渾身の空手チョップだ。しかし、まるで手応えがなかった。暖簾に腕押しどころか、そもそも最初から暖簾そのものがなかったのではないかと思えるほどに、完全な、空振りだった。
間違いなく芯をとらえ、相手の肉体ど真ん中へと翼を振り下ろしたというのに。仕掛けるタイミングも申し分なく、会心の一撃を確信していただけに面食らうばかりだ。
そして、直後味わう羽目になる「そのまま自分が敵の『中』を通り抜ける」という戦慄。だが、強烈な違和感にぞっとする間もなく、眼前に岩肌が迫る。勢いあまった状態で激突しないよう、ルチャブルは予想外の出来事に慌てながらも急いで受け身をとって体勢を立て直した。
瞬間、くらりと、めまい。
視界が歪むも、ぐっと口を引き結ぶ。下肢に力を入れて、堪える。こんなときに万全でない体調が恨めしいが、ぶん、と頭を一振り。しっかりしろ。現状、どうやら動けるのは俺だけだ。敵を分析しなければ。
攻撃が効かないのはなぜだ?翼持ちなのだから当然飛行タイプ、あとは木の葉をまとう外見からして草タイプの複合だと推測したのだが早合点だったか。あるいは、何らかの特性や技が原因?…後者、かもしれない。そうでないとゲッコウガの様子がおかしい説明がつきづらい。
改めて、見遣る。
いっそ目を背けたいくらいに、無惨にも踏みつけられた知り合いの姿がそこに在る。彼の頭部に散らばる痛々しい生傷。口の端からの流血。どれ一つとってもただごとではなく、ルチャブルは再度構え直し、臨戦態勢を整えた。
ゲッコウガは、意識はあるようなのだが石木と化している。ぴくりとも身動きしない。それこそ、金縛りをはじめ「戦闘時の行動を制限する」技は数多い。その所為か。自分もゲッコウガも、この怪鳥の何らかの影響下に置かれた不利な立場にあるらしいことを理解する。
どうしてこうも尋常ならざる事態に放り込まれてばかりなんだろう。立て続けにくらっては脳が追いつかないんだが。
ルチャブルは渋面になる。検査を終えて温室に戻ってきたらこの有り様だ。いきなりのことで束の間足が止まり、視覚情報を処理するのに多少時間がかかった。
何がどう転んでこの状況に至っているのか、もちろん知らないし、背景事情も因果関係も何ら心当たりはない。連続的に発生する非日常にうんざりするのだが、しかし、倒れたゲッコウガと彼を足蹴にする謎の巨鳥とを視認した後、とるべき行動は一つだった。
早くゲッコウガを助けなければと、今は、その思いだけがルチャブルの行動原理になっている。
『やあ、ルチャブル。迎えにきたよ』
初対面のフクロウは、攻撃対象になったことをちらとも気にしていない。それどころか朗らかに笑いかけてくる。
『蛙くんといいキミといい、血の気の多いことだ。先手必勝が信条なのかな?その小柄で身軽な身体からは想像もつかない、加減も配慮も容赦もない攻めだったね。お見逸れしたよ』
ちっともダメージを受けていない側から賛辞を述べられても白々しいだけだった。加えて、この場の空気にそぐわないにこやかな言動に、薄ら寒いものを感じざるを得なかった。
眉間にしわを寄せるこちらを見て、フクロウはきょとんと小首を傾げる。
『あれ、おっかしいなあ。褒めてるのに。そんなに睨みつけないでよ。…まったく、理解に苦しむね。どうして怒ってるの?どうして怒れるの?覚えてもいない、何の思い入れもない相手のためにさ。助けたところでキミにメリットがあるとは思えないんだけどな。単なる自己満足かい?』
『…付き合った時間の長短がそんなに大事なのか。目に見える見返りがないと助けないのか。俺はいちいちそんな面倒なことを考えてない』
開口一番に「迎えにきた」と言った。どこへ連れていくつもりなのだろう。
漆黒に身をやつす己を見て即座に「ルチャブル」と判別し、呼びかけてきた。それに、記憶が欠けていることも承知しているらしい。こいつも今回の関係者なのか。おそらくはろくでもない意味での。
『綺麗事を綺麗事だと感じさせないところがキミの素晴らしさなんだろうねえ』
警戒されていることをまるで意に介さない様子で、フクロウがのんきに拍手を送ってくる。ゲッコウガは踏み台にされたままだ。平然と加虐行為を続行したうえで相手が笑顔を浮かべるたびに、不気味さが際立っていく。
『素晴らしいかどうかなんて知らない。俺は俺のやりたいようにやるだけだ』
怪鳥の戯れ言を振り払うように、強い口調で言い切った。
厳密には「ゲッコウガが大事だから」という理由で助けたいのではない。ゲッコウガはおそらく
『おまえが何者なのかも、この際どうでもいい。さっさとゲッコウガから離れろ』
『…いいとも。ボクは寛容だからね。生意気で不躾な若者の過ちを不問に付してあげる』
いきなり殴りかかってきたのは蛙くんの方なのになあと、いじけた表情でフクロウはため息をついた。それほどのことをおまえが先にしたんじゃないのかとは思うものの、ルチャブルは口をつぐみ、相手の言葉の続きを待つことを優先する。「不問に付してあげる」代わりにルチャブルが何をしなければならないのか、それが提示されるはずだから。
『もっとも、キミの出方次第ではあるけどね。どうする?ボクの招待に応じてくれるのかな?』
ほら。やっぱり。
端から「応じない」という選択肢がないことをルチャブルは理解している。何も訊かずに黙ってついてこい、さもなくば───と、相手の言わんとすることには察しがついていた。現時点で、ゲッコウガは捕虜に等しい。これ以降の事態を穏便に済ませたいなら従うほかない。
怪鳥と自分との関係、脅迫されている理由、これからついていった先で待ち受けているもの、不明点などごまんとある。しかし、向こうからの説明はない。こちらから問うだけの猶予もない。今ここで、大した熟考の余地もなく即断しなければならない。
元から用意されていた一本道を進むよう強要されているのだから、理不尽の極みだ。しかし、腹を据えているからこそルチャブルは割り切ってしまえる。
たとえ、そこに自己犠牲が伴おうとも。
『 逃げろ 』
ルチャブルが承諾するつもりであることを感じてか、かすれた声がした。あばらが折れかねないほど踏みつけられたゲッコウガの胸の内側から、やっとのことで吐き出されてきたのだと分かる、精一杯の一言。
逃げてくれ。頼むから。
懇願の中にある切実な愛情を感じ取ったとき、ルチャブルの心はぎゅうと締めつけられた。
刹那によぎる、しかし確かな一筋の感動。十分だった。こいつのためなら何も惜しくないと思えた。迷いなく。躊躇いもない。
人間たちの足音が近付いてくる。そういえば、食事の時間が迫っていた。ならば追っ付け職員がゲッコウガを発見してくれる。彼らは傷ついたポケモンを見捨てたりしない。すぐに治療を施してもらえるはずだ。後を任せても大丈夫だろう。
『逃げろと言われておとなしく逃げだせる性格だったなら、俺ももう少し長生きできたんだろうな』
結論を出したルチャブルに対し、満足げに頷いて、フクロウはようやくゲッコウガから脚をどけた。
悠然とした足取りでルチャブルの前に立ち、優雅に翼を差し出してくる。
『 おいで 』
実際は卑劣な要求にも関わらず、まるで舞踏会で一曲乞うような、紳士的でさえある誘い方だ。
『ボクの影を踏んでごらん』
言われてみれば奇妙で不自然な影だった。
通常、影は地表に薄く伸びるものだが、このフクロウの影はそこにだけ墨を流し込んだみたいに真っ黒だ。液状化している。足をつけたら、肉体がぬるりと溶けて同化してしまいそうだ。踏めば沈む。それが分かる。この中に入れというのだから、それなりに勇気のいることだった。
すくんで足が動かなくなる前にと、ルチャブルは意を決して、一歩、また一歩と踏み出していく。
もう二度と会えない。
漠然と、そんな予感がした。
だから、あと一度でも歩を進めれば相手の影と接触してしまうという直前に、せめてこれだけはとゲッコウガの方へ視線を向ける。
『おまえ、俺のことを特別だと言ってたな』
嬉しかった。ありがとう。
…いずれも月並みで。ありふれていて。ありきたりで。それでも、最後に礼が言えてよかった。飾り気のない方が、ゲッコウガにも真っ直ぐに届くだろう。
告げて、すっきりした。
おかげで恐怖や緊張が和らぎ、ルチャブルは、口元に小さな笑みをたたえてとぷんと影の中に消えていくのだった。