男が怪異に遭遇、デデンネはスーパー・メガやす跡地訪問と、各々に動きがあった中で、ゲッコウガは。
大方の予想を裏切ることなく、「むしろルチャブルの隣以外でどこにいろというのだ」と言わんばかりの顔をして、愛鳥と共にいた。
月を見上げながら当たり障りのない事柄を雑談し、果てには傍で眠ることを許してもらい、明かした一夜。いくら「仲間だ」と伝えようとも、ルチャブルにとっては実質「初対面」の相手であるから、こうもぐいぐいとこられては迷惑千万だったことだろう。ひかれたところで然もありなん、である。だが、それを承知しておきながらも自制できないのがゲッコウガのゲッコウガたる所以なのだった。
一向に帰る素振りを見せないゲッコウガに対して、ルチャブルは困った顔の一つも見せずに、ただ柔らかく目元を緩め『好きにしろ』と言う。微笑み方も声の調子も変わらない。ゲッコウガの記憶にある通りだ。そのことに救われる一方、ふたりで築き上げてきたものがほとんどゼロになっている現実を前にして、ゲッコウガの胸に渡来するのはどす黒く焦げつく憎悪の念だった。
この通り魔的な犯行、怨み晴らさでおくべきか。
月に叢雲、花に風───月の輝きを平然と遮る雲のように、ようやく開いた花弁をあっけなく散らしていく風のように、意地の悪い邪魔をする無粋者…、いや、今回の場合は邪魔というのも生温いか。もはや害悪だ。ゆっくりと時間をかけて編んできたふたりの物語だというのに、第三者の介入によって乱暴にページを破り捨てられようとは。はらわたが煮えくり返って吐き気すら催している。
修繕したい。
一刻も早く。
この場で抱きしめるのは唐突か。困らせるだろうか。昨日会ったばかりの雄から愛を囁かれたら果たして彼はどんな反応を示すのだろう───…想像してみるが、いずれも結末は暗い。伸ばしかけた手は、ルチャブルに気付かれないようそっと下した。
分かってる。現段階で迫ろうが何も実らないことくらい馬鹿でも分かる。その点、堪え時と説いたデデンネは正論だった。面白くはないが納得するしかない。
「ルチャブルー!」
どこにいるのー?検温の時間だよー!…このタイミングにしてシリアスとは無縁の、あまりにのんきな来訪者があった。
濁りゆくゲッコウガの思考を一時的に中断させたのは、若々しい女の声だ。見遣れば、間延びした呼び方でルチャブルを探す女性職員の姿があった。
枝の上から彼女の元へと向かおうとするルチャブルは、慌てることもなく淡々としており、やけに慣れた様子だった。毎日複数回、定時に実施される検査だという。体温や血圧、体重の測定、他にも採血、薬の投与と続くらしい。人間ってまめだよなとルチャブルは苦笑している。
『時間はかからない。…検査が終わって戻ってきたら、組手でもしないか』
気さくな言い方になるよう努めている、そんな感じがした。彼の中にある不安の大部分は解消されていないままだろうに、それでも歩み寄ろうとしてくれている───ゲッコウガは、一旦、気落ちするばかりの心に蓋をすることにした。己の情動など後回しだ。今は、ルチャブルから投げかけられる気持ちの一つ一つを大事に掬い上げたい。
『お安い御用でござる』
笑顔で───果たして上手に笑えていただろうか───ルチャブルを送り出し、職員に連れられ小さくなっていく背中を見つめていた。ガラス戸の向こう側へと消えるまで目が離せなかった。
やつれて見えるのは思い過ごしか。検査回数が多いのは、ここの規定によるものではなくて、何か別の理由があるんじゃないのか。
気がかりなことは絶え間なく浮かび上がってくるものの、ゲッコウガは、
勝手な憶測で勝手に自爆するのはやめておこう。この場はルチャブルの望みに沿うことを優先しなければ。彼には気晴らしが必要なのだから。体を動かすことが好きな性分を知ればこそ、組手の提案にも頷ける。心ゆくまで付き合おう。そう思いながら、密やかに息をついた直後だ。刹那だ。
───ぞくり、と。
予告のない悪寒が全身を撫で、肌の表面が急激に粟立った。
背後からぬるりと抱きつかれたような、生理的不快感。併せて強烈な戦慄を知覚し、身の内で本能の警鐘が鳴り響く。
ルチャブルが絡むと理性を司る大事なねじが盛大に緩むか吹っ飛ぶかして感情を制御できなくなるゲッコウガではあるのだが、裏を返せばルチャブルが関わらないとなるや態度を一変させるのであり、何ら起伏を見せず淡白になる。そも、平生は前世からの記憶や気質を引き継いでいることもあって、不遜な蛙だ。並大抵のことでは恐怖を感じたりしない。そんなゲッコウガすら、背後を確認したくないと思わせるに足る不穏な「
しかし、すぐに癪に思った。生来の負けず嫌いが怯えに勝り、背を向けたままでなるものかという意地が、無理矢理ゲッコウガを振り返らせた。
───いた。
己の眼が明らかな異物を捉え、ぎくりと心拍数が上がる。
対象を目視した瞬間、でかい、と、真っ先にその巨躯が印象に残った。
目算で20mは離れているだろう岩場に佇む
未知数───それがミステリアスという魅力になっているかといえば全くそんなことはなく、相手のことを知りたいと思わせない不気味さに嫌悪感がつのるだけだった。
辺りは静まりかえっている。この施設で世話になっているポケモンは他にも大勢いるはずなのに、彼らは今、異様な雰囲気と存在感とを察知してか、身を隠して息をひそめているらしかった。ゆえに、ゲッコウガは、この閉ざされた空間で怪物とふたりきりになった錯覚を覚える。
あのガキ。
ゲッコウガは
『 アローラ 』
怪しげな声音。
粘着質な口調。
相手とは距離があるのに、耳元ではっきりと音声を拾った。この場が静寂に包まれているからではない。すぐ隣で、鼓膜に向かって吹き込まれたような気色の悪さ。聞こえ方でいえばイヤホン越しと大差なかった。怖気立つ怪奇現象だった。
だが、屈しない。
ゲッコウガは、挨拶など返さない。視認したときからとうに理解は始まっている。
こいつだ。
こいつが過去を摘み取って白紙にしてしまった。
非情にも踏み躙られた珠玉、それらは「かけがえのない」ものばかりだ。
ルチャブルの色彩。
ルチャブルの記憶。
紡いできた思い出。
替えがきかないのだから、どんなに足掻こうがこの手には戻ってこない。
憎き仇が目の前にいる状況下だ。当然、血が沸く。
体内から熔けていきそうなほどの憤怒により、今この時を以て視界は赤く染まりつつあった。
むくつけき怪鳥───こいつを仕留めたら、もう、ルチャブルを脅かすものはいなくなる。
拙者の最愛を苦しめたら、オレの最愛に手を出したらどうなるのか、その身に思い知らせてやる。
好機だ。
討伐の一念に支配されるゲッコウガは、標的を滅さんと水手裏剣を構える。
『いきなり穏やかじゃないなあ』
薄気味悪い声が、またもや耳元で囁く。
『クールな見た目に反して血気盛んなわけだ。いいよ。そっちがその気なら、迎撃してやるのが礼儀というものなんだろうし』
隙の無い所作で、妖しのジュナイパーは、弦に矢をあてがう。
一騎打ちに応じるか。上等だ。
奴は
矢をつがえ、狙いを定め、弓を引き絞る。何より、必中させるために両足を地につけ固定しておく必要がある。動作を静止させねばならないことばかりで、せっかくの翼持ちだというのに機動力に欠けてしまう。鳥としての身体能力と得物の性質が合っていない…これならば、比較して、ゲッコウガの方が圧倒的に易動度が大きく、一方的に攻めていける。仮にカーカナが何らかの連射機構を備えていたとしても問題はない。水手裏剣に対応している間に懐へ一気に飛び込んで、一太刀の斬撃を浴びせてくれよう。
問答無用、強襲。
先制の連続技である水手裏剣は空間を裂いてひた奔る───が、いずれも敵対者に届かず無残にも砕け散った。同程度の火力を有した技に阻まれ、相殺された証だ。
水手裏剣を投げつけると同時にカーカナめがけて突進していたゲッコウガは、一部始終を把握していた。
自身の攻撃は矢羽とぶつかり合って消滅している。あの矢羽、連射はさておき少なくとも早撃ちが可能らしい。
方々から不規則に襲いかかってくる攻撃への的確な対処、飛び道具を飛び道具で撃破する腕前。実力は申し分ない、さすが長年生き残ってきただけのことはある。
だが、水手裏剣が弾け細かな水飛沫と化したことで水煙が生じ、辺りが白んだ。愚かな。自ら視界を閉ざすとは。対するこちらに不都合はない。水タイプゆえに、水の中でこそ目がきく。もう十分に距離は詰めた。あとは腕を振り下ろして本命の息の根を止めるだけ。
一際大きく跳躍する。
ゲッコウガの痩身は、空中をも自在に泳いでみせる。
薄霧に包まれる場で、魔王の紅い両眼とゲッコウガの珊瑚色した双眸とが、火花を散らそうかという強さで、がつんとかちあう。
こちらは今にも斬りつけようというのに、相手は更に一本の矢羽をつがえてぎゅうと引き絞っているさなかだった。遅い。辻斬りが致命傷を負わせるのが先だ。
『『 取った 』』
宣言が重なった。
我が耳を疑った。
なぜ。
───なぜ、おまえが
凝視する。
向けられた矢じり。その切っ先は───己から、逸れている?
どこを、何を、狙っている。
それらを知り得る前に、ゲッコウガの身体が、がくんと傾いた。まるで見えない手が足首を掴んで、奈落まで引きずり込もうとしているみたいだった。実際、ゲッコウガは、唐突に一切の随意運動が不可能となった上、訳の分からぬまま地面に墜落して全身をしたたかに打ちつける。
『ッ…』
呼吸困難に陥るような衝撃と激痛。しかし、うずくまることもできない。指先すらぴくりとも動かせずに横たわっている。
『ふふ、…こんなに簡単に釣れちゃったらかえってつまらないものなんだねえ』
いきなり頭を踏みつけられた。
直接体感する足の大きさ。鷲掴みにしてくる鉤爪の鋭さと冷たさ。上から乱暴に頭部を押し付けられたことで頬が擦り剥け、口内が切れ、血の味と屈辱とが苦々しく広がっていく。
『あのさあ、迂闊がすぎるよ蛙くん。
幼い子どもに言い含めるような、癇に障る話し方だ。不自然なまでに抑揚をつけたわざとらしい声が、ゲッコウガを逆なでる。
『手裏剣はあくまでボクの注意を引くもの、ボクを定位置に足止めするもの、ボクとの間合いを詰めるための
得意げに、カーカナは解説を続けた。そうすることで「ほら、こんなに簡単なことも分からなかったのかい」とゲッコウガの早計を執拗になじっているようだった。
『ボクもかつては不思議に思っていたよ。どうして祖先は自然界を生き残るための武器として弓矢を選んだんだろうって。せっかく鳥として獲得している両翼の飛行能力を全くといっていいほど活かせないし、そもそも遮蔽物の多い森に棲んでいるのにさ、何から何まで面倒だよね。
だけど、ボクらの一族は、早撃ちの技術と的中の精度を極限まで高める方向へ進化させながら、今まで連綿と子孫を残してきた。実に愚直だよ。そんな不器用な在り方で生存競争を切り抜けてきたってんだから恐れ入るばかりだ』
それどころか、遂には固有の能力を習得するにいたるんだからね───。
『影縫い。
矢羽使いだけが扱える特別な技。
地べたでひしゃげている今のキミのように、肢体の自由を奪って無様な格好を強いるのさ。対象者の影を射抜くことでね。
実体を持つものは皆、その存在証明として影を持つ。影とは姿形と同義だというのに、大抵の者は器としての肉体が傷つくことを気にするばかりで影を防御することを考えない。だから初見殺しになる…その点は申し訳ないくらいだよ。でもフェアじゃないのが弱肉強食の世界だ。キミだって承知しているでしょう?』
植林近くだと葉影でこちらの影が紛れてしまって、影縫いが発動させられなかったのか。
気付いたところで後の祭りだが、悔恨に耐えかねて食いしばる。
ゲッコウガの前に立ってみせたら一も二もなく突っかかってくるはずだと踏み、カーカナはあえて遮るものも隠れる場所もない岩場に陣取ったのだろう。ゲッコウガの影法師が露わで無防備になるように。
怒りで勘を鈍らせ冷静を欠き、まんまと
『なげーんだよ、話が。そんなにてめえが有能だとひけらかしたいのか
吐き捨てるように言い終わった直後、頭部にのせられた足の力が増す。鉤爪も更に食い込みを深め、ゲッコウガの薄皮や血管が破れていく。生暖かいものがつつと伝う、その感触が生々しい。
『あーぁ。どうしてこうも蛙の鳴き声ってのは耳障りなのかなあ』
ぐるりと仰向けにさせられ、視界が反転する。
体中の空気を押し出すかのように胸をぐっと押さえられ、肋骨がみしりと嫌な音をたてる。虫ピンで固定される標本みたいな有様だ。自力で身動きが取れなくても、術者からの働きかけは受けつけてしまうらしい。傀儡がごとく相手のなされるがままになるなど今までに一度たりとて味わったことがなく、実に惨めだった。
行き場がなくて内臓が震えだすほどの怒り、神経がちぎれていくような憎しみ、炎のように燃え盛る殺意を抱えているというのに何もできないなんて。身体は芯から熱されているはずなのに、噴き出て流れゆく汗は冷たい。
対するカーカナの口調はよどみなく、優位な立場が揺らぐことはないと確信しているためか、終始余裕があった。
『空威張りなこと言っちゃってさ。キミの大きな口に見合ってるよ。伸びきってるだらしないその舌を引っこ抜いてやりたくなる』
やれやれと言いたげに、カーカナは左右に首を振る。その動きに応じて、ぬばたまの闇夜を閉じ込めたような彼の黒羽が、ゆらゆらと揺れ動いた。
煮るなり焼くなり好きにいたぶることができるゲッコウガをつぶさに観察しようというのか、ぬうっと身を屈めて覗き込んでくる。
『おやまあ、ひどいしかめっ面だ。色男が台無しじゃないか』
はあ、と、生臭い溜息がゲッコウガの顔に吹きかかる。その吐息にすら悪霊が宿っているみたいに、嗅ぐだけで病に侵されてしまいそうな、胸を悪くする臭いだった。
『顔をしかめたいのはボクの方だよ。せっかく手に入れたあの小鳥を、食べたくても食べられなかったんだもの。
一度目は思いがけず彼が天秤の存在を知っていたから。二度目は、そう、…キミの所為だよ』
キミ、あのルチャブルに呪いをかけているね?
欠片さえ予想だにしなかった内容が、相手の嘴から吐き出された。
目を見開くゲッコウガを、カーカナは面白そうに眺めてにんまりとまなじりを細める。
『初回は取り逃がしたからね。同じ轍は踏むまいと思ってさあ、次にルチャブルを捕まえたらすぐに魂ごと食べてしまうつもりだったんだ。
でね、その「二度目」は首尾よくいったし、さあ今度こそ…ってときに、気づいちゃったんだよ。彼の魂を縛りつけているものに』
絶体絶命、の、はずだった。
しかし、その最期の窮地こそが、仕込まれていた罠を呼び覚ました。
「
小鳥の魂が深刻な危機に見舞われたことがトリガーとなって、魂の周りに鳥籠が構築されたという。
檻は盾となり、加害者を遠ざける───それを聞いたとき、ゲッコウガは耳の奥で降り始めた雨を、確かに感じていた。思い出していた。
遠い遠い、あの夏。
笹の葉揺れる雨夜。
…───御主を見初めたときから心に決めていた。決して逃がさないと。
拙者は御主の鳥籠だ。
心を結んで。体を繋いで。手放せぬ美麗な一羽もろとも一切合切を鳥籠の中に閉ざしてしまえば、ようやく。
恋も、愛も、呪いになり果てる。
ルチャブル。今後とも末永く、拙者から呪われてくれ───…
『ふうん、…その様子だと、キミ自身も意図してなかった結果なんだね。キミの想いが自然と
この世の生き物とは思えないほど奇怪な様できゅるきゅると眼球を動かしながら、何をどう見て判じたのか、ひとしきり納得したように幾度か頷いている。そうかキミは「神通力」が使える血統なんだね、元から呪力を操る素地があったわけか、と。
『
ただひたすらに所有者の
それがゆえに、皮肉にも彼の魂は輝きを増して一際目につくんだけどね。キミが愛するほどに、他へと渡すまいと執着するほどに、その想いを一身に受ける彼は美味しそうに色付いていく』
ふふ、ふ。こんなにも愛情をこじらせてるのはどんな奴なんだろうと興味が湧いてさ。だからキミに会ってみることにしたんだ。ルチャブルを迎えにきたついでに。
堂々と三度目の誘拐を宣言して、敵の紅い目が不穏に瞬く。その瞳に、ゲッコウガが映っている。見下され、侮られ、いかに激昂しようとも石像のように硬直して抵抗の術を奪われた蛙。かつて冷酷非道な忍として恐れられていたことが嘘みたいに、間抜けな姿だった。
『ボクの目的はルチャブルの魂を食べることだからね、当然呪いを解く方法はないかと思案したさ。セオリーは大まかに四種類…、解呪の条件を満たして被呪者が自力で解く、解呪能力を持った第三者に助けてもらう、術者本人が呪いを解く、そして───』
───術者を殺す。
発言の内容には不釣り合いな柔らかなトーンで、歌うようにゲッコウガの殺害をほのめかしてくる、…が。
『ところが嘆かわしいことに、ボクには解呪能力がない。それを手助けしてくれそうな当てもない。キミ自身が呪いを解く条件を知らない以上、ルチャブルだって自力で解きようがない。
更に
そう言う割に、困り顔さえ非常にわざとらしかった。
ざまみさらせ。本来ならこう言い放ってやりたかった。しかし、それでは吠え面をかくだけに過ぎない。奴は既にルチャブルを連れ去ることを表明している。ルチャブルの魂が己の
『あ、キミも気付いた?そう、食べられないのになんで連れていくのかって話でしょ?
答えはシンプルだ。諦めるには惜しい美しさだからさ。観賞用として側に置くのもありかなって思ったんだよ』
この表現が無機物でなく生物に使われた途端に、残忍な意味合いを帯びる。ゲッコウガは、攫われた先に待つルチャブルの末路を否が応でも仮想せざるをえない。
それは、魔王の翼で撫でられながら徐々に朽ちていく一輪の花。慰みものとして弄ばれ、飼い殺されていく未来───…
『オレの
動け。
動け、動いてくれ。手でも足でも、片方だけでいい。いま動かないと、こいつを倒さないと、ルチャブルが。
油断しきっているときこそが仕留め時だ。今なら水クナイの極短なリーチでさえ事足りる。小さな武器一つで一思いに奴の心臓を刺し貫ける距離。それなのに、…それなのに…!
『蛙くん。残念ながら、口先だけじゃあボクを威嚇できないし、愛する小鳥も守れないんだよ。
…どう?こうして直にくらってみるとなかなか残酷な技だろう?影縫い。
ボク、結構気に入ってるんだ。
キミもよくよく情けない雄だよねえ。ボクに対して何の対策も講じられず、目の前でルチャブルを失うこと三回。三回だよ、三回もキミは失態を犯した。後先考えず遮二無二突破しようとした所為で三度目最大のチャンスをも棒に振るとはね。彼のことを最愛だ何だと言いながら守れもしない不甲斐なさを痛感しているかい?』
カーカナは、ゲッコウガの焦燥を正しく理解した上で、正確に精神を抉る。
『本当は、食べられないって分かった時点でボクの隣にとどめておいてもよかったんだけど…彼さあ、どんな苦境に追いやってもちっともくじけなかったんだよ。周囲から愛されることで育まれてきた、折れない自尊心ってやつだよね。実にあっぱれだった。
でも、そんなのをみせつけられたらね、…つい、うらやましくなっちゃって。妬みや嫉みで意地悪したくなるのって、普通のことでしょ?』
それで、愛してくれた者たちの記憶がなくなったとしたらどんな顔をするのかなって、見てみたくなったのさ。
『記憶を天秤にかけるのは我ながらいいアイデアだったな。今まで凛としてた顔が涙の中に溶けていくんだもの、効果は覿面だったよ。それだけは嫌だ、やめてくれって何度も何度も全身で訴えてた…。
必死な形相も、ぐちゃぐちゃな泣き顔すら綺麗だったよ。美術館にある名画みたいだった。ずっと飽かずに眺めていたくなるような、それはそれは美しい絶望で、…あはは、ボクだけが知ってるんだ。ボク、だけが。ねえ、しっかり聞いてる?
なあ、たんと傷つけよ
彼に関することは全て把握しておきたいだろうキミでさえも知らない、ボクが独り占めした小鳥の悲哀。嗚呼、いいねえ。この優越感はたまらないな。やみつきになりそうだよ───… 一つ、また一つと。ぐさり、ぐさりと。ゆっくりと。確実に。心へ棘が突きたてられる。それらは、ゲッコウガを悪夢にいざなうための、丁寧に丁寧に磨かれた棘だった。
相手の言葉が意味と結びついたとき、ゲッコウガは不快な耳鳴りを感じて、一瞬、気が遠くなった。激しい波のように全身へと広がった怒気があらゆる神経を苛んで、ゲッコウガの意識を奪おうとしていた。
著しい高温にさらされると、炭も黒を通り越して白くなる。まさにこのとき、紅潮するどころか白く蒼ざめた顔で、ゲッコウガは絶句する。名状しがたい感情によって、いまや心臓が微塵となって爆ぜようとしていた。
こんなやつと、得体のしれない霊界で、ひとりきりで、ルチャブルは戦っていたのか。
恐怖を押し殺して毅然とする番の姿が目に浮かび、当時の彼の心境を思うだけで胸が潰れそうになる。
いつもそうだ。昔も今も。
どうして、自分は肝心なときにルチャブルの隣にいないのだろう。彼が苦しんでいるときに、支えを必要としているときに限って、その場にいない。
『結果として、キミらにとってもよかったんじゃないの?何はともあれもう一度ルチャブルと会って話せる機会を得たんだしさ。
───さて。それじゃあ、猶予はこれでおしまいだ。いよいよキミから小鳥を譲り受けるとしよう。横取りは野生界の常なものでね。…嗚呼、大丈夫だよ。心配しないで。きっと可愛がってみせるから』
無邪気を装う邪悪が、にっこりと笑ったそのとき、風を切る羽音がした。
カーカナのねっとりとした挑発をさっぱりと拭う、凛々しい音。真っ直ぐに挑みかかる羽ばたき。それはまるで、リングに降り立つ前の入場曲のよう。
こうして、小さくも勇猛な黒い影が、ゲッコウガの視界に颯爽と飛び込んできた。