※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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深碧のロットバルト②

 背中に固い感触が伝わる。薄眼を開けて背後を見遣る。木の幹にもたれかかっていたのだと気付く。

 時を追い、視界がクリアになっていくにしたがって、ルチャブルは努めてゆっくりと息を吐き、ゆっくりと起き上がった。現在進行で目に飛び込んでくる光景は到底信じがたいものだが、それゆえに我を忘れている場合ではない。混乱によって行動不能になることは避けたかった。

 

 …それで。

 何からとりかかろうか。

 早く戻らないとゲッコウガが取り乱すかもしれない…と、ルチャブルの脳裏で真っ先に浮かんだのが番(つがい)の心配だったので、思わず口の端があがった。そう、彼を想うだけで微笑むことができた。笑えやしない状況に直面しているというのに。

 しかし、怯えて思考停止に陥ったが最後。己は死ぬだろうと本能で理解している。

 ───それはいただけない。

 かつて自然界で暮らしていた元野生のルチャブルは、「どんなに生を希求しようが、死ぬときは死ぬ」という死生観の持ち主である。だが、ルチャブルの想定する「生」とは地に足をつけて現(リアル)を生きる場合であって、こんな予期せぬ超常現象に見舞われたとなれば話は別だ。

 できることなら死に場所は選びたい。最期はゲッコウガの側がいい。

 だから。

 

 

 ひとまず、笑う余裕が芽生えたなら大丈夫だ。

 

 

 ルチャブルは、どんなに理不尽なことがあろうと意地汚く抗おう、何が何でも生き残ろうと決意し、自身を奮い立たせた。

 

 改めて、周囲を見渡してみる。

 万華鏡の中に閉じ込められたあと、予告なく、くるりと筒を回された気分だ。がらりと自身を取り巻く景色が変貌し───その極端な非現実性が、かえってルチャブルを冷静にさせた。

 

 終末の世界、という、第一印象。

 

 色彩に乏しく、荒廃した空間だ。

 一歩踏み出すと足元で何かがぱきりと砕けた。視線を落とした先にあるのは、骨の欠片。風化しかけている骨も真新しい骨も一緒くたになって、そこかしこに散らばっている。おびただしい積年の食事の痕跡が、もはや地層と化しているのだった。ならば、自分は獲物として捕まったということなのだろうか。どちらかというと己も食物連鎖では上位にいるポケモンだと自負していたのだが。(失礼ながら)一般に被食者側であるデデンネが狙われなかった理由は何だろう。標的としてあまりに小さすぎたか、トレーナーと共にいたことが原因か。よくよく目をこらすと、地表には繊維質のペリット(消化されずに口から吐き出されたもの)も確認できる。森ではヨルノズクあたりがこういう塊をよく捨てていたなと思い出すルチャブルは、何となく、己をここに連れてきた者の正体が分かったような気がした。

 

 どれほど気絶していたのか定かではないが、自分は仲間と共に青々とした森林の中を歩いていたはずだ。足の裏からは湿った土の感触が伝わってきたし、湿度が高いせいで、蒸れた草木の香りが濃厚に立ちのぼっていた。野生の生き物が囁き交わす様々な声もあちらこちらから聞こえて、空間がみっちりと音に埋め尽くされているみたいに賑やかだった。

 そこへ、突如として吹き抜けた強風。

 不快なほど甲高い耳鳴りを感じて思わずまぶたを閉ざし、次に目を開けたらこのざまだった。現状、白昼夢の方がまだマシといったところだが、嘆いていても始まらない。索敵に徹しておこう。

 

 辺りは凪いで、何の音も聞こえてこない。そもそも、生の気配が薄い。今から雪でも降ってきそうな白っぽい天上を背景にして巨木が密生し、それでありながら鬱蒼とした景観を生み出していないのは、ひとえに葉っぱの一枚も見当たらないからだ。黒々とした朽ち木の群れ───その中でも一際大きくそびえる樹に、ルチャブルは注視した。太い幹の途中に、誰かの口を絶叫の形でとどめたような洞が、ぽっかりと開いていた。

 

 

 来る、と予感する。

 

 

 果たして、中からぬらりと鳥が這い出してきた。

 一見してフクロウだが、巨躯である。遠目であっても、ルチャブルの倍はあるとすぐに分からせるような体つきだ。そいつの眼がぎょろりと動き、両者の視線が交わったと感じた瞬間、怪鳥は漆黒の翼を広げて迷いなく滑空してくる。この系統の鳥が「森の忍者」と異名をとるのは伊達ではない。大柄な身体を感じさせない、気配をも消す無音の飛翔。ルチャブルの頭の先からつま先まですっぽりと覆い尽くしてしまうであろう、絶望を代弁する極大の両翼───しかし、ルチャブルは逃げない。相手から殺気が感じられなかったこともそうだが、何より、背を向ける方が危険だと判断した。

 いざとなれば迎え撃つ。身構えるルチャブルの前に、フクロウはすうと舞い降りた。高い殺傷力を備える鋭い嘴に鉤爪。猛禽のそれである。やはりルチャブルよりは随分と高い位置にある頭部が、おぞましい様子できゅるりと傾けられた。

 

『 アローラ 』

 

 癖のあるウィスパーボイスが、この土地の挨拶を紡ぐ。

 ルチャブルの一挙手一投足も見逃してくれそうにない眼光が、双眸から迸っていた。その赤みがかった虹彩の持つ妖しさは、なんだか、不吉をはらむ夜空の紅い月に似ている。

『ボクは余所者には敏感なんだ。観光で来てる奴らなんて、特にそう。何でもないことにいちいち騒ぎたてて、目障りなことが多いもんだからさあ』

 出し抜けに言われて、困惑する。

 余所者という括りでいうなら他にも大勢いるだろうに、とりわけ自分が、何か相手の機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか。

『放っておけばいいんだろうけど、…つい、意識を向けてしまうんだ。いくら引き抜こうがいつのまにか生えてくる庭の雑草と一緒、どうやったって目につくんだよ。煩わしいよねえ。

 でも、今日はそのおかげでキミを見つけることができたわけだ。僥倖だよ』

 ぐうっと首が伸びてきて、暗緑色の顔面がルチャブルの目と鼻の先に迫った。

『キミと同じ種族はこの地方にも生息しているけれど、…キミは彼らとは違う匂いがするねえ。どこから来たの?』

『…カロスだ』

『へえ、…聞いたことがあるよ。遠い遠い花の都だろう?』

 ねちゃねちゃとしたものが鼓膜にくっついてくるような話し方が、耳障りだった。神経を逆なでて、否応なくぞわぞわさせて、およそ悪い意味で特徴的な存在だ。しかしながら、この排他傾向に、ただならぬ佇まい。体格のよさ。見知らぬこのポケモンは、一帯の主(ぬし)なのかもしれない。その想定のもと、真っ向から彼を見つめ返すルチャブルは『すまない』と謝罪した。

『おまえの土地と知らずに立ち入ったことを詫びる。荒らす気はなかった』

 すると、フクロウの眼がきゅうと細められた。

『…礼儀正しい子は好きだよ』

 舐めるように往復する視線。何もかもを暴こうとする目つき。ぞっとするが、ルチャブルは口内を噛みしめてぐっと耐えた。すると、そのうちに、相手はひっそりと忍び笑いを漏らし始める。

『キミは強いんだねえ…ボクを怖がらないなんて…。泣き顔を見せないお客さんは初めてかもしれないなあ』

 黒い風切羽の先が、そっとルチャブルの頬に触れる。静かな動作、わずかな接触だったのに、ルチャブルの中でぶわりと生理的嫌悪が湧きあがった。虫唾が走るあまり、触られた箇所から自分の肉が腐り落ちていくんじゃないかという馬鹿げた妄想がよぎる。一方、思わず身を固くしたルチャブルには一切構うことなく、悪びれもせず、それどころか悦に浸って、相手は微笑していた。

『ふふ、…やっぱりボクの目に狂いはなかった。

 キミは気高い。簡単には屈しない。…だって、こんなに美しい魂を宿しているんだもの…』

『……、……魂?』

『そう。魂の煌き。…別にね、キミに気分を害したわけじゃないんだよ。全くの逆さ。気に入ったからここに連れてきたんだ』

 しきりと褒めそやしてくるが、あらゆる賛辞を並べられても、ちっとも喜べない。『嬉しいなあ。これでボクはもっと綺麗になれる』と、(その手段は不明にせよ)明らかにルチャブルの利用を目論んでいる発言まで飛び出してくるのだから尚更だった。

『一目で全ての理性が奪われてしまうような感覚は初めてだったよ。キミの魂がびっくりしちゃうくらい綺麗で、見惚れて、…もっと近くで見たくて…』

 本当に「間近で見る」だけの目的であったなら、どんなにいいだろう。

 徐々に相手の息が上がっていく。瞳のぎらつきが増していく。興奮しているらしいので、ルチャブルはさりげなく、ゆっくりと数歩後退った。

 そのルチャブルを抜け目なく追いかけるように身を屈めて、フクロウが問いかける。

『ねえ、キミは知ってる?この世にはね、花盗人は風流のうちって慣用句があるんだって。…花をつい手折ってしまうのは、花を愛でる風流心があるからなのさ。咎めるまでのこともない…、ボクはこの考え方に賛同だ。摘み取ってしまいたい欲をかきたてる、惑わしてくる、そんな花の美しさの方がよほど罪深いと思うから。…キミはどう考える?』

 ここで、そうだなそういうこともあるかもなと適当に同調できないのが、良くも悪くもルチャブルの愚直なところだった。明らかに危機的な状況下にありながら、怪鳥におべっかを使うこともなかった。詭弁に納得がいかなかったので、臆せずに自分の考えを口にする。

『…花は、ただその場に生えてるだけだ。別に自分の美しさを誇っているわけでも、誰かから褒められたくて咲くわけでもないんじゃないのか』

 種から芽吹き、茎をのばし、蕾をつけ、自然の成り行きで花開く。そこに作為はない。なのに、他者から一方的に価値付けされ、挙句に生まれ持った美しさが罪悪だと言われてしまったら生きていくこともできやしない。どうしろというのだろう。

『それに、盗みが容認されることなんて本当にありえるのか?誰かが丹精込めて育てた花かもしれないだろ。勝手に持っていく方がどう考えたって駄目だと思うんだが』

 綺麗なものなら盗まれたって仕方ない。そう聞こえる。

 先程から相手がルチャブル(の、魂)を綺麗だ何だと言ってくる点と照らし合わせれば、花のたとえを用いつつ「ルチャブルを有無も言わさず連れ去ったのだって別に構わないことなのだ」と、実にとんでもない言い訳を並べていることになりはしないだろうか。

 戸惑いを隠さないルチャブルを見て、フクロウはくつくつと嗤った。

『キミは単純明快なんだねえ。…コンパスでくるりと描く円みたいな分かりやすさだ。だから魂に曇りがないのかなあ?だから好かれるのかなあ?』

 繰り返される「魂」という単語。

 キーワードであることは明白なのだが、何度用いられようがさっぱりだった。寄越される話の意味も、意図も、不明なまま。とうに、ルチャブルは雲を掴むような気になっている。

 このポケモンは自分とは隔絶した存在だということをひしひしと肌で感じるが、それでも、一縷の望みを託したい思いだった。

『魂に関しては門外漢だ。だが、綺麗だというのなら、その褒め言葉は受け取っておく』

 少しは話の通じる相手であることを願いつつルチャブルは申し出た。

『俺にも都合がある。仲間を心配させたくない。…帰してくれないか』

 しかし、この直後、ルチャブルはひゅっと息を詰める。

 相手が嘴を歪めて浮かべる薄ら笑いを目の当たりにしたことで、己の立場を思い知らされた。それは優位に立つ捕食者にありがちな、食べる直前に獲物をいたぶって楽しむときの、酷薄な表情そのものだった。

『考えてあげないこともないけど』

 思わせぶりなことを言いながら、妖鳥は楽しげに囁く。

『キミが、ボクを満足させられる何かを差し出せたならね』

 …なるほど。

 そう旨い話はないか。取引において、相応の供物もなしに聞き届けてもらおうという方が非常識なのかもしれない。

 特に、こうした、不可思議な異空間では。

 ルチャブルは歯噛みをする。

 

 ───こいつ、端から帰す気はないんだ。

 

 こちらが何を提案しようと「そんなものでは不十分だ」と突っぱねればいいだけなのだから。

 不利な立ち位置にいる者がどうあがくのか、どれほど必死な形相になるのか、それを見て嘲笑いたいのだろう。ことごとくを拒んで弄びたいのだろう。

 きっと、最終的には「どうすればおまえは満足するんだ」と言わせたいのだ。そして、相手に答えを委ねるようなことを問うたときに、「待ってました」とばかりに相手は嬉々として要求するだろう。

 ルチャブルの、命(たましい)を。

 

 

 

 ねえ、いいこと教えてあげようか。

 交換条件を提示されそうになったらこう答えるんだよ───…

 

 

 

 いつだったか、マラサダと引き換えに得た意味深な助言を思い出す。走馬燈だなんて縁起でもないが、この窮地において瞬時に駆け巡った今までの記憶の中から、ぷかりと泡のように浮かび上がった一手には違いなかった。

 何でもいいから試してみよう。おとなしく従ってなるものか。ルチャブルは目をきっと鋭く尖らせて、フクロウを見返した。

『…俺の望みとおまえの満足が上手く釣り合うよう、天秤ではかってくれ』

 どんな目が出るのか運任せで放ったサイコロみたいなものだった。しかし、ルチャブルの発言内容も、そのタイミングも、奇跡的に噛みあって効果を発揮した。証拠に、相手はにやついた顔のままで固まっている。

『なんだと?』

 相手の全身が強張ったからこそ、静止した中にあって唯一急激に開いていく瞳孔の様が、よく確認できた。

『天秤?』

 言いたくないものを無理に外へと押し出すように、苦々しく彼は口を開いた。

 

『 おまえのようなものが、なぜ天秤を知っている 』

 

 いったいどこからそんな声が出ているんだと気味が悪くなるほどの豹変ぶりだった。偽りの仮面が剥がれて本性をあらわにしたような、剥き出しの憎しみをぶつけてくるような、腹立ちまぎれで乱暴にぐしゃぐしゃと丸められた紙を思わせる嗄れた声だった。

 両脚が震えてしまわぬよう気張って、仁王立ちをする。脅しをかけられても、ボクレーのことは内緒にしておいたほうがいいような気配がしたので、ルチャブルは黙りこくった。何も釈明せず、ただ、腹をくくって付け入る隙を与えまいとする態度を見せたために、フクロウは眉間にしわを寄せた。そして、一度、二度と、首を横に振る。そうすることで、砕けた余裕をかき集め、再度立て直しを図っているようにも見えた。

『…ボクが一番嫌いな単語は「公平」だ。「譲歩」も好きじゃない。それでも、霊界の天秤を乞われたら必ず使用しないといけない決まりになってる。たとえボクの意に反していようがお構いなしだ。まったく、嫌になるよ』

 ささくれて苛立っていた声に滑らかさが戻っている。だが、直前までのおどろおどろしい声音と比較すればというだけのことで、相変わらず不機嫌そうではあった。あからさまに渋々といった態でパシパシとフクロウが拍手(かしわで)を打つと、どこからともなく古びた天秤がふたりの間に出現してふわりと浮遊した。

 本来、天秤とは物体の質量を測定する器具であることをルチャブルは知っている。知ったうえで眺めたその天秤は、何がしかの見事な素材で出来ているわけでも見事な装飾が施されているわけでもなく、素人目に見てもアンティークとしての価値や高い芸術性は見いだせず、つまり、ごくシンプルな作りで、「霊界の天秤」などと異名がついていることが滑稽なほどに、どこにでもありそうな品だった。特筆するなら、皿の色の差異か。ルチャブルから見て左の皿が白、右の皿が黒い色をしている。そして、何も乗せられていないはずの白い皿が、既に下方へさがっていた。

『キミの目には何も映っていないだろうけれど、白皿の上には、「帰りたい」というキミの願いが載っている。あとは、黒皿にボクの望むものを載せて釣り合いをとっていくんだ』

 ボクが望むのはこの者の魂だ。

 こともなげに、実に平べったい調子でフクロウが言い放つ。相手から強請られたものが予想通りだったとはいえあまりに気軽な言い方だったので、そこにはルチャブルに心の準備をさせるだけの猶予もなかった。

「帰りたい」という願いを、天秤はどう解釈するだろう。ルチャブルとしては、言わずもがな「無事に」という枕詞をくっつけたつもりでいたのだが。

 生きたまま帰りたいルチャブルと、魂を求めてくるフクロウ。相反しているのに、天秤が水平になることはあるのだろうか。万が一取引が成立して本当に魂を抜かれてしまったら、抜け殻(肉体)だけ外へと戻ったところでどうにもならない───ルチャブルの心臓がどきりと脈打ったのと、天秤の黒皿がガシャンと音を立てて傾いたのと、ほぼ同時だった。黒皿の上にも、可視化されたものはない。だが、白皿が弾き飛ばされていきそうな勢いで天秤の腕が跳ね上がった。重量過多なものをやっとの思いでぶらさげているみたいに、黒皿がしんどそうに揺れている。

 せわしなくカチカチと嘴を打ち鳴らす音が、ルチャブルのもとに届く。

『ほら!ほら!これだからいやなんだ!』

 じゃあ、脚は?腕は?翼は?目玉は?

 矢継ぎ早に載せられていくが、いずれも、天秤の腕を水平にすることはなかった。相手が躍起になって意見を出すたびにルチャブルはその中身に緊張し、痛みを覚悟し、天秤が承諾しないことを受けてほっと息を吐き出す───その繰り返しだった。

 怪鳥は、やってられるかと途中で投げ出すことはなかった。一度始めたらきっちりと等価交換を成立させなければならないという制約でもあるのか、どうやらこの傍若無人の怪鳥でさえ従わねばならない強固なルールが複数存在し、いわばそれによってルチャブルは首の皮一枚のところで守られているのだった。

 もし天秤の話を持ち出すことがなかったなら、自衛も叶わず一方的に搾取され、餌食になっていた。いかにきわどい境遇だったのかが身に迫って、ルチャブルの背を、ひやりとしたものがつたっていった。

『色だ』

 これでどうだといわんばかりに、あるいはこれでダメなら怒鳴り散らすぞという鬱憤を込めて相手は羽を膨らませた。光の加減では深碧を帯びる艶やかな黒翼が、身震いに合わせて真夜中の森のようにざわりとうごめく。

『この小鳥が身にまとう彩りと引き換えだ!』

 いい加減、天秤の方でも潮時だと思ったのだろうか。やれやれ待ちくたびれたぞと言いたげに、ようやっと、白皿と黒皿の高さが揃った。ルチャブルに言わせれば、揃(・)っ(・)て(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)。

『…連れてきた子をこんな形で手放すことになったのは初めてだよ』

 彼が忌々しそうに目を細めたことが合図となったようだ。

 ルチャブルの身に具体的な変化が起こる前に、いきなり、胸元をどんと押された。誰もいないはずの空間からの、予期せぬ不意打ち。フクロウとルチャブル以外の第三者が介入して透明な手で突きとばしてきた、そんな衝撃だった。

『いいさ。「キミにもう一度会いにいく」という楽しみがうまれたんだと思っておくことにしよう』

 もう一度?冗談じゃない。

 そう言い返すこともままならず、ルチャブルの意識には白いもやがかかっていく。バランスを崩され後方へと倒されたのだから背をしたたか打ちつけるだろうに、その背中は、地面はおろかどこにも接触しない。まるで底なし沼へと落下するように、どこまでもどこまでも引きずり込まれていく。

『 A hui hou(またね)… 』

 神経に障る声が、木霊す。

 意識が完全に途絶えるその直前まで、彼の声だけは、しつこく耳元に絡みついて離れなかった。

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