第二章の物語終了後――… カロスリーグでの激闘を制した一行は、バカンスのためにアローラ地方へ。ここまでは第三章と同じですが、第四章では「予想外のヴィラン等がおらず、ただアローラ地方を楽しむだけの旅だったらどうなっていたのか」を書いていきます。
この令和の世でまだアローラ地方引っ張るのかよという御意見もあるかもしれませんが、執筆を楽しもうと思います。
また、この第四章を以て、三十路男との物語は終わりにする予定です。
その意味でも、物語の中で、彼らと一緒に素敵な思い出を残せたらと。
プロローグ
白い羽毛で覆われた身体に、両翼と尾羽の青い一本線が映える。涼しげなマリンスタイルの体現者だ。
盛んに鳴き交わされる海鳥の声。打ち寄せる波。行き交う人々の息遣い。そこに紛れ込む、僕のスーツケースの音。歩行に伴って、車輪がガラガラとわめく。情緒的な風景には似合わないやかましさだが、ケースの上に陣取り楽ちんモードで移動しているデデンネ姫は気にするふうでもなく、周囲の景色を楽しんでいた。コウガくんやルチャさんと違い、姫は未だに星型サングラスをかけてくれているので*1、更にツアー感が増している。
軽やかに翔けるキャモメとは対照的に、動かざること山のごとしといった有様で波止場に停泊する船が一隻。「今からこれに乗船するんですよ」と伝えれば、隣を歩いていたルチャさんが目を丸くして、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。ついでながら、驚きに引っ張られるかたちで彼の小さな口もぱかりと開いており、そこから「はわあ…」と感嘆の息が漏れ出てきそうだ。無防備な表情が可愛らしかった。
『こんなにデカいものがどうして浮くんだ…』
巨大。その一言に尽きる。海上の動くホテルと称される国際クルーズ船の圧倒的存在感を前にしては、唖然と見上げるほかない。全長にしても、ホエルオーを凌駕するどころの話ではなく、ミアレシティのシンボルであるプリズムタワーを横倒しにしてもまだ余りそうなほどだった。
大きい。重い。それなのに、なぜ。ほとんど金属で構成された巨船が沈まずにいられることを不思議に思うルチャさんの疑問は、御尤も。
「さて、どうして浮くのでしょうか。はい、コウガくん!いってみよう!」
元の職業柄、僕が教えるのは簡単だけど、それじゃァちょっぴり味気ないし?曲がりなりにもスクールの子たちと勉強してきたコウガくんに振ってみようじゃないの。ちゃんと授業聞いてたら答えられるはずなんだけどなあ~?
名指しされたコウガくんは『はあ?』と不機嫌丸出しで安定のクソ蛙っぷりを発揮するのだが、ルチャさんが『分かるのか!』と尊敬の眼差しを向けてきたことで、すかさず顔つきを整える。次いで『浮力のおかげでござるな』と大変な美声を奏でてみせた。直前のチンピラ風『はあ?』とは雲泥の差である。
『ふりょく…!』
お行儀のいい生徒みたいに復唱するルチャさんの愛らしさ、花丸です。
コウガくんが難なく解答し、かつ僕が「正解」と評価したことで、ますますルチャさんの目の輝きが強まる。きらきらとした視線を一身に浴びるコウガくんのドヤ顔は、文字通りに喜色満面の有様だった。
『簡略化して言えば、浮力とは名の通り「物体を浮かせる力」だ。
水を押しのけられるかどうかが要となってくるから、小さくまとまっているものは沈みやすいし、大きく広がっているものは浮かびやすくなる寸法でござる』
マ~ジでざっくりした説明だけれど、合格。
この場において「浮力とは、流体*2中の物体に対して重力と逆向きに作用する圧力のこと云々」とか、そーゆー小難しい理屈は求められていないので、概ね正しい内容が分かりやすく伝わればそれでいい。何より、コウガくんがちゃんと授業を聞いていたことも、内容を理解しているからこそ噛み砕いた話ができていることも、僕としては意外だったし、ちょっと嬉しかった。
『るちゃ殿は水面に浮かび上がることができても、水に向かって投げ入れた石は沈むばかりだものなあ』
お姫様が、おっとりと加わってくる。
卑近な例を用いてまとめる力は学びを深めるうえでも重要になってくるが、疑問の発端であるルチャさんをたとえに組み込んだのは、さすがの機転といったところ。おかげで、ルチャさん自身も具体的なイメージが湧いたらしく、『なるほど』と合点がいったように呟いている。
「内部が空洞になっていることも、船が浮く理由の一つですよ」
最後に僕が少しだけ補足すると、ルチャさんは大きく頷いた。
『そうか。中に空洞がないと、俺たちは乗り込めないからな』
「そのとおり。僕たちが過ごすような客室の数々は、まさに空洞の集合体と言えそうですね」
客室に限らず、大きく膨らんだ船体そのものが空洞だ。理屈としては浮き輪と一緒だと思えばいい。だから、どこかが損傷して水が入ってきたりすると、その水で空洞がなくなり沈没していくわけで……なんてのは、これから渡航する者の発言としては完全に不謹慎な一言なので黙っておく。
事前に送られてきた乗船券と引き換えに、乗船証を受け取る。紙のチケットから多機能ICカードへ。この乗船証が乗下船の認証や部屋のカードキー、船内の買い物で使えるとのこと。こういう専用アイテムを手にすると、いよいよ非日常空間に足を踏み入れた気がして、高揚してくる。
「部屋で荷物を確認したあと、さっそく船内を見て回りましょうね」
滑り出しは好調だったんだよなー…。
ここまではよかったんだよ、ここまでは。
しかし、出港していくらも経たないうちから「さすゲコ~、えげつないことしよるでほんま」という事態が起こるなど予想だにしない。このときの僕は、待ち受ける未来を予感することもないまま、のんきに、手持ちトリオに笑いかけていた。
+++++
自分たちが利用するこの客船が、一生のうちに乗るかどうかというレベルのハイクラスなものであることはゲッコウガも承知している。以前*3、「金は有り余ってんだろ出し惜しみすんな」的に煽ったのは事実だが、それにしても、三十路男のみならずポケモン三体分の料金も追加されるとあっては、後込みするような金額になったろうことは容易に想像がつく。にもかかわらず男がその場のノリで乗船券を買ったのは、年月をかけて練り上げた「カロスリーグ優勝計画」を成功させ、悲願だった殿堂入りを果たし、テンションがMAXにぶち上がっていたことが最大の要因だろう。
実際に乗ってみれば評判違わぬ豪華絢爛な内装であり、提供されるサービスの一つ一つが洗練されている。多彩な施設の数々は決して客を飽きさせない工夫が満載で、窓の外に広がる海を目にしなければとても船内にいるとは思えず、まるで大型商業施設の中を歩いているようだった。
デデンネが挙手をしながら『行ってみたい』と希望したため、数ある施設の中で最初に行くことになったのはプールエリアだった。
元は野生暮らしだったデデンネにとって、たとえば川や湖など身近な水場があったはずだが、「水飲み場」「水浴び場」として使うばかりで「遊び場」という発想はなかったらしく、「プール」という空間そのものに興味を引かれた様子だった。
誰からも異論が出なかったし、ルチャブルも、何なら水タイプのゲッコウガでさえ『確かに水中は遊び場ではなく鍛錬の場だったな』という認識でいた。デデンネ加入前に、ゲッコウガとルチャブルは男に連れられて公営プールを訪れたことがあるのだが、「水中での抵抗運動で体力と筋力の向上を図る」「全身をバランスよく鍛える」というようなトレーニングのための利用に終始していたので、単なる水遊びとなると、未知の体験となる。
今回の旅において、男は遊び尽くすことを目的としており、ゲッコウガたちにも「どんどん遊べ」と促していたくらいなので、「手始めにプール」という選択は悪くない。
というか、早々に、ゲッコウガの脳内はルチャブルとのイチャイチャ☆プールデートを楽しむ方向へ舵を切っている。
開放的な雰囲気。陽射しにきらめく
公然ときゃっきゃうふふ状態――…よくない?デートとして理想的じゃない?何より、他の利用者で混み合う中、多少のスキンシップはご愛嬌だろうから、「はぐれないように」とか何とか適当に理由をつけておけば、密着して触れ合うこともできそうだ。ん?夜間も営業?ナイトプールで、ライトアップ…おまけに噴水ショーまで?よし、時間になったらルチャブルを連れ出そう、などと、目まぐるしくプランを立てていく。
で、現在。
プールサイドで待機中である。
到着したらすぐ泳げる…ことはなく、「待った」がかかった。理由はデデンネにある。
まあ、そうか。そうなるわな。言い出しっぺが何やってんだと思う一方、感電事故を引き起こしかねない電気タイプが何の対策もなくプールに入れるわけがなかった。ルチャブルとのデートを夢想して浮かれていた所為で、公共施設の利用制限がかかりやすいポケモンについて失念していた。
常に放電している、高熱を発している、身体が有毒物質で構成されている…等、理由は様々だが、水中遊泳を遠慮してもらう――率直に言えば禁止されているポケモンは結構いる。「どうしても」という場合は、特殊素材の遊具*4の中に入って直接水に触れないようにするか、事故防止の器具を装着するなどの配慮が求められる。デデンネの場合は、四肢に絶縁体バンドをつけることでプールの利用を許可された。
今は、バンドの受け取りついでに浮き輪をレンタルしてくると言って離席した男を待っている。
『煩雑ですまないな』というデデンネに対し、ルチャブルは『安全に遊ぶために必要なことだろ?気にしなくていい』と寛容に応じた。「必要な手続きだから」と相手側の事情にさらりと寄り添う言葉選びがまたルチャブルらしい優しさを感じさせ、自分には決して真似のできないその物腰の柔らかさにいつも感心してしまう。
ただ、待つのは問題ない旨の返事をした当のルチャブルこそが待ち遠しそうにしており、全く以てぐうかわなのである。人間と共に泳ぐポケモンたちの姿や賑やかさが気になるようで、むしろデデンネより浮き立っており、その様子を傍から眺めて和むゲッコウガである。
『出会ったことのない種族がいっぱいいるな!』と驚きを露わにしたり、タマンタを模したフロートに掴まって遊んでいるポケモンを見て『あれも浮力か!』と自身の気付きを嬉しそうに話すところなんか「はー…かわよ…」状態だ。浄化される。今日も今日とて拙者の番がこんなにも愛おしい。
巨船は伊達ではなく、その大きさをフル活用し、プールエリアにはメインプール以外にもいくつかの遊び場が設けられている。ウォータースライダーに始まり、流水プール、他にも人工波を発生させてサーフィンができるようにしてあったり、小型ポケモンや人間の子どもが利用しやすいキッズプールまで完備されている。
ゲッコウガがエリア内を見渡したちょうどそのとき、すぐ傍のプールサイドからいかにも子どもらしい甲高い笑い声が弾けた。
『ねえ!次は向こうのプールに行ってみようよ!』
そう言いながら駆けているのはマリル、…と、もう一体。
『あの毬のように跳んでいるのは?』と尋ねるデデンネに『ルリリだな』とルチャブルが答える。
『地上だと、自分の尻尾に乗って弾んだ方が速く移動できるらしい。話に聞いてはいたが、俺も泳いでいる姿以外を見たのは初めてだ』
『器用なものだな』
会話をきっかけに、なんとなく、いつメントリオの視線がルリリとマリルに向く。
顔立ちも似ているし、おそらく姉妹だろう。仲良くはしゃぐのは結構だが、どうも周りが見えていない騒ぎ方をしている。ひと悶着あったらめんどくせーなとゲッコウガが懸念をいだくが、直後、きっちりフラグは回収され事態は剣呑なものになった。案の定である。
『きゃっ』と声をあげたのは、ゴムボールじみた動きではねていたルリリの方だった。他の客にぶつかるという、ありがちな事故。『言わんこっちゃねえ』というのがゲッコウガの感想である。
しかも、ぶつかった相手というのが「あー…、やっちまったなー」という手合いだった。高級客船なだけあり、オラつく強面筋者系ではなく、選民意識の高そうな金持ち系との間でトラブル発生ときている。それはそれで厄介なわけで。
冷酷な目で幼子たちを見下ろす、一体のフーディン。
『ごめんなさい』と震える声で謝る姉妹を見てもなお放ち続ける侮蔑の眼差し。自慢のスプーンが手元できらめくだけでなく、全体にじゃらじゃらと宝飾品が提げられている。特に、首元で眩く光るものがガラスでないことくらいは素人目でも明らかだ。全て本物の水晶だろう。エスパータイプの能力補強、あるいは制御のために、トレーナーがパワーストーンを贈ることが流行っているとテレビ番組で観たことがある。それにしても、あからさまに「富豪のもとで生活しています」というプラカードを掲げているに等しく、いけすかないところが鼻についた。
「このクソガキが」という胸の内を目で語りつつも無言で立ち去る…なら、まだよかったのだが、フーディンは容赦なく自身の苛立ちを姉妹にぶつけにかかっていた。
念力を発動させたのだろう。突如としてルリリが空中に浮かぶ。否、浮かせているというよりは見えない手で掴み上げているといった方がより正確か。小さなルリリの身体が圧し潰されかねないほど締め上げられ、先程まで元気に動かしていた尻尾がだらりと垂れ下がる。恐ろしさで竦んでいるのか、ジタバタともがくこともせず、ルリリは引きつったままだ。
ゲッコウガの感覚は、どちらかといえばフーディン寄りである。ガキに体当たりされたら己とてイラつくだろう(ぶつかってきた側を真っ先に心配するであろうルチャブルとは大違いだ)。
だが、子どもを脅かして黙らせようとするあのフーディンの様はあまりにノブレス・オブリージュからかけ離れていた。全方位にダサくてしょっぱい。鼻白むゲッコウガの隣では、姉妹の痛ましい状況を目の当たりにしたデデンネが息をのんでいた。
妹の有様にすっかり動転した様子のマリルは、慌ててフーディンの足元にすがりつく。
『ごめんなさい!ごめんなさい!ごめ、っ…、…ル、ルリちゃんにいじわるしないで…っ』
泣きじゃくりながら懇願しているが、やはり、フーディンは眉一つ動かさずにいる。
ここまでくれば「誰か止めに入った方がいいんじゃ…?」という雰囲気が出てくるし、実際、水遊びをしていたポケモンたちがチラチラと視線を投げかけている。
気にしている。
だが、それだけだ。
問題解決をはかる「誰か」を待つだけだ。首を突っ込みたくない、巻き込まれたくない、安全なところから見物していたい、…これが普通の感性だ。どうしようもなく。
だからこそ。
そう、だからこそ、ここで自分が颯爽と介入すればルチャブルから褒めてもらえるのでは?
普段の言動を顧みれば弱者を庇うなど柄にでもないことだが、それゆえに感心される可能性は高い。『見直した』どころか『惚れ直した』なんて言ってくれたりして!
っしゃ、じゃあ早速――…などと余計な下心で画策する蛙よりはるかに迅速な者がいた。
言わずもがなルチャブルである。
皆がたらいまわしにする「ヒーローの立場」に、率先して、自分から立ちにいく勇猛な鷹だ。称賛も見返りも打算も度外視して、ただ、「助けよう」と決めた自身の信念に基づいて行動する。それがルチャブルだった。
ルチャブルはずんずんと歩を進め、がしりとフーディンの左腕を掴む。
『放してやれ。子どもに対する仕打ちじゃない』
あの侮蔑の色を湛えた目がぎょろりと動き、今度は、ルチャブルをねめつける。怯みもせずに、ルチャブルも、フーディンを真っ向から見返した。
『不注意だったこいつらにも非はある。だが、謝っただろ。あとは諭して反省させればいい。怖がらせるのは無意味だ』
ッカー……これだよこれ。何この男前。さすがは我が最愛。
先を越されたし、シリアスな場面だし、けれども、ゲッコウガは『惚れるわァ…』と天を仰いで推しの尊さを噛みしめていた。
ルチャブルの高潔が眩しい。
毅然とし、まずは対話を試みるという姿勢からも品位が分かろうというものだ。ただし、誠実を以て相手の過ちを正そうとしても、あのフーディンは不貞腐れるだけに終わるだろう。とてもではないが、意見を聞き入れる素直さがあるようには見えない。
簡単に引き下がるとも思えず、ごねるようなら拙者がしばき倒そうと考え、ゲッコウガも遅ればせながらルチャブルの後を追う。
公衆面前で大人げない点を叱られたことに逆ギレし『放したぞこれでいいんだろ』などとほざきながらルリリを投げ飛ばすくらいのことをしかねない雰囲気だったので、ゲッコウガはそれとなくルリリに意識を向けておいた。
――予感は的中する。
フーディンは改めてルチャブルと対峙する際、邪魔なものを放り出すように、何食わぬ顔でルリリを投げ捨てた。予期していない限りまず間違いなくルリリは床に叩きつけられていたところだが、事前に的を絞っていたゲッコウガにとって、フーディンが振りかぶった瞬間から動き、跳び、対象を抱きとめるのは造作もないことだった。
おお、と周囲からどよめきが上がる。
点数が稼げた手応えを感じてゲッコウガは密かにほくそ笑んだ。ルリリの保護はあくまで損得勘定によるものだが、ギャラリーの反応によってゲッコウガの活躍が際立つ。このサポートを後からどんなふうにルチャブルが労ってくれるのか楽しみだ。
『ルリちゃん!』
マリルが小さな手足をばたつかせながら懸命にゲッコウガの元に駆け寄ってくる。
ルリリもゲッコウガの腕から飛び出して、マリルにしがみついた。ふたりして抱き合い、気が抜けた反動からかわんわんと泣いている。
『おまえ…ッ!』
ゲッコウガがルリリを守ったことに安堵の顔を見せたのも束の間、ルチャブルはフーディンの非道な所業に気色ばむ。
羽毛を逆立てた彼に対し、片やフーディンは汚らわしいものに唾を吐くような調子で告げた。
『気安く触るな。下賤が』
悪態をつかれた刹那、ルチャブルが、忽然と姿を消す。
まるでDelキーを一押ししたかのような呆気なさで、ルチャブルがプールサイドからいなくなった。
「削除」の完了。それと認めたとき、ゲッコウガの奥底で、ブツンと何かが引き千切れる音がした。
世界から、急速に、色彩が失せていく。
視界の明度が下がる。喉が渇く。動悸がする。精神が揺さぶられ、足元から崩れ去っていくような感覚――…己の存在意義が、たった今、目の前で消された。
踏み抜かれた地雷。煮え滾る忿怒。
ゲッコウガの目に、憎しみが宿る。
この怨み、…晴らさでおくべきか。
『…野郎…』
怨敵は必殺。万死に値するという表現は、きっと、このときのためにある。
絶対零度の殺気をみなぎらせ、ゲッコウガは、音もなく一歩を踏み出した。
+++++
身を寄せ合って泣き続ける姉妹をデデンネが慰めていると、男が戻ってきた。
デデンネが装着するためのバンド、いくつかの浮き輪、ついでに買ってきてくれたらしいカラフルなアイスキャンディー。今となってはいずれも滑稽な代物だった。
「……、…説明してもらえます…?」
彼がこの場を離れていたのは15分足らずのこと。その間に発生した厄介事を察してか、顔には困惑が貼りついていた。
デデンネは端的に話した。姉妹とフーディンの揉め事。仲裁後、行方知れずとなったルチャブル。そして。
『…るちゃ殿がいなくなったのは、てれぽーとを発動された所為だろう。だから、今、こうが殿が転送先を聞き出しているところだ』
「聞き出すって…」
『なにぶん、こうが殿がふーでぃんを水中へ連れていってしまったのでな。おまけに利用者のこの密集具合だ。私たちからはもう目視できない。
…まあ、なんだ、手段はあまり想像したくないが、しくじることはすまいよ。こうが殿はるちゃ殿の所在をきっちり吐かせるだろうさ。番の安否に関わることだからな。あとは任せて、彼らの浮上を待とう』
デデンネは、般若がごとき形相でフーディンをプールに引きずり込んでいったゲッコウガのことを思い返す。彼にとって、敵を水責めにして情報を聞き出すなんて初歩的な拷問は手慣れたものだろう。なにせ前世の経歴は御庭番衆の一員だったのだから。
問答無用で恐怖を叩き込み、抵抗の意志を削ぐ。先程のフーディンが幼い姉妹にやったことと同じ目に遭わせているわけだ。やはり彼は意地が悪い。
一部始終を目撃していたポケモンはそれなりにいるが、誰も具体的な行動には出なかったし、傍観者に徹していた。その態度は今も変わらない。
人間とて同類だ。マリルとルリリを気にしつつも気まずげに目を逸らしたのは、フーディンの見事な首飾りを見て富裕層のポケモンだと気付いたためだろう。とりわけ人間は、権力に楯突くことを苦手とする生き物であるからして。
現段階において、興味本位で水中を覗きにいこうとする者はいなかった。それでいいと、デデンネは思う。
きっと、皆は勘づいている。水底では、見なければよかったと後悔するようなことが行われている真っ最中であろうということに。だから野次馬が自ずといなくなる。
『せっかくだ、その氷菓子をいただこう』
本来はルチャブルとゲッコウガの分だったアイスキャンディーは、姉妹にふるまわれた。ルリリには前脚が備わっていないので、男が食べさせてやっている。
食ってる場合か、という指摘は御尤も。
当然、デデンネはルチャブルの身を案じている。だが、非常事態にこそ平静を保つべきだった。ネガティブな想定をいくらしたってきりがないし、情報を得るより先に闇雲に動いて時間をくえば助かるものも助からない。
困難な状況に置かれたとしても、タフなルチャブルならばそう易々とくたばったりはしないだろう。何より、仮にフーディンがゲッコウガの尋問に対して『ルチャブルは船外に飛ばした』などと答え、救出不可能であることをほのめかした場合、ゲッコウガの逆上は想像に難くなく、フーディンを即座に斬り伏せるはずだ。そのことを思いながら今一度水面を眺めてみるが、幸いなことに、まだプールの水は赤く染まってはいない。ルチャブルが船内のどこかにいることを信じておこう。
ちびちびと氷菓を舐め、舌の先に濃厚なフルーツの味をのせながら、デデンネは優しく姉妹に語りかける。
『食べ終えたら、遊びに戻れ。…楽しく過ごしたい気持ちはみな同じだ。だからこそ、我先にという行動を慎まなければならないときもある。次は、周りにきちんと配慮しなさい。できるな?』
問うと、甘いものを口にして少し落ち着きを取り戻した彼女らは、こくんと頷いた。
『あの…鳥のおにいさんは…?』
『かっこいいカエルさんにも、まだおれいしてない!』
気にする姉妹に、デデンネは敢えて気楽な態度で接する。
『後は私たちがうまくやるから、何も心配しなくていい。おまえたちの謝意についても、ふたりにはちゃんと伝えておくから安心しろ』
幼な子たちが後ろめたくならないよう気配りをしながら送り出した後、『さて』と己が主に声をかけた。
『我らも手を打っておこう。そろそろ、ふーでぃんの家族が探しにくるかもしれないしな。そのときを想定してずらかる準備をしておかねば。あるいは、何かうまい言い訳を考えておくか…』
「あなたも大概冷静ですねえ…、タフというか…」
そう言う男の方も、溜息交じりではありながらしれっとアイスキャンディーを堪能している。少々の嫌味も込めて『お互い様だなあ、あるじ殿』と返しておいた。
+++++
冷たい。息ができない。音が遠い。その意識が、水の中にいることを伝えてくる。
何の予告もない。気が付いたときにはもう、水面はずっと上にあり、泳いでいる者たちの脚が無数にぶら下がっている様を見上げる羽目になっていた。
この私が他者の足元にいるとは、何たる屈辱。
水中に引きずり込まれた異常な状況下でなお恥を覚えるようなフーディンの傲慢――しかし、それも、次の瞬間にあっけなく粉砕される。
プールの壁面に背中を押しつけられる。
瞬間、激痛が左の指先から全身に向かって稲妻のように走り抜けた。思わずがぱりと口を開けたものだから、大量の気泡がこぼれ、呼吸困難が加速していく。
地上であったならぼきりと鈍い骨折音がしたのだろうが、ここは水の中だ。音が外に伝わっていかないので、指を折られたことを加害者と被害者以外は知ることができない。
加害者――フーディンの目の前にいる痩躯の蛙からは、絶えず、憎悪の念が放たれている。
途中でルリリを放り出したフーディンは、その後ルリリがどうなったのかは気にしておらず、その時点で興味が失せている。ゆえに、ゲッコウガのことは露ほども認知していなかった。つまり、フーディンにとって、ゲッコウガは突如として己を急襲してきた悪漢に他ならない。
こいつは何者なのか。なぜ私に暴力をふるうのか。どうすれば解放されるのか。それを知るために、フーディンはもがき苦しみながらも相手の思念を読み取った。
《鳴き声を介さずともおまえならこちらの考えが分かるだろう?
拙者の小鳥を、…オレの番をどこへやった。答えろ。全ての指が使い物にならなくなる前に》
あの鳥の関係者だったか。面倒な。
だが、だからといってなぜ私がこれほどの仕打ちを受けねばならない?
子どもらは躾がなってなかった。鳥は生意気だった。どいつもこいつも目障りで耳障りだった。私に対する畏敬に欠けていた。
だから分からせてやったんだ。疎ましかったから視界から取り除いたんだ。
それだけなのに、なぜ、釈明の余地もないまま指を折られる事態に陥っている?
幾度となく脳内を埋め尽くす「なぜ」。理不尽だ。理解不能だ。しかし、無理にでも悟らねばならないことがあった。こいつは蛙だ、水タイプだ、そして己の際たる天敵「悪タイプ」を複合している相手だ。理屈ではない。本能が警鐘を鳴らしている。
些かの迷いもない加虐。いやに手際がいい。素人のそれではないのは明白だ。指と同時に心も折られたフーディンの胸中で、命の危機に瀕していることへの戦慄が生じ、時を追うごとに絶望が濃くなっていく。
身動きのままならない、息もできない焦燥。負傷箇所の苦痛。拷問への怯え。これだけの材料が立て続けに並べられたら、エスパータイプはひとたまりもない。底知れぬ「悪意」にさらされては、技を
もはや、余裕など皆無。
偽りを述べて撹乱しよう、一矢報いようと足掻くような気力は微塵もない。相手が欲するものを差し出して早くこの場から逃げ出したい、許されたいという切迫した思いだけが、フーディンを突き動かす。
《甲板だ》
やっとの思いでフーディンがテレパシーを返すと、蛙の目が細まった。
《そうか。海原に落としたと答えようものなら首を刎ねていた。命拾いしたな》
終わる。これで終わる。指一本を犠牲にしたが、相手の望む情報は渡した。早く、早く息を――…。
《そういや、…捨て台詞を口走ってやがったな。下賤、だったか》
読み取りたくもなかった、話の続き。蛙の手は緩まない。依然としてフーディンを壁面に押しつけたままだ。
《こともあろうに下賤だと?
オレの最愛によくも――…嗚呼、ダメだ。やっぱムカつくわ、おまえ》
痛みで力が入らなくなっている左手から、フーディンの大事な匙が抜き取られる。
《まさか指だけで済むと思ってないだろ?こき下ろした落とし前もつけねーとなあ?》
今からコイツで抉ってやるよ。片目で勘弁してやる。
恫喝がとどめを刺した。
その先の苛烈な痛みを想像することは、耐えがたい恐怖だった。悪夢のような時間に打ち負かされて限界を迎えたフーディンは白目を剝き、意識を手放した。
+++++
気絶したフーディンを水中に放置して溺死させてもよかったのだが、その場合、後々取り調べなどが行われ身柄が拘束されるだろうし、今後の船旅の妨げになってしまう。ルチャブルの心労になることは極力避けておこう。
船での生活を楽しみにしていたルチャブルの出鼻をいきなりくじいたクソエスパーのことは許しがたいが、報復するにしてもどこかで区切りをつけておくことは大事だ。多少の痛い目には遭わせたし、こいつもしばらくはしおらしくするはず。今なら飲んだ水の量だって少ないし、すぐに目を覚ますだろう。
ゲッコウガがフーディンと共に水面から顔を出すと、思いがけない人物と目が合った。
十字マークのついた帽子と腕章。
「あなたが助けてくれたのね!ありがとう!」
いや全ッ然違いますけど。
むしろ処すつもりでした。
…とは言わず、平然と首肯するゲッコウガである。
「さあ、フーディンをこちらへ!」
プールサイドに設置されたデッキチェアを指しながら、ジョーイが急かす。彼女の後ろでは、けばけばしい水着姿の女が「プリンス!! 目を開けてちょうだい!」と耳障りな声で喚いていた。どれほどファッションに疎い者だろうと一度は聞いたことがある高級ブランドのロゴが、女のサングラスのテンプルに刻まれている。さりげなく主張するのではなく、ロゴこそが目立つようなデザインだった。この人間にしてこのポケモンありかなと妙に納得する。恥ずかしげもなく王子呼ばわりというところからもお察しだが。
「落ち着いてください。すぐに応援も到着しますから。では、心肺蘇生に入ります」
迅速に対応していくジョーイは、ゲッコウガしか気付かない角度から「
…あー、なるほど。
こいつ
ならば好都合。皆の視線が救助活動に向いている間に、ゲッコウガは素知らぬ振りで現場から離れた。
『首尾よく聞きだせたか』
デデンネが寄ってきて、『過剰なことはしてないだろうな?』と念押しのように確認してくる。かったるい。
『してない。向こうがこっちの脅し文句を拡大解釈して勝手に失神した』
ゲッコウガの返事にデデンネが胡乱な目をしていたことには気付いていたが、スルーしておく。
『拙者は甲板にいく』
『そこが目的地か。私と二手に分かれて探す…のは、効率が悪かろうな。私が走り回るには、この船は広すぎる』
『そうだな。おまえがはぐれる二度手間も御免だ。あいつと一緒にこい』
ジョーイを指さすと、デデンネは訳知り顔で頷いた。
『口八丁手八丁のあるじ殿だ、女医らしく振舞ってあの場を誤魔化すことなどお手の物だろう。後でちゃんと礼を言うんだぞ』
『…必要ないだろ。お飾りとはいえあいつは一応上司だ。監督責任を果たすのは当然…』
良識の話をしているんだとデデンネから睨まれ、お小言をくらうが、ゲッコウガは肩をすくめるばかりである。
+++++
『ひゃあっ…!』
ルチャブルの目の前で、ヌメラが掠れた声をあげる。大きく開いたものの叫び損ねたその口からは、ナマコブシのようにぶみゅっと内臓が飛び出してきそうだった。
『すまない』
状況がさっぱり分かっていないルチャブルだが、まずは謝罪の言葉を口にしておく。
足の裏に伝わってくる木材の触感。冠羽を撫でていく一陣の風、そこに混ざる潮の香りが鼻腔を満たす。
さっと視線をはしらせて分かったのは、船のデッキだということ。
ヌメラが驚愕するのも無理はない、きっと自分は何もないところから急に降ってわいた存在に見えただろうから。
ヌメラには申し訳ないが、彼以外に混乱を与えている様子はない。この場には他に人間もポケモンもいたけれど、誰も騒ぎたててはおらず、唐突なルチャブルの出現に気付かなかったようだ。
ヌメラのすぐ隣に佇んでいた少女も同様だった。日傘をさし、足元のヌメラに影を提供していた彼女は、すぐそばでヌメラが挙動不審になったことで初めてルチャブルを視認した。
「あれ?いつの間に?」
どうしたものかとルチャブルが戸惑っていると、少女はにこやかに笑いかけてくる。それだけでなく、さりげなくルチャブルも影に入れるよう日傘を傾けてくれた。
「もしかして、ヌメラに挨拶しようとしてくれたんじゃない?ありがとう。
…何にでも、誰にでも、すぐ驚いちゃうヌメラだけど、気にしないで。この子にとっては初めてだらけの旅だから、まだちょっと緊張が抜けてないだけなの」
何も問題ないという顔をつくって、ルチャブルは少女に頷きを返した。
『そういうことにしておこう』
ルチャブルの言葉にヌメラも同意しつつ、躊躇いがちに尋ねてくる。
『でも、あの…さっきのは一体…?』
プールサイドでの一件について話してもよかったが、「子どもを守ろうとした結果だ」という言い方は、少々、ヒロイックに過ぎる気がした。結果だけを見れば、まんまとテレポートで転送された間抜けである。海上に放り出されなかっただけマシだった。
子どもらを助けようとしたくせに、このザマだ。今このときもゲッコウガたちに心配をかけている真っ最中だろう。つくづく情けない。
結局、「己が至らぬばかりにエスパー技に巻き込まれここまで飛ばされてしまった」という簡素で曖昧な言い訳になったが、意外にもヌメラは感心したような素振りを見せた。
『なるほど、苛烈な技の影響で転送されてしまったわけですか。きっと熾烈な争いだったのでしょうね…!
そんな肉躍り血沸くバトルフロアからいきなりデッキに出てきたんですから、あなたの方こそびっくりしたでしょう?』
『確かに、こんな事態になるとは思わなかった。…だが、そのうち仲間が探しにきてくれると思う。むやみに動き回らず、しばらくはここにいるつもりだ』
だいぶ脚色されてヌメラに勘違いされているが、どこから説明すればよいのやら。逐一を正していくことも煩わしく思えたので、ルチャブルはまたも「そういうことにしておこう」精神を発揮して訂正しなかった。それよりも、ヌメラが口にしたバトルフロアとやらが気になる。対戦できる場所があるかのような口振り…、そんな施設が?トレーナーの話に出てきただろうか。後から訊いてみようと頭の隅に書き留めておく。
ルチャブルは、改めて周囲の景色を見渡した。
出港してしばらく経っているため、もう港は見えないし、島や他の船も見当たらない。乗船前は騒々しいほどに多様な音が入り乱れていたのに、今では船内BGMが流れているだけだ。生き物の気配はないかと探ってみたが、飛んでいるポケモンも、泳いでいるポケモンもいなかった。ただ、平坦な空と海がどこまでも続いている。
もちろん、海面下は陸と違わぬ過酷な環境だろう。生存競争が行われ、濃密な生の営みがなされているはずだ。しかし、今、ルチャブルの目の前に広がる無限の青い世界は、綺麗だが孤独な――もっと言えば「死の気配が漂う場所」に見えた。
いくら全力を出そうが太刀打ちのできない大自然。いかに自分がちっぽけな存在なのかまざまざと見せつけられている思いだった。
ここにひとり、小舟で浮かんでいる想像をしてみる――が、想像だけでも恐ろしかったし、絶望的だった。浜辺なら、浅くて安全だし、波の飛沫が陽に白く煌めいて、分かりやすく「楽しい場所」だったのに。
海と聞いてイメージするものは、とても限定的なものであったことに気付かされる。
渡り鳥とは違い、遠くの土地を目指して飛び続ける能力が備わっていないルチャブルにとって、この景色は間違いなく、人間社会に身を寄せなければ拝めないものだった。
『こんなふうに、海の真ん中を突き進む日がくるとは思わなかった』
ぽつりとこぼした言葉は丁寧に拾われ、ヌメラが相槌をうってくる。
『僕も、同じことを考えてました。森の中で縮こまって生きていたら、絶対に知ることのなかった世界…。僕、思いきって外に出てよかった。彼女に出会てよかったって、いつも、思ってるんです』
野生を捨てた者同士。それだけの共通点だが、ルチャブルはヌメラに親近感を覚える。
――いつだったか、ショウヨウジムに挑戦する前に立ち寄った町があった。そこにはコウジン水族館なる施設があり、トレーナーが連れていってくれた。
薄暗い中で仄かに浮かび上がる水の揺らめき。揺蕩う水棲のポケモンたち。安定した生活リズムで暮らしているからだろう、野生個体にあるような威圧感は全くなく皆が穏やかな表情をしていた。何か話しかけてくれた者もいたが、水槽のガラス越しではうまく聞き取ることができなかった。
あのとき、彼らは何を言っていたのか。
何を思ってこちらを見つめていたのか。
野を離れ、収容され、人間から餌を貰い続ける飼育下個体としての境遇。似た者同士のシンパシーを感じてくれたりしたのだろうか。
『目的地はどこなんですか』
海を眺めながらとりとめのないことを考えていたルチャブルの意識を、ヌメラの問いかけが引き戻す。
我に返ったあとで『アローラ地方だ』と答えると、ヌメラは顔をほころばせた。
『奇遇ですね!僕たちと同じだ』
『観光中に再会するかもしれないな』
『そうなったら楽しいですよね』
賛同しながらも、『ただし』と前置きをしてヌメラはえへんと胸を張ってみせる。
『僕たちの目的は観光というより、りゅーがく、なんですよ』
『留学?…この子が勉強しにいくのか』
ちらと日傘の少女を見遣ってから『優秀なんだな』とルチャブルが述べたところ、ヌメラはますます得意げになる。
『そうなんです!学校で選ばれて、行けることになって。僕は、そのお供なのです』
自慢げであるにもかかわらず不快感がないのは、「相手の良さを知ってほしい」という親愛が滲んでいるからだ。ふたりの間にある関係性が垣間見えるようで微笑ましい。
温かな気持ちになることで、ひとり飛ばされてしまった不安が薄れていく。こうして打ち解けてもらえたのはありがたかったなとルチャブルが安らいだ折、背後からアナウンスが聞こえてきた。ビビヨンの群れが通過することを知らせる内容だった。
――皆様。上空に見えてまいりますのは、越冬のために南下の旅を続けているビビヨンの群れです。
我々にとって冬はまだ先のことですが、ビビヨンたちは既に生き延びる支度を始めている最中です。長い時間をかけ、温暖な土地を目指していきます。
それぞれが美麗な翅を持ち、群れることで形成される天の川のような多彩な色の流れは、天上の芸術品といってもよいでしょう。是非、鑑賞をお楽しみください。
しかしながら、いかに美しさに魅了されようと、保護の観点からいかなる捕獲行為も許されておりませんのでご注意ください。繰り返します。保護の観点から――…
ビビヨンたちを一目見ようとする客たちで甲板の人手が増えていく中、ルチャブルも促されるまま空を見上げた。
様々な色の糸で織りあげられた反物みたいな有様で空を彩りながら、ビビヨンたちが羽ばたいているのが見える。思わずため息が出てしまうほどの素晴らしさだった。
「ビビヨンはね、生まれた土地の気候や風土によって翅の模様や色が変わってくるんだって」
少女がおもむろに口を開く。
ルチャブルも、ヌメラも、少女も、今、同じものを目にしている。
「綺麗なものが傷つかないよう、そっと見守っていけたらいいのに。でも、やっぱり、綺麗だから欲しがっちゃう人間もいるんだ。世界中にビビヨンのコレクターがいるから、密猟なんかもあって、高値で取引されて、……ごめん、あなたたちにとって面白い内容じゃなかったね」
ビビヨンたちの安全が守られたらいいなってこと。
少女は手短に締めくくった。確かに笑えない話だったが、ビビヨンたちの生態と、彼らを取り巻く現実について知っておくのは大事なことのように思えた。だから船内放送で捕獲行為の禁止を強調していたのか、とルチャブルは納得する。『さすがだな』と囁きかけたら、すかさず『でしょ?』とヌメラは表情を緩めた。
「やあ、これは見事だね」
声がした方へ振り返ると、やけに端正な容姿の青年が歩み寄ってくるところだった。彼はビビヨンたちを称賛しながらも、すぐにルチャブルへと視線を向けた。
「もう知り合いができたのか。感心感心。新たな出会いは旅の醍醐味だからね」
笑ったときの目元が、日傘の少女に似ていた。身内かヌメラに確認すると、少女の兄であることを教えてくれた。年が離れた兄妹なのだという。船旅の間だけ、保護者として付き添ってくれているらしい。
「ありきたりだけど、彼らのように空を舞えたら気持ちがいいだろうなあ」
ルチャブルたちの視線が自分に集まっていることに気付いた青年は、人好きのする笑みを浮かべたままで「蝶にまつわる興味深い説話があるんだけど、聞く?」と切り出した。
「大昔に実在した、とある思想家の説いた話さ。彼は、あるとき夢を見たそうなんだ。夢の中の自分は人間であることを忘れ、蝶になっている。翅を広げて楽しく飛んでいるんだ。
だけど、夢から覚めたあとに、ふと考える。
はたして、人間である自分が夢の中で蝶になっていたのか。否、そうじゃないかもしれない。夢で見た蝶こそが本来の自分で、今このとき、人間になっている夢を見ているんじゃないか…ってね」
気軽に語るはずの雑談にしては難解だ。しかし己では考えつきもしない不思議な話だったので、つい聞き入ってしまう。
「私たちが気にしないようなことを気にするのね。でも、その話を通じて何を説明しようとしてるの? ……、…あ、やっぱりいい。言わないで。後から自分で調べる」
「そうするといい。意外に深いことを扱っているから、時間をかけてゆっくり勉強したらいいよ」
「今はとりあえず、ポケモンになって空を飛んでる夢を見たら、私の正体はもしかしたらそのポケモン自身かも…って想像を楽しむことにする」
「いいね。そのほうがきっと愉快になれる」
あまり夢を見ないルチャブルにとっては、彼らの話を聞いていても今一つピンとこない。仮に夢を見たとしても、起きだす頃には「夢を見た」という感覚だけが残っていて、その中身を覚えていたためしがなかった。
だからこそ、青年と少女のように、ルチャブルも意見交換をしたかった。乗船前に、浮力の話を仲間内でしたみたいに。そうすれば、この小難しい話も少しは自分のものにできる気がした。
『どう思う?』とヌメラに尋ねようとしたのだが、ルチャブルは思わず口をつぐんだ。ヌメラが真剣な目でルチャブルを見つめていたからだ。彼の真っ黒な目の中で太陽の光が反射して、星が瞬いているように見える。吸い込まれていきそうな夜空の目だった。
『たった今、思い出したことがあるんです』
『何を』と問う前に、ヌメラは熱に浮かされたみたいに『僕も、よく夢を見ます』と続けた。彼の脈絡のなさと急な変わりように、ルチャブルは唖然としてしまう。
『僕はね、ビビヨンになってるんです。ぬるぬると地を這うしかないこの僕が、華麗に空を飛んでいる。
…現実が夢か、夢が現実か。きっと、どっちでもいいんです。どちらも肯定して受け入れてしまえばいい。僕はヌメラなのか、ビビヨンなのか――ヌメラとビビヨンは形の上では大きく異なるけれど、僕自身であることには変わりはない。
僕は、ヌメラ。僕は、ビビヨン。
そして、僕は、あなたと――…』
ヌメラは、何か伝えようとしていた。
しかし、「そろそろいこうか」という青年の声かけで、お互いの間に横たわっていた奇妙な緊張感が、ふつりと消えた。
「観たがってたポケモンショーの開演時間が近い」
「わかった」と返事をしつつ、少女は「あなたの家族はちゃんと近くにいる?」とルチャブルを気にかける。大丈夫だと示すためにこくりと首を縦に振ると、彼女は安堵した顔を見せ、別れ際に「じゃあね」と手を振った。
『
ヌメラは最後にそれだけを、切実な祈りとして言い残して、フレンドボールの中へ戻っていった。…きっと、直前にルチャブルへ伝えようとしていた内容とは異なる。しかし、本当の続きを知ることは、ついぞなかった。
甲板でひとり、ルチャブルは今一度空を見上げてみる。
ビビヨンの群れは、もう、どこにも見当たらなかった。
+++++
ルチャブルだ。
見間違えようもない。世界にたった一羽だけの、かけがえのない最愛の姿。
『 ルチャブル!! 』
己の心臓が、急に息を吹き返したかのように、力強く拍動した。
逸る気持ちのままに、駆けているうちから声を張り上げる。呼びかけに気付いた彼の振り向きざまをめがけて、飛びつくように抱きしめた。
よかった。幻ではない。実体がある。ルチャブルの体温。柔らかな羽毛。嗅ぎ慣れた匂い。紛れもなく、我が番だ。
周囲の視線を感じたが、構っていられなかった。好奇の目にさらされようがルチャブルも抱擁を拒むことはなく、むしろ抱き返して、ゲッコウガをなだめるように背中をさすってくれた。
『ありがとな。見つけてくれて』
ルチャブルからしてみれば、何ということはない、当たり前の感謝に過ぎなかっただろう。しかし、ゲッコウガは、虚を突かれた。胸が詰まった。油断をすると涙すら滲んできそうだった。
その言葉は、ゲッコウガにとって、もはや単なる礼を越えた重い意味を持っている。
そうだ。出会ったんだ。見つけたんだ。一度は死に別れた相手を、恋しくて恋しくてたまらなかった相手を――…あの、黄昏時の森の中で。
『御主がどこにいようと、どんなに離れていようと、必ず探し出してみせるでござるよ』
宣誓。すると、俺の相棒は頼もしいなと言って、ゲッコウガの胸元でくすぐったそうにルチャブルが微笑する気配があった。
――心地よいピアノの旋律が、スピーカーから流れだす。
ふたりは知らない。この曲が、カロスの作曲家*6による著名な作品であることも、『
ただ、素朴でシンプルなメロディーが、この場に甘やかな雰囲気をもたらす。それだけは確かだった。たとえ題名を知らなくても、歌詞がなくても、音の連なりだけでラブソングだということがわかる。そんな曲だった。
クラシックの調べに誘われ、何となく離れがたくて、ゲッコウガもルチャブルもしばらく身を寄せ、互いの体温を分け合っていた。