目を開けた先に、寒々とした鈍色の曇天はない。代わりに白い天井と蛍光灯が見え、普段なら特に意識もしてこなかったそれら人工物に対し、不思議と安心感を覚えた。
骨の髄まで凍らせてしまうような冷えもなく、銀世界は消え失せている。身体は動くようなので上体を起こしてみたところ、はらはらと花びらがこぼれ落ちていった。生花だ。
いつから花畑に横たわっていたのだろうと首をかしげたくなるほどに、身の回りが多種多様の花で埋め尽くされている。記憶にある雪原から一転し、ここはあまりにも、華麗な色彩に富んでいた。
そして、花々の色がするりと染み込んできたかのように、己の羽も、切望した彩りを取り戻していることが見てとれた。
…夢、か。
ジュナイパーがいない。霊界ではない。元の姿に戻っている。何よりも、すぐ隣に佇んでいた愛しい紺青の存在が、胸を締めつける。ゲッコウガ、と、縋るようにその名を呼べば、彼は優しい眼差しを返してくれた。
この時点で生じる、疑念。
ゲッコウガのことが分かる。覚えている。あのとき、ジュナイパーは、愛する者の記憶を寄越せとこちらを脅し、天秤も確かに水平になったはずなのに。
嗚呼、何もかもが自分の望み通りとは恐れ入る。これほどまでに、あらゆる点において願望が反映された空間などあり得るだろうか。
ルチャブルは、幾重にも幾重にも心身を包んでくる幸福に、かえって怖気づいてしまう。
『…幸せが過ぎる夢というのも考えものだな』
拳に力が入る。歯を食いしばる。今にもこの夢が終わるのではないかと考えるだけで緊張と悲嘆とがこみあげて、少しでも油断すれば涙が滲みそうだった。
かくあれかしという理想郷から目覚めたとき。
つらい現実へ再び放り込まれてしまったとき。
己は容易く絶望にうちひしがれ、やがて狂を発することだろう。
身を固くしていると、ゲッコウガがそっとルチャブルの握りしめた手に触れた。ゆっくりと互いの指を絡ませながら、強張りをほぐしていく。
『現実だ』
ルチャブルの気鬱を見抜いたかのような発言をして、ゲッコウガは、再度、念を押すように繰り返した。大丈夫、これが御主の現実だ、と。
『必要なら、拙者は御主のために千夜でも
…───おかえり。
既視感。ゲッコウガの
花の色だと、思った。
カロスで共に見上げた、あの花と、同じ色。
厳しい冬をのり越えた先にやってくる、誰もが待ち望む季節───春の訪れを知らせる、サクラの色だ。
『 …ただいま 』
春の瞳に応じる。
ゲッコウガが現実だと断言するのだから、きっと、正しい。
番を信じればこそ、ここにきてようやく、帰還したのだ、生き残ったのだという実感が、僅かながらにルチャブルの胸の中で芽を出した。そう、芽吹いただけだ。起きぬけということもあって、心身は未だ現実に追いついておらず、喜びがしっかりと根を張るには当分時間がかかるだろう。
しかし、これが
精一杯の気持ちを込めて、真っ直ぐに告げるべき想いが。
『おまえに会えたら必ず伝えようと思っていたことがあるんだ』
日の光を吸い込んだかのような柔和な温もりが、ルチャブルの表情に満ちる。これから秘めた心をさえずろうという雄の顔だ、美しくないはずがなかった。
何かを足したり引いたりしない、素朴で清らかな微笑でゲッコウガの息も声も目も、おまけに心も奪っておきながら、しかしそのことにルチャブル自身は気付かぬままに、ただ、真心を紡ぐために口を開く。
『愛してるぞ、ゲッコウガ』
ぴ、ぴ、ぴ。
小鳥が歌う。求愛のための、とっておきの声で、音吐朗々と。
求愛。相手からの愛を求める行為。
自分だけを見てほしい。自分だけを選んでほしい。自分のものとして繋ぎ止めておきたい、と、重たい欲望を鳴き声でくるんできれいなものにみせかける。
ルチャブルは分け隔てなく優しく接することができるが、それは誰に対しても均等に距離を置いているがゆえになせる態度であり、言うなれば、これまで特定の者に執着をしたことがなかった。
だから、求愛の仕方はほとんど忘れていたといってもいい。そんな小鳥が、懸命に、さえずる。
今回のことで十分に思い知った。明日をも知れぬ身なのだと。いつ命の危機に瀕するか分からないのだと。
もう、死の間際で後悔したくなかった。
やり直すきっかけを得たのだから、伝える機会を逃さず今度こそ届けよう。
───たとえそれが、愛を名のって純情ぶる強かな独占欲であったとしても。
そうだ、生まれて初めて抱いた欲望だ。相手の気持ちを思いやることを是としてきたルチャブルが、自分の欲を優先させた。ゲッコウガは、そうさせるだけの相手だった。
俺は、生きていくために、おまえが欲しいんだ。この先も、ずっと。
ゲッコウガを見つめる。彼の背後に窓が見える。ガラスの向こう側では抜けるような青空が広がる。そう、カーテンが開いている。
それはすなわち、不気味なものが覗き込んでくるのではないかという恐怖からの解放。そのことによって、またひとつ、心に灯りがともる。
だが、空はすぐに遮られた。ゲッコウガの顔が近づき、視界を占めてしまったから。
長い舌がしまいこまれ、彼の首筋が露わになっている。意味するところは重々承知だ。これから施されることが求愛の返事だというのなら、幸先がいい。
ルチャブルは、ゲッコウガからの
【了】