その冷えは、骨まで浸透する。
じんと、きりきりと、
やがて肉体がぼろぼろと千切れていくような、痛みを伴う寒さ。肺腑が凍りついてしまいそうになるから、呼吸をすることさえも難しい。歯の根が合わない。嗚呼このままではいけない、何とかしなければと思うのに、身体の自由がきかなかった。
薄目を開ける。知らぬ間に俯せている。力なく投げ出された翼の半分ほどを、白いものが覆う。ルチャブルから徐々に熱を奪い、生命を齧っていく、白い結晶───
覚えがある。
つい最近、同じ目に遭った。万華鏡の筒がくるりと回ったみたいに、自身を取り巻く景色が激変して。孤立して。気が付いたときには手遅れで。
転送の、完了。
自分がどこにいるのか理解が追いついてしまい、途端、心臓がどっと不規則に跳ねた。
初回とは違う。あのときは、突如として非日常に放り込まれたせいで現実味がなかった。その変貌ぶりが極端であったから、かえって冷静でいられたくらいだ。
しかし、二度目は。
何が待ち受けているのか予め判明している二度目は───…。
ルチャブルは、見開く。
視界の中で動くものは、雪だけではなかった。
すらと伸びた二本足。爪先がこちらに向けられている。近付いてくる。雪を踏みしめる音すらなく、しかし確実に、深碧の鉤爪がルチャブルに迫る。
『 アローラ 』
癖のあるウィスパーボイス。粘着質な口調。金輪際聞きたくなかったそれらは、両者の位置関係の都合、頭上から降ってくるはずなのに、なぜだかすぐ耳元で聞こえた。その奇天烈な聞こえ方が、ルチャブルの不安を強める。
『ッ…』
カーカナの翼の先は、矢羽根をつがえて引き絞る必要があるためだろう、物を持つことが可能な形状をしている。ルチャブルは喉を掴まれ、高々と持ち上げられた。その拍子に、後頭部や背中に積もっていた雪が、さらさらと零れ落ちていく。
息苦しかった。視覚情報として間違いようもなくルチャブルの目に飛び込んでくる怪鳥の姿に戦慄した。放せと拒絶したかった。それなのに、声が出てこない。
『いや、実際、キミはちゃんと鳴いてるよ』
相手の口は動いておらず、しかし声音が届く。心を読まれたうえで。奇術めいた出来事の只中にいることもまた、気色の悪さを増幅させていく。
『霊界の雪が片っ端から音を吸い込んでしまうから、何も聞こえないように感じるだろうけれど』
以前の根城ではなく、他に場所を移した理由───…なるほど。無音。こいつは声を奪うことで天秤の要求を妨げようとしているのだと察し、すると、対するカーカナは『ご名答』と告げてにんまり目を細めた。
『まだ頭が回るようだね。だけど、それもいつまで続くかな。ここは霊峰ラナキラマウンテンとリンクする風雪の間…ボクは羽の芯に空気が入ってるから自ずと防寒が可能になるけど、キミの翼はドレスみたいにひらひらと華奢だものねえ。この極寒、結構こたえてるんじゃない?』
駆け引きは、己こそを優位に。
前回と同じ轍は踏むまいとしているのだろう。退路も逃げ道も潰したうえで、悠々と捕食する腹積りか。標的を弱らせるのはハントの基本だ。
『…ん?ゲンガーとの接触?アーカラ島以外の場所では活動できないんじゃないのかって?…何だかさあ、みーんなして勘違いしてるんだよねえ。その解釈は厳密じゃないよ』
舞台俳優みたいに、カーカナは芝居がかった仕草で肩をすくめてみせる。
図らずも視線の位置が高くなったことで、周囲が見渡せた。広大だ。鈍色の曇天下、変わらずしんしんと粉雪が舞う。鳥の視力を以てしても、なだらかな銀世界以外に何も発見できない。黒い翼を持つカーカナとルチャブルが、何だか和紙の上にでも浮き彫りになっているかのようで、侘しい墨絵を連想させる。あるいはこの色合いが、いつだったかテレビ番組で見たカントー地方の葬儀で使う黒白の鯨幕に繋がり、不穏な胸騒ぎをもたらした。
『確かに、以前、ボクはカプ神たちに叱られた。悪ふざけが過ぎるって。言うに事欠いて悪ふざけだって?まったく失礼な話だ…ボクはいつでも真剣なのに…。
…当時の取り決めでボクに制限がかけられたのは狩場の範囲だよ。アーカラ島のみで狩りを行うこと、それだけ。各島の往来自体に何ら問題はない。霊界を渡ればどこへだろうと自由自在さ』
ああ、それで。大っぴらに連れ去ることが「狩り」に相当するから、課せられた制限の網目をすり抜けるために今回はゲンガーを利用したわけか。
『人聞きが悪いなあ…ちょっとばかり手を貸してもらっただけじゃないか…』
言い訳がましく、カーカナは胸元の赤い羽をもう片方の翼の先でいじった。ついでに埃をはらう要領で、自身に降りかかった雪を落としていく。カーカナが動くたびにルチャブルに振動が伝わり、宙にぶら下がる格好となっている身体が揺さぶられ、喉が絞まって不快だった。
『実はね、キミとその周囲の動向をいくらか観察してたんだ。その間、ずっと妙な心地だったよ。どうしてキミは捨てられないんだろう、どうして周りはかえってキミを大事にするような行動に出るんだろうって』
キミはこんなにみすぼらしくなったのに、皆から愛されたまま。だから魂だってちっとも曇りやしない。陰りもしない。不思議だねえ。
声は平坦だ。嫌味ではない。棘もない。カーカナの仕草すべてが、心の底から不可解だということを告げている。きっとうまくいくと思ったのに、と、胸をわくわくさせて悪戯を仕掛けていたにもかかわらず予想外の結果が出たものだからがっかりした。そんな不満を言いたげな、少年じみた顔つき。
ルチャブルは、ようやく思い至る。以前、カーカナが、やたらとルチャブルの身体を欠損させることばかりを天秤に要求していた事実に。
貶めることで周りから見捨てられるよう誘導する気だったのか。孤独を与えたかったんだろうか。仮にカーカナの思惑通りになったとして、それを眺めてどうしたかったのだろう。
いっそ純粋な、混じりけのない悪意。
他者を傷つけると分かっているのに躊躇いなく実行に移せる奴だ。こいつには、一生かかっても寄り添うことや慈しむことは体得できないだろう。
凍てつく寒さと酸欠で朦朧とするさなか、この場におけるルチャブルは、カーカナに対して、もはや憐れすらを催し始めていた。
ルチャブルを守ろうと計画を練り、最適な環境を整え、情報収集に奔走してくれたメタモンとデデンネ。黒化しようが真っ先にルチャブルであることを見抜き、おそらくはこの世でルチャブルのみが耳にすることの叶う優しい声で慰め、何があろうと己の唯一だと愛情を誓ってくれたゲッコウガ───彼らの思い遣りを、その貴さを、この老獪な魔王が理解する日はきっとこない。
ルチャブルの目つきが気に食わなかったのか、カーカナは微かに口元を歪めた。その引きつり方に、反抗的な獲物への苛立ちがよぎっていく。
『キミも損な性格してるよね。憐れっぽい表情でも見せて命乞いを試みたらまだ可愛げがあるものを。
普通はさ、どうして自分だけがこんな目に、って自己憐憫に浸るものだよ。醜い姿になっただろう?さっきだって、突然のことだったからろくに別れの言葉も告げられなかっただろう?ねえ、これきりなんだよ?優しくしてくれた仲間のもとにはキミの遺骨さえ届かないんだよ?わかってる?なぜ嘆かない?なぜ泣かない?キミの矜持がそうさせるの?こんな白銀の荒野で誇り高くあろうとするだけ滑稽なのに?』
いくら考えても、カーカナには、これだと思えるだけの答えやひらめきが得られないらしかった。しきりと首をひねるばかりだ。
『それとも、まだ助かる
キミの魂の煌きが褪せてしまわぬうちに。
まるでスープが冷めないうちにというセリフと同じくらいに軽やかな言い様だった。
この前は戯れが過ぎて取り逃がしちゃったからね。そう言って、有言実行をすべく、カーカナの尖った嘴がルチャブルの首筋を目がけてやってくる。かじりつき、引き裂き、咀嚼し、飲み込み、とめどなく流れ出てくる血潮をすする。その過程を辿りにやってくる。そこに、人間たちが煩わしいくらいに気にする食事の作法などは存在しない。作為からは解き放たれた、ただの、
最初で最後の、被食者としての絶望が到来する。
生きることを諦めたくはなかった。己の中には、それなりの反骨精神や闘志があったはずだ。意地汚く抗おう、何が何でも生き残ろうという気概も持っていた。
しかし、自身を奮い立たせるにも最低限の体力が要る。
抗うことを望む心情に肉体がついていかない。状況がそれを許さない。冷えきった身体に戦う力は宿らず、カーカナと対等に渡り合う唯一の手段だった天秤の召喚も叶わないとあっては、この場を自力で切り抜けるための方策は皆無だ。ゼロに何を掛け合わせてもゼロにしかならないように、徹底的に。
終い、か。
俺の方が先立っても早まったことはしてくれるなよと、念押ししておくべきだった…が、どうせ、どんなに懇願したって無駄なんだろ、ゲッコウガ。おまえ、我儘だからな。
だったら、好きにしろ。心算があるなら追ってこい。彼岸でいつまでも待っててやるから。
思いのほか静かな心境だった。
できることなら死に場所は選びたい。最期はゲッコウガの側がいい。それが理想だった。今まさに隣り合う臨終は、到底納得のいくものではない。だが、理不尽な幕引きを迎えてしまったにもかかわらず、それでも大して恨み言が出てこないのは、生涯の終焉以外があまりに幸福な思い出で彩られている所為だろう。
切磋琢磨する仲間に恵まれて、思いきり戦う楽しさを知って、高みを目指して旅をして、野生のままでは決して味わうことのなかった特殊な経験を積み重ねて。
得難い伴侶と結ばれて。
───ただ、この
こちらの想いが相手に伝わっていたにせよ、それでも、…気恥ずかしさゆえに胸の奥底にしまっておくばかりだった一言を、…愛していると、ゲッコウガに言ってやればよかった。
せめて、彼が己を最愛だと囁いてくれた回数と、同じくらいには。
肉体にあてがわれる生々しい嘴の質感や侵食してくる死の気配を知覚する。だが、屈するのは嫌だ。意地を通してやる。たとえどんな苦痛を押しつけられようともこいつ相手に愛想をふりまいたり媚びたりすまいと、ルチャブルはカーカナを睨みつけた───…
『……、…んー…?』
あと少し深く噛んでいたら、血がにじみだしたはずだった。
既のところでカーカナが顔を離した。それは何らかの違和感を拾って、一旦餌を吐き出す仕草に似ている。その原因を探ろうとしているらしく、ぎゅる、ぎょろ、と音をたてそうな勢いでカーカナの目玉が回転した。カクレオンみたいにきょろきょろと左右で違う動きを見せ、それでありながら視線の焦点は常にルチャブルに絞られている。およそ鳥ポケモンとしてはありえない眼球運動に、外気の冷えとはまた異にした悪寒を覚えて
『キミは、…へえ、…そうなんだ…。…ふーん…ヘンなのー…』
勝手に鑑定し、勝手に感想を吐露し、打ち切る。何を察知したのか。何が明らかになったのか。情報の提供はなされず、カーカナの自己完結だけが独り歩きをしていく。
『…キミには霊感がないから分かんないよね。自分の魂の美しさはもちろん、…その魂が
ボクはいつも「美しく研磨された結果」を食べるだけだったから、料理や食材の裏側にくっついてくるエピソードなんか気にしたこともなかったなー…。でも、キミに関しては例外にしなくちゃいけないみたいだ』
カーカナはルチャブルのことを今しがた「変だ」と言った。「例外だ」とも。多くの生き物にとって、新奇性のあるものは「異質」なものであり、ゆえに「気持ち悪い」ものとして捉えられる傾向にある。自分に馴染みのないものなので、生理的な不安感や不快感を惹起しやすい。この場合も、そうであってほしかった。「変なものだからもういらない」と興味を失ってくれたらよかったのに、どうやら全くの逆で、カーカナは(今に始まったことではないが)ルチャブルの気持ちをよそに喉をならして愉快そうに笑っている。
『 今日はボクの方から天秤を使ってあげようか 』
どんな思考の順路を辿ってそんな結論が出たのかやはり説明はないまま、カーカナは本日のうちで最も予期せぬ提案を口にした。
『今回も、キミは外界へと帰還を果たすことになるだろう。だからといって、このままボクから逃げきれると思わないほうがいい。世間の歌にもある通り、