※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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深碧のロットバルト⑤★

 ルチャブルがモンスターボールから出てきたとき、着地点がふわんと心もとなかった。ベッドの上だ。足を取られて体勢が崩れるより先に、紺青色の細腕が伸びて正面からルチャブルをとらえ、ぎゅうと引き寄せる。この扱い、さしずめ小さい子どもが加減なく力をいれて抱きかかえるぬいぐるみといったところか。相手のひんやりとした体温が、ルチャブルの額に触れた。

 部屋は薄暗かった。夜明けから随分と時が経つにも関わらず、カーテンはぴっちりと閉めきられている。

 布越しに確認できる明るさから察するに、今日も快晴だ。窓の外はオーシャンビューで、とぷんとラムネをついだかのような、そんな清涼感漂う空や海が広がっているはず。それら美しい景観から背を向けるこの密室具合は、外界を遮断して他者から覗き込まれないようにという頑なな心の表れのようで、今の自分が置かれている状況を嫌というほど思い知る。

 相変わらずお香の匂いが充満している室内で、ゲッコウガとふたりきりだった。相手は黙ったままで、だから、普段なら気にもとめないような息遣いや時計の秒針の音がやたらと耳に飛び込んでくる。何だか喋りかけるのでさえ気が引けるような雰囲気だったが、ひとまずルチャブルはデデンネたちのことを尋ねた。案の定、答えるのも億劫というふうな沈黙がもう少しだけ続き、ややあってから、ゲッコウガはぼそりと言葉を落とした。ようやく発せられたその内容によれば、彼らはジュナイパーのことを調べに外出したという。

『御主は出歩かない方がいいだろうからな。拙者と留守番だ』

 声色は普段とそう変わらないように聞こえるが、ゲッコウガの目つきは荒んでいる。表情は険しく、そこへ寝不足も加わって、ひどい顔をしていた。

 ルチャブルは、嘆息をもらす。

『…おまえ、ゆうべはずっと起きてたんだろ。今のうちに寝とけ』

 ゲッコウガはむうと拗ねて、承服しかねるように両腕の力を増した。態度だけを見れば、夜更かしを咎められておきながら寝ることをぐずる幼子そのものだった。諭すのに苦労しそうだなと思いつつ、ルチャブルは先を続ける。

『俺とおまえの立場が逆だったとしても、同じことをしたはずだ。俺はおまえを心配して夜通し警護をしただろうし、翌日、おまえは俺に仮眠でもいいから寝るよう提案すると思う』

 心を砕いてもらえるのは恐縮だ。ありがたいことではあるが、同時に、張り詰めた状態を強いることを申し訳なくも感じる。それが心配される側の心情だ。休息をとってほしいのも本音だった。

 ところが、ゲッコウガは『目覚めたときに御主が消えていたら、もう生きていけない』と、ひどく真剣な口振りで吐露してくる。恐ろしいのは、この発言を「大袈裟だな」と笑い飛ばせないことであり、聞く者の胸中を否応なしにざわつかせる。ある意味で、愛の名を騙る脅迫といえなくもなかった。

 薄々勘付いていたことではあったのだが、ゲッコウガは繊細だ。それも並大抵ではないし、程度でいえば薄氷を彷彿とさせる。普段は冷静沈着そのものなのに、ひとたびメンタルが揺らぐと、あとはそこから一気に総崩れとなる。そして、彼が脆さを露呈するきっかけは、いつだってルチャブルだった。霊界に於いて、まず真っ先にゲッコウガの精神状態を心配したのも、ルチャブルが忽然と消えたことで───いつかのチャンピオンロードでの一件のように───平常心を失った彼の姿が容易に想像されたためだった。

『ルチャブルが目の前からいなくなったあのとき、生きた心地がしなかったでござる。

 引き込まれた先が霊界だなんて、…そこは、拙者がどんなにあがこうと手も足も出ない空間だ。二度とそんなところにいかせはしない』

 ルチャブルは自惚れでもなんでもなく、己の生死がゲッコウガの寿命の長短を決めるのだということを自覚せざるを得ない。それほどまでに恋慕されている事実を嬉しいだとか哀しいだとか評する以前に、ルチャブルは、ゲッコウガの想い(病み)を粛々と受け止めるだけだ。

 寛仁大度───それが、ルチャブルの本質である。

『…おまえの気持ちはわかった。だが、だからといってずっと不眠でいるのは無理だろ?』

 なだめてみるが、ゲッコウガはルチャブルを己の胸元に閉じ込めたまま、不安そうに背中を丸めている。

 ───不安。

 その根本を取り除かないことにはいくら言い聞かせても響かない、か。ルチャブルは身体を少しよじり、ゲッコウガに顔を寄せ、自ら頬を擦りよせてみる。

『約束する。どこにもいかない』

 様子をうかがう。すると、じっと薄紅の目が見つめてくる。

 救いを求めるような視線から目を背けず、しかと見つめ返したそのとき、ふいに視界がぐらついた。

 反転。頭部の重みを受けて沈み込むクッション。身体の下で弾むスプリング。背景としての天井。眼前で、寝不足であったことを忘れ果てたように雄の顔つきへと変じている番(つがい)───疲労を案じて寝るよう促した直後に、まさか押し倒されるとは誰が予想するだろう。よって間抜けながら、この体勢の意味を理解するのにも、しばらくかかってしまった。

 

 

++++++++++

 

 

『おまえな…』

 怒っているような、困っているような。叱り飛ばそうか、どうしようか。ルチャブルは何とも決めかねているらしい。だが、最終的にはこちらを甘やかしてくれるはずだと相手の優しさを当てにして、ゲッコウガは、ルチャブルの羽毛に深々と顔をうずめた。この柔らかさに、温もりに、匂いに、確かな存在感に、泣きたくなるほど安心する。

『拙者に寝てほしいのなら、ルチャブルにも協力してもらわないとな』

『…悪食だな。こんな、タールみたいなやつを相手に』

 嘲りを聞き取ったので、顔を上げた。彼は伏し目がちになっていて、次は、視線が合わなかった。

『おまえ、…何とも思わないのか。二目と見られないような見てくれになったのに』

 事実、何とも思っていなかっただけに、ゲッコウガはルチャブルの反応に驚いてしまった。が、考えるまでもなく彼の憂いは論無いものだった。問題の主体はルチャブルなのだ。ゲッコウガが彼の外見を気にしなくても、ルチャブルは悲嘆にくれて当然であり、そこに思い至らない方がよほど冷酷ではなかったか。仲間としても、番としても。(正論と認めざるを得ないからこそ思い返せば憎たらしいのだが)あの男も言っていた気がする。ひとりで気負っても意味がない、一番心細いのはルチャブルだと。

 より派手に、より鮮烈に、より華麗に。独自の美学に則った戦い方と麗しい色彩で以て目立ち、注目させ、周囲を魅了する種族(ルチャブル)。それらは、当該種の生態だ。生来のものだ。本能の一部を構成していたものをいきなり強奪されたのだから、心痛は計り知れない。

 ルチャブルは昨日から鏡を避けていた。自分の身体が視界に入るたびに顔をしかめていた。気付いていたのにその先にある彼の心中を酌まず、思い遣れないほどに、ゲッコウガは気が動転したままだった。何はともあれルチャブルが戻ってきたことへの安堵に目が眩んでしまっていて、慰めの一言もかけていない───返す返すも最低だと思う。しかし一方で、容姿を理由に絶ち切れる程度の慕情だったなら、まだ自分は気安くいられただろうとも思う。

 

 どんな想いも、膨らみ過ぎれば重くなり、己を潰す。

 

 分かっているが、ルチャブルに心を寄せることをやめたとき、あわせて、自分の心臓も動きを止めるだろう。

 今更だ。

 今更、何を理由にしようが手放せない。ルチャブルは己にとっての拠り所だから。己にとっての生きる意味だから。己にとってのかけがえのない幸福そのものだから。

 自分の半身と言って差し支えない彼の存在があまりに大きくて、苦しい。

 だが、楽になりたいと思ったことはない。たったの一度も。

 

 

++++++++++

 

 

『…確かに、拙者は御主の彩り豊かな姿も好きだった。だが、それは御主を拙者の最愛と定める動機の全てではないでござるよ』

 いじけた自嘲を柔らかく包んでいなす、温かな口調。そこにはゲッコウガの寄越す混じりけのない誠実が溶け込んでいて、ルチャブルの中に、何の抵抗もなく沁み入ってくる。

 

 自己に陶酔しているのではなく、単純に、ルチャブルは生まれ持った美しい羽が好きだったし、大切にしていた。綺麗だと誉めてもらえることも素直に嬉しく思ったし、誇らしかった。手入れだって苦にならなかった。昨日も今日も明日もその先もずっと、鮮彩の身を生きていくのだと思っていた。それらが丸ごと喪失する日がくるなんて予期しているはずもない。

 こうして不測の事態に直面して初めて、怖くなった。自分が自分でなくなったみたいで。この容姿を他者がどう感じるのか想像もつかなくて。

 自分以外の心の中なんて覗き込めない。真っ当な配慮ができる者であれば、面と向かって「おまえはなんて醜いんだ」とは言わないだろう。心の中で毛嫌いするだけで。その、直接的でない、密やかな嫌悪の対象になることをルチャブルは恐れた。

 それは、仲間も例外ではない。大丈夫だ見捨てられることはないと信じているその裏側で、万が一の可能性がちらつき、落ち着かなかった。

 

 しかし、ルチャブルが抱える恐怖を、ゲッコウガはいとも容易く崩していく。

 その声音で。目力で。態度で。 

『元の姿を取り戻したいなら、そのために拙者も尽力しよう。

 ただし、これだけは覚えておいてほしい。たとえルチャブルがどんな姿になろうと、その存在価値が揺らぐことはない。互いの関係も変わらない。いついかなるときも、御主は拙者にとっての唯一の小鳥でござる』

 ───虚を衝かれる出来事に遭うと、大抵の者は絶句する。感動もまた然り。突発すれば、一時的に己の体感が停止する。

 だから束の間、呑み込んだ息を吐き出せなかった。言葉の一つ一つによって、胸のあたりを、圧迫されたように感じて。

 

 もう、無理だ。

 

 ルチャブルは観念する。眠るよう誘導して軌道修正を図るのは、もう、無理だ。だって、今のゲッコウガの言い様には通り一遍のものでないことを分からせるだけの力強さがあって、どうしようもなく心にぐっときてしまって、だから、こちらの喜びが赤裸々に伝播して、両者間に横たわる空気がとろりと甘くなった。

 こうなってしまっては、この後の展開なんて、決まりきっている。

『…休む気はないのか』

『休むさ。おまえを抱いた後でな』

 ゲッコウガの指の腹が、すり、とルチャブルの目元を撫でた。

『なあ、後生だ。この場でオレに抱かれてくれ』

 醜く変わり果てた姿でなお抱けるのかと重ねて訊こうとしたのに、それが無意味であることを悟った。返事を寄越していないにも関わらず、こちらが了承することを疑っていない、既に完勃ちして下腹部に押し付けられているモノが、全てを物語っていた。ゲッコウガの本気も。興奮も。黒く変色した容貌を何ら問題視していないことも。心から求められている事実も、全部。

『オレの小鳥が間違いなく舞い戻ってきたことを確かめさせてほしい』

 

 恋しがる声音。

 すがる眼差し。

 偽りない台詞。

 

 安心したいのはお互いさまか。

 

 実際、己とて同様だった。ゲッコウガのもとに帰ってきたのだと、血の通う現実の中で息をしているのだと実感したかった。

 未知数の敵に狙われている不安を他所にのけて、このひとときの間だけは、目の前の相手のことだけに集中していたい───心の平穏を保たせてくれる存在として、俺にはこいつだけだし、こいつには俺だけなんだということが、すとんと胸に落ちた。

 

 

++++++++++

 

 

『そこまで言うなら、中途半端なことはするなよ』

 ルチャブルが、すうと琥珀色の目を細め、するりとゲッコウガの首に腕を回して密着してくる。

 日の高い時間帯ながら、この部屋にだけ夜が訪れたような色香漂う雰囲気。いつにない番の仕草に、鼓動が早まった。

 

『おまえのこと以外を考えられないような抱き方がいい』

 

 次いで、この殺し文句。

 どうとでも解釈できる発言だ。そうか相わかった、今のおまえはさぞや滅入っているだろう、オレが忘れさせてやるからなとおためごかしを言って、ここぞとばかりに抱き潰し、快楽責めにすることだってできた。平生のゲッコウガならまず間違いなくそうしていたはずだった。

 ただ、今回、忍の口元にはいつものあくどい笑みが浮かばない。ルチャブルからの要求を曲解せず、正しく理解したからだ。

『承知した』

 万感を込めて、答えた。

 

 現時点において、事態は何も解決していない。進展もしていない。無事に済むのかさえ不明だ。かといって、先行きの見えない未来への懸念を快感で誤魔化したいわけではなかった。

 

 一途に触れ合っていたいだけだ。

 この世でいっとう大事な相手がちゃんと手の届くところにいると確認したいだけだ。

 

 互いに完璧な存在ではないから補い合う。それが番だ。元来、番とは二つ組み合わせて一組となるもの。ふたりで一つ。どちらが欠けても正常に機能しない。

 古代、比翼と呼ばれた伝説の鳥がいたという。一つの翼と一つの眼しか持たないために、雄鳥と雌鳥が隣り合って寄り添い、互いに飛行を支援しなければ飛ぶことができない。己が生きていくうえで、不可欠の相方───ルチャブルとは比翼の関係でありたいと、いつでも祈っている。

 

 

++++++++++

 

 

 本当に、双方、其処に存るのかどうか。

 その確証を得たくて、何度も口付けを交わし合った。何度も名を呼び合った。あきれるくらいに。

 相手を感じるということは、同時に、相手からの刺激を受容する己の存在をも知覚する作業に他ならない。触れ合うからこそ、幽霊でも何でもない、実体としての自分の心身を確認できた。

 蕩けていく舌。潤う目。早鐘を打つ心臓。震えて膨らむ羽。上がっていく体温。荒くなる呼吸。全部、相手が教えてくれる。

 もっと、と思う。

 もっと確かめたい。ふたりのことをふたりで確かめたい。自分では触れらない、ゲッコウガでないと届かない場所まできてほしい。

 外側を探るだけでは足りないから、内側まで踏み込んでいくのはもはや必然的な成り行きだ。快楽を追いたいのでも、繁殖行為でもなく、これは、ふたりで交感しながら互いの存在を再認識するための、一種の儀式だった。

 

 

++++++++++

 

 

 現世で再会して、恋心を受け入れてもらって、ルチャブルが選んでくれて、触れることを許されて───いくつもの奇跡を積み重ねての、今。

 一目見たあのときから、とうに心は奪われている。

 いの一番に見出だしたのはオレだ。誰よりも彼を想うのはオレだ。オレだけの小鳥なのだと、声高に触れ回りたい。何人たりとも手出しができぬよう番には己の匂いを纏わせておかなければ。

 舐めて。甘噛みして。愛撫して。こすりつけて。表皮をなぞるだけでは足りない。粘膜に至るまで、あらゆる箇所を、念入りに。

『…ッ、…ん…』

 幾度となく交尾を重ねようが、彼は未だに慣れず緊張する。

 挿れる一瞬、こちらが体内へと入る一瞬、いつでもふるりと体躯を震わせる。きゅうと目を閉ざす。前戯の段階ですっかり余裕をなくしている相手の、微かながら悩ましげな吐息が、いかにこちらの劣情を煽っているのかきっとルチャブルは知る由もない。

 ───朝寝髪われは梳(けず)らじ愛(うるは)しき君が手枕(たまくら)触れてしものを───朝の寝乱れ髪を私は櫛でとかすまい。愛し君の手枕が触れた髪だから、と、実に艶やかな一首がある。恋仲の者と過ごした夜の余韻を、そのときの恍惚とした想いを、相手が触れてくれた黒髪の上にそのままとどめておきたいと詠ういじらしさたるや……どこぞの文学者気取り(ブラッキー)が話していたことを思い出したのも、ひとえに、麗しい両翼を目の当たりにしたがゆえ。

 抱き寄せて、繋がって、その細腰を掴みながら抽送するさなか、衣擦れのようにさらさらと音をたてるルチャブルの翼が、寝具の中で婀娜っぽく揺らめく烏羽色の髪に見えた。願わくは、ルチャブルも、己が身の上にこちらの痕跡が残ることを望んではくれまいか───そう思っていた折、しとりと濡れた彼の声が、鼓膜を揺する。

『…げっこ、が…』

 囁きに近い声量。

 しかしその鳴き方は、雄冥利に尽きるというほかない、まこと甘やかなものだった。

『……、おく、まで、…欲し、…』

 汗ばんだ頬。赤らむ眦。恥ずかしがってやや顔を背けているからこそ、こちらを見る目つきが意図せずして流し目になっている様が、ひどく蠱惑的で。

 刹那、時が止まる。

 硬直する。

 何とか呼吸をしたくても、急速に血液が沸騰していくものだから、我に返ることすらままならない。感情が津波のように押し寄せて、途端に渋滞を起こして、クラッシュして。全身に稲妻じみた痺れがはしり、あらゆる神経が歓喜に染まった。

 全くの偶然だったけれど、そういうことも、往々にしてある。

 

 シンクロする、ということが。

 

『皆まで言うな。…元よりそのつもりだ』

 何という幸甚。ルチャブルからねだってくれるなんて。

 猛りを抑え、柔和な口調を維持するのに大変な努力を要した。滅多にない出来事である以上に、己は彼から欲しがってもらえるに足る存在であったのだと、それが、こんなにも嬉しい。

『仰せのままに愛でよう。だから、』

 

 おまえは、オレのためにさえずってくれ。

 

 想いと共に吐き出す欲望が、秘所から溢れて、零れて、彼の両脚をつたうそのとき───白濁は、この黒羽にどのように映えるだろう。さぞかし扇情的に違いない。

 

 欲しいなら欲しいだけ与えよう。オレから差し出せるものがあるなら何だって惜しまずに捧げよう。

 おまえがオレのものであるように、同じくオレもまたおまえだけのものなのだから。

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