診療時間は、午前中が9時から12時。昼休みを挟んで、午後は13時から18時。ただし、最終受付は17時30分。水曜日と日曜日、祝日が休診日だ。
初老の男性医師が一人と、そのほか奥方が受付、彼らの一人娘が看護師を担当している。家族で営む小さなポケモン診療所で、ルカリオは、スタッフの一員として長年勤めてきた。
男とは、彼が医学生の頃からの付き合いである。その当時から実直な性格を好ましく思っていたが、いかんせん彼は不愛想で、表情の変化に乏しかった。ルカリオは波動で彼の内心を察することができるので共に暮らすにも苦労はなかったのだが、彼が開業医を目標としていることには不安を覚えていた。研修医となっても変わらず口下手で、彼はその高い実力よりも誤解を招きやすい言動ばかりが目立ってしまい、同僚からの評価は散々だったためである。
医者も客商売だというのに、これから先が思いやられる――ルカリオは心配したが、いざ診療所を開いてみれば全ては杞憂に終わった。
思いのほか、何とかなってしまったのだ。嬉しい誤算だった。
それもそうか…とルカリオはひとり納得する。男も若造のままでいるわけではないし、失敗や反省から学び、年齢に応じて世間知にも長けていくのだから。
地道に実績を積み、やがて縁付いた今の奥方がおっとりはんなり男と患者の間を取り持ってくれたおかげで、仕事は軌道に乗った。受付で丁寧に対応され、医師の元へと案内され、的確な診察を受ける。それで十分だった。一度でもこの診療所の世話になれば、「困ったときにはまた診てもらおう」と思わせるだけの確かな腕のよさが評判を呼んだ。ポケモンセンターが少ない地域だったこともあり、その意味でも、頼られるのは自然な成り行きだった。ルカリオが気にしていた男の在り様も実のところそれなりに支持されており、忖度抜きの淡々とした話し振りがかえって患者たちから信頼されていたようである。
時が経ち、彼らの娘が成長し、診療所で勤務を始めてからは、明朗快活な彼女がすぐにムードメーカーとなって所内を盛り立てた。
医療の現場において、ルカリオもまた意外なほどに適材であった。格闘タイプならではの強靭な肉体は力仕事で役に立ち、薬剤の入った段ボールだろうが医療器材だろうが待合室の長椅子だろうが何でもござれだった。日課である鍛錬が功を奏し、治療の際に暴れるポケモンを押さえ込む程度のことなら老いた今もなお造作もなかった。
また、鋼タイプを複合しているために、こと毒への耐性は抜群である。人間では触れることさえ困難な毒タイプのポケモンも難なく扱い、診察に貢献してきた。
怪我や病気に苦しむポケモンたちの波動をキャッチしてしまうのはしんどくもあるのだが、その苦しみを和らげることにやりがいを見出し、仕事に精を出している。
勤務する者それぞれのよさがいい塩梅に発揮されている、アットホームな診療所。和気藹々としながら長らく地元に貢献してきた。その
――その日、珍しく17時には全ての患者がはけ、ぽっかりと時間が空いていた。
休憩がてら、ルカリオはちびりと水を飲み、受付の奥方も自前の水筒からお茶をついでのんびりとしている。彼女は窓の外に目をやり、あらユウガオの花が咲いてるわなどとのんきなことを言う。
「静かな夕暮れですこと」
なんでそんなことを言うかなあ。
嘆息。そして、フラグが立ったことを予感する。こうして少し気が緩んでいるときに限って急患がやってくるケースは過去数えきれないほど繰り返されてきたし、彼女は良くも悪くも引きが強い人間である。
間もなく、どたどたと騒がしい足音が近づいてくることを聞き取り、ルカリオの予感は確信に変わる。
ほれ、静かだ何だと言ったそばから。
ルカリオはもう一仕事頑張るかと腰を上げた。
「まっ、まだ、…まだ受け付け、て、もらえ、ますか…!」
所内は冷房がきいて快適だが、一歩外に出れば残暑が厳しい。日中よりマシというだけで、夕方になっても暑さは大して和らいでいなかったし、ニュースでも熱帯夜になると言っていた。そんな中で走ってきたらしい少女は肩で息をして、玉の汗を浮かべていた。シャツにも大きな汗染みができている。
彼女の焦燥と困惑が、波動となってルカリオに伝わってくる。だが、それだけではない。気が動転していても、「助けなければ」という一念は間違いなく含まれていた。
いい子だ。
そのいい子が助けんとする命は、本人が後生大事に握りしめている片手鍋の中にいると見える。なんと珍妙な光景だろう。
「あらまあ、ちいちゃなヌメラだこと!」
ルカリオはさほど背が高くないので確認できなかったが、代わりに奥方が情報をもたらしてくれた。上から鍋の中身を覗き込んだ彼女は、目を丸くして素っ頓狂な声をあげている。
「せんせっ、せんせー!あと一組お願いしますよ!」
「…聞こえている」
何の騒ぎだとぶつくさ言いながら、診察室から男が出てきた。そして、鍋を持って突っ立っている少女を目の当たりにし、僅かながら眉を上げる。
つかつかと歩み寄り、彼もまた鍋の中身を見て、「ほう」と呟きを漏らす。傍目からではほとんど分からないが、彼がこれでもだいぶ驚いていることをルカリオは感知していた。
「えっと、…この子、私のポケモンじゃなくて、野生の子で、すごく弱ってて、それで…」
まだ息の整わぬうちから何とか説明しようとする少女であるが、今し方の発言では何も分からないに等しい。どこで見つけたのか、どんな状態だったのか、最低でもこの二つは教えてほしいところだ。
ルカリオは、男の胸中が曇ったことを察する。
そうさな、複雑な心境にもなるだろう。面倒だものなァ、野生ポケモンの保護とか治療とか、そういうのは。ちなみに、最適解は「放っておく」である。当該のポケモンがどれほど衰弱していようと、本来、野生で起きたことはそのまま自然環境に任せてそっとしておくべきなのだ。
…まあ、リオルだった時分に親を亡くして困窮し、森の中でべそべそと泣いていたところをこの男に助けられた身の上でどの口がほざくのだという話なのだが。
少女のことを責めるつもりはない。基本が善人なのだろうし、弱った生き物を発見して見過ごせなくなるのは人情というものだ。
「野生種が相手となると、正直、気が進まない。だが、君のことを追い返すほど冷酷ではないつもりだ。治療を引き受けるのは吝かではないが、かかった費用は全て君が負担することになる。承知の上かね」
「分かってます。必ず支払います」
「…詳しいことは後から聞かせてもらおう。待合室にいてくれ」
男と少女が遣り取りしているところに「精製水*1出しといたから」などと言いながらするりと介入するのは看護師の娘だ。勝手に話を聞いていたらしい彼女は治療室からひょこりと顔を出し、「採血と点滴の準備もできてるよ」と阿吽の呼吸で報告をする。それに重ねて「粘液の分泌促進剤も用意しておけ」という指示を出しながら、男はヌメラを引き取っていった。
「…まずはお水でも飲みましょうか。熱中症になったら、今度はあなたが倒れちゃうわ」
奥方は所内のウォーターサーバーから水をついで、紙コップを少女に手渡す。一言の礼の後、少女は一気に飲み干した。気持ちのいい飲みっぷりだった。
「患者さんの前で『気が進まない』なんて不安にさせること言っちゃってごめんなさいね。でも、あの人に悪気はないの」
「いえ、先生のおっしゃることも理解できるつもりです」
水を飲み、椅子に座り、ようやく本来の落ち着きを取り戻したのか、少女は先程とは打って変わって整然と話し始めた。
「学校でも習ったんです。傷ついたりして動けなくなってる野生のポケモンと遭遇しても、触れずに見守ることが基本原則なんだって。なんとかしてあげたいって気持ちがおさまらないときは、独断をせずに、自治体の管轄部署に連絡して判断してもらいなさいって…」
「よく勉強してるのね」
奥方は奥方で、少女から事情を聞き出すことにしたようだ。彼女の隣に腰掛け、メモの用意をしながら相槌を打っている。
「それほど理知的なあなたが、どうして野生のヌメラを連れてくることになったのか、
…その前に、あなた、いま学校と言ったでしょう?学生証は持ってるかしら。身分証明として見せてもらいたいの」
「あ、持ってます。すみません気が付かなくて」
ルカリオは文盲である。人間と生活を共にして随分と経つが、文字を習い覚えようという気は起きなかった。ただ、少女が提示した学生証の校章には見覚えがある。このあたりでは名の知れた学校だ。それと判明したところで、ふうん、賢いんだなあと、陳腐な感想しかいだけないのだけれども。
聞くところによると、少女は親元を離れてこの学校に入学してきた。今月のついたちから新生活が始まったばかりである。
今日は楽しみにしていた野外活動が実施され、湿原を散策したとのこと。
「フィールドワークのことがあんまり分かってなくて、私、リュックの他にショルダーバッグも持っていきました」
荷物にはなるが、なにぶん慣れないことに臨むのだし、備えあれば患いなしと思ったのだという。
貴重品と水筒はリュックに入れ、ショルダーバッグにはタオルや着替え、採取物用のポリ袋、ミニ救急セットなどを入れておいた。しかし、いざ外へと出かけてみたら、帽子をかぶり尚且つ湿地を抜ける風が涼しくてあまり汗をかかず、タオルと着替えの出番はなかった。自然物の採取禁止区域だったことを現地入りした後で知り、ポリ袋も使わなかった。
「でも、活動中にケガした子がいたので、私が救急セットから絆創膏を取り出したんです。手当てをするとき、バッグを遊歩道に置いたままにしました。たぶん、そこでヌメラが入り込んだんだと思います。荷物から目を離したのはそのときだけだったから」
「…ヌメラが入り込んだ?」
「はい。バッグの中にいたんです。寮に戻ったときに、初めて気付きました」
たっぷりと学んだ充実感と疲労感を携えて、少女は部屋へと向かった。フィールドワークから帰って疲れていたが、そう多くもない中身なのだからさっさと片付けようと考え、バッグを開けた――…いるよなあ、そういう人間。話を聞きながらルカリオは感心する。旅行から戻ってきてすぐに、一息つくこともせず荷ほどきに取り掛かるタイプ。今回は、それゆえにヌメラが助かったわけだ。
荷ほどきのタイミングが、ヌメラの生死を分けたのである。
「使ってないのにタオルが湿ってたから、おかしいと思って。そしたら…」
タオルの下に潜り込み、小さくまるまっている「何か」がいた。驚きのあまり声が出なかったという。
「寮の部屋、個室でよかったって思いました。私、挙動不審で、尻もちついちゃったし」
恐る恐るバッグを再確認しても、依然として、奇妙な物体はそこに在る。
静まりかえる部屋で聞こえてきた微かな音。どうやら息をしているようだ。生き物である。
震える手でスマホのポケモン図鑑アプリを起動させ、カメラを向けた。アプリとカメラ機能が連動し、対象を分析して何のポケモンなのか教えてくれる。結果、謎のポケモンの正体はヌメラであることが判明し、まずは狂暴な種でないことを知って安堵した。本物を見たのは初めてだったと少女は語る。
年端もいかない子どもが、スマホを片手に問題解決を試みたわけだ。さすがはデジタルネイティブ。昔は限られた者しか所持できなかったポケモン図鑑だが、今や遜色ないサービスを誰もがオンライン上で利用できる。便利な世の中になったものだ。
「図鑑には、乾くと死んじゃうから全身を粘膜で覆ってるんだって書いてあったけど、私が見つけたとき、別にヌルヌルもしてなくて。指先で触ってみたら、ペタペタするくらいで。
私がヌメラに気付かず歩き回ってるその間、ずっとタオルの下にいたから大変なことになっちゃったんだって、それが分かったとき、本当に申し訳なくて…」
紙コップを握る手に力が入ったのだろう、少女の指先が白くなった。
ショルダーバッグに隠れてなお発覚しない程度の小さなヌメラだ。体重も相当に軽かったに違いなく、彼女も気付けなかったのだろう。
野外での活動が約二時間、解散後はバスで小一時間揺られて帰寮。どう少なく見積もっても三時間はバッグの中に入りっぱなしだったことになる。これで疲労を理由に少女が荷物整理をせずバッグを放置したままだったら、ヌメラの命はなかった。
「とにかく、身体を濡らしてあげて、すぐに病院にいかなきゃって思って。調べたら、寮から一番近かったのがこの診療所だったんです」
「それで走ってきてくれたのね。鍋を持って駆け込んでくるんですもの、びっくりしちゃったわ」
「私物でちょうどいい容器がなかったんです。だから、共同キッチンの鍋を借りました。中に水を張って、ヌメラを浸けておくのにもよさそうだったので」
「水道水?」
「いえ、カルキ抜きしないとあんまりよくないって聞いたことがあったので、寮内の自販機でミネラルウォーターを買って、それを入れました。この判断が正しかったのか、自信はないけど…」
「水道水よりは、ヌメラの身体に合ってたと思うわよ。銘柄は覚えてる?」
「『おいしい水』としか…、えっと、シロガネ山でとれた水だってラベルに書いてあった気がします」
「あら、ヌメラは運がよかったわね。ポケモンの体力回復にも効く水だもの」
「そっか、…じゃあ、少しはヌメラのためになったのかな…?」
少女の顔に笑みが浮かんだ。張り詰めたものが一気に弛緩したような、脱力した笑い方だった。
奥方は、ちらとルカリオに目配せを送ってくる。心得ているので、ルカリオの方も小さく頷き返した。ルカリオは、波動から正邪も真偽も看破する。事情を説明する少女からは、終始、今回の予想外の出来事に対する困り果てた心情しか感じなかった。嘘を吐くことに対する罪悪感や、バレたらどうしようという緊張は皆無だ。
ルカリオの反応から少女が嘘をついていないことを確認したらしい奥方は、目元を緩める。「可愛いからと考えなしに連れ帰り、そのうちにヌメラの様子がおかしくなったので慌てて診療所を訪ねた」…そういう経緯でないことが分かって胸をなでおろしたのだろう。
「今聞いた話を医師に伝えてくるわね」と奥方は診察室へ向かい、程なくして呼ばれたので、少女は立ち上がった。そのあとを、ルカリオも当然のようについていく。野次馬根性である。
「概要は理解した。君も大変だったな」
男が少女を労う。彼も少しばかり態度が軟化していた。少女がヌメラを安易に拾ってきたのではないことを知ったためだろう。彼女にしてみれば完全に晴天霹靂で、ほとんど事故みたいなものだから、大変だったなと労うのは的を射ていた。
「今のところ、ヌメラのバイタルは安定している。目立った外傷はないし、検査した限り疾患持ちでもないようだ。単に乾燥と空腹が原因で衰弱しているだけだろう。安静にしていればそのうちに薬が効いて回復するはずだ」
男の言葉一つ一つを噛みしめるように聞きながら、最後に、少女はほうと長い息を吐いた。肩からも力が抜けている。
「助かったんですね!よかった…」
「もちろん、何事にも油断は禁物だ。容態の急変に備えて、今夜と明日は我々が面倒を見る。君、月曜日に時間は取れるか。今日と同じ時間帯で」
「はい。授業も終わってるので、大丈夫です」
「そのときに、支払いと、ヌメラの今後について検討しよう」
「ヌメラの、今後…」
「念のために訊いておくが、君にはヌメラを養う気はあるのか。その場合は、こちらが必要な書類等を準備しておくこともできる」
「…それは…まだ何とも…」
気まずそうに言葉を濁す少女。ただ、面倒事はごめんだという態度ではなかったし、勢い込んで「私が引き取ります」と宣言するより現実味のある返答だった。
「そうか、君は寮生だったな」
「はい。…学校も寮も、個人のポケモンを連れてくることは許可していないんです」
特例が認められないか相談してみるとは言うものの、少女はまいったように眉を下げる。
「あの…、自然には帰せないんですか?生まれ育った場所が恋しいだろうし、ヌメラにも仲間がいるだろうし…」
「残念だが、人間の臭いがついた以上、元居た場所に戻しても孤立する可能性が高い」
「そう…ですか…」
「君のせいではない、気に病むな」
男は少女を慰めつつ、手短に会話を切り上げた。時計を気にしていたし、このあと帰寮を促すつもりなのだろう。
果たして、ルカリオの予想通りに、男は「門限もあるだろうから今日のところはもう帰りなさい」と告げた。
「ルカリオに送らせる」
いきなり引き合いに出されたが、動じたりはしない。元よりそのつもりだった。殊勝に「くわんぬ」と鳴いておく。
少女は恐縮していたが、ここで断る方が失礼にあたるということは承知しているらしく、素直に「よろしくお願いします」と頭を下げた。それでいい。「いえいえそんな」「いいからいいから」というありがちな無駄は好きではない。
連れ立って歩き始め、道すがら「ヌメラのことなんだけど」と少女の方から話しかけてきた。
当然ながらルカリオは人語を話せない。だが話を聞いていると示すことはできる。ぱたりと尾を振ってみせると、少女はそのまま話を続けた。
「保護するしかないなら、…幸せになってほしいって思う。バッグに入ってきた理由はまだ分からないけど、もし、明確な目的があって人間に近付いてきたのなら…何か力になってあげたいな…」
それっぽいことを言って善良振りたいのではなく、これが少女の本音だということは、ルカリオだからこそ理解できる。降って湧いたヌメラとの縁を、少女は捨て置けないようだ。迷いなく里親になれるような境遇だったらよかったのに、と心から口惜しく思っていることが伝わってくる。
ルカリオは少女が少しでも前向きになれるよう、励ましのつもりでそっと「癒しの波動」をとばしておいた。疲れているときに思い悩んでも妙案は浮かばないし、いま答えを出すことでもない。ひとまず今夜は寝て、明日からまた考えていけばいいのだ。
少女がぽつりぽつりと話すことに耳を傾けていると、彼女がふと立ち止まった。寮の正面玄関へと続くロータリーが見える。そうか、到着したのか。聞き役に集中していた所為で、護衛という当初の目的がすっかり抜け落ちていた。
「ありがとう、ルカリオ」
少女は微笑む。その「ありがとう」には、含みを持たせた間があった。ここまで送ったことのみならず、「癒しの波動」の件も込みでの御礼なのだろう。勘の冴えた子だ。
「あなたも、帰りは気を付けてね」
軽く手を振った後、少女が遠ざかっていく。その背中が扉の向こうに消えるまで見届けたあと、ルカリオは改めて少女が住まう寮を眺めた。
古臭い安アパートのようなものを想像していたのだが、予想は正反対の方向へと裏切られた。くすんだ赤レンガの壁がむしろ洒落た外観を演出し、レトロモダンなんて言葉が似合っている。内部もしっかりと改修されているはずだ。あわせて、彼女は個室暮らしと言っていたし、さぞ居心地が良かろう。
だが、きっと、この場所でヌメラが生活する可能性は低い。
世間には、リスク管理の観点から個人のバディポケモンを門前払いする学校や寮があり、彼女が通う場所はそういうところだ。バトル理論がカリキュラムに組み込まれていなかったり、校庭にバトルコートが設けられていない学校ほどそういう傾向にある。
各学校で規則は異なるのだから、もちろん、ポケモンを連れて登校することが容認されている学校だってたくさんあるし、モンスターボールに入れておけば安全だという意見が聞こえてきそうだが、たとえどんなにボール内が快適であったとしても、そこに長時間拘束しておくことが愛護心に欠けているという批判は思いのほか根強い。
一方で、教育現場では「ポケモンとの暮らしを通じて彼らの変化や成長の様子に関心をもつ」「命の尊さを実感することで慈しみの心を育む」ことが期待されている。その点に関しては、個人のポケモンを許容しない代わりに学校所属のポケモンが生徒らと触れ合うことになっている。俗に言うポケモン介在教育というやつで、彼らはポケモンの生態を学ぶ授業や実験に参加したり、休み時間に共に遊んだり、校外活動での警護を務めてくれたりする。
ルカリオの持論としては、教諭と同じように専任ポケモンを雇う方が合理的だと思っている。正直、多様な生徒の面倒を見るだけも手一杯の学校が、各個人のポケモンにまで対処するのは難しいはずだ。なればこそ、ここには端からヌメラの居場所は存在しないし、後付けの確保もできないのである。少女は特例が認められないか問い合わせるつもりでいるようだが、そう易々と許可が下りるとは思えなかった。
***
翌日、ルカリオは、ヌメラの様子を見にいく男に同行した。男の自宅は診療所と隣接しているため、移動は
診療所で休ませているポケモンたちに異変があれば自宅で緊急アラームが鳴るようになっているが、昨晩は何事も起きなかった。ヌメラも無事だろうと想像はついたし、実際、その通りだった。
入院ケージの中にいるヌメラは既に目覚めていたが、見知らぬ場所にいるというのに暴れもせず、大人しく過ごしている。昨日のぐったりとした姿が嘘のように生気を取り戻していたが、入室してきた男とルカリオに気付いた際は、あからさまに落ち込んだ。触角がへちゃりと垂れさがる。この野郎。
『すまねえな、寝起きの一発目がおっさんの顔でよ』
男とふたりして近付くと、カラになったフードボウルが目についた。ポケモンフーズは警戒して食べないかもしれないと考えた男が、代わりに乾草キューブといくつかのきのみを入れておいたのだが、いずれもきれいにたいらげられていた。食欲は戻っているようだ。薬も効いたらしく、ヌメラの全身がうるうるぷるぷるしている。ガラスの器に盛られた葛まんじゅうを彷彿とさせたので、笑いを嚙み殺す羽目になった。
『おまえさんがバッグの中で気絶してたからって、女の子が血相変えて飛び込んできたんだぞ。覚えてるか』
何か覚えているかどうかの問いには答えず、真っ先に「女の子」に反応し、ヌメラはパッと表情を明るくした。『そうですか、あの子が…!』と万感をこめて呟いている。
やれやれと思いつつ『具合はどうだ』と問いを変えたら、今度は『すこぶる体調がいいです』と率直に答えてきた。
『生まれてきてから、一番』
『そりゃァ重畳で何より…』
入院したことで万全の体調になったと喜ぶヌメラの言動から、これまでの過酷な暮らしぶりが透けて見えるようで、ルカリオは何だかなあと遣る瀬無い思いになる。
『だがな、おまえはギリギリのところで命を拾ったんだぞ。それを忘れるな。…全く、何でまたバッグなんかに入り込むのかね…』
途中で気付かれたら大騒ぎになる。そのくらいのことは、ちっと考えりゃ分かるだろうに。逆に、気付かれなかったとしても、それはそれで大問題だ。現に、ヌメラは一時的だろうと確かに瀕死に陥った。
『命あっての物種というだろ、危ない橋を渡りやがって』
『だって…』
嗚呼この子だって、思ったから。
命懸けの行動――その根底にあるのは、理屈抜きの情動だった。
説明になっていない。説得力もない。なんとも青臭いのに、ルカリオは共感せざるを得なかった。自分にも覚えがあったから。
この人間こそと見初めるポケモンの直感は、実によく当たるのである。
「…何か分かったか」
ルカリオとヌメラの遣り取りを見守っていた男が、きりのいいところで口を開く。ルカリオが頷くと、彼は続けて「このヌメラは少女と一緒にいることを望んでいるのか」と問いを重ねてきた。再度首肯すると、男は思案顔のままヌメラに視線を移した。男の気持ちが手に取るように分かる。ルカリオだって気の毒だと思う。もう後戻りはできないと知りながら、それでも全てをかなぐり捨ててまで選んだ少女だというのに、その彼女と一緒に暮らすことは難しいのだと知ったら、ヌメラの胸には何が去来するだろう。
明日の夕方、少女がやってくる。
ヌメラにとっての再会の喜びは、話の流れ次第では絶望に転じてしまう。だが、ルカリオには、どうかヌメラの心が悲しみに塗り潰されてしまわぬようにと祈ることしかできなかった。
【 余談 】
少女が作中で「ヌメラを濡らすために自販機で水を買った」旨を話していますが、この「自販機」の扱いは少々迷いました。第六世代は、なぜかゲーム内に自販機が設置されていないので。