サヨナラ恋心よ / ポルノグラフィティ『サウダージ』
「 先生 」
呼びかけると、先生はこちらを見て、少し眩しそうに目を細めた。
桜の樹の下で佇む彼は、この際だから正直に言っちゃうけどホントもうすごく素敵で、ミアレ美術館に飾られてる絵画のように見えた。くるくると舞い踊っては地面に向かって散っていく花びらも、薄青の柔らかな空も、暖かなおひさまの光も、何もかもが先生のために用意されているようで、思わず、見惚れてしまう。
私は、この人のことをチャンピオンだなんて呼ばない。サインをねだったり、写真を撮ることもしない。そんな、手の届かない有名人として、私から遠い存在として認識したくなかった。ただの先生と生徒でありたかった。
「久しぶりですね。元気にしてますか」
変わらない。
その声も、話し方も、胡散臭い笑い方も。何だか、泣けてくる。
「元気!風邪一つひいてないよ!」
不意に滲んできた視界を誤魔化すように、明るい表情を作った。
「今の学校、すっごく楽しいところなんだ。
気の合う友達も、面白い先生もいっぱいいて、みんなと一緒に色んなところへフィールドワークに行ったりするの。
学校に通うだけで知らないことがどんどん出てきて、…もっと知りたいって思っちゃう。私、やっと分かったよ。勉強って面白いんだね」
賢しらに、得意げな顔を見せる。「随分と生意気なことを言うようになりましたね」とか、そんな感じでからかわれるかと思ったのに、予想外に先生から優しい眼差しを向けられてしまって、どきりと心臓が余計な拍を刻んだ。
よく頑張ってるね、って、直接言ってくれなくても、先生の穏やかな表情を見ているだけでそれが伝わってくるから不思議だった。別に、こっちが恥ずかしくなるくらいあからさまに褒めてくれなくても構わない。先生が「でしょ?」って同意してくれることが、今は何より、嬉しかった。
話したいことも、訊きたいことも、山のようにあった。
何で学校辞めちゃったの。
どうしてチャンピオンになろうと思ったの。
質問は海底からぶくぶく湧いてくる泡みたいにあとからあとから思いつくんだけど、その中でも一つ、どうしても確かめなければならないことがあったから、私は先生を見つめた。
「あのね、先生。
もし、もう一度先生と会うことがあるなら、この場所じゃないのかなって思ってた」
「ほう、…街中で偶然出会う方がまだ遭遇する確率が高いと思いますけどね?…こんな、墓地よりは」
「だって、…報告したくなるじゃない?すごいことやり遂げたんだから、なおさら」
「…報告、ですか」
「だから来たんでしょ?」
桜を見上げる。
そよかぜと一緒に淡い花が揺れている。一枚一枚の花びらがほんのりと日光に温められているように見える。降りそそぐ陽射しはたくさんの花弁の中を通ってくるから、その光はきっと桜の香りをまとっているんじゃないのかな。風に、光に、目に見えないものの中に、春のアロマがいっぱい詰め込まれてる感じ。道理で、この一帯だけが、やけにいい匂いがするわけだ。
「私、新しい学校に入学してから、たくさん本を読むようになったんだよ。その中で、…、…印象に残るフレーズを見つけたの。繰り返し読んだから、暗唱だってできちゃう」
――桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
「ね、…ユニークな発想だと思わない?」
先生は黙って、私の次の言葉を待っている。
言わなきゃ。
ついに、『あのこと』を先生に打ち明けなきゃ。そう決めてからむこう、私の口の中から少しずつ水分が失われて、干からびていく。
ペットボトルの水を一気飲みしたい気分だったけど、そんなもの持ってないから、代わりになけなしの唾を飲み込んだ。
「先生。私と初めて話したときのこと覚えてる?『秘密』について」
「…覚えてますよ。君が急に、…僕のことを幽霊なんじゃないかと言ってくるから、驚きました」
「そうだったね。あのときは、ごめんなさい。いきなり変なこと言って」
だって、いつも墓地にいたから気になってたの。先生は、私がおばあちゃんのお墓参りでここに来るたびに、必ず、桜の樹の下に立っていたから。
でも、先生がいることは知ってたけれど、私から声をかけたことはない。遠目に眺めるだけで終わっていた。墓地に来るってことは、大切な人とお話しするためなんだから。私だったら、おばあちゃんとの時間を邪魔されたくないもん。先生だって同じ気持ちだろうなって、そう思って、見かけても近寄ったりはしなかった。
そのうち、変だなって思うようになった。
いつも、…いっつも、いるから。
おばあちゃんのお墓参りの日と、先生が墓地に来る日が、絶対に、いつも一緒って、そんなことあるのかな。
気になることが増えていく中で、わかってしまった。
先生の服装、変わらないなって。髪型も。雨の日も風の日も関係なく樹の下にいるって。
墓地って、
緊張してくる。
先生は、私の言うことを、まともに取り合ってくれるだろうか。
「私、いっぱい、秘密を持ってるよ。内緒にしてることも沢山ある。
その中でもね、とびっきりのやつがあるんだ。小さい頃からの隠し事。…嘘つきって言われるから、仲良しの友達にも教えてない秘密」
桜の樹の下には屍体が埋まっている。
そうなんでしょ? 先生。
「私ね、死んだ人が見えるの」
だから墓地に通ってた。おばあちゃんに会うために。
無期限に姿が見えてるわけじゃないし、ある日「元気でね」って言うみたいにおばあちゃんが手を振ってどこかに消えちゃって、以来それっきりだから、天国に行ったんだと理解した。
でも、この人は。
天国にもどこにも行かず、この場に留まり続けている。
「ずっと前から、この桜の樹の下に立ってるの。首に縄の跡がある、先生と同じ顔の人」
今もいるの。
先生の隣に。
そう告げると、先生は大きく見開いた。初めて見る表情だった。
あまりに無防備で、仮面が剥がれたみたいな、…カモフラージュが消え失せた素顔。
「 あなたは、誰? 」
***
「…君、答えが分かってるんじゃないですか」
「そうだね。たぶん」
写真に写ってた子?
尋ねたら、あっさりと、先生は頷いた。
「頻繁に写真を見ていたのだって、彼の姿を何度も確認してより正確で強固な変身を維持するためでした。
君の前から急にいなくなったのは申し訳ないと思ってますが、どのみち、この町にも長居はできなかったんです。僕の中には『彼の老いた姿』に関する情報がない…だから、変身できない。いずれ『年老いていかない』ことを不審に思われないためにも、出ていかねばならなかった」
かつて、先生が眺めていた写真。その一枚に収まっていたのは、今とは少しだけ髪型が違う私服姿の先生と、もうひとり。
そのもうひとりが、私の目の前にいるんだ。そういうことだったんだ。
……自殺ってやつは、あとに残る者へ自分の中身をそっくり預けて、脱殻になることじやないか……、何かの本に、そんなことが書いてあった。
幽霊さんの首についている青紫の鬱血痕がつくまでに、どんな事情があったのか私は一切知らない。だけど、残されたあなたは、…先生は。幽霊さんから預かった中身を受け取って、生きてきたんだね。
「君の大事な秘密を明かしてくれたお礼に、…僕も君に、…特別に教えてあげます」
目を閉じて。
そう言われたから、素直に瞼を下ろした。大きな手が、そっと頬を包んでくる。見えなくても、自分の顔の真ん前に先生の気配があったから、ものすごくドキドキした。
やがて、頬に触れている手が、どんどん小さくなっていくことに気付いた。皮膚の質感も、全然違っている。何が起こっているんだろうと息を呑む思いでいると、「いいですよ」と言われた。
目を開けた瞬間、「わ!」と一声あげて、私は咄嗟に後ずさった。
もう一人の私は、その様子を見て、小さく笑ってみせる。
「…そうですよね。
全く同じ人間がいるのを目の当たりにしたら、普通、不気味に思いますよね」
自分が自分の声を聞くって、変な感じ。
言葉遣いだってそう。私、そんなお上品な話し方、しないし。
「…衣服の繊維まで変化させるのは久しぶりなので、少し手間取ってしまいました」
他愛のないことを言いながら――ここではまだ便宜上「先生」と呼んでおくけれど――先生は、目を伏せる。
「僕は、…メタモンというポケモンは、相手の容姿だけではない。その能力も、…何もかも、完璧にコピーできます。…ならば、今。君の特殊な力をも、…コピーしたはずなんだ」
本当にいるんですか。
心細そうに、先生が私に尋ねる。
「振り返った先に、…僕にも、見えるでしょうか」
「…きっと。先生の言う通りに変身できてるなら、…会えるんじゃない?」
「……」
手を繋いでいいですか。
出し抜けに子どもっぽいことを言って、先生は、小さな手を差し出してくる。
「見えても、見えなくても、僕は後悔しません。ただ、…どちらにせよ、怖いので。手を握っていてくれますか」
「いいよ」
私は、私の手を握る。
可哀想なくらい震えているから、両手で、ぎゅっと握りしめてあげた。
「大丈夫だよ。…その人、笑ってるから」
「……、……そう、ですか」
怒って、ないんですか。
笑顔なんですか。
今にも泣きだすんじゃないかという緊張した震え声で、呟いて――そのあと、先生は、意を決したように身をひるがえした。
後ろの正面 だあれ
「…最期は樹木葬がいいって手帳に書いてあったから、この樹にしたんです。気に入ってくれましたか」
最初、この世界から音が消えたみたいに静かになった。少しの身動きさえ躊躇わせるたっぷりとした沈黙が怖いくらいだった。でも、その状態は永遠に続くわけじゃなかった。当たり前だけど。やがて、先生は幽霊さんに話しかけた。全身から勇気をかき集めてきたみたいに。
隣で未だに手を繋いだままの私は、よかった、と胸を撫で下ろしている。だって、ふたりとも、目が合ってる。視線が結びついて、お互いを見つめて、…ちゃんと見えてるんだって、分かったから。
私は、自分の顔が嫌いだ。そのはずだった。
ぺちゃってつぶれた鼻。そのまわりに飛び散るそばかす。ありふれた青い瞳。まとめるのも一苦労なごわごわの茶色い髪……今、先生だって同じ顔をしてるのに、…なぜか、魅力を感じてしまった。生まれてこのかた嫌ってほどに鏡で見てきたものなのに、まるで初めてそれを見つけたような想いに駆られて、目が奪われた。映画のワンシーンを観ている気分だった。潤う目が嘘みたいに美しく輝いて、そのうち一粒だけ、…たった一粒だけ、どうしても抑えきれなかった涙が、先生の左の頬をつたった。この世界で一番綺麗なものを目の当たりにしたように思えて、私の心は、ぐわんと揺さぶられていく。
「君が懸命に学んだことは、何一つ、無駄にはなりませんでしたよ。…僕は、君が蓄えた知識の財産を足掛かりにして、君の望みを代行したにすぎません。その意味では、…すべて、僕の身体を使って君が成し得たも同然なんです」
幽霊さんは、先生の言うことをじっと聞いていた。楽しいおとぎ話を聞く幼稚園児みたいに、にこやかに。私は知ってる。残念だけど、「口なし」って言うように、彼らは声が出せない。こっちが一方的に話すしかない。タイムリミットまでに。
あんまり、時間はなさそうだ。さっきから、幽霊さんはどんどん薄くなっていく。この世に留まる理由が、なくなりつつあるのかもしれない。
幽霊さんは…たぶん、先生のことが心配だったんだよね。でも、もう大丈夫って思ったから天国に行っちゃうんだよね。私のおばあちゃんもそうだったんだ、きっと。私のこと、もう大丈夫って思ったから向こうに行っちゃったんだ。正しくて的確だね、おばあちゃん。
だって私、何だかんだ、逞しく生きてるもん。
「
先生が告げる最後の言葉は、ちっともキザじゃなかった。
本音で言われたことなら、たとえそこにどんなに強烈な単語が用いられていようと、ごく自然に聞こえてしまうのだということを初めて知った。
私と同じ唇が紡ぐ、哀しいほどに情熱が詰まった、愛の囁き。
幽霊さんがいなくなる直前、そっと口が動いた。「
何だか、香水に似ている。
もう、私の目に特別なものは何も映らない。始めからそこに何もなかったかのように透明になってしまったし、幽霊さんだって、遠くに旅立っていったはずだ。だけど、「もういないのに、いる」ような感覚…残り香らしきものが、ふわっと鼻の先をかすめていく気がする。すれ違いざまに存在の痕跡を落としていく、パルファンみたいに。
***
晴空を、チルットたちが飛びかう。
餌の少ない冬を越した彼らは、春になると街の近くまでやってくる。この時期になるとよく見かける光景だ。
ぼんやりと目で追いかけているうちに、不意に私の手がからっぽになった。
すぐ横で、ふわりと風が舞う。
慌てて視線を戻すと、「もう一人の私」は消えていた。ただ、入れ替わるようにして、先程まではいなかったはずの一羽のチルットが桜の枝にとまっている。
「行っちゃうの?」
尋ねると、チルットは――先生は、こくんと頷いた。
「…また会える?」
私、良くも悪くも、勘が鋭いからね。こんなときでさえ。だから、どんな答えが返ってくるのか分かってたけど、それでも期待を込めて訊いてみた。
そっと、首が横に振られた。
そっか。やっぱりね。引きとめたって無駄なんでしょ?引きとめてほしいわけでもないんでしょ?どのみち、あなたは去っていくの。それだけは、分かっているから。
じゃあ、ちゃんと言わなきゃね。
あのとき言えなかった、挨拶を。
「
私の声を受けとめるように、先生はつぶらな瞳でぱちぱちと瞬いた。そして、約束の時間を迎えてしまったサンドリヨンみたいに、パタパタと綿雲みたいな翼を動かして浮かびあがる。
我慢しろ、涙腺。
せめて最後は笑顔で飾らせてほしい。私、そんなに可愛い女の子じゃないけど、好きな人の前では笑っていたいって思ってるの。
嗚呼。…手を振ってる今、上手く笑えていますように。
私の頭の上をくるりと一周したあと、先生は徐々に高度を上げて遠ざかる。
初恋が蒼穹に溶けていく。
そこに確かに残る、思慕。
また一つ秘密が増えた春。
私、忘れないよ。忘れたら、なかったことになるんだもんね。
そんなの嫌だから、きっと、あなたのことを覚えてる。私の手元に、何か先生と繋がり合える物品があるわけじゃないけど、…目に見えるものがなくたっていいでしょ?
さっきからこんこんと湧き上がってくる、凛としたこの痛みが胸に留まり続けている限り――あなたを忘れずにいられると思うんだ。
ね、先生。