蛙と、鳥と、桜と。
男は、今朝から不在にしている。
彼はモンスターボールを使用してポケモンを携帯しないし、元から一人で出かける予定であったらしいので、本日の前世繋がりトリオはポケモンセンターに居残っている。
さっそくデデンネは日当たりのいい窓辺を確保し、丸くなってしまった。小さな体躯に蓄積された度重なるバトルの疲労を癒しきれていないのか、彼女は以前にも増して眠る頻度が高くなっている。ゲッコウガやルチャブルにしても、訳知り顔のセンター職員から休養を言い渡されており、激しい運動を控えるよう釘を刺された。結果、日課になっていた組み手等に明け暮れることもできず、ふたりは手持ち無沙汰の状態で敷地内の中庭に出てきたところだった。
体感としては、すっかり回復しているというのに。
ゲッコウガは少々過保護な人間たちに嘆息し、一方、何かと騒がしかった最近のことを思えば、たまには静かにルチャブルと過ごすのもいいかもしれないと隣を見遣った。
ルチャブルは、中庭の隅に植えられている樹木に視線を向けていた。桜の樹だった。
『初めて見た』
興味深そうな目つき。
関心を持ったようで、ルチャブルは、桜の方へと近付いていく。その後ろ姿を追いながら、そうか、やはり初めてなのかと、ゲッコウガは胸の奥が少しだけ軋むのを感じていた。
…いや、それも当然だろう。この地方原産の植物ではないのだし。ゲッコウガは思い直す。何度同じ理由で沈む気なんだ、拙者は。そっと首を振る思いだった。
(記載内容全てを読めるわけではないが)幹に設置されていたプレートによると、この桜は何がしかを理由にわざわざカントー地方から寄贈されたものであるようだ。カロスの洒落好きな気質に合わせたのか、この場に植わっているのは白い花弁をひっそりと開く慎ましやかな品種ではなく、絢爛豪華で紅の発色も鮮やかな八重桜である。
『おまえは、この花を知ってるのか』
振り返ってくるルチャブルに、ゲッコウガは頷きを寄越す。
『桜でござるな』
『…サクラ』
『もとは異邦の植物だ。…原産地には、どこにでも桜の並木道があって、春を迎えて満開になったときの眺めは――たいそう美しいと聞く』
伝聞の形をとったが、ゲッコウガは知っている。
並木道と言わず、野山も里も埋め尽くすように咲き誇る桜の姿を幾たびも見てきた。ルチャブルと一緒に。
そもそも、ルチャブルに最初に贈った花だって――…
『これだけ綺麗な花だから、密集すれば壮観だろうな』
感心したように話すルチャブルの声で、我に返った。どうも今世の己は感傷深くていけないと、ゲッコウガは自嘲する。
彼が忘れていようと平気だ、構わないといくら自分に言い聞かせたところで、きっとこれからも、制しようもなく、事あるごとに前世を偲んでしまうのだろう。だが、少なくとも今は、こうしてもう一度ルチャブルと花見ができたことを喜ぶべきだ――ゲッコウガは、八重桜を背景に佇むルチャブルに対して目を細めた。
『…拙者にとっては、花の美しさも、御主が隣にいるかどうかで変わってくる』
最愛が傍にいてくれたら、それだけで己の世界が色付いていく。
『一枝の桜でも、一面の桜でも、ルチャブルと共に見る景色なら等しく価値のあるものでござるよ』
ルチャブルの反応は、少々意外なものだった。
平生の彼ならばとっくに頬を染めている頃なのだが、今回は風にのる花弁のように、ふわりと笑んでいる。
『花びらをくっつけたままで
『う…』
こめかみのあたりに付いてるぞ。とってやるからこっちにきてしゃがめ。甘い雰囲気を醸すことなく、世話を焼く兄のように振舞ってくる。
言う通りにしつつ『本心だったのに…』等々もしょもしょこぼすゲッコウガをルチャブルは相変わらず優しく見つめて、ふと顔を近付けた。
ほんの一瞬だった。
ゲッコウガは、鼻の先に、柔らかな感触を得た。
驚いて顔を上げると、目を見開いてあたふたしているゲッコウガを眺めながら、ルチャブルは満足そうに目元を緩めていた。
『は、…花びらは…』
あまりに間抜けで不甲斐ないことを口にしたゲッコウガの隣を、『さあな』と言って通り過ぎるルチャブル。そろそろ部屋に戻るぞと言い残し、また、先を歩いていく。
***
感極まったゲッコウガが背後から小鳥を抱きすくめ、その勢いでつんのめったために諸共地面に倒れてしまい、何やってんだおまえはとルチャブルが叱りとばす――のを、上空で一羽のチルットが目撃していた。
何やってんだって、こっちが言いたいくらいですよバカップル。
白雲浮かぶ青空をそのまま鳥の形にしたような綿鳥ポケモンは、人知れず溜息をつくのだった。