その日、帰宅した青年がリビングのテーブルで発見したのは数枚の書類だった。
家庭用プリンターで使う薄っぺらい印刷紙には、妹の進学先である学校名が印字されており、メールに添付されてきたデータを自宅でプリントアウトしたものだということは、すぐに知れた。
「厳正なる審査の結果」という前置きに続き、妹の留学が決まった旨が書かれている。子どもが渡航することへの了承、そして留学保険に加入するために保護者のサインが必要だ。郵送するより速いからと、文書がPDF化されて送信されてきたのだろう。
「選ばれたんだ。すごいね」
青年の素直な感想に、母親は苦笑を返す。
「成績順で落とされて、行先は第二希望になったみたいだけど」
ここで「それでもせっかくの機会なのだから頑張ってきてほしい」とでも言ってくれたら少しは青年も見直すのだが、母親は「結局一番を取れないのはあの子らしいわよね」と肩をすくめるだけだった。
「学ぼうと思えばどこでだって学べるさ」と青年が微笑みながら執りなしてみるものの、母親は「やっぱりお兄ちゃんは優しいわ」とずれた返答をする。
いつも、こうだ。
青年は、浮かべた笑顔の裏側で、何度苦言を呈そうと変わらない母親に失望する。
「お祝いしないの?楽しんでおいでって送り出してあげようよ」
青年の提案に、母親は目を丸くして「え?」と一言を零した。考えもしなかったらしい。それほどのことかしら?と語る表情と口振りに対し、青年の胸の中で、微かに軽蔑が芽生える。
「どうせ、呼んだってこないと思うのよね…。ほら、あの子って、ひねくれたところがあるじゃない?冬のバカンスにも帰ってこなかったでしょ?家族で過ごすのが常識だっていうのに、バイトするんだとか言って、安宿まで取って。入学以降一度も家に寄りつかないままだわ。お金は十分かけてるのに『バイト三昧だから帰る暇はない』って、そんなの、…ねえ?当て擦りよ。うちが貧乏みたいじゃないの」
言うに事を欠いて、当て擦りときたか。
ひねくれているのは果たしてどちらだろうねという言葉を、青年は即のところで飲み込む。
ホームシックにならない程度の家庭でしかないんだよ、ここは。
一緒にバカンスを過ごそうと思えない家族なんだよ、僕たちは。
バイトにしても結構なことじゃないか。絶対に帰らないぞという頑固な意思表示はいっそ清々しいくらいだ。家族と距離を置き、こちらの顔色をうかがうことなく堂々と自分の行動を貫けるくらいに、今の妹には、自分を支える自信のようなものがあるのだろう。それはちっとも悪いことではないし、むしろ自立していて立派だ。大体、冬のバカンス期に妹が帰省してこないと分かった途端「一人分浮いたからいつもより旅行にお金をかけられるわね」などと非常識な発言をしたくせに、それを本人が忘れているらしいことに呆れてしまう。
妹は寮生として生活しているが、夏と冬のバカンス期には閉寮になる。それは勿論、長期休暇中に家族と過ごせるようにという配慮なのだが、他にも、学生がいない間に寮内の大規模なメンテナンスをしなければならないという事情によっている。
青年は、てっきり、妹は帰省してくるものだと思っていたし、そのときにどんな学校生活を送っているのか訊いてみようと考えていたのだが、それは叶わなかった。嗚呼それほどまでに自分たちは苦手意識を持たれているのだなと、寂しかったのを覚えている。
―― かつては地元で「神童」の名を欲しいままにしていた少年だった。何をやらせても人並み以上にこなし、こと勉学にかけて右に出る者はいない。それでありながら能力の高さをひけらかすこともなく、明るく社交的な人柄と、何より整った顔立ちは皆の憧れだった。
人付き合いを苦にしない性格のおかげで、少年は、日頃から多様な価値観に触れる機会に恵まれていた。親が指針となりがちな子どもが、視野を広げてくれる他の大人や友人に出会えることは幸運である。
人間関係を築く中で恥をかき、失敗し、挫折することもあったが、反省を糧にしていけるしなやかさをも兼ね備えた少年は目覚ましい成長を遂げていった。
そんな彼が、母親から「今年のうちにお兄ちゃんになるのよ」と教えられたのは、十歳のときだった。
新しく家族が増えることを嬉しく思った反面、不快感を顔に出してしまった。この不快は、両親に対する生理的嫌悪である。どんなふうにして子どもが生まれてくるのか、その神秘の過程は、既に学校の授業で習っていた。尊い営みなのだと頭では理解していても、
ところが、母親は取り違えを起こし、慌てたようになだめすかしてきた。甘ったるい猫なで声で、媚びるように告げた。
「心配しないでね。下の子が生まれても、一番大切なのはあなたなんだから」
お門違いな発言に、少年は呆気にとられる。
本気で言ってるの?一回り近く年が離れて生まれてくる弟妹に嫉妬するとでも?それほど幼稚でないことくらいは、ちゃんと分かってくれていると思ってたのに。
腹を立て、押し黙った。
省みるに、このとき、拗ねてそっぽを向いたまま母親の誤解を正さなかったことがいけなかったのかもしれない。
以降、母親は何かにつけて「あなたの方を愛しているのよ」と言ってくるようになった。少年の機嫌を損ねることを恐れているようだった。少年は早々に「この調子では、おそらく母親は何でも自分の言うことをきくだろう」と察したし、また、そのことを恐ろしいと感じる賢さがあったのは幸いだった。
少年は、子どもながらに母親のことを冷静に分析していた。一定の結果を出せば満足してくれる単純な父親とは違って、母親の方がより粘着質であることには、とっくに気が付いていた。
「何をやっても冴えなかった私からあなたのような宝石が生まれてきたなんて、本当に幸せなことだと思っているのよ」と何度も何度も刷り込まれるように言われ、うんざりしていたところだった。
少年の存在は、母親の中で凝り固まっていた劣等感を払拭するのにうってつけだったのだろう。少年の功績をまるで自分のことのように周囲へ自慢していたし、少年が活躍すれば「親御さんの育て方がいいのでしょうね」と褒められることも多かったから、さぞ気持ちが良かったに違いない。
自身の自己肯定感のためにも、息子との関係は良好でなくてはならない――母親の強迫観念は、少年にも伝わっていた。
確かに愛されているのだと分かってはいたけれど、少年は、母親を憐れに思うことが度々あった――…お金も時間も期待も目一杯にかけてくれたことには感謝しているけれど、僕は僕のために頑張っているのであって、お母さんのためじゃないんだよ。そのことを早く分かってくれたらいいんだけどな。
少年の想いとは裏腹に、妹が生まれてからは、いっそう、母親は歪になっていった気がする。常に少年と妹を比較し、妹を貶すことで相対的に少年が評価されるような言動を取り続けた。
比べたところで無意味なのに。
兄と妹は異なる人間だ。「お兄ちゃんはこのくらい簡単にできた」などという言い草は理不尽なだけだ。兄と同じように振舞えと要求するのでは窮屈なだけだ。妹自身を見なければその良さは分からない。そう主張するのに、決まって、母親は「妹をフォローしてあげてるの?お兄ちゃんは優しいのねえ」と微笑み、話をすり替えていく。挙句、妹からは「私を慰めるふりをしながら株を上げてる気分はどう?」と言われる始末。自分自身の言動が裏目になることがもどかしかった。
――今もまだ祖母が生きていてくれたなら。青年は、回想する。
祖母は手放しで妹を褒めちぎる人だったから、母親と上手くいっていない妹の自尊心も何とか保たれていた。ただ、そのことで、母親と祖母の…ひいては嫁と姑の関係が悪化したことも知っている。「どうして上の子を褒めてくれないんですか」と母親が突っかかったとき、「どの口がそんなことを言ってくるのかしらね」と嫌味と共にあっさりとやり込められて以降、母親はずっと根に持っていた(一応断っておくが、祖母は兄妹を分け隔てなく可愛がってくれた。母親の単なる視野狭窄である)。
当然ながら妹は母親よりも祖母に懐いていたので、そのことも母親からの当たりがきつかった理由かもしれない。
祖母が亡くなったとき、妹は誰よりも悲しみに打ちひしがれていたし、その気持ちは痛いほどに伝わってきた。祖母の分も妹の傍にいて守ろうと決意してみたものの、「出来の悪い妹を庇う兄」という構図として受け止められ、結果、兄が褒められる。
ならばいっそと妹から離れて不在の時間を増やしてみても、関係なかった。母親は「兄を引き合いに出して妹を貶める」話し方が止められず、もはや悪癖と化していた。
青年は自分らしく生きようと心がけてきたし、そのように振舞うことが副産物としての輝かしい功績に繋がった。満足のいく結果を出せることも、他者からの称賛も嬉しかった。それは否定しない。
だが、青年が自分らしさを優先することにより、妹が心無い比較で傷つけられていく。追い詰められていく。
いつだったか、自宅で妹とふたりきりであったとき、妹は青白い顔をして切実な思いを吐露してきた。
おにいちゃん。私ね、おにいちゃんのこと、すごい人だって思ってる。
でもね、苦手なの。ごめんね。
おにいちゃんもどうせ私のこと見下してるんだって、どうでもいいんだって思ってたけど、そんなことないよね。誕生日に、私にケーキ買ってきてくれるの、おばあちゃんとおにいちゃんだけだったのに。いつも優しくしてくれるのに、ひどいこと言って、ごめん。ごめんね。今まで、たくさん、おにいちゃんに八つ当たりしてごめんなさい。
おにいちゃんは何も悪くない。悪くないんだけど、分かってるんだけど、私はずっとあの人たちから比べられてばかりだから、みじめになっちゃうの。
おにいちゃんがいると、そのときの悔しさとか悲しさとか、あふれてきて、どうしようもないの。
彼女が実家を出て遠方の学校へと進学することを知ったとき、真っ先に青年の胸をよぎったものは、安堵だった。
よかった。
これで、彼女は、自身を苛む最たる原因から離れることができる。
あの子は、自分で自分を救ったのだ。この家に縛られることなく、自分の生きる道を探しにいったのだと、その逞しさを頼もしく思った。
―― 二階の自室に戻る途中、同階手前にある妹の部屋の前で足が止まる。何とはなしにドアノブに手をかけてみたところ、鍵はかかっていなかった。
空っぽ、というのが、まず青年の抱いた感想である。かつて妹が過ごしていた痕跡が欠片も感じられないほど、殺風景な部屋だった。気が引けつつも確かめてみたところ、机の引き出しもカラ、クローゼットもカラ、本棚もカラ、…私物がほとんど残されていなかった。進学を機に大掛かりな整頓をしたと見え、たとえば卒業後にそのまま絶縁して家出を決行できそうな有様だった。実際、そうなりそうな予感もあった。
今では布団も枕も置かれていない、剥き出しのベッドに腰掛ける。ふと壁を見ると、日焼けの跡があった。くっきりと残る、いくつかの長方形の空白。そこにはポスターがあったのか、はたまた絵が飾られていたのか。貼られていたとして、どんな作品だったのか。もちろん妹の好みが反映されていたのだろうけれども、その、肝心の好みがよく分からない自分に気が付いて、青年は人知れず自嘲的な笑みを浮かべた。
己とて結局はポンコツなのだ。
しかし、そのポンコツ以上に親は当てにならない。留学が決まったことへの祝福や、出発までのサポートは自分がやろう。何かあれば相談するように後で電話してみようと思いながら、ポケットからスマホを取り出す。
ディスプレイ上に浮かびあがるのは、波を切って海原を進む帆船のイラスト。偶々設定していたスマホの壁紙だったのだが、それを見て、ふとひらめくものがあった。
【 兄妹の両親について 】
今後とも作中で詳細を語ることはないので、この場で補足。
・父親
勤め先は金融業界。高給だが多忙。家庭より仕事が優先。
子どもの活躍は人並みに喜ぶものの、元々家族への関心は大して高くない。
自分に迷惑をかけなければそれでいいと考えている。
・母親
特にこれといった資格はないが薬局勤め(事務)
幼少期から褒められた経験や成功体験が少なく、自己肯定感が低いまま大人へ。長期にわたって劣等感に苛まれてきた。
それなりの相手と結婚できたうえ、生まれてきた第一子が秀才に育ったことだけが心の拠り所になっている。
次は女の子がいいと密かに思っていたので、第二子の誕生当初は喜んでいた。
しかし、娘が成長するにつれ、これといって秀でたものがない(ように見えた)ためにかつての自分を思い出し、嫌悪感を抱くようになる。以降、何かにつけて娘をなじるようになるが、これは結局「批判したり貶したりすることによって、自分が相手より偉くなったように感じる心理」に依るものであり、拗れた劣等感からくるストレスをぶつけて快感を得ていた。
ところが、やがて「自分に似てどうしようもない子」と思っていた娘の意外な一面に気付いていく。
社交的で友人が多い。明るく好かれやすい。頼られたり褒められたりすることが多い……、どれも、昔の自分が持ちえないものばかりだった。
この母親が最終的に辿り着くのは、「ずるい」という娘への妬み。
「自分と似ている」と思っていた子どもが、周囲から認められていくことが受け入れられずにいる。
そう遠くない未来に息子が同性愛者であることを知るのだが、かなり強い拒否反応を示したため、(娘と同様に)息子も家を出ていく。
最終的には息子、娘共に疎遠になる。和解はない。