夏の盛りだ。
日中は深緑に包まれる庭園も、その茂った青葉ゆえ、夜になれば重たい闇に満たされる。
池の上に渡された橋にしてもそう…本来は朱塗りの欄干が美しいのだが、この時間帯ではおどろおどろしい舞台装置へと様変わりする。
橋とは異なる地点を繋ぐもの。境界線を越えるもの。この世からあの世へと渡してしまうもの――だから、こそ。
そこにいるはずのないルチャブルの姿を認めたとき、途端に肝が冷えた。
『…どうしてこんな場所に…』
声をかけて気を引かねば何処かへと消えてしまいそうで、たまらず傍に寄ると、彼はゆらりと振り返った。
息を呑む思いだった。
覇気がない代わりに冷酷な色を増した目が、ゲッコウガを見遣る。
『おまえこそ、どうしたんだ』
彼は微かに笑みのようなものを浮かべた。「ような」と言うからには、正確には笑みではない。口元だけで形作られ、目元がちらとも緩まない、通常のルチャブルであればまず刷かない類の表情だった。
『拙者は、…夜警で…』
『…そうか。…大変だな、こんな時間まで』
それだけだ。
彼らしくもない社交辞令じみたことを言って切り上げ、そのまま歩き出そうとするものだから、思わずルチャブルの腕を掴む。
――すると、乾いた音がした。
紙鉄砲が炸裂したような単発の響き。これ以上ないほどにきっぱりと手を払ったルチャブルは、それでいて顔を歪め嫌悪を示すわけではなく、さりとて詫びることもせず、啞然とするゲッコウガを置き去りにして『ここはいいな』と独り言を口にする。
『草木と水の匂いしかしない』
匂い。
つまり、北の対を抜け出してくるほど彼を追い詰めたものは、何やら香りにまつわるものらしい。
『…今、手負いの鳩を匿っているそうだな』
癒えぬ傷からは血の匂いがすることだろう。
猛禽類の視覚が図抜けていることは勿論、嗅覚も優れていると聞く。そのように進化したのは、当然、…捕食の、ため。
『御主、マメパトを食わぬように出てきたのか』
問えば、流し目。
凍てつく眼から投げかけられる冷えた眼差しが、季節感を狂わせる。夏の夜にそぐわぬ真冬のつららを彷彿とさせ、その先端が喉元に突きつけられているような錯覚がした。
『味を知っているからな…』
会話が微妙に噛み合わない。
だが、彼の言わんとしているところは理解できた。
血肉を食わねばもたないのだ、きっと。換羽期で体力の消耗が激しく、木の実を食べているだけでは回復が追いつかない。必要な栄養素も不足する。そうなれば自然、羽根の生成が遅れて換羽期も長引いてしまう。
それなのに、彼は食うべきものを食わぬという選択をしている。理由はひとえに、身を置く生活の場が北の対だからだ。
ルチャブルが持つ本来の野性は、人間との生活の中では鳴りを潜めている。森で生きてきた己の常識と人の世の常識とが違うことを理解し、自身を律し、人間の望みに沿うよう行動に反映させることができるほどには、賢いのだった。
血を不浄のものとして忌避する傾向にある場所で、切った張ったの世界からは縁遠い女に囲まれ、だから怖がらせまいと…血や死の気配を持ち込まぬよう狩りすらも止めて――…。
『もう、…換羽がどうという話をこえているでござるな』
ゲッコウガは、胸の塞がる思いでルチャブルを見つめる。
『この城に来て以降、御主はずっと、…』
本能と理性のせめぎ合いの中で、少しずつ、少しずつ、しかし確実に、…弱っていく一方だったのか。
そう仮定すれば、振りほどかれた手の意味にも…それなりの推知が及ぶ。
今のルチャブルにとって、己は、どちらかというと餌の側に寄っているのだ。
『拙者を食うか』
本気だった。
片膝をつき、くじけずもう一度彼の手を取って、視線を合わせる。
『肉か、それとも
言葉と共に身を差し出す気でいると、正視された。
ぞっとするほど美しい、食物連鎖の頂点にいる者が見せる目つき。獲物に死をもたらす蠱惑的な光が、彼の眼球の奥で明滅している。
『…そうだな』
狂気をはらんで、うっそりと、ルチャブルが目を細める。
『たぶん、…俺は、おまえを食える』
『…ッ、』
息を詰める。
ゲッコウガの首周りを覆う舌を、ルチャブルは、何のためらいもなく自身の舌で撫でてきた。
ゆっくりと舌が触れ合い、唾液で湿る。
この間、ルチャブルは片時もゲッコウガから目を離さなかった。じっと覗き込んでくる。俺を見ていろと言わんばかりの目力で縫いとめ、そらすことさえ許してはくれない。
今にも食われる側に陥ろうというときになって、壮絶な色気をまともにくらい、ゲッコウガは硬直していた。
『…腹が減ったなあ…、…おまえは、どんな味がするんだろうなゲッコウガ…』
心が痺れる。
こく、と生唾を呑む。
ゲッコウガは、この状況下で歓喜に近い気持ちが湧く自分に、戸惑いすら覚えていた。
『それも、…
食べられてもいい。食べてほしい。ルチャブルになら。
囁いて―――束の間。
彼の瞳に正気が戻る。
それと気付いたときには、ルチャブルはもう顔を離して、ゲッコウガの掌からもすり抜けてしまっていた。
『戯れが過ぎたな。
あいにく俺は、おまえを食って生き長らえることに平然としていられるほど恥知らずじゃないんだ』
詰所に帰れ。俺なら大丈夫だから。
換羽途中の繊細な翼に気遣うふうもなく、乱暴に羽ばたいて、引きとめる間もなくルチャブルはゲッコウガの視界から飛び去ってしまうのだった。