今となってはどうしようもない、後悔だらけの「たられば」の話。
「ごはん、いっぱい食べさせてあげられなくてごめんね」
すまなそうにする彼を見るのがつらかった。謝らないでほしかった。物質的豊かさからは程遠くても何ら苦には思わなかった。一緒に生活できるだけで幸せだったんだから。それ以上なんて、本当に、何も望んでなかった。
エイセツのスクールを卒業するときに齢十歳たらずだった彼にできるバイトなど限られていたし、そうしたものが大抵そうであるように、例外なく低賃金にあまんじなければならないのだから稼げる額など微々たるものだったが、彼はめげなかった。学校に行くのが楽しいと思ったのは初めてだから高専もちゃんと卒業したいんだと、いつでも微笑んでいた。そうして、学業とバイトに明け暮れた、高専での五年間だった。
僕は度し難い愚か者だ。
何一つ気付いていなかった。
彼の厚意に甘えてぬくぬくと暮らし続ける無邪気なメタモンであったことが、結果として、最愛の人を失うことに繋がってしまった。
手遅れでしかなかった。
君の哀しみに気付くのも。
君の苦しみに気付くのも。
何もかも。
少しずつ狂いが生じ、目に見えて綻びが出てきたのは、彼が高専を無事に卒業した後のことだった。
次の目標が教員免許の取得に切り替わったとはいえ、今までとさして状況は変わらなかった。学校へ通う代わりに通信教育になっただけ。働きながら学業に精を出す生活も相変わらずだった。
元から聡明な人だから課されるレポートなんかは何ら問題ではなかったようだけれど――何より彼を蝕んだものは、新たな職場での出来事だった。より厳密に言えば「蝕まれていた」ことを「後になって知った」のであり、…悔やんでも悔やみきれない。己の生涯において消えることのない影の部分だ。
彼はそれなりに働ける年齢になっていたから、子供だましのような低賃金のバイトから手を引き、今までより時給の高い仕事に就いた。生活にもささやかながらゆとりが出てきたように記憶しているが、その分だけ、だんだんと彼がやつれていった。食欲が減退して、あまり眠れないのか目の下の隈もひどくなってきて。
当時、無知だった自分は、おろおろとするばかりだった。「何も心配しないで」「大丈夫だよ」と言ってくる彼の言葉を鵜呑みにして、…というよりは、彼の言う通りなのだと信じ込むことで安心を得ようとしていた。
そうやって、…薄々は察知していたくせに、不穏なものから目をそらし続けて数年――忘れもしない、あの日がやってくる。
「バイトに行く時間まで、少し仮眠するね」
そう言って、彼は目を閉じた。二十歳の青年らしい若々しさなどない、疲労の色濃いその寝顔を見つめるうちに一時間ほどが経過して、…スマホのアラームが鳴った。
彼は、起きなかった。それなりの時間、音が鳴り続けても、起きる気配がなかった。余程の疲れらしい。そのことを悲しく思った。
だから、このまま寝かせてあげようと、のそのそベッドの上に這い上がってアラームを切った。
そして初めて――彼に、変身した。
彼と出会ってからはほとんど自分の能力を使用していなかったので、複雑な変身が果たして上手くいくか心配だったが、実際、ブランクなんて感じさせない完成度だった。一分の隙も無いほど完璧にコピーできていたと思う。
我々メタモンという種族は、実のところ、ポケモン界屈指の性能を誇るといっても過言ではない。絆の強さとやらも、質量保存の法則すらも超越して、目の前の存在をコピーする。それがメガシンカポケモンでも、神話や伝説に登場するような規格外のポケモンでも、何でも。それらを踏まえれば、人間への変身なんて朝飯前だった。
外見だけでなく、相手が持ち合わせる能力までそっくりそのまま再現して自分のものにする――つまり、記憶や知識、経験、培ってきた技能に関しても、無論、コピーが可能だ。
ゆえに、知ってしまった。
彼に変身したことによって、彼の今までの記憶が一気に流れ込んできた。彼の許可も得ないで秘密を覗き見るようなものだったけれど、そうでもしなければ彼がいかに陰ながらの苦労を背負ってきたのか分からずにいるところだった。同時に、…彼の口からは決して語られることのなかった「全て」が明らかになったものだから、目の前が暗くなったことを覚えている。
貧困家庭に生まれ、貧しさからくる苛立ちを大人たちからぶつけられ、凄惨な暴力行為にさらされたからこそ、彼は児童養護施設に引き取られることになった。
周囲からは、何かと目につく、鼻につく少年だと思われていたらしい。きれいな顔立ちに、すらりとした体格。優れた成績。でも、傷だらけで、服は汚れていて、不潔な印象もあって。更には、虐待の経験が原因で他人に怯えるような態度が染みついてしまっていたから、案の定、悪ガキたちの標的にされた。いじめても構わない存在として扱われ続けた。施設暮らしであることも揶揄され、そんなところに入所するくらいだ親が犯罪者なんだろうと根も葉もない噂を流され、…地元にいる限り行く先々で悪意に襲われるから、どうにかして遠いどこかへ出ていこうと、彼はいっそう勉強に力を入れるようになったのだ。
望みは叶って奨学生としての進学を許され、迫害からも逃れることができたけれど、次は経済的な壁が立ちはだかって――…
《 俺の言うこときいたら全額やるよ。どうする? 》
困窮の折だった。
あるとき、彼は一人の男から声をかけられた。その年齢で苦学生なのか。可哀想に。次々と憐れみの言葉を投げかけ、そして、…奴は囁いた。彼をそそのかしたのだ。金をちらつかせながら。
記憶を辿っていくうちに、えずいて、思わず口元を押さえた。
高専時代に、世間知らずだった彼が苦境につけこまれ食いものにされていた事実を知って、血が凍る思いだった。
…そうか。
これが不知であることの恐ろしさか。
彼の非力な腕で稼ぐ額ではやはり足りなかったのだと、…自分は人間社会の仕組みも知らず、どうやって日々の生活が成り立っていたのか考えることもせず、疑うことすらしなかった。
そっと、彼の目元を撫でる。
未だ、彼は起きない。随分と深く眠り、今このときだけは安らかな寝息が聞こえて、それが何だか救いのように感じられた。
記憶の中の彼は、繰り返し繰り返し、自身に言い聞かせていた。
《 大丈夫。頑張れる。我慢できる。僕にはメタモンがいてくれるんだから 》
彼の真実に触れたことで、知らず知らずのうちに涙が頬をつたっていた。馬鹿みたいだ。泣く資格なんてないよな。君が大変だったときに、何の力にもなれなかったくせに。
「今更償うこともできないけど、…今度こそ、役に立ってみせるよ」
今のバイト先もひどいもんだね。
理不尽に怒鳴ってくる上司の存在、過失をなすりつけてくる同僚…記憶を共有したから分かるよ。怒鳴られることも侮辱されることも、君にとっては幼少期からのトラウマになってるのに…つらい思いを押し殺して、心を犠牲にして、君は働き続けてたんだね。お金を得て、生活をしていくために。…僕を、養うために。
おもむろに、机に置いてあったメガネをかけた。
彼がメガネをかけ始めたのは、ミアレシティに来てからだった。てっきり、熱心な勉強と引き換えに視力が下がってしまったのだとばかり思っていたのに、事情はまるで違っていた。
親に殴られて、打ち所が悪くて、元から目が悪かったんだ。メガネを作ってもいじめっ子たちが取り上げて壊すから、かけないようにしていたんだ。引っ越してきて以降は、少なくとも勝手にメガネを傷つけてくるような非常識な奴らがいなかったから、ようやく装着できるようになったわけだ。ことごとく、知らないことだらけだな。彼の一番近くにいたはずなのに。
「とりあえず、今日は休んでて。君の代わりに、僕がバイトに行ってくる」
彼の枕元に跪いて、彼の手をぎゅっと握って、僕は部屋を後にした。
それが、彼の体温を感じていられた最後の瞬間だったのだと、夢にも思わずに。