妙に息苦しいのは、生身の体が霊界に適応していないためだろうか。薄暗さと相まって、埃っぽい蔵の中に閉じ込められているような感覚がする。体調がすぐにどうこうなる気配はないものの、しかし、生理的な不快感が拭えない。今も尚、紙ヤスリで皮膚の表面をなぞられるみたいに、ぞわりとした何かに始終包まれている───こんな感じ、だったか。霊界は初めてではない身だが、くじで当たりを引いたこと以外はとんと覚えていない。*1
降り立った場所は、はるか昔の遺跡みたいに古びた石畳の上だ。歩くたびに、濡れた苔やひやりとした岩肌の感触が足の裏を伝う。
こっちこっちと手招くボクレーの後を追う過程で、次第に、暑いのか寒いのか、昼なのか夜なのかも分からなくなっていく。自分の拠り所にしていたものが、日常が、ゆっくりと溶かされ曖昧になっていく。こうした漠然とした違和感が少しずつ少しずつ重なり、その果てで、生者は気がふれるのだろう。
『ほら、ご覧よ。ここに連れてきたかったんだ』
辿り着いたのは清々とした竹林───それだけではない。幻想的な笹の青さえ霞む彼岸花が、一面に咲き狂っていた。
上客を出迎える花魁の唇へ丹念にさされる紅がごとく、鮮烈な真紅。朱に交われば赤くなるとの額面通りに、見ているだけで己の目が染まってしまいそうだ。
あまりに妖しいその魅力は、美しさと不気味さを共存させ、こちらを気後れさせる。
『ちゃんと諦めさせてあげようと思って』
そう話すボクレーによれば、この彼岸花は「霊界の天秤を使った者の成れの果て」だと言う。
天秤での交渉を成立させた者が現れた際、この場に一株の彼岸花が生え出る。そして、天秤の黒皿にのせた「交渉材料」は蜜として姿を変え、花の奥に蓄えられる───…
『成り代わりの花を探しだして、その蜜を口にすれば、全てはめでたく元通り。…でもさ、この火の海みたいな群生ぶりを見たら分かるでしょ?ここから「ルチャブル」の一輪を見つけるのは不可能だってことが。だから、ばあちゃんもルガルガンたちに言ったんだ。ひとたび取り引きが成立したら、取り戻すことはできないよって』
生きのびたんだから、それでもう十分じゃん。ぼくの葉っぱを煎じて、ルチャブルを治して、また楽しく旅を続けなよ───つらつらと喋るボクレーであったが、ふと黙りこくった。ゲッコウガの表情を見た途端に、唖然としたらしい。
どうにもならないことがあるのだという決定打をくれてやったはずが、相手は不敵にも口の端を吊り上げている。そんな場面を目の当たりにすれば、言葉を失うこともあろう。
ゲッコウガが思惑からはずれた反応を見せたことでボクレーは困惑しているようだが、構いはしなかった。
現刻を以て生じた己の任務、この完遂より優先するものなどありはしない。
「ルチャブル」を探しあてる、と、いうこと。
花の姿をした「別の何か」、どうりで単なる植物にしては
確かに、干し草の中から縫い針を探すのは至難だろう。しかしゲッコウガにとって、この場に彼岸花が無数に咲いていようと何ら問題はない。
たとえ紛れていようが、秀でたものは必ず目を惹く。最愛の気配だけは必ず感知できる。ゲッコウガには確信がある。
迷いなく足を踏み出す。このとき、ゲッコウガの顔に刷かれた表情は、とろける恋の甘さに満ちていた。
嗚呼、分かる。見つめられていると分かる。ここにいると呼ぶように、ただ一輪、己に意識を向けてくれている花がある。
『待たせて悪かった』
跪くゲッコウガの眼前で揺れる花。
他の彼岸花と比べて何かしらの異なる特徴があるようには見えない。これといった際立つ変哲もない。第三者からしても、なぜゲッコウガが数ある中からその花を選んだのか理解し難いだろう。なにせ当のゲッコウガもまた、その判断に至った理由を一から十まで説明することはできないのだから。
強いて言うならば、鳥籠としての執着。あるいは、魂の結びつき。…いずれにせよ、理屈では語れない。この花がルチャブルのものだと分かる。それだけだ。
ルチャブルにまつわる今回の事件については、とても自分ひとりでは解決できなかったと、他ならぬゲッコウガ自身が痛感している。メタモンやデデンネ、アローラに根差す地元のポケモンたちの協力なくしてはルチャブルを救えなかった。とりわけ、ゲッコウガにいたっては愚昧の極みだ。ルチャブルを助けようとしたはずが、逆にルチャブルから庇われ助けてもらう始末。言語道断である。番としての不甲斐なさに身悶えするしかない。
だが、どんなにみっともなくても、しくじっても、醜態をさらしても、譲れないものがある。この彼岸花畑の中からルチャブルを連れ帰るのは、絶対に、自分にしかできない役目なのだ。
ルチャブルへの愛こそが、ゲッコウガの、唯一の
『 帰ろう、ルチャブル 』
おまえを迎えにきたんだと一羽の花を口説き、ゲッコウガは、艶然と微笑した。