風光明媚な自然。穏やかな昼下がり。談笑しながらの散策。大切な人たちと分かち合うひととき――…オリーヴァを取り巻く全てに、幸せが宿っている。
澄んだ蒼穹とたなびく白雲の下、地表では青々と草が茂り、風が吹いて草いきれを散らしていく。草原が風を受けて緑の波となり、うねりながら一斉に葉擦れを響かせる様は、いかにも牧歌的で、植物たちが全身で歌っているみたいだった。葉が動けば一帯がいっそうきらきらと目に眩しく、その理由は、草影からのぞく水面が光を反射させているためだ。
豊かな湿地帯である。
観光ポスターからそのまま抜け出してきたかのような景色に囲まれて、男女の背中が仲良く並ぶ。二人は、広大な湿地を横切るように設けられた長い長い板張りの木道をゆっくりと進む。オリーヴァは、その後ろをしずしずとついていく最中だ。
新婚夫婦ということもあって、彼らの様子は若々しく、瑞々しく、初々しい。
風景を楽しみながら、時折他愛もないことを話し、ふと目と目を見合せて、秘密を共有するようにくすりと笑いをこぼす。些細な仕草一つ一つが甘く香るようで、後方のオリーヴァは、赤紫の目を細めた。
オリーヴァは、元々、男の側にくっついてきた身だ。彼が子どもで、対する己がミニーブのときからの、長い付き合いである。互いに故郷はパルデアだが、彼の仕事に合わせてカロスに越してきた。以来、もう十年余りになる。
物静かな彼と過ごす日々は、決して派手ではなかったけれど、心の安らぎが約束されている。オリーヴァはそうした優しい時の流れをかけがえのないものと認識していた。
恋愛遍歴と呼べるものがないほどに淡白な男だったが、いずれ彼の隣の居心地よさに気付く者が現れるとオリーヴァは予感していたし、事実、そうなった。取引先で出会ったという女性と縁があり、とんとん拍子で婚約へ。その後も年内に挙式から新居への引っ越しまで済ませてしまうのだから、もはやちょっとしたタイムアタックだった。彼女はポケモンと共に暮らすのは初めてだと話していたが、気さくな性格もあってすぐにオリーヴァと打ち解け、今に至っている。
私が守るのだ。
オリーヴァは、何度も何度も胸の中で誓いを新たにしてきた。
実は最近、新妻の体臭が微妙に変化した。きっと妊娠したのだろう。そのことはオリーヴァだけが感知しており、夫婦がそれと理解するのはもう少し先のことだろうが、喜びで涙ぐむ表情が目に浮かぶようだった。
いずれ家族が増える。より賑やかな生活が待っている。その尊い営みを、幸せを、私が守ってみせる。
今日のこともそう、オリーヴァは端から護衛のつもりで同行していた。彼らが安心して自然を楽しめるようにするのが己の務めと心得、そのように振舞っている。
実際、二人が笑顔でいるのも、こちらを信頼してくれているからに他ならない。生来真面目な性格をしているオリーヴァは、期待されたら全力を以て応える所存である。
今のところ、辺りに不穏な気配は漂っていない。ポケモンの姿を見かけることはあったが、多くは大人しい気質の者たちで、脅威を感じずに済むのは幸いだった。
いつの間にか、夫婦は立ち止まっていた。
可憐な水中花を見つけたようで、写真に収めようとスマホを取り出している。花を撮り、ついでに肩を寄せ合ってツーショットを撮り、保存された画像を二人で覗き込む。彼らの振舞いに興味を持ったらしい一体のヌオーが近付いてきたが、まるで敵意がなく、オリーヴァはヌオーの存在を黙認した。大体、ヌオーのとぼけた表情や緩慢でのんびりとした仕草を警戒する方が難しい。
どうやら、野生ポケモンに対する物珍しさもあって、夫婦はヌオーの接近を歓迎していた。しばらく見守っておくことにして、オリーヴァは佇む。
ヌオーがいるのなら、付近にはウパーもいる可能性が高い。彼らまで姿を現して二人にじゃれついてくるようなら、そのときは庇うことにしよう。ウパーは容姿が可愛らしいのでつい構ってあげたくなるが、体表を毒のある粘膜で覆っているため人間が素手で触るには適さないのである。
静かにその場にとどまりながらも頭の中では様々な事態に備えて考えを巡らせていたオリーヴァであるが、『もし。もしもし』と呼ぶ小さな声によって、一時的な中断を余儀なくされた。
誰だろうと周囲を確認すると、『ここです』と再び声が発せられた。聞こえてきた方を見遣れば、ハスボーのまるい葉の上で背伸びをしているポケモンがいる。
ヌメラだ。
己の知識に依って、ヌメラであると、オリーヴァは判定した。今までに何度か遭遇したことがある種族なので、知っている。知っているが、形がいくらヌメラでも、常識外れといえるほどに小さい。己がミニーブだったときよりも確実に低い背丈だ。
『…何かしら?』
思わず凝視してしまった己の不躾を察し、オリーヴァは取り繕うようにゆったりと返事を寄越した。
一方のヌメラは、じろじろ見られたことに気を悪くしたふうはなく、オリーヴァからの反応があったことに喜んで表情を明るくしている。
『訊いてみたいことがあって、思いきって日陰から出てきたんです』
『私に?』
『はい。この遊歩道を通っていったポケモンたちの中で、あなたが一番優しい目をしてたから、話しかけました』
のけぞってまで顔を上げ、ヌメラはオリーヴァを見つめてくる。彼にしてみれば、こちらは巨木のように見えているに違いない。
明け透けに物を言ってくるヌメラだが、嫌悪感がちらとも生じないのは、庇護欲をそそるサイズ感はもちろん、彼の黒く輝くつぶらな瞳のなせるわざだろう。少々たどたどしい言い方と相まって、健気で一途な印象が強まる。
ハスボーも『よかったら相手してやってよ』と援護してくるので、余計に微笑ましかった。これで断るほどオリーヴァは冷酷ではない。世間では慈悲深いと評判の一族、その端くれであるからして。
『いいわ。私でよければ答えてあげる。何を訊きたいの?』
オリーヴァが見守る中、ヌメラは、満を持したように息を吸う。
大きく吸い込んだ空気をそのまま言葉に変えて、選び抜いてきたのであろう質疑をしっかりと言い切った。
『あなたはどうして人間と一緒にいるの?』
簡素だ。こども向け教育番組のテーマにありそうな問いかけ。この「Q」によって引き出せる答えは十人十色だろう。ゆえに、オリーヴァだけでなく、多くのポケモンに尋ねて多様な意見に触れた方がいい。
しかし、進化前のポケモンの例にもれず、ヌメラも大した力は持たないはず。会敵しないよう慎重な行動が求められ、自ずと用心深くなる。それを踏まえると、これ以降もポケモンたちの前に現れ聞き取りを行うとは思えず、おそらくオリーヴァの答えが今後のヌメラの判断を左右する最も重要な情報になるだろう。
オリーヴァは、この一回に賭けてきたヌメラに対して、心して返答しようと決意した。現実味があり、なるべくなら希望が持てるような、そんな話ができればと思う。
オリーヴァは、責任を以て一つの意見を寄越した。
『私と人間、互いが互いを必要とするから』
『…必要?』
『そう。最初は友だちとして求め合い、絆を結んで、今では家族になったの』
オリーヴァの系譜は、はるか昔から集落に住み着く形で人間と共存してきた種だ。自身も、ミニーブのときから平然と人里をうろついた。そのときに幼少期の彼と出会い、よく遊ぶようになった。
『最初はね、ただ楽しく追いかけっこやかくれんぼをして遊んでた。でも、そのうちに、彼の探検についていくようになったわ』
『離れたくなかったってこと?』
『そうね。それに、彼のことを守ってあげたかったから』
山に海、森、湖、砂漠、川や洞窟…人間たちが住まう集落の「外」に足を踏み入れる際、人間
『相棒がいると頼もしいでしょ?
私と彼はすっかり仲良くなっていたし、私は彼に同行することを当然だと思っていたわ。それは彼の方も同じだった』
野生のポケモンと出くわし、戦いを回避できなかったとしても、勝算があれば冷静に行動できる。「体当たり」で怯ませ、「吸い取る」で弱らせ、「葉っぱカッター」で視界を遮り避難の時間を稼ぐ。単純ながらも一番効果があったし、結局ポケモンのことはポケモンが対処した方が手っ取り早かった。
『この戦略を最初に考えついたのは、彼の方なの。まだ子どもだったわ。それでも、私は疑うこともせずに彼からの指示に従ったの。…当然よね。年齢なんて関係ない。私と彼が危機を乗り越えるためだもの、一生懸命に技をふるったわ』
もっと近くで暮らそうよ。もっと色んなところに行こうよ。もっと、もっと、もっと――…彼の願いの先に、モンスターボールがあった。そこに入ろうと腹を据えるのに、迷いはなかった。彼と共に過ごす月日がミニーブに力を与え、成長を促し、順調に進化を重ねていった。
『ポケモンが固有の能力を駆使して手助けする対価として、人間は住まいや食料を提供してくれるの。もし怪我をしたり体調を崩したりすることがあっても、すぐに治療してもらえる。要するに、命を脅かされる心配がないのよ。
大切な人の傍にいられること、その人の役に立てること、私自身が慈しんでもらえること…これらは説明するまでもない幸福だわ』
ヌメラだけでなく、今やハスボーも熱心にオリーヴァの話に聞き入っており、どちらも神妙な顔つきをしている。
『…人間って、何してるのか分からないし、勝手に怖いものだと思い込んでました。遠目に見てるだけじゃ、やっぱり駄目ですね。今日、あなたからお話が聞けてよかったです』
そう言いながらも、ヌメラは目を伏せた。落ち込んでいるように見える。
『あなたは誰かの役に立てるものをお持ちなんですね。だから優しくしてもらえる…。羨ましいです』
『卑屈にならないで。生まれ持ったものには必ず意味があるわ。工夫すれば輝く個性になる』
ミニーブ、オリーニョ、オリーヴァ。それぞれで体格も使える能力もまるで違う。確かに最終進化を遂げた今では強さを手に入れ、貢献できる幅が広がった。しかし、進化前の形態にも良さはあり、決して無能だったわけではない。かつて戦略を練ってミニーブを活躍させてくれた彼のように、力の使い道を人間が引き出してくれたこともあった。
『私は受けた恩や愛情に無頓着でいたくないだけ。貰うだけ貰っておきながら何も返さないなんて、品がないと思うから』
オリーヴァは、ヌメラとハスボーの両者に尋ねるつもりで、優しく問いかけた。
『人間に興味があるの?』
『興味があるというか、あなたの話を通じて興味が湧いたという感じです』
ハスボーも、ヌメラの返事に合わせてこくこくと首を縦に振ってみせた。
『ただ…僕はこんなに小さくて…非力で…。もし人間と友だちになろうとしたって見向きもされないと思うんです…』
『あら、いま言ったばかりよ。生まれ持ったものには必ず意味があるって』
『でも…』
『あなたは小さい。それは事実だわ。でも、人間の気を引くとっかかりとしては十分だと思うわよ?「小さいから可愛い」「小さいから養いやすい」…、小さいという理由に価値を見出す人間はとても多いから』
『そうなんですか!』
心底意外だというように、ぱっちりと見開かれた両目。その目から鱗が落ちてきたとしてもオリーヴァは驚かない。
きっと、これまでに、その身なりに端を発した嫌な出来事が沢山あったのだろう。自分が短所だと思い込んでいたものが長所になる日が来るなんて思いもしなかった、と、ヌメラのそうした心の内側が表情にありありと現れていた。
『せっかく生を受けたのだもの、卑下したってつまらないわ。ほら、元気が出るようにオイルを分けてあげる。お飲みなさい』
量にして大匙2杯分ほどか。それでも、ヌメラとハスボーには十分だったようだ。喜んで口をつけている。オリーヴァが生成するオイルはえぐみがなく香り高いため、難なく飲みほせた彼らは、満面の笑みを浮かべた。
『うわあ!なんておいしいんだろう!』
『ありがとう。何よりの賛辞だわ』
『水とも、花の蜜とも、樹液とも違う。僕、初めて飲みました!』
『栄養も豊富なの。きっとあなたたちの健康に一役買ってくれるはずよ。ね、美味しいものを口にすると心地よくなれるでしょう?』
この芳醇なオイルは、簡単に作り出せるものではない。そこにはオリーヴァ自身の成長が不可欠だった。
『…私のオイルはね、昔は、飲めたものじゃなかったの』
オイルだけなら、ミニーブでも生成できる。だが、それは苦みと渋みが強すぎて、とてもではないが食用にはできない代物だ。それはそうだろう、他者に分け与えるものではないのだから。自分ひとりをまかなうための栄養源である。詰まる所、未熟なものが美味であるわけがないのだ。成長し余力が出てきてようやく、味のことにも気が回せるのである。
オリーニョへ進化すると、途端にオイルは爽やかな香りをまとい、美味しいものへと変貌する。進化すればオイルが食すに足るものとなる…この事実を広めることが、中間形態の最も重要な役割と言っていい。
進化することで美味しいオイルが取れるのだと分かれば、まず、周りはミニーブを大事に扱うようになる。初期形態で最も非力なミニーブが他者の庇護のもとで生き残りやすくなり、ひいては種の存続の一助となるのである。
進化を機に食用へと転じるオイルは、無論、オリーニョの保身にも役に立つ。良質なものを惜しみなく人間に提供すれば心証がよくなり、結果、良好な関係を作ることで自分の身を守ることに繋がっていく。
駆除の回避が肝要なのだ。人間にオイルを分け与えることで味方につけ、戦略的に共存する道を選んだ彼らは人呼んで「オリーブポケモン」。人間と共に築いてきた歴史は相当に古い。
最終進化形であるオリーヴァまで上り詰めればいよいよオイルの品質は向上し、一級品となる。芳醇で栄養豊富と文句のつけどころがない。
実際に、オリーヴァのオイルは二人の結婚式でも大々的に振舞われた。パンの付け合わせとして出され、前菜に使われ、パスタに用いられ、果てにはプチギフトとしてゲストの手に渡った。どんなに味が良かったか、それは料理を食したゲストこそがよく理解している。二人の晴れの席で、オリーヴァもまた大いに称賛されたのだった。誇らしかったし、何より、主役である新郎新婦がオリーヴァのことを一大イベントの中で引き立ててくれたことが嬉しかった。
『あなたはずっと今のままでいるわけではないの。成長するわ。うまくいけば、進化することだってある。どんどん変わっていくのよ。今できなくても、いつかできるようになる。いま差し出せるものがなくても、いつか力をつけたときに返せばいい。「今」に悲観しないで。これから明るい「未来」がくると信じていれば、運も上向いていくものよ』
オリーヴァがヌメラの背中を押したちょうどそのとき、「オリーヴァ!」と男の声が呼んでくる。後に続くように、隣の彼女も楽しげに手を振ってきた。
「こっちにおいでよ!帰る前に、皆で集合写真を撮りたいの!」
ヌオーもちゃっかり手招いている。オリーヴァは笑みをこぼしつつ、ヌメラたちと話すために今まで屈めていた背を伸ばした。
『行かなきゃ』
この小さき者に素敵な出会いが訪れますよう。
祈りを込めながら、オリーヴァは去っていく。
『忘れないで。私が話したことは、あくまで「参考」にしかなりえない。私の話を聞いてどう判断するのか、それはあなた次第だわ。…ちゃんと、あなたなりに納得できる結論が出せるといいわね』
***
余談であるが、このとき偶々その場に居合わせてヌメラと共にオリーヴァの話を聞いたことで、ハスボーの考え方にも大きな変化が生じた。住み慣れた水辺でのんびりと暮らしていけたらそれでいいと思っていたのに、話を聞いて以降、人間の手を取った先にどんな生活が待っているのか強く心を惹かれたのである。
その後、ハスボーはとある少年と出会うことになる。Tシャツに短パン、スニーカーというラフな格好。縦にも横にもひろい大柄な、それでいて機敏に動く愉快な人間の子ども。彼はダンスが得意だった。相棒らしきゼニガメと呼吸を合わせてダンスを披露する姿に、目を奪われた。
「君もやってみる?」
ハスボーの視線に気付いた彼は、手を差し伸べてくれた。性格を如実に表す、穏和な話し方と優しい目元が印象的な人間だった。彼に誘われ、この人間こそ自分が探していた相手だと直感し、ついていこうと決心したことでハスボーの大冒険が幕を開けていく。
切磋琢磨し、助け合いながら歩む旅路。その過程で、まさかルンパッパにまで進化できるとは想像もしていなかった。ましてや、少年、そして固い結束力で繋がれた仲間たちと共に、カロスリーグの晴れ舞台へと躍り出る未来が待っていることなど予測すらもできなかったわけだが…それはまた、別の話なのである。