大小、厚薄、色合いと、多種多様な背表紙が整然と陳列されている。蔵書が埋め尽くす空間は、まさに知の宝庫と呼ぶに相応しい。
歴史と共にその内容も移ろいゆく、人の世の盛衰を反映した文字の群れ───およそ図書館という施設は、いかに自然光を取り入れて明るくしようが、開放感のある洒落た内装にしようが、来訪者を多少なりとも厳粛な気持ちにさせる。智とは時に重々しい。
そんな「静」の場所で、ひらひらと自由に飛び回る蝶みたいに、あっちへこっちへと活発に「動」く働き者がいた。先にデジタルデータで確認しておいた姿と寸分違わない特徴的な外見をしていたので、一目で本人と知れた。
紫苑色の髪に、瞳に。『シオンは紫。貴い色』とは、かの有名な町に設置されている看板の文言だったはず。この少女を見ていると自ずとしめやかな気分になるのは、その所為だろうか。
「こんにちは」
一言呼びかけたところ、こんにちわぁと間延びした挨拶が返ってくる。こちらも、電話口で聞いた声とそっくり同じ。その点は相手も気付いたようで、ふにゃんとした猫口に笑みが浮かぶ。
「一昨日、電話をくれた人だ」
「はい。今日はお世話になります」
あの電話からほんの数日を隔てただけだというのに、もっと長い期間を経た感覚がしている。ルチャさんを守らなきゃって、皆して緊張しっぱなしだったし、気が気じゃなかったし。周りがこんな調子だ、当事者のルチャさんは更に消耗していることだろう。筆舌尽くしがたい苦悩───頭から離れない心配事で常に不安なままでは疲労も必然、蓄積されていく一方だ。いつ突撃してくるかしれない敵の影に怯え、何とかしようにも打開策の「だ」の字も見えてこないのだから、心身ともに磨り減るばかり。正直、長期戦は避けたい。
そんなわけで、つい、子どもが相手だというのに過剰な期待を寄せてしまう。なまじゴーストのエキスパートだ、古代アローラ王朝の末裔だなんて大層な肩書を知ってるもんだから、余計に。
「時間を設けてもらったこと、感謝してます。なにぶん、手掛かりの少ないポケモンに関する話なので困り果てていたんですよ」
少女はさっと周りへ視線をはしらせ、この場が図書館であることは勿論、デリケートな話題を扱うとき専用といった具合の慎重な小声で話した。
「カーカナのことについて知りたいんだったよね」
二階にいくつか会議室や自習室があるそうで、今回はそのうちの一部屋を使う予定でいるらしい。彼女は鍵をとってくると言い残し、事務室らしき部屋の扉に向かって小走りに駆けていく。一歩を踏み出すたびに、ボブカットにされた毛先や一つ結びにされた子どもらしい前髪の束、(相当に前衛的なデザインの)スカートのすそが、バネ仕掛けのおもちゃのように無造作に跳ねた。
***
扉のプレートには「会議室」とあったものの、通された先は多目的な室内だった。会議のみならずその他グループワークにも十分対応しうるよう、ホワイトボードや作業台、いくつもの折り畳み式の椅子が置かれている。姫は場所をとらないとしても、コウガくんやルチャさん、長身の僕がいてもゆとりのある広さだ。窮屈な空間で少女を圧迫するのは本意ではないので、この部屋があてがわれたのはありがたい。
「うわあ。本当にまっくろくろすけなんだねえ」
最初こそ机を挟み向かい合って座っていたのだが、少女はすぐに立ち上がり、ボールから出てきたルチャさんに近寄った。しげしげと眺めては素っ頓狂な声をあげている。好奇の目では見ておらず、ごく純粋な驚きしかないからこそ、嫌な気分にはならなかった。当のルチャさんも苦笑している。
「あ、ごめんね。無神経だったね。でも、カーカナに食べられなかったポケモンを見るの、初めてだからびっくりしちゃって」
少女は屈んで、その小さな顔をぐぐっとルチャさんに近付けた。つんとした鼻先で、臆面もなく彼の匂いを嗅ぐ。
「霊界にいたのも嘘じゃないんだね。うっすらとだけど、ゴーストの子たちと似た匂いがするもん」
───ルチャさんには、これから先も元の姿に戻れない可能性について話してある。彼を前にいざ切りだそうとしたあのとき、患者に病状を告知する医者ってこんな感じなのかなあと胸が塞がったものだ。でも、ルチャさんは自分の問題として知っておいた方がいいし、変に隠したり告げるタイミングを引延ばしたりしても意味がないだろうから、ホテルに戻った直後、入手してきた
厳しい現実について打ち明ける…というか、突きつけるというか、そういうのってこちらとしてもつらいんだけど、しり込みしないよう勢いにのって口を開くしかない。一応、言葉を選びながらゆっくりと説明したつもり。すぐに現実を受けとめてくれなくてもいい、僕たちがフォローしていかなければと思っていた。ショックを与えることにためらいはあったけど、いずれは時薬が和らげてくれることを願いつつ、ルチャさんの反応を見守った。
彼は動揺していた。そりゃそうだ。しかしながら、立ち直るのにさほどの手間もなかった。強がりには見えなかったし、そんなはずがあるものかと現実逃避をすることさえなかった。
それならそれで仕方あるまいという、ある種の覚悟。
留守中、コウガくんがルチャさんに何か言ったんだろうという僕の予想は、はずれていないと思う。何なら、コウガくんだって精神的な安定を維持していた。既に、ふたりで今後の在り方なんかを確認したのかも。傍目からではコウガくんがルチャさんに一方的に依存しているように見えて、その実、ちゃんと補完し合っているパートナー同士なんだなあと再認識した次第だ。
「アローラにもルチャブルは生息してるし、私も見たことあるから知ってる。あなたたち、すごく綺麗な姿をしてるよね。…でも、生者が霊界に入ったときって、どんな影響があるのかまだまだ全然分かってないの。今回、あなたの羽の色が変わっちゃったのも、きっと霊界で過ごした副作用みたいなものだと思う」
中らずと雖も遠からず、かな。
森で出会った
「霊界」などという単語は、通常であれば怪しげな新興宗教か何かにまつわるものなんじゃないかと勘ぐってしまう類なのだが、案外、アローラ地方の人々は抵抗なく飲み込めるのかもしれない。ウルトラホールとか、ウルトラスペースとか、そうした異世界研究の最先端をひた走っているような土地でもあるんだし。
「アセロラさんの知見は、やはりゴーストタイプのポケモンに親しんでいくうちに得られたものなんですか」
「そういうことになるのかなあ?」
くすぐったそうに笑いながら、彼女はつとテーブルの下に向かって話しかける。
「ねえ、ちょっと出てきてくれないかな。お客様にも紹介したいし」
いつのまにやら潜んでいたらしい。
水面の上へと顔を出すダイバーのように、テーブルの影からずずっと身を引きずりながら這い出てくるポケモン───ゲンガーだ。しかも「お、…っきい、ですね」と目視したそのままの間抜けな感想を口にしてしまうくらいには、規格外の巨体だった。図鑑に記載されている平均値と比較すればゆうに二回りは膨らんで見え、随分な迫力だ。ただし、外見の割には恥ずかしがりやなのか、おどおどと目を泳がせている。
「あれ?どうしたの、ラプー。緊張してる?人見知りって柄でもないのに」
からかうように微笑んで、少女はゲンガー…もといラプーを柔らかな手つきで撫でる。小さな手によるささやかな動きなのに、実に深い慈愛を感じさせる仕草だった。そんなふうにされたら、安らぎの鈴も特殊な木の実も形無しで、ただただ懐かずにはいられないだろうなと思わせるほどの。
「私、ある程度ならこの子たちの伝えたいこと、分かってあげられるから。手持ちの皆にも手伝ってもらって、この島に住んでるゴーストタイプのポケモンたちから情報収集することがよくあるんだ。困ってることとかあったら、相談にのってあげたり、助けてあげたりもしたいし」
その過程で、カーカナのことも知ったという。それこそ、隣で浮遊するラプーはカーカナに通ずるものがあるのだと少女は語った。
「ウラウラ島には古いおとぎ話があるの。『欲しがりラプー』の物語…」
───昔々、島の森には嫌われ者のおばけが住んでいました。おばけは暴れん坊で、人を怖がらせるのが大好き。それにとっても欲しがりで、気に入ったものは何でも持っていってしまいます。島の人たちは「欲しがりラプー」と呼んで、たいそう恐れたのでした───…
「最終的には、『欲しがりラプーは島キングに封印され、島には平和が戻りました』…って、内容」
「…まさかとは思いますが、その封印されていたラプーって…」
「そう。このゲンガーのこと」
色々あったの!ウヨキョクセツってやつ!
当時の説明は省きますと宣言するような、あっけらかんとした物言い。屈託がない。…まあ、別に、省略してもらっても構わんけどね。本筋と関係ないなら。そっちはそっちで、話せば長くなるんだろうし。何なら、後から当該エピソードをア●プラで視聴しますんで。
「今は反省してるけど、かつてラプーがひとのものを奪い取ってたのは、ほんとだよ。でもね、…それはひとりでいるのが寂しくて、誰かにかまってほしかったからなの。だから…」
「…カーカナにも、事情があるだろうと?」
「うん」
あ、別に許してやってほしいとかそういうことじゃないんだ。彼女は慌てて手を振った。
「だって、九死に一生を得るような体験だったんだもん。軽はずみなことを言うつもりはないの。ただ、カーカナの根っこにあるものを突き止めないとこれから先も安心できないなって思うから」
「それは御尤もな話なんですが…」
と、いうことは、彼女もカーカナが何を理由にポケモンたちを食い殺してきたのか知らないってことか。欲を言えば、その「根っこ」の情報が入手できればとウラウラ島まで足を運んだわけで…、…あー、いかんいかん。談話の機会を作ってもらった分際でがっかりするなんて、筋違いもいいとこだぞ、僕。めぼしいものがあればいいなって期待は、こっちが勝手に抱いていただけのこと。RPGみたいにはならないってば。新キャラと接触したところで、ここは
「先程、島キングの話をされていましたね。この地方特有の、各島の守り神たちから任命されるというトレーナー…。彼らがこれまでに、カーカナを討伐しようとか、ラプーみたいに封印しようとか、試みたこともあったのでは?」
「もちろん」
少女は、大きく頷く。
「でも、すごく暴れて、手がつけられなかったんだって。四苦八苦してるうちに、島民の間から『カーカナを怒らせてもっと被害が広がったらどうするんだ』って意見も出てきちゃったもんだから、トンザ?したんだって聞いてるよ」
頓挫をきたしたって話か。現在まで根付いている触らぬ神に祟りなしの在り方も、そこに端を発しているのかもしれない。
「カーカナのことはどうにかしなきゃダメだって、それはポケモンサイドからも聞こえてくる意見ではあるの。特に、カーカナのやり方がまずいって、ゴーストの子たちがよく言ってる」
「やり方、ですか」
オーロットの話では、カーカナの行為は普通の範疇だということだったが…そうか、やっぱりゴーストたちだって一枚岩じゃなかったんだな。
「…そもそも、なんで『魔王』って呼ばれるようになったのかは知ってる?」
ららら、と少女はピアノの旋律を真似して口ずさむ。有名な歌曲の冒頭、緊張感満載の三連符の部分だ。「語り手」、「父親」、「息子」、「魔王」が登場する作品───なるほど、その「魔王」になぞらえているのか。
「Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt, Und bist du nicht willig, so brauch ich Gewalt.───私は君が愛しいんだ、君の美しい姿が私を魅了する。もし君が望まなくても、私は力ずくで連れていくよ……作中の魔王が少年を相手にそんなことを言いますよね、たしか」
「そうなの。カーカナは、気に入った子を連れ去って、魂ごと食べちゃう。それがまずいんだって。魂が消えちゃったら、もう、その子は生まれ変わることができなくなるから」
『輪廻転生の環からはずれるということだな』
僕の右肩の上で、姫がぽつりと呟いた。
『来世で巡り会う望みが絶たれるということになる…』
来世。
そんなものがあるのか誰にも分からない。でも、少なくとも僕は、魂の存在を信じている。だって、目撃したんだもの。パステルカラーに彩られた春の日に、桜の木の下で。
僕がこの世で愛している、ただひとり人間。彼との再会。奇跡と称すべき稀有な体験───今でも、目を閉じれば、そのときの光景を鮮やかに描き出すことができる。瞼の裏に、写真を直接貼りつけているみたいに。
例えば、あの人の清らかな魂がなす術もなく化け物に食い荒らされたとして。その想像をするだけで吐き気がした。強烈な嫌悪感で臓腑が捩じ切れてしまいそうだ。ほんの少しでも、そのことについて考えようとするのを脳みそが全力で拒絶している。
意外だったのは、スピリチュアルな話題にはてんで関心を示さないであろうコウガくんまでが、僕と同じように沈痛な面持ちをしていることだった。マジ?意外と前世だ来世だ宿世だと信じちゃうくちですか?ルチャさんが絡めば何でも熱心だもんな、こいつ。手首の関節どうなってんだってくらい、たちどころにくるーって手のひら返すのは日常茶飯事だし。
今は、コウガくんの周辺にだけ、指先を刺すほどの冷えきった水が流れているみたいだ。番う相手が得体のしれない奴に目をつけられている事実だけでもしんどいのに、その上さらに蹂躙され、冒涜されるというのなら、慄然とするのも無理はないか。
「あなたはとっても幸運だったのね、ルチャブル」
沈みかけた場の空気を上向きにしたい健気さからだろう、少女がにっこりと笑顔を咲かせる。
「それに、アーカラ島を離れたのは正解だったんじゃないかな。カーカナはね、私が生まれるずっと昔からアローラ中を荒らし回ってたんだけど、あるとき、見かねたカプ神たちから『やりすぎだ』ってことで叱られたみたい。それ以降はアーカラ島以外の島々を行き来するのが制限されてるらしいの」
それを最初に言ってほしかったなあ!
と、喉元まで出かかったけど直前でぐっと止めておいた。
これまでの遣り取りで、彼女はしっかり者の利発なお嬢さんだと分かるのだが、その人柄に大人が要求しすぎるのもいけない。情報の提示順がこなれてないあたりがまさしく子どもなのだし。
したってさあ、めっちゃ重要な情報ですやん。え、じゃあ、こっちの予想的中?極論、アーカラ島以外が安全圏ってこと?このままアローラを離脱しちゃえば大丈夫?ルチャさんの命は助かる感じ?
「それも、ポケモンたちからの情報ですか」
「そうだよ」
「…この地方のカプ神たちは『守り神』なんですよね?カーカナには、いわゆる『厳重注意』の処置だけで終わっていると?粛清する気もなく?」
「守り神って言っても、特定の誰かに御利益をもたらすような性質の神様じゃないからね。シュクセイって、あれでしょ、異分子を排除するってことだよね?カプ神たちはカーカナと対立しているわけじゃないし、そんな制裁を加えたりはしないよ。精々が、狩りの対象者を減らしなさいってお小言程度。近年の被害件数がほとんどないのはそのためかな。…今では、人間の都合で害獣認定してるポケモンは他にも沢山いるし、カーカナの起こす事件そのものが目立たなくなってきてるのが現状かも。私たちって、日常的な事件の方に目がいきがちでしょう?キテルグマやドヒドイデの犠牲者の方が身近だし、何倍も多いわけだし。
守り神へ敬意を払うにしても、それはあくまで人間が勝手にやってるだけのことなの。ちやほやされて、それでカプ神たちがご機嫌になって、何でも言うことをきいてくれるとか、そんなことは絶対にない」
彼らには、彼らなりの判断基準があるという。下された決定に逆らうことなどできない。人間にとって納得いくかどうかも関係ない。いつの世も、神のまにまにということだ。
「特に、カーカナのお目付け役になってるカプ・テテフは他のカプ神に比べても二面性が強いの。結構、極端というか、過激というか…。残酷に思えるようなことも、にこにこ顔でやってのけたりするし。こっちの理解を超えてることなんてしょっちゅうだよ。
人間にもポケモンにも容赦がない神様だから、カーカナも言うことをきいてるのかもね」
話を聞いて、僕は早速、現在滞在中のホテルをチェックアウトすることに決めた。先に、マリエシティで宿をとって、手持ち諸君にはそこで待機してもらって。一旦、僕だけがアーカラ島に戻って手続きを済ませ、荷物を引き取ってくる…みたいな流れなら、ひとまずルチャさんも安心かな。頭の中で一通りの段取りを確認したことで、口の端からは少しばかり強張りのほどけた吐息が出ていった。
「あ、…今更なんだけど、それなりに話し込む予定だってわかってたのに飲み物の一つも用意しなくてごめんなさい。喉乾いちゃったね」
「いえ、お気になさらず。こちらも差し入れか何か持ってこれたらよかったんですけど。…ちょうど話の区切りもよさそうですし、何なら今からでもお茶をごちそうさせてください」
「いいの?」
お言葉に甘えちゃおうかなあ、エネココアが飲みたいなあと、素直にうきうきしてみせる少女である。
「近所のポケモンセンターに、カフェスペースが併設されてるの。そこならポケマメもサービスしてもらえるし、ポケモンたちもあわせて楽しめるよね」
「では、そこにしましょうか」
難しい顔でうんうん唸ってたって、どうせ肩が凝るだけなんだし。このタイミングで甘いものを口に入れるのは効果的かもしれない。
すっかりその気で、その場にいた全員が立ち上がって、部屋を出ようというそのときだった。
僕は、偶然にも一部始終を目の当たりにする。
ぎゅうっと顔面全体を絞るように眉間にしわを寄せ、目をつぶったラプー。
再び見開く瞬間の、意を決したといわんばかりの切迫の表情。
そして。
わあっと押っ広げられた口は、顎の限界なぞまるっと無視した、鈍角の、とんでもない開き方をしていた。だからこそ露わになったラプーの喉の奥では、なんとも不気味なことに、どんよりとしたマーブル模様がうねうねと揺らいで怪しげな光を四散させている。
皆して咄嗟の反応が間に合わず、よって、不意討ちをかましてきたそのおばけは、誰にも阻害されることなく身を躍らせた。がぱりと大口を開けたまま全身を使って飛びかかっていく姿は、まさに虫取り少年が振り回す網がごとしで。その巨躯の網が振り下ろされた先にいたのは─── 一羽。
ばくん。
ごくん。
一声を発する間もなく、ルチャさんが頭のてっぺんから飲み込まれていく。
予想だにしなかった出来事の全ては、スローモーションで展開した。誰一人身じろぎもしなかった。アローラの暖かさが一気にどこかへ吹き飛んでしまったような、凍りついた空間だけがそこにあった。
「…え? ……、…なに、…ラプー…?」
正常な時間の流れを一番に取り戻したのは、血の気が失せて青白い顔色になった少女だった。手持ちの唐突な暴挙が信じられず、懸命に縋りついている。
「ど、…どうしてッ!なんでこんなことするの!? 」
ルチャブルを吐き出して!と今にも泣きださんばかりの震え声で叫ぶのだが、ラプーはいやいやと首を振って後ずさる。
『だって!』
ただでさえ真っ赤な眼球を更に血走らせて、ラプーも負けじと金切り声を張り上げた。ほとんど半狂乱の有様だった。
『だって!! こうしないとアセロラにひどいことするぞって、
根回し───否、恫喝。
既にカーカナの息がかかっていたらしいラプーを前にして、僕は、ゲンガーに関する図鑑説明を思い出していた。いたずら好きで、どこでも通り抜けて姿を現し、獲物を追い詰めていく
「君、…もしかして、…ルチャさんを霊界に送ったんですか…?」
諦めな。
あいつはやるといったらやるんだ。どのみち食われる。
オーロットから寄越された言葉がよみがえって、鼓膜の奥でわんわんと耳障りに鳴り響いている。あの老木は霊界の天秤を何度もあてにするなと言っていた。釣り合う条件が見つかったのは運が良かっただけだと。カーカナのアジトが霊界のどこにあるのかも分かっていない。だったら、どうやってルチャさんを助けにいけばいいんだ。
何か考えなければと思うばかりで実際は思考停止に近い状態に陥っていく。そんな僕の視界の端に映る、ゆらと夢遊するような動き。はっとして見遣ると、コウガくんが猫背気味に低姿勢をとったところだった。いつのまにやら、彼の手には水刃が生成されている。
コウガくんは生まれも育ちもポケモン研究所であり、ずっと人間の管理下にいた。他者に危害を加えることがないよう調整されている。僕と行動を共にするようになってからもそれは変わらない。なのに、今の彼は、対峙した者にぞわりと悪寒を与える目をしている。その眼差しだけで否応なく相手を麻痺させ、止めを刺すかのよう。過去に手を汚し、直接誰かを殺めたことがある───そういう物騒で非常識な発想をさせるだけの、妖刀じみた暗い両眼だった。
『きさま…』
ラプーに向けられた絶対零度の声。うっかりコウガくんの圧に呑まれかけてしまったが、『よせ!』という姫の制止を聞いたことで我に返ることができた。手にした刃を使って彼が何をするつもりなのかを察してからは無我夢中だった。両腕を伸ばした。何としてでもコウガくんの次の一手を阻止しなければならなかった。
「アセロラさん!ラプーと一緒に逃げて!早く!」
間一髪で蛙を羽交い絞めにして、僕は立ち竦んでいた少女に鋭く指示を投げつける。とてもではないが、穏やかに言って聞かせている余裕なんかない。そんなものはこの場から裸足で逃げ出している。
ふりほどこうと暴れるポケモンを押さえる筋力はそう長いこと持続しない。時間との勝負だったが、そのあたりは嫌というほど鋭利な殺気を浴びせかけられたラプーの方が分かりがよく、迅速だった。貴重品だけ携えてわき目もふらず避難するみたいにラプーは少女を抱きかかえ、机や椅子を蹴散らしながら窓へと突進、ガラスをものともせずに割って破片をまき散らしながら、空に向かって一直線に飛び出していった。
強盗にでも入られたんですかという、しちゃかちゃな室内に取り残される僕ら。得物に仇の血を吸わせ損ねた獣の咆哮が、怒声が、耳をつんざいた。至近距離にいた分、僕の鼓膜は張り裂けそうになる。この様子ではやがてコウガくんの咽喉が破れるだろうと思われるほど、それはそれは荒れ狂った絶叫が轟くのだった。