水中から浮き上がって、水面に顔を出して大きく息を吸うように、すうと意識が戻った。
仰向け。ベッドの上。最初に目に入った白い天井に、見覚えはない。ここはどこだろうと頭だけ動かすと、色鮮やかなフラワーリースが浮かんでいるのが見えた。目が合ったし、つまりは目があったので、
「お目覚めのようだね」
ノックの後、白衣のお医者さんが入ってきた。若い男の人。「頭痛や眩暈、吐き気、他に気になる体調の変化があったら教えてね」と言われたので、私は「平気です」とだけ答え、上体を起こす。
「起き上がっても大丈夫かい?」
「はい。むしろ、何だかよく寝たなって感じですっきりしてます」
「たくましいなあ」
確かに顔色はいいねと先生は笑う。先生の表情や声が明るいから、初対面でも安心できた。
「…先生って、カロスの人?」
「そうだよ。故郷はヒャッコクシティ。君は?」
「アサメタウン…って言っても分からないかも。田舎だし。えっと…ハクダンシティの近くにある町で…」
「セントラルカロスの方だね。場所だけなら知ってるよ、祖父母の家がメイスイタウンにあったから」
カロスの言葉で会話をするのが随分と久しぶりで、使い慣れた言語で自由に遣り取りできるありがたみを今更のように実感した。アローラでの留学生活はすごく楽しいけれど、それとこれとは話が別なんだよね。
「素で喋れてるから、カロスに帰ってきたのかと思っちゃった。…ここ、ちゃんとアローラですよね…?」
「メレメレ島が誇るハウオリシティ、その摩天楼のど真ん中にある病院さ。グローバルな診療体制ってのが売りでね。だから、気になることがあったら何でも相談して」
雑談がてらに、先生はいくつかの簡単な質問をした。私の氏名と生年月日。アローラにきた目的。ホームステイ先の家族のこと。エトセトラ。全てに対して私が難なく回答していくので、先生は、満足げに頷いた。
「よし。記憶の混濁はなさそうだ。キュワワーのアロマも効いたようで何よりだよ」
「キュワワー…、…もしかして、その花輪の…?」
「初めて見たのかな?」
「はい」
キュワワーは、花の間からひらひらと手を振ってくれた。愛らしい仕草に、こちらも思わず笑みがこぼれる。
「ポケモンの特殊能力によって引き起こされた体調不良は、薬剤だけでは対応できないことも多くてね。だから、こうして、癒しの力を貸してもらう。ポケモンの力は、同じくポケモンの力で中和するんだ」
「え、じゃあ、私…ポケモンに何かされて気絶したってこと?」
「それが本題。君が病院に搬送されることになった経緯を、君の証言と照らし合わせながら確認する必要があるんだ。警察の人を交えてね」
警察。少なくとも、今までの自分の暮らしで関わったことのない行政機関だ。和やかな会話が一転し、途端に緊張してしまう。
「もう夜も遅いからね。長時間の取り調べにはならないはずだけど、どうする?君が希望するなら事情聴取を明日にしてもらうこともできるよ」
「……、今からでも構いません。私が覚えていることを話しておきたいし、私が知らないことも教えてもらいたいし」
「分かった。じゃあ、すぐに呼んでくるね。話しているうちに気分が悪くなったらすぐに言うんだよ。通訳として僕も引き続き同席するから」
「ありがとうございます。…あ、先生、…一つだけ先に訊いてもいいですか」
私のヌメイルはどこにいるんですか。
尋ねると、ヌメイルもこの病院にいるとのことだった。進化したばかりで心身が不安定なので、別室で様子を見ているらしい。
「進化不全といってね、一度で全身を進化しきれないケースもあるんだ。そういう場合は余計に安静にしていないといけないから、経過観察が重要になってくる。…ヌメイルの状態が安定してきたら、翌朝にでも健康診断と予防接種を済ませておくつもりだよ。あとは、役所に届ける進化証明書もこの病院の書式で発行しておこう。明日の退院時に渡せるよう準備するね」
***
私が委縮しないようにという配慮か、先生と一緒にやってきたのは
なるべく時系列に沿うよう説明していく。私の話と、女性警官から教えてもらった話をすり合わせていくと、随分と私が大事件の渦中にいたことがわかってきた。
――まず、事の発覚にはオヒアが関わっていた。
私のことを図書室で待っていたオヒアが、いつまで経っても私がこないことを不思議に思って、教室を見にいった。廊下から覗いた限りでは教室は無人で、行き違いになったのかと思いつつオヒアが次に向かった場所は職員室。担任の先生は、まだ学級日誌を受け取っていないと話したため、オヒアはますます首を傾げることになった。
一言の断りもなく勝手に帰るはずがないと思いながらも、一度、オヒアは帰宅した。そして、案の定私は帰ってきておらず、ここでようやく、何か大変なことになっているのではないかとオヒアの胸に不安が湧き上がってきた。両親に話し、学校にも改めて連絡し、皆で手分けして探して、19時を回っても私が見つからなかったので捜索願を出した……これらは、警察が私のホームステイ先に聴き取りを行って判明したとのこと。
オヒアが私を探しに教室にきたというのなら、無人はあり得ない。絶対に私は中にいたし、何なら偽物の担任だって見えたはず。それに、教室内で怖いことは起こったけれど、あの場にいたのだって、たぶん三十分も経ってないだろう。だけど、私が教室で倒れているのが発見されて、病院に搬送されてきたのがついさっき。あと二時間もすれば日付が変わる夜中だ。どういうことなんだろうか。
私の疑問には、女性警官が丁寧に解説してくれた。教室の現場検証を行ったところ、エスパータイプの技が使われた痕跡があり、実際にポケモンの体毛も採取されたそう。鑑定結果が出るまでは時間がかかるが、今回の騒動を起こしたポケモンの正体や、そのポケモンが野生の個体なのか飼われた個体なのかは、いずれ明らかになるという。
「そのポケモンの目的は未だ不明ですが、あなたが教室内で拘束されていたことは事実です。バディポケモンのヌメイルが身を挺してあなたを守ろうとしたところから推察するに、恐らくあなたには相応の危険が迫っていた…。主犯のポケモンはあなたを獲物として捕まえ、何らかの危害を加えるつもりだったのかもしれませんね」
獲物を逃がさないように特殊な空間を作り、閉じ込める。邪魔が入らぬようその空間にカモフラージュが施されるのはよくあることで、それが、外から覗いても無人に見えたからくりだと女性警官が語った。
超能力を用いて作り出された空間は、自然の摂理を歪め、時間の流れも変わるらしい。私が体感した時間と、現実世界での経過時間が大幅にずれていたのはその所為なのだろう。
「エスパータイプのポケモンが構築するものは、イメージの力に左右されることも多いと聞きます。あなたは、古い学級日誌を見つけ、その記述内容を知ったことで恐怖心を抱きました。その状態で特殊空間に取り込まれたことで、あなたの恐怖のイメージがその場に反映されてしまったのだと思われます。不気味な幻覚を見たのはそのためでしょう」
例の学級日誌は押収されたそうだ。その当時、日誌に書かれていたように、生徒がフワンテに連れ去られるという事件が実際にあったと聞いて、私はまた、言いようのない恐怖を感じてしまう。
「…エスパー能力というものはとてもデリケートで、術者の集中力なくしてはその真価を発揮できません。特殊空間が崩壊したためにあなたの発見に至りましたが、そのきっかけを作ったのはヌメイルです。主犯のポケモンはあなた一人を狙ったつもりでいて、しかし、思いがけずヌメイルが登場したことで動揺した。その結果、特殊空間の構築を維持できなくなり、逃げ出したのでしょうね」
あなたのために行動したヌメイルの勇気と、ふたりの絆に、敬意を表します。そう言って、女性警官は微笑んでくれた。称賛されるほどに、私はヌメイルのことが恋しくなる。あなたのことを褒めてもらったよって教えてあげたくて、早く会いたくてたまらなかった。
***
事情聴取も粗方終わって、消灯の時間になった。暗くなった病室のベッドで、一人、横たわる。誰にも気兼ねしなくていいので、個室なのはありがたかった。
ゆっくり休むんだよと先生からは言われたけれど、私は、実家に電話を入れておくことにした。時差のこともあるし、今かけたら、ちゃんと出てもらえる気がする。本当はすぐにでも眠りたいところを我慢して、私の無事を報告するのが筋だと思ったのだ。
お父さんが家の電話に出ることはあんまりなくて、だから、想定通りにお母さんの声が聞こえてきた。開口一番に「大丈夫なの」とか「心配したわ」とか言われるだろうと思っていたけれど、よくよく考えたら、どうして私はそんなおめでたいことを想像していたんだろう。私に期待しない、私も期待しない、そういう関係だと分かりきっていたはずなのに。
現実は厳しい。第一声が「ちょっともう勘弁してよ」だったもの。「あんたって留学先でも面倒を起こすのね」と言われて初めて、横面を張られたような気分になった。目が覚めた。そうだ、そういう人だったと、…それを痛感してしまって言葉が続かなかった。
ヒステリックなお馴染みの口調が、私を責めてくる。ずっと、ずっとずっと、お母さんの「怒り」しか聞こえなかった。私の身を案じる言葉がなかったのは、残念というより、やっぱりねって感じ。この人は、私が行方不明になったことを心配していたんじゃなくて、面倒なことが起こったと苛立っていたんだ。それが分かって、急に、お腹の奥が冷えていく気がした。これがおにいちゃんだったら?食事が喉を通らないくらい思いつめて、眠れなくて、無事の一報が入ったら泣いて安堵するんでしょ?おにいちゃんも私もお母さんの子どもなのに、何が気にくわなくて執拗に差をつけるの?
こんなときでさえ私を気遣えないなら、ねえ、お母さんはなんで私を産んだの?
ぶつけたい言葉は沢山あったけど、呑み込んだ。反論はしない。体力の無駄遣いだから。事をこれ以上荒立てないために「ごめんね」とだけ告げて電話を切った。別に謝る必要なんてどこにもなかっただけに、敗北感すらあった。
通話が終わり、真っ黒になったスマホの画面を眺める。いつも、こう。かける前は「電話したくない」と思うし、かけ終わった後は「電話するんじゃなかった」と思う。でも、今回の電話は避けられないやつだったし、嫌なことがさっさと終わってよかったと考えるべきなんだろう。でも、私の頭はぐるぐるして、心はもやもやして、その夜はよく眠れなかった。
***
翌朝は、電話のことが尾を引いてたのと寝不足でダブルパンチ。清々しい朝の光とは対照に割と気分は最悪だったけど、私の憂鬱を吹き飛ばしてくれたのは、朝一で迎えに来てくれたオヒアたちだった。ホームステイ先の一家全員が病室になだれ込んで、その勢いのまま、私に抱きついてきた。何だか私、ファンに囲まれる人気者にでもなったみたい。パパもママもオヒアも、みんな泣いてたもんだから、びっくりしてしまった。実の母親すら流さなかった涙が、この場に溢れていた。
「よかった…!」
見つかってよかった。生きててよかった。また会えてよかった。色んな「よかった」がぎゅうぎゅうに押し込まれていると分かる、絞り出すような声。こんなに力強く抱きしめられたの、おばあちゃん以来かも。ハグするときの心地よさと、人の温もりって、こんな感じだったなって思い出す。
「心配かけてごめんなさい」
このときは、素直な気持ちで謝れた。すると、「何を謝ることがあるの!」と遮られ、目を真っ赤にしたママが私の顔を覗き込んでくる。
「あなたは悪くないわ。経緯は警察からも聞いてるの。…あなたがどんなに心細い思いをしたことか、想像するだけで…もう…」
一旦体を離して、ママが涙を拭う。パパも目頭を押さえていた。オヒアは、まだ泣きじゃくっていて、話をするのは難しそう。
「オレが変なことを話したからあいつがいなくなったんだ」と、オヒアは殊更に自分を責めて憔悴しきっていたことをママが教えてくれた。そっか、…立場が逆だったら私だって絶望的な気持ちになっただろうし、軽々しく「泣かないで」とは言えない。だけどさ、もう過ぎたことだから。しっかり安心してほしいな。私もこうして無事だったことだし、これでオヒアも少しは救われるかしら。
私の心はすっかり柔らかくなっていた。
私を大切に想ってくれる人がいる。私に寄り添ってくれるポケモンがいる。その事実を再認識して、私の自尊心が息を吹き返した。
そうだ。見失っちゃダメ。私には味方がいるんだってことを忘れるわけにはいかない。心無い言葉に傷ついて背中を丸めたままでいるよりも、私に向けられた眩しいほどの優しさを両手を広げて受けとめたい――…そう思ったら、私の目にも涙が浮かんだ。潤むだけで済むはずもなく、ぽろぽろ零れて、しまには小さな子どもみたいに声を上げて泣きじゃくった。恥ずかしくなんてなかった。私の背をさすってくれる相手がいるって分かってたから。胸の内をさっぱりと洗うみたいにどんどん涙を流して、私は喉がからからになるまで思う存分泣かせてもらった。
***
退院して帰ってきたら、家の中は華やかに飾りつけられていた。私の無事とヌメラが進化したことのお祝いだって!皆で喜びを分かち合って、美味しいものを好きなだけお腹に詰め込んで、嗚呼なんて幸せなひととき…。生きててよかったなあって、心の底から実感する。
学校は学校で賑やかだった。担任の先生もクラスの皆も詰めかけてきて、私の話を聞きたがった。遠慮ってものを知らないのね!全く!でも、まあ別に、そのときのことを思い出してトラウマ抉られるとか、私にはそんな繊細なところがないから、臨場感たっぷりに語ってきかせた。進化を遂げたヌメイルを実際に見せると、皆が歓声をあげるから、えっへんと胸を張るヌメイルはもちろん、私も自分のことのように誇らしかった。
私を庇う形で進化を遂げたヌメイルのことは話題性も十分だったらしく、新聞記者の人からも取材され、記事が掲載された。紙面と、あとはネット上で。切り抜きもプリントアウトもばっちり、当たり前でしょ?宝物としてとっておかなきゃ。公に祝福された、私たちふたりの美談として。
記事を飾るふたりのツーショット写真だっていい感じだし。いつか、ヌメイルがヌメルゴンに進化して、また目が見えるようになったとき、この記事や写真を見ながら思い出話をするんだ。
【 補足 】
・数年前に生徒がフワンテに攫われたときも、その後に具体的な防
・ここ最近になって校内の怪異騒ぎが多発し、実際に夜間学校の生徒が不登校になっているにも関わらず、やはり具体的な対策を取らなかった。
以上のように解決を先送りにしてきた結果が今回の「留学生神隠し」に繋がったとして、トレーナーズスクールの管理体制が問題視され、保護者や近隣住民から大バッシングを受けることになった。
さすがに管理職も重い腰を上げ、予算を編成。著名な祈祷師を呼んで場を清め、敷地全体に結界を張ってもらった他、特に悪戯を起こしやすい傾向にある時空干渉能力の持ち主(ゴーストタイプやエスパータイプ)を牽制できるよう悪タイプのポケモンを警備員として常駐させることにした。