外へ出でよ。
障壁を崩せ。
そうしなくてはならないのだ、という衝動に駆られて嘴をふるい、身をよじる。
コツコツと内側からヒビを入れ、卵の殻を砕いて脱ぎ捨てたそのとき、モクローの視覚が生まれてはじめて捉えたものは、木もれ日に柔らかく包まれる親鳥の微笑だった。
細められた彼らの目の中で幸せが瞬いている。歓迎されているのだと、モクローは実感する。
親鳥がこれほど嬉しそうにするのだもの。優れた子が生まれてきたと分かるから親鳥は喜んでいるのだ。
相手の反応を鏡にして、モクローは己の価値を理解する。
つまり、ボクは、優秀。
誕生を祝福されて当然。
そうやって迷いなく解釈する傲慢さが、このモクローには生まれながらにして備わっていた。
他のヒナが生まれてきたことで、自身の希少価値の高さにいよいよ確信を抱いた。
二日ほど早く自分の方が先に生まれその分の餌を貰えていた、ということだけでは到底説明のつかない体格差。親鳥とも弟妹とも違う澄んだ碧の両翼。
家族と一致しない外見上の特徴に、モクローは怯まない。むしろ「ボクは特別だから凡庸な者たちと異なるのも尤もだ」と、自尊の感情が強まっていく。
生まれて間もないモクローは、無論ながらあらゆる「経験」に乏しい。経験知による判断はできない。だからこそ、本能が強烈に働きかけてくる。
ボクだけが選ばれるべきだ、と。
最も上等な個体である自分が生き残るべきだ。
だから、親鳥からの愛情も、運ばれてくる餌も、何もかも自分だけに集中せねばならない。
つまり、
手始めに、親鳥が餌を探し回っている間を狙って弟妹をつつく。小さな嘴とはいえ、先は鋭利だ。執拗に攻撃を続けると、か弱いヒナたちは徐々に衰弱し、やがては動かなくなった。
うん、上出来。ボクの血肉になって役立てることを誇るといいよ。モクローは機嫌よくヒナたちの肉をついばんで呑み込んだ。
殺意と言うほど積極的なものがあったわけではない。ただ、不要だ邪魔だと判断したから整頓した。それだけのこと。だから、別に悲しくとも何ともないし、罪悪感なんて言わずもがなである。
さて、腹ごしらえは済ませた。掃除を続けるとしよう。
あとは卵だな。まだ孵化していない輩が転がっている。
いらない。いらない。
ぜーんぶ、いらない。
モクローはせっせと卵を巣の外へ落としていく。
巣が片付けば心が晴れた。卵を突き落とせば競争に勝てた満足感で心が満たされた。はるか下の地表で、ぐちゃ、と命が失われる音がすれば心が弾んだ。
さあ!
ボクがこの中で一番強いんだよ!
ボクだけを育てたらいいんだよ!
さあ!
巣の真ん中にちょこんと居座って、嘴のまわりを血だらけにしながらにっこりと笑うモクローを、帰巣した親鳥はじっと見つめてきた。様変わりした巣の中を眺め、もう一度、モクローに視線を戻した。何の感情もうかがえない、冷えた顔つきをしていた。
思い描いていた反応がないことを不思議に思ったモクローが親鳥を見返すと、彼らは静かに首を振って、巣から飛び去った。その後、モクローの前に姿を現すことは、二度となかった。
++++++++++
「実は今、うちの研究所でモクローを一体保護しているんだがね」
飼ってみないか、と友人が切りだす。
酒場の席である。久しぶりに飲もうとこちらから誘い、互いの近況を報告している中で出てきた話題だった。何でも、フィールドワークで訪れた森の中、育児放棄をされたヒナを発見したらしい。
「痩せ細った体から絞り出すように、あんまり悲しげな声でピイピイ鳴いてもんで、つい拾っちまって」
そりゃあ善行だ、と安易な返答を寄越したこちらを一瞥し、友人は肩をすくめる。
「親鳥を呼んでいたんだろうが、鳴き声を出せば自分の居場所がわれるし、遅かれ早かれヒナは天敵の餌食になったはず……本来なら、それがあるべき姿なんだよな。野生のポケモンは自然の摂理の中で生きてる。だから人間が一時の感情に流されて介入しちゃいかんのだと、分かっちゃいたんだが…」
小さな命を助けたことを誇りたい反面、己の行いを悔いてもいる、そのせめぎ合いに溜め息をつきながら、友人はつまみを口にした。
「このままじゃ死んでしまうのに見て見ぬふりで放っておく…ってのは、難しいだろ。普通に。たとえ助けないのが正解だとしても、だ」
自分もその場にいたら同じことをしただろうと思われたので同意を示しつつ、「それにしても何があったんだろうな」と話を続けていく。
「せっかく生まれたヒナだろうに」
これは素人の発想だったようで、博士の肩書きを持つ友人は「そう珍しいことじゃない」と返してきた。
「些細なきっかけ一つで営巣を諦める鳥ポケモンは、意外なほどに多いんだ。卵やヒナをまるごと放置していくなんてザラだよ」
どのみち、モクローが回復したら里親を探すつもりでいた。あるいはこのまま新人トレーナー用に養育してもいい。だが、できることなら素性の分からぬ者ではなく気心知れた相手に譲りたい。そう考えての提案だと言う。
「おまえ、娘さんがいたろ。そろそろ自分のポケモンを持ってもいい年頃のさ」
ここまでくれば結論は見えていた。自分の頭は、早くも娘の喜ぶ顔を描き始めている。
友人は最後の一押しとばかりに、付け加えた。
「それに、ちょいとそこらじゃお目にかかれない綺麗な奴なんだぜ。生まれこそ野生だが、研究所での生活にもすぐに順応した。あの子は人と一緒に暮らしていける賢さがあるよ。どうだい?」
***
娘は歓声をあげ、
「すごい!すごいすごい!」
興奮のあまり、単純な感嘆以外を忘れたかのようだった。モクローを撫でさすり、しきりと褒めちぎっている。感心する気持ちはよく分かった。自分もモクローを受け取りに友人のもとを訪ねた際、一目見るなりほうと息をついたのだから。
羽根の一枚一枚をエメラルドから削りだしたのではないかと思わせる、全身の翡翠色。艶やかにさした紅のように、はっと目をひく朱色の嘴。実に洒落ていた。そこにまるみを帯びたフォルムと円らな瞳が加われば、万人から愛されるために生まれてきたとしか言い様のない生き物が出来上がる。周囲を魅了するマスコット的な愛らしさといったらなかった。
そこらじゃお目にかかれないと言った友人側に嘘はなかったわけだ。このモクロー、色違いの個体である。
娘の喜びようにモクローもすっかり気をよくしたらしく、すぐに心を開いて娘の胸元に飛び込んでいった。
以降、娘とモクローの仲睦まじい生活の幕が上がる。
ふたりはいつでも一緒だった。寝食を共にするのはもちろん、どこへでかけようがモクローは娘にぴったりと寄り添っていた。まるで影のように。ふたりがニコイチ扱いになるのに、時間はかからなかった。
モクローの特殊な姿、賢さが見てとれる立ち振舞い、娘との良好な関係は、やはりと言おうか、周囲から羨まれることが多かったようだ。
「みんなね、モクローのこと、きれいだねって言ってくれるんだ」
トツゼンへンイってゆーんだよ、って教えてあげたの!と娘が報告してくる。はにかみながら、それでも確かに自慢げな色が隠しきれず、口元にはご機嫌な三日月が浮かんでいた。
モクローが娘の後をよちよちと追いかける様は健気で微笑ましかったし、それだけでなく、路地裏から飛び出してくるコラッタや近所のトリミアンが吠えてきたときなどは勇ましく身を挺して娘をかばい、脅威に対して果敢に飛びかかったりと頼もしい騎士っぷりを発揮してくれた。親としても安心で、気の合うパートナーに出会えてよかったと胸を撫で下ろしていたのだ。このときまでは。
今なら分かる。一連のことは、娘のための行動ではなかったのだと。お気に入りのオモチャに触れられまいと、取り上げられまいと、じたばたする子ども。そんな幼い態度と、本質的には同等だったのだと。
しかし、初めのうちはそれと察することができなかった。一見すれば必死なあの姿から、「もしや欺瞞による仕草なのではないか」と穿った見方をすることもできなかった。だから、多少のことには目を瞑ってでも養い続けたし、殊、可愛くて仕方ないのだと言葉と態度で示し続ける娘に、モクローは応えた。いよいよ以て娘に懐いた。
そして、懐けば懐くほどに、日常が綻んでいった。
++++++++++
毎日一緒に過ごして、どんどん仲良くなって、たくさんの思い出を作っていく。これって、いいことのはずなのに。
なんでかな。
最近、上手くいかないや。
悩みは深まっていくばかりだ。
あんなに聞き分けのよかったモクローが、この頃、癇癪を起こすことが増えた。友だちと遊びにいこうとするのを、すごく、嫌がる。最初こそ「待っててね」と声をかけていたのだけれど、自分が優先されないことに腹を立て、その都度モクローは騒ぎたてた。
一旦ヘソを曲げたら厄介だ。落ち着くまでそっとしておこう、というのは悪手で、すぐさまなだめすかしてあやさなければならない。そして、そこにかかる時間は、日を追うごとに長くなっていく一方だ。
ふたりきりを望み、不機嫌にむくれるところから始まったモクローのわがままは、やがてけたたましく鳴きわめくことへと変わり、次に羽をばたつかせて暴れまわり…と、エスカレートしていく。他の子どもがモクローに手を伸ばそうものなら払い除ける。つついたり、爪で引っ掻いたりと、攻めようとすらした。「やきもち」という範疇から逸脱しつつある、目に余る態度だった。
次第に近隣の子どもたちは少女を誘わなくなったし、少女の方も、モクローが誰かに怪我を負わせるのではないかと心配で、遊ぼうと声をかけることができなくなっていった。
孤立は、寂しい。
「ボクがいればそれで十分でしょう?」とでも言いたげなモクローのきょとんとした表情が、つい憎らしくて、でも、「モクローさえいなければ」と一瞬でもよぎらせてしまったことが心底嫌になる。
懐いてくれてる子に、なんてこと考えるんだろう。私のバカ。優しくしてあげないといけないのに。
父からモクローが保護されるまでの経緯を教えてもらっていたこともあって、少女はモクローを強く叱れなかった。「大丈夫だよ。どこにもいかないよ」と根気強く語りかけ、見捨てようとはしなかった。それに、ふたりでいるときならば、少女の意識が自分だけに向けられているとモクローが実感できているならば、周囲への刺々しさが嘘みたいに穏やかになって、本来の愛くるしいポケモンに戻る。それが分かっているだけに、尚のこと突き放せなかった。
しかし、モクローがフクスローへと進化したことを境に、少女なりの努力も我慢も及ばなくなった。
元から大きかった身体が更に一回り成長し、丈夫になり、あわせて力もぐんと増したフクスロー。ひとたび気に入らないことがあれば手がつけられなくなった。それでもまだ少女の言うことをだけは聞き入れていたのだけれど、ある日、少女を独占せんと遂には両親にまで激しい威嚇行動をとり、攻撃的な姿勢を露わにしたことで、少女の心はポキリと折れた。
おかしい。
私、ずっと前から、この子のことを怖がってる。
褒め言葉ばかり言って。一生懸命ポケじゃらしを振って。丁寧にブラッシングして。いつもこの子の機嫌をうかがって、媚びてる。暴れてほしくなくて。
この子のこと、好きなのに。好きだったのに。世界で一番だよって、何回言ったかしれないほど。
でも、この子は私の大切にしてるものを壊そうとする。私が大切に思うものを分かち合ってはくれない。
少女には、子ども特有の勘のよさがあった。それゆえに気付いてしまった。フクスローの目に宿る、執着に。とうに、親愛とは呼べなくなってしまった、変わり果てた視線の意味に。
その、排他的な目つきの気持ち悪さに。
もう駄目だ。
少女は精神的な疲弊が限界をむかえ、つい、フクスローに向かって口走っていた。
かわいくない、と。
++++++++++
「家族として迎え入れた以上、私たちには終生飼養の責任がある。それは今でも変わらないよ」
フクスローを諭すように語りかけてくる男の声には、いささかの疲労が滲んでいた。
「おまえは悪くないんだ。おまえにはおまえの原理があって、おまえらしく振る舞っただけなんだよな。
ただ、それは私たちと相容れず、相反するものなんだよ。私たちの都合に合わないんだ」
だから、これからも共に暮らしていくために、ここで練習してきてほしい。
そう言って、男はフクスローを施設に預けて去っていく。
ここは一定期間ポケモンを預かり、集中的にトレーニングを施すことで「しつけ直す」場所。それと理解するがゆえに、フクスローは怒り心頭だった。
フクスローは、施設の利用料金が高額であることを知っている。だが、フクスローには「彼らはそこまでしても構わないほどに自分を飼う覚悟をしているのだ」「自分との生活を諦めずにいてくれるのだ」という発想ができない。金をつぎこみ、時間を費やし、専門家を頼ってまでフクスローを矯正しようとしている事実が腹立たしいばかりだった。
また、この場にいるのは欠陥品とみなされたポケモンなのだと認識しているフクスローにとって、そいつら格下と同等の扱いを受けることも非常に屈辱的だった。自分は優秀であり、こんな場所に連れてこられるような間違ったことは何一つしていないと自負しているだけに、尚更だった。
フクスローは「公平」が嫌いだ。
生き物には生誕時から既に優劣の差が生じているのだから、応接にも差があって然るべきだ。分相応でなければならない。
しかし施設内では、フクスローは単にトレーニング対象の一体に過ぎず、他と変わらぬ対応をされる。一律に、平等に。
ここにいる限りフクスローは特別扱いされない。ちやほやもされない。誰もフクスローを気持ちよくしてはくれないのだ。
フクスローは「譲歩」も好きではない。
去り際の、男の言葉を思い出す。私たちの都合に合わない、だと?なぜこちらが人間側に歩み寄って妥協せねばならないのか。彼らこそフクスローとの接し方を反省し、改善するべきなのに。
耐えかねて、フクスローは一週間ともたずに逃亡した。
人間たちの隙をつくなど容易かった。そうして出てきた先で、偶然に出会った野生のツツゲラによれば、ここはメレメレ島だという。
少女の住まいはアーカラ島だ。島から島へ渡るにはあまりに遠く、自力で飛んでいける距離ではない。人間が使う連絡船にでも潜り込むか。
しかし───…。
フクスローの胸の奥でリフレインしているのだ。片時も途切れずに。
少女から放たれた「かわいくない」の一言が。
心外だ。
翡翠の葉。深碧の羽毛。白い翼とのコントラスト。美しいことこの上ない外見だ。モクローから進化を遂げたときも、真っ先に「まあ素敵」と言っていたくせに。どうして急に裏切るようなことを言って自分を遠ざけるのだろう。
少女の言葉が指したのは外見だけにとどまっていないのではないか、ということに、フクスローは気付けない。気付くはずもない。己の存在自体に絶対の自信を持ち、いつでも自分が世界の中心だったのだから。周りの者は自分がいくらでも利用していい世話係に過ぎず、誰しもが自分に対しかしずいて当たり前なのだと思っていたのだから。
自分にとって心地よいものばかり選び取ってきたフクスローは、この期に及んでも、己に非がある可能性には思い至らない。だが、明確に突きつけられた「己を否定する言葉」に、予想外に揺さぶられていた。気にすまい、相手に見る目がなかったんだと言い聞かせてみるが、少女の陰鬱な顔が意識の片隅にこびりついて、不愉快だった。
仕方ない。
現状で満足できないというのなら、より立派に成長して見返してやる。ぐうの音も出ないほどに、こちらの正しさを知らしめてやろう。
もう一度、進化することで。
フクスローは決意する。それに、最終進化を果たすことでついてくるお得な特典も把握済み。ゴーストタイプが追加され、難なく霊界を通過できるようになる。さすれば、時空を気にせず少女のもとへ戻ることなど朝飯前だ。
生来獲得していた能力の高さは本物だった。フクスローは知恵と力とを存分に発揮し、アローラの過酷な自然界を強かに生き抜いていった。
年月を重ね、目論見通りにジュナイパーへと進化したそのときの高揚たるや。
あの
あの日施設送りにしたことを後悔しているようなら、許してやってもいい。
約束された感涙の再会に思いを馳せながら霊界をくぐり抜け、威厳をみなぎらせる漆黒の翼を広げ、今となっては懐かしい少女の家へと飛んでいく。
空は曇っていた。
日の光を遮断する黒々とした雲からは、表面張力でふるりと緊張感をかかえるワイングラスの水みたいに、今にも雨が溢れ出てきそうな気配が漂っていた。
吹いてくる風も生暖かく、発酵したようなべたつく磯の香りが鼻につく。
目指すは、オハナタウンの一廓にある木造家屋。この一帯は似通った外観の家が連なるも、ジュナイパーが目的とする場所は垣根に囲われており、そこでは目印のように、白いプルメリアの花が咲き誇っていた。
「待って!待ってってば!」
一人の少女が、ポケモンを追って小さな庭へと駆け出してくる。お転婆にも、足元は裸足のままだ。
「ようやく捕まえた。…こーら!じたばたしない!ダメ!公園に行くのはまた明日!お手入れした羽が雨に濡れても知らないよ?」
聞き馴染んだ声は、やけに楽しげで。
ジュナイパーが上空から見遣った先には、記憶にあるより髪や背が伸びた少女の姿。そして。
一体の、フクスロー。
考えるより先に動いていた。
居ても立ってもいられなくて、少女らがじゃれあう庭先に降下した。
少女は、目の前に突如として舞い降りてきたジュナイパーと対峙し、ぴたりと身動きを止めた。華奢な両腕でぎゅうとフクスローを抱いたまま、固まっている。ジュナイパーの影にすっぽりと覆われているので、互いの体格差を痛感してか、瞬く間に顔色が青ざめていく。
『ボクが』
ジュナイパーは前に進む。
翼の先を少女へと伸ばす。
『ボクが、世界で一番じゃなかったのか』
凍りつく少女に代わり、ぱあんと乾いた音を立ててジュナイパーの翼を拒絶したのはフクスローだった。少女の腕の中から躍り出て、躊躇いなく刃羽根を投げつけてきた。そのうちの一枚がジュナイパーの頬をかすめ、切り傷をつくる。
傷口が熱い。つうと血がつたう感触がする。
───痛い。
体感の刹那、理性の鎖を引きちぎる強烈な怒りが、ジュナイパーを支配した。有無を言わせず、フクスローを鉤爪でむんずと掴み上げ、その場から飛び立った。
遥か下から甲高く泣きわめく声が追いかけてきたものの、それもすぐに遠ざかり、耳に届かなくなった。
***
力任せに、獲物を樹へ向かって叩きつける。
フクスローは呻きながら、ずるずると幹伝いに落下した。息つく間も与えずに蹴り上げれば、なされるがままボールみたいに転がっていく様が滑稽だった。
だが、こんな程度では、到底憤怒は鎮まらない。
『冗談だろ?』
ジュナイパーは、フクスローを塵芥を見るような目で見下ろす。
『おまえのような持たざる者が、ボクを差し置いて可愛がられるなんて』
こちらの帰還を待ち続けるでなく、既に代わりがいる?
そんなバカな話があってたまるか。
少女のもとに新規のフクスローがいる経緯など、奴を迎え入れるにいたった事情など、ジュナイパーには一切の興味がない。
唯々、苛立ちが込み上げてくる。
おまえがいなくても私は幸せになれるのだと言われているようで───否、おまえがいなくなったから私は幸せになれたのだと言われているようで。
自分は少女にとってかけがえのない存在ではなかった、と、仮定することさえ耐え難かった。
癇に障った。自分がいなくても明るく笑える少女が。かつて共に暮らしたポケモンであることにも気付かず、怯えていた少女が。
当時の自分より明らかに劣るこのフクスローを愛でるがゆえに、連れ去られるとわかるや悲痛な叫び声を上げた少女が。
少女と共にいたのが他のポケモンだったなら、まだ受けとめ方は違っていたかもしれない。こちらをしのぐ、何らかの見事な要素を備えたポケモンだったなら、まだ我慢できたかもしれない。
それが、こともあろうに、フクスローだと?
この事実が、何よりもジュナイパーを不快にさせた。こんな、なんの取り柄もない、没個性的な、どこにでもいる平凡極まりないフクスローが自分に取って代わったというのか。
『…逆に、あなたの方が選ばれると思った根拠は何なの?』
血反吐を吐き、弱々しく伏せ、それでも頭部だけはどうにかもたげて、挑発的な目をしたフクスローが口を開く。
『黒い翼をばさばさいわせて、突然やってきて、おっかない顔して睨みつけて』
そんなんじゃ、誰だって、怖がるに決まっているのに。
『あの子が読み聞かせてくれた物語に出てくる悪役みたい。ねえ、
死にかけが、生意気にも口の端を上げて不敵に笑ってみせる。
『聞いたことがあるわ。前に、一緒に住んでたっていうモクローの話。フクスローになったあたりで付き合いが難しくなったから、一度距離を置いたんだって。その間にどこかへいってしまって、それから行方不明なんだって。
あなたのことだったのね』
何なんだ、こいつは。
ジュナイパーは訝しく思い、眉間にしわを寄せる。
なぜこいつは痛めつけられておきながら少しも屈せずに喋り続けている?
『ねえ、出戻りに今さら居場所があると思った?
帰ってくるつもりだったのって、あなたの胸の内だけの話じゃない?あら図星?ボクを差し置いて云々なんて、そもそもがお門違いなのよ。あなたがあの子の前からいなくなってどれだけ経ったと思ってるの?』
お生憎さま。他所をあたりなさいな。
自身の危機的な状況も省みず、フクスローは、言えるだけのことを全部ぶちまけてやるというふうに、ジュナイパーへ口撃を仕掛けてくる。
フクスローは命乞いをしなかった。半ば自棄に見えつつも、どうせここで待ってたって助けはこない、自分で切り抜けられるだけの能力もない、だったらせめて爪痕の一つも残してやろうという土壇場の意地が感じられた。
『あの子の一番は、私なの。あなたじゃないの』
『黙れ!』
フクスローの心情全てを凝縮したと思われる一言は、なるほど強烈だった。ジュナイパーを逆撫でするには十分であり、現に、精神的な余裕をかなぐり捨てたジュナイパーは、雑音を掻き消そうとして大声を張り上げる。
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい。うるさい!
ひらすらに踏みつける。あるいは、翼で打ちすえる。
これ以上、無駄口をたたけぬように。その嘴が、間違っても二度と開くことがないように。
───はたと我に返ったときには、フクスローは冷たくなっていた。いつの時点で事切れたのかもしれぬ、あっけない最期。
『なーんだ。…壊れちゃった』
当初は殺すつもりなどなかったのだけれど、成り行きでこうなったからにはどうしようもないか。難しいクイズだと出題されたはずなのに、いざ解いてみたら拍子抜けするほど易しかった、そんな気分に似ている。だってさ、このくらいで息絶えるなんて思わないじゃないか。
雨が降ってくる。
さあと囁くような音を引き連れて、森羅万象に雫をまぶしていく。
フクスローの亡骸は濡れそぼり、ただでさえ見込みのなかった外見は、恥を上塗りして汚ならしい雑巾のように成り果てた。少し前まで生きていたとは思えないほど、単なる物体と化していた。
ところが、地面を目指してくる雨とは逆に、天上へベクトルの先を向けて昇るものがある。
フクスローの肉体からほわりと浮かび上がってきたそれは、淡い光をまとって揺らめいた。
やがて、その柔らかな灯りは蝋燭にともる小さな火みたいにふるふると震え、すうと虚空に消えた。冥府へと召喚されたのだろう、と、少し遅れて、ジュナイパーの理解が追いつく。
ゴーストタイプが加わったからこそ知覚できるようになった、初めての魂だった。ジュナイパーは呆然としていた。息をすることも忘れて。
思わず魅入られてしまった。あまりの美しさに。
何ということだろう。こちらに勝る点など一切ないと確信していた相手が、予想外のものを隠し持っていた。今の一瞬で、うっかり、認めてしまった。
清麗である、と。
[ 血よ、血よ、血よ!永遠の美、久遠の宴、老醜は時の果てに!]
不意に思い出す、高らかな女の声。
まだモクローだった頃、少女と共に眺めていたテレビ番組に気を引かれたのだ。少女は、血の伯爵夫人と恐れられた女性の物語に顔をしかめていけれど、こちらは内心、美と若さのために徹底的な手段をとる夫人の振る舞いを好意的に捉えた。乙女の血をその身に浴びて、恍惚とした表情をたたえていた彼女は確かに輝いてみえた。
ポケモンも似たようなことはする。より毛艶や発色をよくするために、体つきをよくするために、
ボクも、真似したらいいんだ。
ジュナイパーは納得した。優れた自分を更に仕上げて。アップデートして。万に一つも「かわいくない」などと言われない、怖がられることのない、「完璧」を手に入れよう。
優れたボクが見放される理由が分からない。
ボクに何が求められているのか分からない。
分からないから、いっそのこと、完璧になるしかないのでは?
それなら、誰にもケチをつけられたりしないでしょう?
非の打ち所なく完璧になれば、そのうちきっと出会えるさ。ボクのことを理解して、誰よりも愛してくれる存在と。
嗚呼、では早速、美しい魂の持ち主を探さなくては。
今まで生きてきた中で、自ら「素晴らしい」と感服した唯一のもの…、それを摂取することでボクは誰よりも綺麗になるんだ。
『仕切り直しだねえ…』
ジュナイパーは羽を振るって雨粒を払うと、ゆらりと踵を返す。
少女のことは放っておくことにした。既に他の手垢がついてるものに興味はない。それに、こちらを正当に評価できなくなった人間など願い下げだ。
彼女の元へと帰りたくて進化したはずなのに、その動機はもはや色褪せて、驚くほど無感動に、しらけてしまっている。
『精々、ボクを切り捨てた愚かな己を恨むがいいさ』
今頃は庭先でうずくまり、絶望にうちひしがれていたりするのだろうか。
うふふふ、ふ。
そうだといい。
ならば、さしずめこの雨は涙雨。そう思えば、なかなか切なく風流じゃないか。
『
口ずさむ。
いつぞや、ラジオから流れていた曲だ。流行歌だったのか、頻繁に耳にする機会があったから覚えている。…いつの日か、また、ラジオを聞くことはあるだろうか。誰かとくつろぎながら過ごす日はくるだろうか。
『 Because I'm free.Nothing's worrying me 』
───大丈夫。そう、ボクは自由なんだ。何も心配ない。何も。