「ようこそお越しくださいました」
おばあちゃんと親しみを込めて呼びかけたくなるようなご婦人が、目尻に細かい皺をいっぱいに刻んでにっこりと微笑みかけてくる。
いつだったか、観光雑誌で銭湯という公衆浴場の記事を見かけたことがある。その写真も。ご婦人が座っている場所は写真に写っていた番台に似ていて、けれど、実際は旅館の受付だ。ホテルのフロントデスクとはまた違う趣を新鮮に感じながら、僕はペンを走らせる。僕が宿帳に書き込んだのを見届けたあと、ご婦人は「ゆるりとお過ごしくださいませ」と言い添えて部屋の鍵を渡してくれた。
もう分かったかな?さらばアーカラ島、こんにちはウラウラ島ってことだね。僕たちはようやく次の島に拠点を移し、マリエシティの宿場に辿り着いたというわけなのです。
『畳だ!』
部屋の扉を開けた先に広がる和風の空間に歓声をあげながらお姫様が飛び出し、ころりころりと畳の上を転がっている。
『障子!ちゃぶ台!押し入れ!素晴らしい!』
安宿とてこれほど絶賛されたら嬉しいだろうな。生まれも育ちもカロスである彼女にこんなにも刺さるとは意外だったけれど、もしかしたら、例によってテレビか何かで見聞きして以降こういう様式に憧れを募らせていたのかも。気に入ってくれたなら何よりです。
築年数は推して知るべしという古びた旅館ではあるが、磨かれた柱や床から察するに丁寧に手入れがなされており、基本的な清潔感は保たれていた。共有スペースとしての大浴場が自慢らしいが、各個室にも小さいながらトイレとシャワー室があり、引きこもれる仕様になっているのは地味に嬉しい。部屋でだらしなく寝そべったり駄弁ったりしていたいときもあるもの。気が向いたらお風呂にいってもいいかな、とは思うけど(ただ、着替えを持っていったり貴重品を管理したりってのが手間に思えるときもあるんだよねえ)。
豪華客船の旅を経てアローラで過ごすこの二週間足らずの間に、かるく二百万を超える額がすっ飛んでいったわけだが、元から豪遊するつもりだったから問題はない。ただ、リゾートホテルでのセレブライフはひとまず終了。これからはビジネスホテルにも泊まるし、モーテルやコテージの利用もする予定。時には野宿だって選択肢に入るだろう。本来の分際をわきまえた場所で世話になるということだ。この部屋もそう、レトロで質素、慣れない和室、…とはいえ居心地は悪くない。雨風をしのげて素泊まりできるだけでも十分だ。
窓から差し込んでくる西日が、室内を赤く染めていく。別に東洋にゆかりはないというのに、朱色に照らし出される畳を見ていると懐かしささえ込み上げてくるのはなぜなのだろう。思えば、このマリエシティの街並みはコニコシティに通じるものがあった。アローラの外からやってきた文化が根付いている、という印象。瓦と木材で建てられた家に始まり、提灯や幟旗、軒下から通りに向かって大きく張られた店頭幕、至るところに植樹されている竹…、それら一つ一つが異邦を感じさせた。
食堂で夕飯をとる前に準備をしておこうと思いたって押し入れから布団を出し、敷いてみる。ふんわりとしたベッドには程遠いぺたんとした煎餅布団、それもまた味があってよし。同じくぺちゃんこの座布団であぐらを組みながら茶をすすると、その庶民的な味と香りが身に染みた。
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ウラウラ島は、アローラ地方の中で最も土地の起伏が激しい。海原あり山岳あり雪原あり、おまけに砂漠まで。多様な自然環境を有し、豊かな生態系を育んでいる。
平地では森も多く、とりわけ草タイプが活き活きと躍動し、今日もせっせと身の回りの植物を活性化させては濃緑の世界を築いていた。点在する花畑も例外ではない。良質な土壌と水を好むチュリネがそこかしこに住みついていることからも分かる通り、ひとたび植えれば、花々は通常のものよりも丈夫に育つばかりか大輪となり、蜜をたっぷりと貯えるようになる。その恩恵を受けて生きる
場所は、島と同じ名を冠するウラウラの花園。
この一週間は雨天続きで、本日も早朝まで降っていたのだが、今では雨の気配を微塵も感じさせない快晴の空が広がる。照りつける日の光が辺りを乾かしていき、おかげで、雨にかき消されていた花の匂いがいつにも増して強く香った。その香りに誘われて、アブリボンは雨宿りをしていた樹の
特にこのアブリボンは、仲間内では花粉団子作りの名手として知られていた。おまえが作る団子が一番おいしいと言われたら、腕を振るうに決まっている。この日も、アブリボンは花粉と蜜を集めたそばから団子を作り、岩の上に並べていった。
種類の異なる花から集めて回った花粉と蜜はアブリボン独自の配分でブレンドされ、多彩な効能を持つ団子へと姿を変える。麻痺や眩暈を引き起こす効果を持たせることも、(更に鱗粉を練り込んで)敵にぶつけて攻撃する爆発物として用いることも可能だが、やはり最たる用途は食糧である。食べる以上は味がいいに越したことはなく、だから、アブリボンはこの花園までやってきた。
ウラウラの花園では「紅の蜜」という特殊な花蜜が採れるのだが、これは他所にはない特産物だ。ポケモンの姿や能力に影響を及ぼす*1ほどの力を秘めており、紅の蜜を混ぜ込んだ花粉団子は、風味も効能も格別のものとなる。自分の腹を満たすだけでなく、仲間の喜ぶ顔が見たくて、腕に縒りをかけて夢中で作り――…気付けば、岩の上にはこんもりと団子の小山が出来ていた。実に久方振りの晴れ間だったこともあり、食糧不足を補おうと張りきりすぎてしまったようだ。自分の脚で抱えていくことはとても不可能な量で、途方に暮れてしまう。
持ち運べない分は捨てるか。否、それはあまりに勿体ない。小分けにして、巣との間を何度か往復するのが現実的だろう。しかし、この場を離れている隙に盗まれてしまったらどうしようか。
困り果てていたところへ『どうしたんだ』と声がかかる。振り返ると、一体のルチャブルが立っていた。自分と比較して数倍は大きな、しかも鳥の存在に、当然『ひぃ』と情けない声を上げてしまった。こんなに近寄られるまで気付かずにいたなんて!アブリボンは己の迂闊さを呪う。
だが、ルチャブルは隙だらけのアブリボンを前にしても襲いかかってはこない。じっとアブリボンからの返事を待っている。本当に、ただの親切でアブリボンのもとにやってきたのだということが徐々に知れて、アブリボンは恐る恐る状況を説明した。
説明しているうちに恥ずかしくて赤面する、そのくらいには間抜けな話だった。しかし、ルチャブルは一度も笑うことなく最後まで聞き終え、アブリボンに向かって何の躊躇いもなく一枚の羽根を差し出した。『これに載せていけばどうにかなるだろ』と告げ、わざわざ翼から引き抜いた上で渡してくれたのである。片面は紅、その裏は碧。二色が表裏一体となった美しい羽に思わず見惚れてしまう。しかも飛翔するうえで重要な部分の羽根だろう、随分と大きい。相手にとっては痛手となるはずだ。
『いただいてもよろしいのですか』
尋ねると、ルチャブルはあっさりと頷いた。
『換羽期が近いから、すぐ抜けるんだ。…傷んだ羽根で悪いが、運搬には役立てると思う』
傷んでいる?どこが?こんなにも滑らかで艶があるのに。まさかこちらに気を遣わせまいとする方便だろうか。…しかし、いくら相手の顔を眺めてみても嘘をついているようには見えない。迷ったが、結局、相手が構わないというのだから受け入れようと結論付ける。ありがたく羽根を頂戴することにした。
『せめてもの御礼です。召し上がってください』
謝辞を述べた後、ルチャブルに出来立ての花粉団子を振舞う。ルチャブルの手のひらの上にころりと乗っかるそれは、彼にしてみれば団子というより丸薬といった方が相応しいようなサイズだった。腹にたまることはないだろうが、薬効も栄養もある優れものであることには違いない。一口の幸せを楽しんでもらえたらと願うばかりだ。
『…花はお好きですか』
ルチャブルという種族は、ここから離れた岩場を縄張りにしていたはずだ。花畑の近辺で見かけることはなかったので尋ねてみると、相手は首肯した。このルチャブルには威圧感がなく、穏やかな遣り取りが続く。そのうえ、好きなものが共通していると分かったことが嬉しく、アブリボンは声を弾ませた。
『人里にマリエ庭園という場所があります。夜に訪れてみてください。ポケモンなら忍び込むのは容易いでしょうから。――あの幻想的な美しさ、きっと気に入っていただけると思います』
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するりと羽の先が持ち上げられた。はっとして見遣れば、いつの間にやらゲッコウガが身を屈めている。そのまま、彼は何食わぬ顔でルチャブルの羽に口付けた。ひと房すくった髪にキスをするに等しいキザな仕草だが、嫌味なくこなすあたりにゲッコウガの美丈夫っぷりが表れている。
『拙者としたことが、御主を見つけるのに時間がかかってしまったでござる』
『…これだけ一面が赤いとな』
パーティからそう遠く離れたつもりはないが、単独で動き過ぎたか。ゲッコウガはこちらを見失ったと思い、探しにきてくれたのだろう。しかし発見した後も責めることはなく、心配は気取った振舞いの中に隠して表には出さない。そうした彼の在り様が照れくさくてふいっとそっぽを向いたのだが、ゲッコウガは構わず距離を詰め、ルチャブルに顔を近付けてきた。
『甘い匂いがするな』
花の移り香ではなさそうだと目を細めるゲッコウガ。探るような目つきをされたので、ルチャブルは『たぶん花粉団子だ』と答え、アブリボンとの一件を話す。
『小さかったが、その分、蜜の味が詰まってる感じだったな。…おまえにも食べさせてやれたらよかったんだが』
『御主への返礼品だ。御主が味わった方が贈った側も喜ぶ』
それに、と続けたかと思えば――次の瞬間には互いの口が触れ合っている。口の先を掠める、そよ風みたいなキスだった。
刹那の出来事に対する理解が追いついたとき、ルチャブルの頬がじわりと熱を持った。対照的に、仕掛けてきたゲッコウガは涼しい顔をしている。それどころか、余裕綽々といった態で、口角を上げた。
『…御裾分け、御馳走様。確かに美味かった』
隙あらば愛情を表現してくるゲッコウガである。それ自体は嬉しいが、やはり気恥ずかしさの方が勝ってしまい、ルチャブルは押し黙る。何か言ってやりたいが、上手く言葉がまとまらなかった。それに、今の心境では、照れ隠しの憎まれ口を叩くのが関の山のようにも思える。狼狽するばかりで身動きを取れずにいたところへ、ゲッコウガが『時に、アブリボンの言うマリエ庭園はこの間行った場所では?』と話を振ってきた。相手の方から空気を変えてくれたことに安堵し(そしてほんの少し申し訳なくなりつつ)、ルチャブルは頷きを返す。
実は、アブリボンから紹介される以前に、ルチャブルはマリエ庭園に赴いていた。一行がウラウラ島にきてすぐのことである。旅館から徒歩圏内にあり、散歩にはちょうどよかったのだ。
もちろん昼間、営業時間内。ジョウト地方の建築様式を取り入れたという雅な庭園内は、池を中心に、築山や庭石、草木、灯篭、茶室が見事に配置されていて、空間そのものが芸術を体現していた。何より、自然物が限りなく自然のままに保たれているがため、元野生としてはその場にいるだけで心が落ち着いた。
カロスの四番道路沿いの公園やパルファム宮殿内の庭園もそれは見事なものだったが、あれは非常に人工的な美しさだった。完璧なシンメトリー。幾何学的に配置された花壇や垣根。規則正しく自然を「管理」した場だった。対するマリエ庭園は、カロスで見かけた絢爛豪華な庭園とは全く異なる景観を作り出しており、派手な花が植わっているわけでも、技巧的な刈込みが目立つわけでもなかったが、必要以上に飾り立てようとしない素朴な雰囲気こそが好ましかった。
『花が好きかという問いの後で、夜の庭園訪問を提案するとは…。おそらく夜咲きの花が見頃を迎えているのでござろうな』
『…夜に咲く花があるのか?』
『そうだな。暖かい気候の地域では珍しくないらしい』
陽射しが強くて暑い時間帯を避け、気温が下がる夜になってから活動を開始する虫ポケモンがいるという。彼らに花粉を運ばせ受粉の手助けをしてもらうために、敢えて夜に開花する。これも植物たちの戦略なのだそうだ。
『アブリボンは幻想的だと言っていたが…、どんなふうに咲いてるんだろうな』
真相を確かめにいくか。今夜。
結局、ルチャブルにできるのは色気のない誘い方だけだ。スマートに口説くためのお手本のような存在が隣にいるのだが、真似できないのではどうしようもなかった。あいつのように器用にやれたらと何度も思うけれど、不器用な者は不器用な者なりに、身の丈に合った言葉と行動で示していくしかないのである。
救われるとするなら、ゲッコウガが正しくルチャブルの誠実さを理解していることだろう。ルチャブル自身の甲斐性を認め、本質を見抜いてくれる。だから、武骨な誘いにも柔らかな笑みで応じてくる。一番に喜んでほしい相手からの肯定、…その反応以上のことはないと、ルチャブルは思う。
まだ日は高く、この花園にも来たばかりだというのに、すっかり夜が待ち遠しくなってしまった。
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とっぷりと暮れた頃、今一度出発前にルチャブルの体調を尋ねると、問題ない旨が返ってきた。彼は換羽期に差し掛かっており、最近は疲れやすくなっている。ところが今宵は、いつになく調子がいいらしい。『栄養剤はちゃんと服用してるし、昼間にもらった花粉団子の効果もあるのかもな』と話していた。だからといって油断はできないが、顔色のいいルチャブルの様子にひとまずは胸を撫でおろす。
閉鎖された門に敷地を囲う柵、いずれも障害ではない。アブリボンの発言通り、ポケモンの身体能力を以てすれば乗り越えることなど造作もなかった。
時間帯を考えれば当然ながら
星々が霞むほどに月が明るい。それゆえに、花の咲く場所もすぐに見つかった。そこだけが月灯りを受けて仄かに光を放っており、夜であれば尚のこと目立っていた。
睡蓮が浮かぶ池――以前、日の下で見たときの美しさを思い出す。池の底まではっきりと観察できるほど透明な水の上に、赤や黄、紫の鮮やかな色彩が花開く様は、多少なり芸術をかじっている者ならばすぐにとある画家*2の代表作を想起するであろう、まこと絵になる景観だった。
対して、今、目の前では、確かに夜にならなければ拝むことのなかった眺めが広がっている。
『本当だ…夜なのに…!』
ゲッコウガの隣では、ルチャブルが驚嘆のために目を
その花は、今になってようやく起きだしたかのようだった。睡蓮であることには違いないが、月光を浴びて咲くそれらは、みな一様に白い花弁を開いている。白いからこそ月夜でも目を引くといえ、これも植物自身の工夫だろう。また、花の色のみならず、周囲に立ち込める強い芳香も、花の中央に湧き出る蜜も、虫ポケモンをおびき寄せるのに一役買っているようだ。水面を滑るアメタマの他に、花の周りをアブリボンやアメモースが飛び交う。見上げた先の空ではレディアンが舞い、その生態通りに煌めく粉を振りまいていた。きらきらと光る粒子は睡蓮に降り注ぎ、花の蜜に溶けることで、一層の輝きを増した。睡蓮の花の中で蠟燭の火が灯されているみたいで、まるで夜の庭園を彩る燈籠に見える。
ゲッコウガとルチャブルは池のほとりに腰を下ろした。他のポケモンの存在はあっても、彼らは各々自分のことに忙しく、誰も
『すごいな、…初めて見る景色だ。別の世界にきたみたいだな』
『別世界…、そうだな。たとえば、極楽浄土ではこんな眺めが広がっているのかもしれん』
『…ごくらく?』
『人間たちが思い描く、死後の楽園だ。
ルチャブルに向き直り、見つめる。その琥珀色した瞳に映るのは生涯自分ただひとりであってほしいと願いを込めて、言葉を紡ぐ。
『死んでも一緒にいよう、極楽に咲く蓮華の上で共に生まれ変わろうと約束する。人間たちは、この誓いのことを一蓮托生と表現した』
ゲッコウガはルチャブルの手を取った。手つきこそ恭しいが、決して離すまいという
『 ふたりの未来がどんな結末を迎えようが、必ず最期まで拙者と添い遂げてくれ 』
今の拙者は、御主に何を望んでもいいのだろう?二言はなしとの言質も取っている。そう告げて、ゲッコウガは妖艶な笑みを湛えた。一方、ルチャブルは、未来永劫の束縛を乞われてもなお澄んだ双眸をしている。曇りのない
『運命共同体ってやつだな』
ルチャブルの手がゲッコウガの手を握り返してくる。手と手を通じて、互いの体温が一つに溶け合っていく。
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『せっかくだ、縁結びの
ゲッコウガは、水の
『こんな特技があったのか』
『手裏剣や刃が創り出せるんだ、このくらいは訳ないさ』
『…この盃を使ってどんなまじないをするんだ?』
『水辺だからな。水合わせに倣うとしよう』
水合わせ。聞き慣れぬ言葉だ。ゲッコウガによると、人間の婚礼で執り行われる儀式の一種らしい。両家から汲んできた水をひとつの盃に注ぎ、それを分け合いながら飲む。異なる環境で育ったふたりがひとつの家族となり、互いになじんでこれから幸せに暮らしていけるよう願いを込める――…
『先に触れた一蓮托生のこともある。ここでは睡蓮の蜜を汲むか。水合わせならぬ蜜合わせだな』
『おまえ、…妙に験を担ぐときがあるよな。こんな儀式のことまで持ち出して』
『御主と築く未来のためだ。縁起を気にするのは当然だろう?』
意外と、流れ星に願い事をするような一面を持っているのである。この蛙は。四葉のクローバーを見つけると喜ぶし、不運を追い払うためだとか何だとかでよく木に触れている。どれもカロスに伝わる験担ぎだと聞いた。人の世に関心のあるデデンネを揶揄うくせに、ゲッコウガ自身にもだいぶ人間くさいところがあるのだった(都会で生まれ育っている影響だろうか)。元が野生出身で、人間社会に交わるまでは「開運」という概念すらなかったルチャブルにとっては、目新しい価値観である。
ふたりは、それぞれ自分の傍に咲いていた睡蓮の花を引き寄せ、傾け、とろりと流れてくる蜜を盃で受けとめた。
『レディアンの粉が付着すると吉事が起こると言われているが、摂取して取り込んでも御利益がありそうだな』
もとは無色の蜜に花粉が混ざり、更にはレディアンのもたらす光の粉が溶けているおかげで、盃の中身は
盃の蜜を口に運び、交互に飲んでいく。舌の上で広がる雑味のない濃厚な甘み。鼻に抜けていく爽やかな香り。今、口内は金色の光にまぶされ、金色の液体が喉を通って体内に染みわたっていくのだと、それを思うと高揚した。ほうと恍惚の息をついてしまうほどに。
事あるごとにこちらを繋ぎとめようと躍起になる
ふと視線を上げると、そこに、ゲッコウガの顔がある。彼の口元には、僅かに蜜が付着している。淡い光が灯っており、それと気付いた。蜜に濡れる部分がやけに艶めかしくて、衝動的に、美味そうだと思った。同じものを口に含んだのに、口付けてその味を確かめてみたくなった。昼間、あの花畑で、平然と顔を近付けてきたゲッコウガの気持ちが分かる気がした。
『ゲッコウガ』
呼びかけると、何の疑いもなく、ゲッコウガが顔を向ける。その花のかんばせにそっと両手を伸ばせば、自ずとルチャブルの翼が広がり、貴人の使う扇のようにゲッコウガの顔もルチャブルの顔も隠してくれる。
『俺の、これから先の全部、おまえにやるよ』
だから、おまえの全部も俺に寄越せよな。
翼の陰で、囁きと花の香りをまとわせた宣誓のキスを交わす蛙と鷹の一幕は、匂いたつ睡蓮だけが見守っている。
【 補足 】
ルチャブルは「ゲッコウガって意外とジンクスとか信じるんだなあ」と思っていますが、実際はそんなことはなく、ゲッコウガは自分に都合のいいことを都合のいいように解釈しているだけです。