ポケモンを保護した場合、怪我や病気の有無、症状の程度などを検査することは勿論、野生なのか、はたまた飼い主が存在するのか調査しなければならない。
判別のポイントは、モンスターボール由来の光の粒子が体内外に残留しているか否か───通常、ポケモンはボールから放たれる光線に照射されることで人間の所有生物と化し、管理される立場となる。また、ボール内部に当該ポケモンの生体情報が自動的に記録され、ボール(の、製造番号)とポケモンの紐づけも完了する。以降、それらの処理がプロテクターとして働くからこそ、他者からモンスターボールを投げられようとも跳ね返すことができ、奪取を防止するのだ。
「調べた結果として飼育されているポケモンであると判明したわけですし、我々といたしましても、ルチャブルを保護していることは公にしなければなりません」
ま、要は迷子のお知らせってことね。それで、ホームページ上に情報が掲載されるはこびとなった。
しかし。
「極めて貴重な
「…なるほど。そういう厚顔無恥な人たちと同列にされるのもたまったもんじゃァないんで、僕は堂々と証拠を出しますし、彼のトレーナーである正当性を主張させてもらいますよ」
つーか、黒化してるのだって生来のものじゃないんだけどさ。とはいえ、今のルチャさんに絡みつくオカルト話を、最初から、しかも部外者に打ち明ける必要性があるのかって言われるとすこぶる微妙だ。メラニズムって解釈で話の通りがスムーズになるなら、この場はそういうことにして切り抜けよう。
事務的な遣り取りはさくっと終わらせておくに限る。だから、アーカラ島ポケモンセンター発行の受診記録と領収証、ルチャさんのボール、僕の身分証明書等々を、フルコースの料理みたいに並べてみせた。それぞれの情報を照会してもらえれば、引き取りに支障はないはずだ。
───そう。これら一連の手続きからお分かりかと思うが、ルチャさんとの再会に向けたカウントダウンが始まっている。
もっと、こう、ひゃあと歓声をあげるとか、周りと抱き合って涙を流すとか、喜びを表現する手段はいくらでもあったろうけれども、いざ奇跡がぽんと目の前に落っこちてきたら、そんな諸々のリアクションをとる余裕も失せてしまった。びっくりしすぎて頭は真っ白、身体の方は固まっちゃったし。
神様に祈ったそばから「よっしゃ任しとき」と気風よく、一発で、御利益が無償提供された感じだ。己の持ち得る一生分の運を使い果たしたんじゃないかってくらいの出来事を前に、当初は開いた口が塞がらなかった。
***
緊急事態の発生───トレーナーなら、ルチャさんのことだけで頭の中をいっぱいにするべきなんだろう。頭を抱えたり。
ただね、そうも言ってらんないの。
嘘臭いかもだけど、無論、仲間の危機なんだから僕だって当たり前に苦しいし、髪の毛かきむしって叫びだしたいくらいには最低の気分だ。
しかしながら、この世の終わりみたいに慟哭して精神崩壊を起こしかけてるやべー奴が至近距離におりまして。よって、現場の状況が、有無を言わさず僕に落ち着くよう要求してくる。全員が前後不覚に陥って機能不全を起こそうもんならチームとして成り立たなくなるし、せめて自分だけでも濁流の中で抗う杭でいなくてはと、僕は踏ん張ることにした。
だからさ。
傷ついてるのなんて百も承知なんだけどさ。
いくら声を枯らしたって、ルチャさんを取り返せやしないんだってば。
とりあえず、目ぇ覚ましなよ。コウガくん。
ルチャさんが再び敵の手に落ちたという動かしがたい事実は、冷徹な忍を錯乱状態に突き落とす桁違いの威力を持っていた。
異変は目に見えて明らかだった。荒々しく肩を上下させ、我を忘れ、コウガくんはほとんど過呼吸の域に入っている。激情に駆られて身を燃やしているのかと思いきや、予想を裏切り、彼の口をまたいで出てきたのは氷点下の白い吐息だ。時を同じくして、パキリパキリ、微かながら寒々しい音が聞こえ始める。周辺の物体に薄い氷の膜が張り、枝葉のように育って拡大していく───室内はまさに冷凍コンテナ状態だ。南国アローラの中にあって、この部屋にだけは局所的な極寒の冬が訪れている。彼を羽交い絞めにするため密接していた僕なんて氷塊を抱き締めているようなもので、全身の凍傷を覚悟しないといけない状況にあった。
「ちょ、…ッ、勘弁してくださいよ…!」
飛行機が離陸するときさながらの、キイィンと鼓膜を引っ掻く空気の振動。耳の間近でハウリングくらってる感覚だ。不快な耳鳴りがする。
見遣れば、圧縮された氷結エネルギーがコウガくんの口元で生成されつつあった。
おい。
おいおいおいおい。冗談やめろ。
冷凍ビーム発動寸前じゃねーか。
過剰な興奮が技の調整を妨げている。一触即発、どうするよ僕。傍迷惑にも限度ってものがあるんだぞ。バトル用に設計されているのでも何でもない、ただの図書館内でブッ放したら大惨事だ。
何かにつけて斜に構え、毒を吐いての塩対応、無気力気味の平生からは想像もつかない様を目の当たりにすれば、どれほどコウガくんが取り乱しているのか分かる。絶望の度合いだって理解できるつもりだ。
さりとて、慰めようがない。
手を差しのべようにも届かない。彼の心の支えがあの一瞬でまるごと呑み込まれてしまったのだから。なだめることも不可能だった。
こちらからどんなに言葉を尽くして語りかけようが焼け石に水で、彼は自力で理性を取り戻せなかった。
『こうが殿の特性は「変幻自在」…、ならば、今の彼は氷型ということか』
りんと鈴を一振りして邪気を祓うような、玲瓏な声。それを耳にした瞬間、心っ底安堵した。
そうだ。僕だけじゃなかった。事態を静観し、次の一手を考えてくれる存在がこの場にいた。
『さぽーとなら任せろ』
我らが姫君、華麗に躍動す。
ステップ1.軽やかに跳ね、2.くるりと空中回転、3.しっぽに遠心力をのせる。準備完了。勢いを殺さぬままにガツンとぶちかます。
コウガくんの脳天めがけて。
手加減なしの
氷に対する渾身の鋼技。はい、効果は抜群です。
こりゃァ頭蓋骨イッたかもわからんねという、にっぶーい濁音が聞こえた。いやー…、相変わらずすげーわ。やらねばならぬ、って腹を括ったときのお姫さまはマジで躊躇ゼロ。いつぞやのニンフィア戦なんて目じゃないえげつなさで、攻撃が冴えわたる。
もはや力尽くで黙らせるしかなかったし、悪く思うなよコウガくん。HPと意識の両方を一挙にして失った蛙をすかさずボールに戻して、嘆息。
まともな分別を失くした彼を外に出せないので、ボールごとポケモンセンターに隔離する。軟禁と言ってもいいかもしれない。なんともまあ後味の悪い結果ですこと。
『ルチャさんの安否確認だけなら、できないこともないですけどね』
ルチャさんがいない、コウガくんもいない、そんな状態で姫とふたり、マリエ庭園のベンチに腰掛けている。
ジョウト地方の建築様式を取り入れたという雅な庭園内は、池を中心に、築山や庭石、草木、灯篭、茶室が見事に配置されていて、空間そのものが芸術を体現していた。たとえ来場者がどれほど陰鬱な物思いに沈んでいても、何ら無関係に美しい。当然だけどね。いかなる悲劇に見舞われようとも、時が経てばいつもと同じように日が昇ってくるのと大差ない。知らん顔をして、世の中は淡々と回っていく。
神、空にしろしめす。すべて世はこともなし…か。真理だ。いっそ無慈悲なくらいに。
この場にいつもの面子がそろっていたらどんなによかったろうと思う。カロスの四番道路やパルファム宮殿に立ち寄ったときなんかもそうだったけど、ルチャさんって元野生なのに人工的に整えられた苑地のことを気に入ってるみたいだから───そのたびになぜだか姫が嬉しそうに目元を緩めて見守っている───マリエ庭園だって喜んで散策したはずだ。コウガくんとて抜かりなく彼をデートに誘っただろうし、本来ならそこにあったはずのふたりの睦まじい姿が容易に描ける分、尚のこと。
『あるじ殿が何を考えているのか、想像がつくぞ』
彼岸の遺跡のことだな。
遠い目をして、姫が図星を指す。
『以前の聞き込み調査で知った件だろう?かぷ・れひれという土地神にまつわる話だ』
───カプ・レヒレ。
水を操るポニ島の守り神は、あの世とこの世が一時的に混ざりあう霧の領域を展開することができるらしい。
ただし───…
『あまりに危険だ。
二度目の別れを経験する辛さに堪えられぬ者は、霧の中から永遠に抜け出せないのだから。
そも、…万が一…』
その先を言いにくそうにしながら、姫は「万が一」という部分にこだわる。
『…万が一、霧の中でるちゃ殿と出会ってしまったら、…こうが殿はどうなると思う?
きっとその場で腹を召すぞ。賭けてもいい』
それ、賭けになってないよ。
間違いなくそうなるからさ。
霧の中で会うとは、
ルチャさんが霊界に消えてから、これといった解決策もなく、時間だけが過ぎている現状───例えば、僕がゴーストタイプのポケモンに変身して霊界に侵入する…っていうところまでなら達成できる。問題はそこから先だ。ルチャさんの現在地が分からないんじゃ、何にせよ無意味に等しい。そして、こうしてまごついている間にも、今この刹那でさえ、彼の身に何が起こっていてもおかしくない。
つまり、最悪のパターンも、視野に入ってくる。
…考えたくない。考えたくはない、けれど、ルチャさんが既に亡き者になっている場合を想定せねならないのがこの場における最大の不幸だった。
特撮系とか、戦隊ヒーローものとかであればさ、敵対する怪人たちは待っててくれるよ。空気読んでるもん。主役が変身してる間も、高らかに口上を述べてるときも、最後まで魅せ場を邪魔することはない。
でも、実際問題、そう悠長なことにはならんでしょうよ。隙あらば攻めるだろ。急所を刺して即終了。カーカナの場合でいくと、一度逃した獲物を再度手に入れたら片時も待たず食らいつくに違いないのだ。だからこそコウガくんは発狂したわけで。
今になって、ようやく分かった。ルチャさんが餌食になってしまった可能性を直視できなくて、耐えられなくて、自ら凍りつこうとしたんだな。それがゆえの冷凍ビーム暴発未遂か。
コウガくん。君の愛し方って、苛烈なようでいてその実は儚いし、歪だし、好きじゃないな。尊敬もしない。
でも、命懸けだ。文字通りに。
そこらのメンヘラとはわけが違うんだよなあ。君がいない世界に生きていても仕方ないって、そんな戯れ言を地でいくんだから。極めて真剣な想いだってことは認めとくよ。
これが少年誌で活躍する主人公なら絶対に諦めないだろうし、その不屈の精神が好転のきっかけになったりするんだけど…残念ながら、僕、三十路のおっさんだからね。見ちゃうんだ、現実。
夢物語を砕くような、時として残酷な憂き世の方に目が向いてしまうんだ。本当は見たくもないのに。
『かくいう私とて、実際にるちゃ殿と会ったらどうなるだろうな。しっかり別れられるのか、自信はない。恋しさゆえに霧の中から戻れなくなるやもしれん』
あるじ殿にいたっては、もっと事情が複雑化するのでは?
姫は、彼方に飛ばしていた視線を戻して、じっと僕を見つめてくる。
『あるじ殿は、…別の人物と再会するかもしれないだろう?そら、…いま現在も姿を借りている殿方その人だ』
当然、会いたかろうな。あるじ殿に人間として社会生活を送ることを決意させるだけの、大切な存在なのだから。
…ぱっくりと裂けた傷口に怖々と触れるような話し方をするね。ごめんよ、気を遣わせちゃってさ。
カロスリーグを制覇した後になっても、結局、僕は手持ち諸君に何一つ詳細を語っていない。
僕自身の過去。「あの人」自身の過去。僕と「あの人」との間に起こった出来事。…おいそれと口には出せない。愛しい思い出と凄惨なトラウマとが綯交ぜになってるから、未だ他者に開示したことのない話だ。「実はね」と教えてやれるほど、消化も昇華もできていないし。
全ては、今や故人となった相棒のためにしたこと───トリオに話したことといえばその程度。説明責任を放棄している。
ふざけんのも大概にしろと非難囂々でもおかしくないのに、三者三様の反応は、いずれもこちらを責めるものではなかった。
───生い立ち?おまえの?しかも鬱展開確定?
『
つまらなそうに線目モードへと移行するコウガくんである。
『今更湿っぽい話をしたところでどうなる』
何であれ同情はせんぞと素っ気ない。いや端から期待してねーよそんなもん。君が?僕に?同情?何それ笑えるんですけど。
『拙者が要求するものをおまえが提供できるならそれでいい』
あと、単純に、おまえにまつわること全般に興味がない。ですって!はいはい!通常運転!ホントさァ、このクソ蛙。そういうとこやぞ。
『気にならないといえば嘘になるが、周りが催促していいものではなさそうだな』
察しがよく、ゆえに優しいルチャさんは、いつでも適切な距離を保ってくれる。
『土足で踏み入られたくない領域は誰にでもある。おまえに隠し事があったとしても、それが不誠実に直結するわけじゃない』
彼は、僕をあやすようにして、ぷるんとした不定形の身体を抱き上げてくれた。俺のトレーナーはこんなに小さかったんだなと温かく笑いながら。
『俺たちに説明しようとすることで何かを思い返して、それでおまえがつらい思いをするんだったら、話さなくてもいい』
まるで陽だまりの中にいるみたいな心地よさだ。
何も強要されないと分かっているからこそ安らげる場所…それをごく自然に提供してくれる心映えの美しさがあるのだから、彼が皆から好かれるのも納得だ。これを日夜独り占めしてんの、あいつ。なんたる強欲。
ねえ、ルチャさん。ついでだと思って、君のパートナーに爪の垢でも煎じて飲ませといてよ。そうしたら、ひんまがった蛙の性根も少しは矯正されるかもしれないしさ。
『我らを利用したのだと悪ぶった言い方をするには、ちと真摯に過ぎたなあるじ殿』
愛らしい口元に浮かべられた微笑───姫君は、綺麗なものも醜いものも分け隔てなく、はんなりと包み込む。
『殊更に怒りが湧かないのも、あるじ殿から施されてきたことに偽りがないためだ。思惑はさておき、手厚く養育してもらったことに違いはない』
実際、私を勧誘したときの謳い文句は忠実に実行に移されたしな。「世界で一番おひめさま」扱い、だ。そう言って、姫君は茶目っ気たっぷりにウインクを披露する。
『むしろ、私はあるじ殿の意思の強さを天晴れに思っている。艱難辛苦を乗り越えて、よくぞ初志貫徹を果たしたな』
利用されたのではないさ。協力したんだ。
あるじ殿にとって重要なことだというのなら、我らにとってもまた然り。仲間なのだから…って、…聖女かよ…。ッはー…涙出てくるわ。くそでかため息のあとに「好き…」って呟いちゃうくらい胸がいっぱい。一生推そう───……と、こんなふうに「語らなくてもいい」方向へと彼らが動いてくれたから、僕は今もなおトレーナー面ができている。
だから、今回、「あの人」に関わることで話を振られたのは初めてだった。
「会えるものなら、是非とも…と、言いたいところですが」
僕が逆接で区切ったので、姫が意外そうな面持ちを見せる。
「『あの人』と僕は、お互いにきちんと『さよなら』が言えているんです。正直、これ以上は蛇足にしかならない」
既に、僕らは「二度」別れている。
一度目は、夕暮れに。ふたりで暮らしたあの部屋で。
当時は目が潰れてくれたらと願ったね。視覚情報全てを拒絶したかったくらいなのに、かえってその強い思いによって忘却が叶わず、今でもあのときの光景が夢に出てくるんだから皮肉なものだ。
二度目は…、というか、二度の機会があるなんて思ってもみなかった。けど、その、本来ならあり得なかったはずの二度目によって僕の心は救われた。
言いそびれていた「愛してる」を、直接渡せたから。「あの人」に笑顔で応えてもらえたから。
それでいい。
それだけで、いい。
たぶん、「あの人」の方も、神秘の霧の中であれ姿を現してはくれないんじゃないかな。野暮なことはすまい、って。そういうところに、臆病なくらい気を遣う人だったし。
予測はずれて、もし、思いがけず対面したら。「来ちゃった」って、はにかみながら「あの人」が登場したら。…うん、それはそれであり。僕は平気だ。別れを恐れて右往左往したりしない。
「最近どう?」とか、月並みな言い回しで近況を尋ねてくるんだろう。「あの人」が不器用なのは分かってるし、会話を盛り上げるのは僕に任せて。ネタなら売るほどあるんだ。なんせ、旅の連れ合いが癖の強いメンバーだからさ。面白おかしく語ってあげる。
改まった話は今更いらない。シリアスは蹴っ飛ばして、一緒に他愛ない雑談をしよう。
そして、そろそろ時間かなって頃合いで、「あの人」は僕に言うんだ。
「いってらっしゃい」って。
「つらくなんかないですよ。僕には『いってきます』と答えられる自信があります。『あの人』は、僕が迷ったりしないよう送り出してくれる人だから。
それに、僕はこれからも旅を続けなければならないんです。『あの人』のために。霧の中で立ち止まっている場合ではないんですよ」
その点に関しては、ルチャさんも似たような反応をすると思うんだよな。俺のことは気にするなとか、たまに思い出してくれたら十分だとか言いそうだ。「思い出す」ことすらうっちゃって、「忘れてくれ」とまで言い放っても不思議はない。おまえたちの足枷になるのは不本意だ、先に行け───こんな感じで、霧の外へ向かって僕らの背を押すんじゃないかな。
…どうも陰鬱でいけないね。「詰み」前提での話を進めすぎてる。もっと積極的に、救助に向けて動かないといけないときなのに。
ルチャさんの捜索を最も望み、且つ、最も現実逃避したいであろうコウガくんだが、一晩経ってポケモンセンターへ様子を見に行ったら、彼の言動はかなりマシになっていた。つっても、あくまでも表面上ね。こいつ、殊ルチャさんに関しては豆腐メンタルだしな。自分で立ち直れるくらいの奴なら世話はない。
現に、どうにも目が虚ろだ。危なっかしい。病んだ顔つきを以て曰く『早く迎えにいかないとな』…その「迎えにいく」ってところに、例えが不謹慎で申し訳ないが、戦没者の遺骨収集みたいな「慰霊」のニュアンスを察知してしまい、僕はいたたまれなくなる。これでルチャさんの残骸でも発見してしまったが最期、僕と姫が危惧していた通り、コウガくんはあっさりと「この世とおさらばコース」を突き進むだろう。まっしぐらに。
コウガくんの瞳の奥でちらちらと見え隠れしているのは希死念慮か…、なんてこった。この傍若無人蛙を守らなきゃって思う日がくるなんて想像だにしなかった。
このまま手持ち二体を連鎖的に失うなんて絶対に御免だ。姫の心にだって深い傷を負わせてしまう。
頼む、魔王様。慈悲が無理ならせめて気まぐれを起こしてくれないか。
食べないで。返して───…それを願うことしかできない。
何という虚しさ。何という無力感。気まぐれを当てにした命乞い、それってもう無理ゲーじゃん。訴えたところで聞き届けてくれる相手ではないと分かっているから、余計に。
いっそのこと、時を巻き戻せたら。過去へと溯行できたら。…このファンタジー、必ずしも不可能ってことはないんだけど、そのためには「時間」に関わりの深いディアルガやセレビィの協力が要る。いずれにせよ、彼らを召還するなんざ難易度が高すぎてお話にならない。
ルチャさんの羽根だけはまだ手元にあるから、もしかしたら「元の持ち主の居場所を割り出す」ことが可能なポケモンがいるかもしれない。ほら、エスパータイプとか。そうした芸当ができる該当者はいないものかと尋ね歩く方がよほど現実的だったから、皆してアローラ全土を駆けずり回って…と、無我夢中の日々。
状況をまるっと覆したのは、一本の電話がもたらした果報だった。
例のゴースト少女が持つ、独自の情報網の真価が発揮された瞬間である。
初っ端、僕らは呆然とする。
しかしその一方で、確かに歓喜は爆発していて、だから、一気に軽くなった心と体は感情の暴風に乗ってひょいと浮き上がり、空高く飛んでいってしまいそうだった。
聞き及ぶに、地元のポケモンたちが行き倒れていたルチャさんを発見してくれたのだとか。果てには、人間が運営する保護施設への搬送まで。非の打ち所がないファインプレーだ。
───ルチャさんが生きてた。五体満足で保護されている。
それと知れたとき、今まで味わったことのないような多幸感が胸の中に宿った。紛うことなき福運であり、これ以上を望むのは罰当たりってもんだ。
でも。
…困ったことに、安否確認が済んでしまったがために、別の不安がむくむくとせり上がってきている。
どうやって彼が霊界から脱出したのか、そこを無視できない。
他のポケモンを脅し、共犯者を用意してまでルチャさんにご執心だった
だとすれば、…さて。この度は、どんな代償を支払ったのか。
ルチャさんがいるという中庭へと施設職員に案内されるさなか、はやる想いと共に、緊張が高まっていく。
++++++++++
温室庭園の天井はガラス張りになっているので、夜でも星明りが降り注ぎ、美しい。
今夜は、いまにもぽきりと折れてしまいそうなほどの三日月が四方へ青白い光を投げかけている。彫刻刀で一思いに削り出したような繊細で鋭い形を見上げながら、ルチャブルはここ最近の出来事を思い出していた。
エーテル財団の施設で過ごすようになって以降、数日が経過した。思いのほか回復が遅れており本調子とはいかないのだが、ルチャブルより先に保護され、施設暮らしが長いポケモンたちは新参者に対しても惜しみなく慰めの言葉を口にし、厚意を示してくれた。焦ることはない、こういうときこそ他者に甘えてゆっくりと休めばいいと温かく勧めてくる。
だが、身の置き所がないのだ。
板根が特徴的な背の高い熱帯植物に、和やかなせせらぎに満ちた水辺、頑健な岩場、完熟を過ぎて少し傷んだ果実のような湿り気のある匂い…できる限り自然に近い環境でポケモンの療養や野生復帰を目指す試みだと教えてもらったが、そのための配慮は随所に表れており、屋内であることを忘れさせる違和感のなさからして見事なものだった。人間の工夫とそれを実現させるだけの技術力には頭が下がるばかりである。…もっとも、この地方───アローラといったか───における南国特有の風景が忠実に再現されればされるほど、ルチャブルは自身の胸中で孤独が深まっていくことを自覚せざるをえなかった。
全く覚えのない場所で目覚めたときの衝撃をどう表現すればいいのか、そのための語彙がルチャブルには備わっていない。日常ではまず使うことがなかろう「筆舌に尽くしがたい」というあたりが関の山だ。
己の姿も著しく様変わりしており、この変貌ぶりが特に致命的だった。茫然自失である。
何なんだ、これは。
何が起こっている?
意識が浮上してからというもの、恐怖体験の連続だ。きっかけも過程もすっ飛ばして、おぞましい結果だけを押しつけられている。
この変事が一時的なものでなかったとしたら。元通りにならないとしたら。背筋の凍るような仮想がよぎって、心が折れかけた。ショック状態からどうにか這い上がろうとしたのだが、それはどうしようもなく困難で、憂いは当分晴れそうにない。
人間たちは「黒曜石みたい。艶があって綺麗ね」と安易に褒めてくるが、それがかえってルチャブルの癇に障った。
黙れ。
何が黒曜石だ。馬鹿を言うな。違う。違う、こんなの俺じゃない。
世話を焼いてもらってるくせにひどい言い草だと、頭の隅で眉をひそめている自分がいる。だが、非常事態に対する情報処理が追いつかず、順応できず、体調不良に苛まれていることも上乗せされ、ルチャブルには精神的なゆとりがない。
何もかもを打ち消すような単色。漆黒一色───嗚呼、こうも醜い。目を覆いたくなる。俺の羽根は色彩に富んでこそ価値があるものだったのに。
今でも、何か悪い夢でも見続けているのではないかと思っているし、本当に夢であるのならさっさと覚めてくれと切実に祈っている。
一体全体、どんな事件に巻き込まれたら異邦の地に瞬間移動する羽目になるのだろう。カロスの森で生きていたはずの自分が、気がつけば馴染みのない土地におり、医療機器に囲まれ、人間たちに治療されている。天変地異に匹敵する椿事だ。
ぽっかりと記憶が抜けている所為で余計に混乱するルチャブルに対し、周囲は大変に同情的だった。
災難だったね。くじけちゃだめだよ。元気を出して。訊きたいことは何でも言って。力になるから。…数々の思い遣りは、ルチャブルの心を撫でさすり、ゆっくりと溶かしてくれた。幾分か救われたのは確かだ。まあ、気遣ってくれる周りのポケモンたちにしても見知らぬ種族ばかりだったので、当初は大いに戸惑ったものだが。
生涯で一度も出くわさない可能性の方が高い、そんな怪奇現象が、濃縮された原液のままでぶちまけられこの身をびしょぬれにしていく。
一向に乾く気配がない、現在進行の一大事。解決の糸口も、出口も見当たらず───…かと、思われた。
『 月見でござるか 』
その声音の印象、例えるなら、花の匂いを含む暖かな春の夜。
いきなり話しかけられたというのに、懐にするりと入り込むような穏やかな口調だったから、驚きはしなかった。
今のルチャブルは枝に腰かけ、青葉の香気に包まれていたのに、ふと、涼しげな清流の薫りが鼻先をかすめていく。いつの間にやってきたのか、声の主はすぐ隣の枝の上で、ぺったりと蛙座りをしていた。
温室に植えられた樹木の葉は一枚一枚が団扇のように大きかったり、サンシェードのように垂れ下がっていたりで、小柄かつ黒い身体など尚のこと隠れやすく目立たないだろうに。よくぞ見つけたなと言えば、眼に月影が反射して光っていたとのこと。更には、大真面目な顔で『そのおかげで、木陰に小さな月が浮かんでいるみたいだった』とまで付け加えてくるものだから、思わず笑ってしまった。
『詩人だな』
そして、そんな気障なことを口に出しても鼻につかないほど見目がいい。顔立ちだけでなく、しなやかな体躯の有り様も込みで、端正だった。
実のところ、今は美形に近付きたくないのが本音だったりする。言うまでもなく、相対的に自身の劣等感が刺激されるためだ。もはや誰と隣り合わせようが己が引き立て役になるのが目に見えており、加えて、これほど卑屈な物の考え方をしていることにも嫌気がさしている。
せっかく来てくれたのに。
できることなら、もっと、優しい気持ちで会ってやりたかった。
───話は数時間前にさかのぼる。急転直下だった昼下がりまで。
今回の怪異は、己の居場所や容姿だけでなく、「野生暮らしである」という認識さえもひっくり返すつもりのようだ。自分のもとへ、まさか「
保護者だ仲間だという肩書を持ってルチャブルの前に現れたのは、若々しい長身の男とデデンネ、そして、このゲッコウガだった。
当然───初対面。無関係。の、はずだった。だから、『ルチャブル!』といかにも知り合っていることを前提とした様子で呼びかけられ、今にも泣き崩れてしまいそうな顔で勢いよく駆け寄ってこられたあのとき、何が何やらと思い当たることもなく困惑は極まる一方だった。唐突に加え、彼らの存在も彼らの態度も全く予期せぬものであったため、思わず後退してしまった。
再会の喜びを共有することはなかった。何より、ルチャブルの中に「再」などは存在しない。ゆえに両者間で明確な温度差が生じたことは必然であったし、その瞬間から、互いの齟齬が露呈した形である。
何なんだこいつらはと警戒をあらわにしたのも束の間、ルチャブルはすぐに誤解を悟った。
駆ける速度を緩め、やがて完全に足を止め、痩身の蛙があまりにはっきりと傷ついた表情を浮かべたためだ。その悲痛なことといったら、ルチャブルの胸の内まで問答無用で巻き込み、ぎしりと軋ませてきた。自分はただ突飛な事故に遭ったのではない、何かもっと複雑で深刻な事態の中にいるのだと分からせるに十分なものが、相手の眼差しからひしひしと伝わってきた。
遅れて追いついてきた男の方は、まだ冷静だった。どう振舞ったらいいのか分からずに、中途半端な距離をあけて硬直しているルチャブルとゲッコウガの反応から、現状を把握したらしかった。身をかがめ、眼鏡の奥でゆったりと目を細め、「もしかして、寝耳に水って感じです?」と尋ねた。ルチャブルを一欠けらも責めない訊き方だったから、気まずいながらもどうにか頷き返すことができた。男は「そうですか」と呟き、ぽんと頭頂に手を置いてくる。冠羽を梳かす。温かい指先には不思議となれなれしさがなく、悪い気はしない。「どこから話しましょうかね」と微笑みかける男の物腰は、ふうわりと柔らかいものだった。
どういう心境の変化があって、人間についていく決意をしたのだろう。俄かには信じられない。出会いも、旅の始まりも、いつか教えてもらえるだろうか。
男は「僕ね、実は君たちの言葉がわかっちゃうんですよ」とうそぶいた。正気を疑う発言だ。しかし、半信半疑ながら今の自分がかかえる当惑を語ると、男は実に的確に、難なく、これは何かのペテンではなかろうかと疑心暗鬼になることが馬鹿馬鹿しく思えるくらい明白に返答を寄越してくるので、かえって唖然とする始末だった。
狼狽の最中ゆえに要領をえないところが多いルチャブルの話を丁寧に聞き取り、「これはまたきれいに記憶が無くなったもんですね。アイスクリームディッシャーですくいとられたみたいだ」と男は笑った。笑い事ではないことを、敢えて笑い飛ばしてみせたように見えた。
「本当は今すぐにでも連れて帰りたいところですが、君の検査結果が出るまでは待ってくれと言われてしまいまして。
ま、それも明日までの辛抱ですけどね」
いくらかの会話を交わしたのち、男は、知りたいことは山のようにあるだろうが今は休養に専念するよう諭してきた。
「僕たちにとっても分からないことだらけなんです。なぜ君が神隠しのような目に遭ったのか、失踪している間に何があったのか。君が養生している間に、調べてみようと思ってます。そうすれば、君の外見や記憶に異変が発生した理由も判明するでしょうし」
彼は少しでもこちらを安心させようというのか、共に旅をしてきた間柄の証として、多くの画像や動画を見せてくれた。
ルチャブルといえばこの体色だという色彩をまとって、飽きるほど見慣れた、そして今となっては失ってしまったかつての姿が画面に映し出される。『これでよく保護された黒い鳥が俺だと判別できたな』と言うと、「大事な仲間のことですから」と、聞いている側がくすぐったくなるようなことをさらりと返してくるのだった。
覚えていないのでいまひとつ実感として迫ってこないものの、タブレット端末で再生されているのは、自分自身の確かな過去の記録だ。
生まれ育った森ではない場所を背景にしながら、故郷で付き合いのあったポケモンたちではない新たな仲間と、行動を共にしている自分。のんきで平和な瞬間が切り取られて、データに残っている。他にも、習得した覚えのない技を繰り出しながらフィールド上でバトルを展開している様まで克明に撮影されていた。
他ならぬ己が、自在に地を駆け空を翔け、対戦相手を翻弄している。随分と戦うことに特化し、洗練された身のこなしだ。これが俺なのかと驚くほどに。
野生界を生き抜くために必死で仕掛ける泥臭い動きではない。戦うことそのものを楽しむ余裕が見てとれた。どうやら自分は、目の前の男によって養育され、食を保障され、娯楽としてのバトルを味わう───その贅沢を許された境遇にいたようだ。少なくとも、記録の中のルチャブルは、生き生きと躍動していた。彼らとの生活に不満を感じていたとは思えない。一緒にいて楽しい、そんな間柄だったのだろうと想像するのは容易かった。
ゲッコウガとも親しかったのだと思う。ゲッコウガと写っている写真も何枚かあったが、いずれも彼は明るい表情をしていたし、自分も隣で、いたって素の自然体でにこやかにしていたのだから。ふたりを全く知らない者が見ても、写真から両者の親しさを読み取ることだろう。そして事実、何も覚えていないルチャブルのもとへ、こうしてやってきてくれている。押しつけがましくない、しかし大事にされているという実感を与えてくれる。彼から示される心配りに嘘はなかった。
『御主はどうしているだろうと気になったら止まらなくなってな。非常識な時間とは承知の上だが、見舞いに来てしまった』
俺が寝てたらどうするつもりだったんだなどとつまらない返事で一笑に付すことはできなかった。というより、きっと寝ていたって構わなかったのだろう。ルチャブルの存在を、その安全を、一目、直に確認したくてたまらない───彼を駆り立てた衝動が、手に取るように分かった。
日中、迎えにきてくれた彼らの表情や仕草、言葉の端々から、自分が(どんな事情に巻き込まれているのか詳細不明とはいえ)行方不明者として相当の苦労や迷惑、心痛を負わせたことは察するに余りあるほどだったので、ゲッコウガの突然の訪問に関しても無下にするのは酷に思われた。
過保護という一言では片付けられない。またいなくなってしまったらという強い不安を、痛いくらいに感じる。これほどに心を砕いてくる相手を、自分は呆気なく忘れてしまったわけだ。そこに思い至ると、さすがに罪悪感がうずく。大丈夫だから戻って寝ろではなく、じゃあ気が済むまでここにいろと言ってやるのがこの場での正解だと思われたので、ルチャブルは深夜を省みずやってきたゲッコウガを拒みはしなかった。
彼とは、これまでにどんな言葉を交わしていたのだろう。どんな接し方で関係を育んでいたのだろう。どんな景色を見て、どんな音を聞いて、どんな体験を共有していたのだろうか。一つも覚えていないことが、途端に悔やまれた。
こちらの申し訳なさが顔に出ていたのか、ゲッコウガは目を細めた。『何も気にするな』『拙者が勝手にやっているだけだ』と。
『御主は拙者にとって特別な相手だからな』
周囲の音の一切が消えたような錯覚に囚われる。
一瞬だったが、それだけ重みのある沈黙だった。
特別、という意味深な発言。
どう特別なのか問い返すべきだったのだろうし、たぶん、相手もそれを望んでいた。だが、ルチャブルは訊けなかった。直感だった。ゲッコウガの口から紡がれたその「特別」には底知れぬ深みがあるように思えてならず、生半可な気持ちで尋ねてはいけない気がした。
『そうか』と、ぽつりと寄越して濁すが精々だ。実際、気の利いたセリフも咄嗟には思いつかなかった。