕が回されて、改めて彼から抱き返される。
たぶん、望めば延々とこうして抱擁してくれるのだろう。…つくづく、自分は欲しがってばかりだ。触れても触れても飽き足らず、すぐに空腹になって、飢餓感に耐えられなくてルチャブルに手を伸ばしてしまう。最愛との断絶を経験している身としては、尚のこと。――今でも、最期の情景が脳裏を過る。それはいたって自然に迎えた終焉ではあったけれど、だからといって納得できるかどうかは別の問題だ。少なくとも、当時は、到底受け止められるものではなかった。腕の中で彼の体躯が少しずつ冷えていくことに気付いたとき、自分の中で、何かが、硝子のように粉々に砕け散る音がした。たぶんあの瞬間に、己の一生も終わったようなものだった。
どのみち、ルチャブルと出会う前の自分には戻れなかった。過去に間違いなくあった、彼が隣にいない日常をどうやって生きてきたのか忘れてしまっていた。この世にひとり残ったって何の意味もなかった。だから、今ならまだ彼を追いかけて捕まえることができるのではないかと思ってすぐに後を追ったのに、結局、見失って――再会以降の一日一日が殊更に愛おしかったのは、決して蘇りはしない、そのはずだった一羽がもう一度鳥籠の中に戻ってきてくれたからだ。なればこそ、手放すなんて考えられない。絶対に。以前にも増して強固に、そして濁った独占欲がゆえ、今や彼が己の視界から消えることさえも怯えている始末だ。…こちらの過ぎた執着はいい加減迷惑だろうに、しかしルチャブルは、何も言わず傍に寄り添ったままだった。
自分にはないこの包容力に、いつでも救われている。
『…もう少しだけ、このままでいたい』
乞うてみる。
すると、『そうか』と一言だけ呟いて、ルチャブルは両翼に力を込めてくれた。『こんなに放っておけない奴だとは思わなかった』と、穏やかに慰められた。
そうだ。ようやく気付いたのか。
オレは、周りが思っているほど器用ではないし、強かでもない。
おまえがいないと息をすることすらままならない一匹の蛙なんだ。