ルチャブルが「ゲッコウガを好きになった理由」を一生懸命に考える話
師走の慌ただしさが日毎に強まる時期だった。
再び巡ってきた年の暮れ――その感慨と共に吐き出した息は、微かに白い。抜き身をすらと首筋に添えられたような、鋭く無慈悲な冷えだった。
こんな夜に空を見上げれば、星の瞬きが、よく見える。
『寒いはずさ。この分じゃァ、朝が来る頃には霜が降りてるよ』
くすくすと、忍び笑いを引き連れた声。
庭先の闇よりはもう少し色味の異なる黒塊が、ぬらりと動く。
『夜目が利かぬことを人間は「鳥目」と言うが、ありゃァ嘘だね。証拠に、おまえさんの目ン玉は、ちゃァんとあたしの挙動が見えている』
暗がりからゆらと姿を現したのは、御庭番のブラッキーだ。彼の特徴的な輪っか模様が、仄かに光を帯びている。
『まあ、…あんたは、その模様で気付きやすいというのもあるが』
『今夜はマシな方さ。月光が弱いからね』
赤い目が、ニィと細まる。
『満月のときなんぞ目も当てられんよ。こっちを見てくれと言わんばかりさ。
御庭番の身としちゃァ致命傷なんだがね…こうして夜にこそ目立つもんだから、敵さんの前に出て囮になんのがあたしの常だ』
『陽動も立派な作戦だろ。…その分、流した血も多いだろうけどな』
『まァね。今となっちゃァ、ほれ、ご覧の通りだよ。男が上がるってもんだ』
風来坊のように、ふらりと彼は現れる。
その仕草と同様に、性格も気まぐれだ。いつ来るのかも分からない。姿を見かけることがあっても普段は遠くから声をかけてくるし、ごく短い会話を交わしたらそれで終いになる流れだが、どうやら今夜は違うらしい。縁側に腰掛けるルチャブルの隣へひらりとやってきて、遠慮も断りもなく、膝の上へとしなだれかかってくる。
『とくと拝みな。あたしの勲章を見せてあげよう』
彼の重みや体温を直に知るのは、勿論、初めてだ。
明かりに乏しい時間帯であろうと、こうして間近で見れば、ブラッキーの表皮に散らばっている惨たらしい痕跡は確認できた。
体毛すら生えなくなった箇所があるほどに深い、永劫消えることのない凄惨な古疵。斬られ、刺され、抉られた過去の痕跡。長い耳や尾にも所々に切れ目が入り、あるいは部分的に千切れ、風化した綿布のような有様だ。
『見た目に反して頑丈なんだな』
そう返すと、『かは!』と乾いた笑いが飛び出してくる。
『第一声が「可哀想だ」という憐みじゃない、眉をひそめるでもない…だから気に入ってる』
首を傾げつつ『勲章に「可哀想」は似合わないだろ』と言えば、いっそう、楽しそうに笑われるのだった。
『昔っから悪運だけは強くてね。なァに、所詮はくたばり損いさ。気付けば古株だ。
…同期も、あたしより若い連中も、いっぱい見送っちまった』
『残される寂しさはあるだろうが、生き残ったことを気にする必要はないさ。あんたの番じゃなかったってだけだ。死ぬときは誰だって独りだろ』
『ほう?』
すうとなめらかに横目を滑らせ、ブラッキーが微笑する。
『野生が長かった奴はいいことを言う。そういう慰めの言葉があろうとはなァ』
『慰めてるつもりはないが、…何だよ、今夜はやけに感傷的なんだな』
『寒空の下で身を寄せ合っていたんじゃァ、そんな気分にもなるもんさ』
『おまえさんの膝はぬくいな』と言いながら身じろぎする彼は、おさまりのいい姿勢を見つけたらしく、くるりと丸くなった。
『羽毛はいいねェ』
『布団扱いするようなこと言うなよ』
他愛もない雑談をしながらふたりして空を見上げた瞬間が重なり、それが何やらブラッキーの琴線に触れたようで、彼は再度、くすりと笑いを一つ零した。
『月落ち、烏啼いて、霜、天に満つ…というやつかね』
『語感がいいな』
『詩の一節だからね。口に出してこそ味わい深いものになる。…霜降る気配が天いっぱいに満ちている…意味としてはそんなところだ』
『どうりで、星明りが冷たい。聞いてるだけで寒くなってきた』
『凍えながら詠われた侘しい詩だよ。出会い頭に言ったろう、明日は霜だとな。
この時期、そろそろ西の都では寺院総出で大根焚きだ。羨ましいねェ、出汁で炊いた大根を参拝者に振舞うたァ。仏さんからはとうに見捨てられた罰当たりのあたしでも、ちっとはご相伴にあずかりたいもんだ』
『やめろよ、腹が減るだろ』
笑いつつ、一方では感心したことも事実だ。『物知りだな』と言えば、『若造よりは多少な』と、軽妙に返ってくる。
『もう少し勉強しとくか?腹より頭を満たしてやろう。
さっきの詩、霜には触れたが月について解説してなかったな。作中の「月」ってのが、まあ三日月のことだと言われてるんだがね。そら、いま浮かんでいるのもそうだ。益々洒落てるだろ?』
天空から地上を見下ろして、何か面白いものでも見つけたのだろうか。誰かが可笑しそうに口角を上げている――三日月は、その口元のように見えた。
『月といやァ満月に目がいきがちだが、あたしは冴えた三日月の趣も捨てがたいね。今夜なんてどうだ、命をすぱっと刈り取りそうな鎌の形をしているだろう。ありゃァきっと切れ味がいい』
同じものを見ているはずなのに、ブラッキーとルチャブルとでは、こんなにも捉え方に差がある。当たり前といえば当たり前のことなのだが、改めて他者との違いを痛感させるほど、両者の感性には隔たりが横たわっていた。
しかし、ルチャブルは、その違いを嫌悪したりはしない。単に、驚きとして受け止める。
『変わった見方をするんだな。俺なら思いつかない』
『…、舌を巻くところかね?』
互いで互いの暖をとっているおかげか、寒々しい沈黙はやってこない。ブラッキーの声も、心なしか、温かくなっていた。
『おまえさん、やっぱりいい漢だ。
普通はなァ、月みて死を連想する奴なんざ煙たがられるもんさ』
実際、懐に入れちまえば、おまえさんは
そんなことを言うブラッキーは、彼にしては皮肉のない、穏やかな口調で語る。
『こちらが何者か知っておきながら気兼ねなく接してくれる存在というのは、…あたしらにとっては案外と得難いことなのさ。
おてんとさんに背を向ける生き方しかしてきちゃァいないが、あたしらはね、別に太陽そのものを嫌いになったわけじゃないんだよ。…だから、うちの連中はおまえさんに惹かれるんだろうね。日向の匂いがするもの。思わず隣に寝転んで、休んでいきたくなる』
あの蛙も例外ではないぞ。
出し抜けに忍を話題にされ、ルチャブルは取り繕うこともできずに動揺した。
その気配の揺らぎを、…言うまでもなく、ブラッキーは見逃してはくれない。
『えらく初心な反応をしやがるなァ?純真で結構。…そんなおまえさんが、どうしてあんな根性曲がりに惚れるのかねェ。酔狂なこった。
こう言っちゃァ身も蓋もないが、あの野郎と比べた途端、世の中の大半はどいつもこいつも聖人君子になっちまうんだぜ。知ってたか』
『…本当に容赦なく言うんだな…』
『事実だからな。おまえさんには、もっとマシな相手が似合いだと思うがね』
なあ?と促されたところで、否も応も言えずに押し黙るルチャブルだ。そんなこと、考えたこともなかったし。
『この際だから訊くんだが、あのバカの何処がいいんだ?』
『どこ、って、…』
『…何だい、即答できないか。いくらなんでも、好きでもねェ野郎に身体を開いたってこたァないんだろ』
『ッ!な、…に、言って…!!!』
『あー、皆まで言わんでいいぞ。あいつめ、最近妙に機嫌がよくてね。しまりのないにやけ面見てたら、まあ分からいでかってもんさ。おまけに、』
おまえさん、自分で気付かないのか。
ゲッコウガの匂いがぷんぷんするぞ。
『これが一線越えでなくって何だってんだい。…まァ、なんだ。おめでとさん』
他者からふたりの進展をあからさまに指摘されたことは今までになく、ルチャブルは見る間に頬を紅潮させた。何か言わねばと思うのに、あたふたとするばかりで、言葉が出てこない。
焦れば焦るほど、一方のブラッキーは、にんまりとした笑みを深めていく。
『そう可愛い顔をするんじゃァないよ。あたしが怒られッちまう』
『…拙者からな』
『そう、てめェから』
見事というほかない素早さだった。
バネのようにぴょんと高く跳躍し、ブラッキーは、一飛びで塀の上へと避難する。安全圏を確保してゲッコウガから無事に逃げおおせた彼は、ケラケラと嘲笑の声をあげた。
『ンなおっかねェ目つきをしなさんな。余計なこたァ吹き込んでないから安心するといい』
『御庭番屈指の法螺吹きを信用しろというのか。冗談ぬかせ』
『おうおう、嘆かわしいねェ。聞いたかいルチャブル、ひでェ言い様じゃァないか。こいつみてェな性悪は捨てて、あたしと懇ろになりなよ。今からでも遅くはないぞ』
夜の冷気に先駆けて氷点下をいくような、そんな気配が隣から漂ってくる。はっとするルチャブルが咄嗟に止めに入るも、一歩遅かった。ゲッコウガの手を離れ、威力も速さも一切の加減がない水手裏剣が飛んでいく――が、こうした事態には慣れていると言わんばかりに、ブラッキーは華麗な背面宙返りを見せて攻撃を捌く。
『そういや、おまえさんの答えを聞いてねェなァ。また遊びに来るから、そンときにでも教えとくれよ』
彼の次なる着地点は、塀の上ではなかった。
ブラッキーはそのまま塀外へと消え、ルチャブルたちの視界から行方をくらますのだった。