研究所にきて以降、ヌメラは新天地での生活を大いに満喫していた。
心穏やかな気持ちで眠りにつき、差し込む朝日に顔を洗われて起きだす。脅かされる心配をすることなく堂々と姿を現して敷地を横切り、人間から餌を世話してもらう。
親しくなったポケモンたちと賑やかに食べる餌は本当においしくて、ヌメラはいつも食事の時間を楽しみにしていた。森にいた頃、ヌメラにとっての食事とは単なる作業だった。敵に隙を見せまいと周囲を気にしながら独りさっさと済ませていたが、今では仲間と共にゆっくりと味わうことができる。ポケモンフーズだって食べ慣れてしまえば風味は気にならないし、腹持ちもいい。
通常、ヌメラの粘液は雑菌だらけらしいのだが、研究所が提供する餌や水、清潔な環境によって、分泌される粘液の質や状態は大幅に改善されていると人間が話していた。
人間はすごいなあ。
僕が垂れ流しにしている粘液にさえ価値を見出してくれるのだもの。
ヌメラの粘液が人間の役に立ちそうなので研究に協力する、ということは既に理解している。自分自身の存在価値をも認められたように感じられ、ヌメラはやる気に満ち溢れていた。
協力に関しても、難しいことは何もない。ヌメラの粘液が定期的に採取されていくだけだし、苦痛を伴うことも一切ない。粘液の成分に変化が見られるかどうかを調べるため、固形の総合栄養食以外の食材が餌に加わったり、薬を飲んだりすることもあるが、そのくらいはへっちゃらだ。
「研究のためには、君が心身ともに健康であることが最も大切だよ」と人間は常々ヌメラに言い聞かせ、ストレス軽減に努めてくれる。
ドラメシヤたちはヌメラを実の弟のように扱い、彼らの親であるドラパルトも分け隔てせずヌメラのことを導いてくれる。他のポケモンたちだって、ヌメラを邪険にするものは一体もいない。
人間もポケモンも、誰もが優しい。
皆が、日々の平穏を信じ、余裕のある生活を送っている。ゆとりがあるからこそ誰かに優しくすることができるし、些細なことに幸福を見出すことができる。ヌメラは研究所にきて初めて、生きることは本来楽しく素晴らしいことなのだと身を以て実感し、家族というものを知り、仲間と共に暮らす温もりを教えてもらったのだった。ようやく、不安定だった自分の内側に芯が通った。そんな気がしている。
森を捨てたヌメラは、代わりに、気温も湿度も一定に保たれた快適な室内で移ろう季節を見送った。外で舞う雪を眺める余裕さえ持ちながら、野生であれば最も厳しかったはずの冬を難なく乗り越え――…そして。
時過ぎて、風が初夏の香りを運んでくるようになった頃、
少女の「りゅーがく」である。
***
「ヌメラ!」と明るい声が響く。
研究所を出入りするための許可証を首からさげ、今日も今日とて彼女はヌメラに会いにくる。
自分が選んだ人間。自分を選んでくれた人間。想い、想われるということ。それは類稀なる幸運なのだということは重々承知している。
幸せだ。今、愛する少女から笑顔を向けられ、声をかけられることが、こんなにも幸せだ。
「うん、今日もしっかり潤ってるね」
少女はためらいなくヌメラの粘液に触れる。包み込むようにヌメラの頬に触れる。彼女の手のひらの温度は、いつも温かくて、気持ちがいい。
「散歩に出かけようか。いつもの公園にいこ?」
彼女から誘われて断ったことなど一度もないのに、毎回、少女はヌメラに確認してくれる。無理強いは決してしない。些細な言葉一つでも自分が尊重されていると感じることができて、嬉しい。ヌメラは触角をぴょこぴょこと盛んに動かして、喜びをアピールする。
もとから研究所にいるポケモンたちとは違い、少女によって、ヌメラは頻繁に外へと連れ出してもらえる。たとえ雨天であろうとお構いなしだ。「ヌメラは雨が好きでしょう?」と笑って一緒に出かけてくれる。濡れても平気なのだろうかと気を揉んだこともあるが、彼女は「最近ね、かわいいレインブーツを買ったんだ。私も雨の日を楽しんでるの。ヌメラは何も気にしなくていいからね」などとあっけらかんとしており、ヌメラの心配を消すことさえ上手だった。
周囲は「いつかあの子と家族になってここを去るのだから」と心得て割り切っており、ヌメラの待遇を執拗に羨んだりはしなかった。いずれ来る日のため彼女と過ごす時間に慣れておきなさいと、そう言って送り出してくれる。
研究員も概ね寛容だった。ヌメラは研究対象であるが、だからといって研究所で束縛する気はないらしく、むしろ少女との外出を勧めている。これはもちろん、ヌメラの心の安定が、結果として粘液の質を向上させるためだ。
一応、外出先でヌメラに食べさせたものや、過度なストレスをかかえる羽目になるようなトラブル(吠えられるなどの威嚇、または何らかの攻撃)があれば、研究所に帰ってきたときに報告することになっている。
少女はヌメラだけでなく、ヌメラに関わる者すべてに誠実だった。
ヌメラは歴とした少女個人のポケモンなのだが、彼女はヌメラの「研究対象」としての立場を重んじ、研究所の規則にはしっかりと従った。外出後のこまめな報告も怠らなかった。
ポケモンたちにも「ヌメラと仲良くしてくれてありがとう」と欠かさず礼を伝えており、そうした日常的な信頼を地道に積み上げていったおかげで、少女とヌメラのふたりは周囲と確執を作ることなく過ごし、絆を育んでいった。
――散歩に誘われ、フレンドボールの中でしばらく揺られ、いつもの公園に辿り着く。
ヌメラが乾かないよう日陰になっている道を歩きながら、少女はとびきりの秘密を共有するように、りゅーがくのことについて打ち明けてくれた。彼女が話す内容の全てを理解できたわけではないが、ヌメラは「少女は勉強のために旅に出る」「ヌメラも一緒に行く許可が出ている」という二つの要点はきちんと押さえた。
少女と共に海の向こうへ渡る!
遠い異邦の地を訪ねるなんて!
これから少し先の未来に心躍るようなことが待っているのだと思うだけで、今から胸がはち切れそうなほどだった。
公園内の噴水近くで、よく見かける販売車が停まっている。木の実ジュースを扱う車だ。
ヌメラを噴水の飛沫がかかる場所に残して、少女が小走りで買いに行く。この頃は陽射しが強くなったので、少女はシュワシュワと口の中で泡が弾けるジュースを買ってきてくれる(ソーダというらしい)。今日も、彼女が手にしている透明のカップの中で、半透明の赤い液体が細かな泡と氷とを侍らせている様が見えた。
木陰に移動し、根元に腰を下ろす。ストローで飲むという所作も、今では手慣れたものだ。ヌメラはちゅうちゅうと甘酸っぱいジュースを吸い込んでいく。氷雪が肌に触れてくるのは苦手だけど、こうして冷えた液体が喉を通り抜けていく感触は、悪くない。
この木の実ジュースをご馳走してくれるお金だって、彼女のバイト代から賄われているはずだ。それを知っているから尚のこと、味わって飲んでいる。
少女は、気絶したヌメラを助けようと奔走してくれた。それだけでなく、ヌメラの居場所を確保しようと各所へ掛け合ってくれたおかげで、今の生活がある。いずれはヌメラと生活を共にしていくことを真剣に考え、そのために、少しずつでも自分の手で稼いでいる。これらは全て、ドラパルトから教えてもらったことだ。
その労苦に報いたい。
どんな形でもいいから、必ず恩返しをしようと決めている。
手始めに、りゅーがくでいいところを見せようと意気込む。少女とヌメラのふたりだけで異国を巡ることになるらしいから、彼女が心細くならないように守らなければ。
力になりたいな、と思いながらヌメラは少女を見上げる。
いつもと同じように始まったはずの散歩ではあるのだが、今日はどうやら例外で、僅かながら違和感があることに薄々気が付いていた。
いつもと違う「何か」。いつもと違うという意味では、りゅーがくの話というサプライズがあったものの、これは違和感の元ではない。いつもの公園。いつもの散歩コース。いつもの木の実ジュース。ヌメラに馴染んだものばかりだが、見つめる先にある少女の横顔に「いつも」の気配が見えない。
いつの間にか朗らかさが薄れ、緊張感が漂っている。
木の実ジュースを飲みほした今、とっくにポケじゃらしで遊んでいる頃合いなのだが、少女の表情は固い。
ヌメラがそのまま少女の様子をうかがっていると、彼女はついにヌメラの視線に気付き、少し困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんね。考え事してた」
少女は背を丸めて膝をかかえ、ひざこぞうの上に自分の頭部をあずけながら、ヌメラに話しかけてくる。
「あのね、…ヌメラにお願いがあるんだ。私、…私、今から、電話をかけるの。その間、隣にいてほしい。…それだけでいいから。お願い」
薄青の目が細められる。今まで見たことのない寂しそうな顔つきに、ヌメラは不安をいだく。
「勝手な話だけどさ、…私ね、ヌメラにシンパシーを感じてるの。境遇が似てる、そんな気がして。
私もあなたも、親元を離れて、新しい場所で自分の力を試されてる者同士でしょう?だから、私はあなたを鏡にしてる。あなたが頑張ってたら、私も頑張れる。あなたが他のポケモンたちと楽しそうにしてたら、私も嬉しい。あなたが傍にいてくれたら、力が湧いてくるの。これからかける電話だって、きっと最後まで、平気でいられる」
ヌメラはきゅうと胸の奥が締めつけられるのを感じた。
電話。スマホというやつを使って、遠く離れた者同士で会話する行為。その相手は、彼女にとって、たぶん怖い相手なんだ。
電話なんかしなきゃいいんだよと言ってやりたいのだが、そういうわけにもいかないのだろう。だからヌメラは「傍にいて」と頼られたのだ。
いいよ。いいよ。もちろんだよ。傍にいるだけなんて何だかもどかしいけれど、君が望むならいつまでだって寄り添っているよ。
ヌメラは七分丈のズボンからのぞく少女の足首に、にゅるにゅると額をこすりつけた。「了解」という意味を酌んでくれたらしい彼女は、ズボンのポケットからスマホを取り出し、表面をタップする。
留守なのではないかと思わせるほど長い長い呼び出し音の後に、ようやく聞こえてきた声は女性のものだった。電話の向こう側にいる相手の声色や話し方は、随分と不機嫌そうだった。
――何?…は?留学?…ああ、そんなこと言ってたかしら。ダメ元で申請したやつでしょ。落ちたって報告?…違うんだ。へえ。競争倍率低かったのかしらね、あんたが通ったくらいなんだし。
え、なんで?どうせダメ元なら第一希望はパルデアにしとけって言ったでしょ?パルデア留学なら色んなところで箔が付くからって…、…あー、はいはい。分かった。成績順で第二希望に回されたってことね。そうよねえ、やっぱりこうなるのねえ。昔から今一つだもの。お兄ちゃんなら何でもストレートに勝ち取ってくるのに、あんたはホントに不器用なんだから。最後の最後で何かしらケチがつくのはどうして?ねえ、あんた、授業は真面目に受けてるんでしょうね?親の目が届かないからって好き勝手なことやってるんじゃないの?生意気なこと言って先生たちの心証を悪くしてないか心配だわ。そういうところが今回の審査にも響いた可能性はあるかもしれないでしょ。あんたって失言の多い子だし、普段の行いがこういうときに結果として現れるのよ。反省しなさいね。
…まあ、いいわよ。行ってきたら?アローラ行きなら費用が一番安いし…、ちょっと、聞いてんの?お金出してやるって言ってんのよ?ありがとうとかないわけ?
ヌメラは漏れ聞こえてくる内容に集中していた。まくしたてるような早口だったから全部は聞き取れなかったし、ヌメラでは理解できないことも沢山あった。
だが、電話の相手が「おめでとう」という祝福も「がんばって」という励ましも言わなかったことだけは確かだった。いっぺんだって口にしなかった。
少女がりゅーがくできるのはすごいことなのだと、そのくらいはヌメラにだってすぐに分かったのに。
ヌメラが予想していた通りに、この電話が少女にとって不愉快なものであることは明らかだった。少女は何ら反論せず、表情を削ぎ落した能面みたいになって、機械的に「うん」という相槌しか打たなかった。そのせいで、相手の甲高い声が際立ち、途中から段々と、ヌメラは神経質そうなその女性の声を耳障りに感じ始めていた。
気まずい時間だけが流れた挙句、最後に、少女は「書類はPDF化してメールに添付するから。サインしたらこっちに郵送して。じゃあね」と告げて電話を切った。「じゃあね」を言い放つはやさも、スマホを耳から離すはやさも、電話の終了マークを押すはやさも、…あらゆる仕草が、敵の前から逃げ出すときみたいに素早かった。
「……、…終わったよー、ヌメラ。ありがとね」
電話が終わって、心底ほっとしていた。少女も、ヌメラも。
さ、気を取り直して遊ぼうか。そう言って笑う少女の顔に、木漏れ日が降ってくる。小麦色の肌の上でぱらぱらと散っていく光の粒が涙のように見えて、そのことが、ヌメラには悲しかった。
ヌメラは、少女の気が少しでも紛れてくれたらと願って、おどけてみせる。僕を見て、何かを思い煩うことが馬鹿馬鹿しくなるくらい、そのくらいのんきな顔をしよう。そう思いながら、少女に向かって、おもいきり締まりのない様でふにゃりと笑いかけた。