あなたが此処に居る約束など1つも交わして居ない/ともさかりえ『カプチーノ』
「先生と学校で会うのも、今日で最後だね」
「そうですね。卒業、おめでとう」
名残惜しそうな表情も見せず、先生はにこやかだけど淡々としていた。特別感なんて微塵も漂わせないし、あまりにいつも通りだから、私はついうっかり明日も学校に来てしまうかもしれない。
卒業試験が終わって一週間後――スコアが卒業認定に足りていたことや四年間のカリキュラムの修了を告げる簡素なメールが届いて、それでおしまい。
遠くの地方では、入学式とか卒業式とか、そんなふうに呼ばれる式典が大々的に催されるらしい。皆でお祭り騒ぎでもするんだろうか。おめでたいことだもんね。
残念ながら、カロスにはそういう習慣がないから、こんなふうに普通に登校して、六月末を以てスクールライフが終わっていく。
夏のバカンスを経て九月を迎えたら、私の新生活が幕を開ける。
「私ね、教育系の専門学校に通うんだ。いつか学校で働くために、ポケモンのこととか、色々勉強してさ。学生寮もあって、そこに入る予定なの」
「よかったじゃないですか。…家を出るんですね」
「そう!今からもう待ちきれないくらい。早く入寮の日がくればいいのに」
私の実家、お金だけはあるんだ。それでも学費や寮費についてはちくちく言われたし、「お金をどぶに捨てることになるかもしれないわね。ま、精々勉強してちょうだい」とか余計な言葉をかけられたのは正直うざかったけど、入学手続きが既に完了してこの家を離れることが確定してる今なら、多少のことは我慢できた。
私と家族は距離を置いた方がいいのかもしれない。私の単身生活はいい機会になるだろう。実際、あんたがいなくなったらイライラしなくて済みそうとまで言われている。何それ、こっちのセリフなんですけど。
「先生、うちの親に電話してくれたんでしょ?ありがと」
「…はて。身に覚えがありませんが」
とぼけちゃって。
担任が私の両親に苦手意識持ってるの、知ってるもん。クレーマー体質だもんね、あの人たち。だから、自分から電話なんてかけるはずがない。きっと、先生が、担任の代わりに話してくれたんじゃないのかな。お母さん、機嫌がよさそうだった。テレビ電話で先生が映ったとき絶対何割り増しか声のトーンを上げただろうなって想像がつく。あんたの学校にあんなに格好いい人がいたなんて知らなかったわ、とか、いい年なのにはしゃいでたし。
協調性が高くて自立心の強いお嬢さんですから、遠方の学校でもしっかりやっていけると思いますよ…って、言ってくれたんだよね。いっぱい褒めてくれたんだよね。お母さん口が軽いから、ペラペラ喋ってたよ。おかげで、行きたい学校のパンフレット見せたら、思ってたよりすんなり「好きにすれば」って言われたから、ホッとした。
「ねえ、先生。私と会えなくなるの、寂しい?」
「まったく寂しくないですよ。今生の別れでもあるまいし。それに、君ならどこにいこうが元気に逞しく生活していくでしょうから」
「ちーがーうー!寂しいですって言うの、こういうときは。素直じゃないんだから」
そんなの今更じゃないですかと例によって胡散臭く笑みを浮かべる先生は、「さびしーなー」と見事な棒読みを披露する。なんて奴なの。
「言い方!何か、…もっと、ないわけ?はなむけの言葉とかさあ。可愛い教え子の節目なんだよ?」
「はなむけね…」
どこか呆れたように表情を緩ませながら、先生は少し考えるようにあごの先に手を添えて、…やがてゆっくりと口を動かした。
Va où tu peux, meurs où tu dois
「行けるところまで行き、死ぬべきところで死ね――僕の好きな言葉を君に贈ります。
…考えるより、まず動くこと。人の心はまつろわぬものですから、…想いは電光石火のように加速していく。迷っている暇もない。がむしゃらに、行けるところまで精一杯突き進もう…そんな、己を奮い立たせるための勇ましい言葉です。
これからも互いに尽力しましょう。『最善』のために」
差し出されたその手を取って、私は握手に応じた。
大きくて丈夫で厚くて、さらりと乾いたあったかい手だった。握るというより包みこまれるみたいで、私の手がいかに小さいのかよく分かる。
この手でぎゅっと抱きしめられたら泣きたくなるほど安心するんだろうなと、ふと、そんなことを思う。
節目だ何だと言うのなら、私の方だって、小さな花束の一つでも先生にあげられたらよかった。お世話になりましたって。肝心なところで私は気が利かなくて、でも、いま気付けたんだからセーフってことにしよう。次に会いにいくときがあれば、改めて花を持っていこうと心に決めた。
私は「またね!」と言って、手を振ってみせる。
すると、先生も振り返してくれた。「またお話しましょうね」なんて、いつも通り、社交辞令まるわかりのトーンで。
最後に交わしたこれらの言葉は、本当に、社交辞令で終わった。
新しい街に出発する前にもう一度挨拶に行こうと思って、初秋も終わる頃――新学期の時期にスクールへ顔を出したけど、私はそのときになって初めて、先生が退職したことを知った。
職員室にいた他の教員たちは、誰も、先生の次の就職先とか、要するにどこにいったのかを把握してなくて(なんて役立たずなんだろう)――この日を境に、私の大好きな人は「先生」じゃなくて「失踪者」扱いになり、姿を消してしまった。
ねえ、先生。
もう会えないなら、私、あなたに