新チャンピオンが早々に引退するという話が公になったとき、真っ先に出鼻を挫かれたのは各企業だった。
彼には元から話題性があった――…エリートトレーナーとして研鑽を積んだわけでもない一般人、しかも壮年の男性がジムを巡り、着々とバッジを集め、カロスリーグに挑戦する権利を得て。早い段階でその評判がSNS上で広まり、流行の兆しを見せていた。リーグ戦注目選手の特集が組まれた際、彼のインタビュー記事が載った雑誌はよく売れた。ニュース番組においても、取材を受けるときの柔らかな物腰と優しい口調が人々に好感を与えた。華があるタイプではないが、しかし整った顔立ちやすらりとした立ち姿も相乗効果となり、ファンは増える一方だった。それだけにとどまらず、手持ち三体という例を見ない少なさで予選も四天王戦も制し、果てには長らく玉座を独占していた女帝カルネを倒してしまった。一躍時の人となったわけである。
人々の熱気が冷める前に彼を広告塔にして稼ぐだけ稼ごうと考える企業は当然ながら多く、オファーが殺到した…が、冒頭である。企業のみならず、民衆も、ろくな説明や記者会見がないのでは誰も納得できず、この不可解な引退によって世間の彼への関心は益々強まっていった。
敗北を喫したにもかかわらず、チャンピオンを続投することになったカルネも渦中の一人だった。チャンピオンの座が惜しくて新チャンピオンを追放したのではないかという事実無根の噂が流れる始末で、その馬鹿馬鹿しい内容を真に受けた者たちによる誹謗中傷も出てきた。
カルネは事の真相を話せず、ただ、潔白であるという姿勢を貫く以外になかった。現状に業を煮やしたのは、カルネ本人よりもむしろその周囲であり、ポケモンリーグ関係者は勿論、カルネその人を愛する市民たちからも次々と擁護の声が上がった。リーグチャンピオンおよび女優としても実績のあるカルネは、結局のところ多数の味方がおり、炎上の鎮静化も早かった。そして、話は振出しに戻るのである。「新チャンピオンが勝手にいなくなったのが悪いのだ」と。
引退に際して記者会見を行うべきという規則は、少なくともポケモンリーグにはない。引退する者が胸中を外部に向けて詳細に語る必要も義務もない。仮に会見を促されても、当の本人は拒否できる。だが、「あんなに応援していたのにがっかりだ」「これからの活躍を期待していただけに残念だ」という意見が優勢となり、遂に――…良くも悪くもこれほど彼が注目されているのならどんな情報でも金になるだろうと、ある週刊誌が衝撃的なネタをすっぱ抜いてきた。
【 新チャンピオン電撃引退のワケ ―虐待と売春の悲しき過去― 】…実にゴシップくさい見出しだったが、情報に飢えていた民衆はすぐさま飛びついてきた。
匿名希望の証言者複数人による暴露話。それ以外には、物的証拠等、何もない。見出しにあるような生々しい出来事が事実としてあったのか、それを証明するにはあまりに乏しい情報源だ。
しかし、信憑性がなくとも、民衆にとっては新たな情報が投下されたということそれ自体が重要だった。インフルエンサーのタイムラインが更新されたときのような食いつき方で、民衆はゴシップを貪り、瞬く間に情報は拡散していった。
「…それで、一応、確認しておきたいのだけれど」
カルネがとある番号を呼び出して、口を開く。
カルネからの電話には必ず応答すること、…これが彼と交わしたいくつかの約束のうちの一つだ。
「週刊誌が報じた内容は本当なの?」
「本当ですよ」
事務的な口調で淡々と返され、カルネはいらぬ頭痛を覚える。火のない所に煙は立たぬとはよく言うが、それでも、あんな記事はでたらめだと怒鳴ってくれた方がマシだった。
「もちろん、証言内容は偽りだらけですよ。いくらなんでも盛りすぎだ。でも、…生前、『あの人』が家庭内の虐待が理由で施設暮らしになったことや、貧困を理由に身売りをしていたことは事実です」
彼の声からは、特にこれといった感情を推し量ることができない。彼がいかにこの話題に無関心であるのか、それをよく表していた。
「あなたからは何か発信しなくていいの?釈明した方が…」
「今更何を言えというんです?彼が客と寝た回数ですか。それともプレイ内容?」
「ふざけないで!」
プロのトレーナーとして、女優として、周囲を気遣い己の感情をコントロールすることに長けているカルネだったが、このときばかりは思わず苛立ちを露わにしてしまった。
「どうしてそんなに冷めてるの?あなたが貶められるということは、あなたが愛した人の名誉に傷がつくに等しい状況だわ。むしろ今、あなたが、故人の代弁者として当時の不遇を訴えることだってできるはずよ」
「…お叱りは御尤もですが、僕から話すことはないですよ。あなたも分かっているでしょう?これは記者たちの罠なんですよ。ゴシップ記事が金になるというのは前提として、品のない記事で僕を怒らせて表に引きずり出そうという魂胆が見え透いている。今なお雲隠れしているこの僕が、態度を一転させて会見なんぞ開いてごらんなさい。マスコミからどれほどえげつない質問が飛んでくるか想像に難くないでしょうに」
理解なんて求めなくていいんです。諦めることで保たれる平和もあります。
そう言ってのける彼は、電話口の向こう側で、どうやら笑みを浮かべていた。フ、と吐きかけられた小さな息の中に笑いの気配があったのだ。カルネは何一つ笑えないというのに。
「ネットニュースを覗いてみれば、コメント欄にあふれるのは辛辣な意見ばかりだ。でも、それが何だって言うんです?僕の振舞いにがっかりした?失望した?好きなだけすればいい。僕は誰もが望む完璧な存在になんてならない。
…『あの人』の過去を嗅ぎ当てた最初の人間は、さぞ喜んだでしょうね。日の元に出なかったものを暴く際には下衆な快感がつきものだ。
何も知らない輩が騒ぎ立てて、まるで『あの人』のことを色狂いのように吹聴していることには、僕とて怒りが湧きますよ。だが、詳細を教えてやるつもりはない。どうせ、いずれはこの世から消えていく奴らです。気にするだけ無駄だ」
――そう、殿堂入りを果たした彼の名は永遠に残る。それに比べれば、人間の寿命は瞬きの間に終わるようなものだ。下世話なゴシップに対する一時的な熱狂なら尚のこと儚いものであり、彼にとっては些事同然なのだろう。終始他人事のような態度でいるのも、その所為なのかもしれない。
「人間が勝手に始めたことは、いずれ人間が勝手に終わらせる。それが常でしょう?
あなたの気持ちはおさまらないかもしれませんが、ここは静観が最適解です。風向きが変わるまでの辛抱ですよ」
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パキラは、平日午前のワイドショーと週末の昼に放送される情報バラエティ番組に出演している。いずれも司会者としての出演であり、カロス地方内におけるパキラの知名度と好感度の高さによって、どちらの番組も安定した視聴率を保っていた。
会議室で打ち合わせのための書類をめくりながら、「あちこちで擦られ続けたネタを私の番組でも取り上げるのね」と人知れず溜息をつく。例の、新チャンピオン―正確には元チャンピオンというべきか―にまつわる話題だ。週末の番組で扱うことになっている。この番組は芸能ネタを中心に構成しているので、より通俗的でSNSでも度々トレンド入りするのである。今週の放送は、多くの視聴者が注目することだろう。
パキラは内心で「くだらない」と一笑する。パキラには独自の情報網があり、確かな筋から「虐待と売春の事実はあった」という情報を得ている。無論、証拠付きだ。信用ならない週刊誌の情報源など目ではない。
密かに入手した資料によれば、彼は組織ぐるみで違法に売春をさせられていたのではなく、あくまで個人で春をひさいでいた。そうなると、「個人の自由意志で行う単純売春」ということになるので刑罰対象にはならない。売春をせざるをえない状況に追い込まれた者は、法律上、社会的弱者と見なされることになっている。虐待を受けた子どもも売春をした青年も、公的には保護対象。彼はあくまでも守られるべき人であったのだ。世間が過剰に反応し過ぎているだけだ。
かの有名人が幼少期に虐待を受けていたと言われたら胸が痛むし、売春をしていたと言われたら「破廉恥な」と眉を顰めつつもポルノへの関心が高められてしまう、それが市民感情だ。煽動は容易といえよう。そして、結果はご覧の通りだ。大した証拠もないままアウティング上等といわんばかりに記事を世に出した週刊誌の所為で憶測が憶測を呼び、特に「売春」という強烈な単語が独り歩きしている感がある。だが、パキラに言わせれば「たかが売春」であった。
児童養護施設や里親家庭などの社会的養護からの自立を求められた若者たちは一般にケアリーバーと呼ばれるが、彼らの大半は施設等を離れても頼れる大人が身近におらず、社会的に孤立して生活苦に陥るケースが後を絶たない。彼の場合、その延長線上に売春があった。ありふれた話じゃないか。とはいえ――…自身の番組で扱う以上、盛り上げなければならない。今や誰もが知っている話題だからこそ、一捻りがほしいところだ。上手くコメンテーターから意見を引き出す必要がある。
パキラは、会議室で同席しているコメンテーターたちを見遣る。この番組は、司会者であるパキラを中心に、その他四名のレギュラーと一名のゲストで織りなすトークショーが評判だ。レギュラー陣とは長い付き合いなので、一定の信頼を寄せている。パキラが話を振れば危なげなく応えてくれるだろう。だが、今回は、敢えてゲストに声をかけたい。
なぜなら、相手がフラダリだからだ。
以前、フレア団の会合で顔を合わせた際、彼が次世代型ホロキャスターの宣伝をしたいと言うので、パキラの権限で番組に呼んだ形である。
研究者、実業家、慈善家…マルチな才能を遺憾なく発揮し続ける名士としてカロス内での呼び声高く、本来なら低俗なゴシップからは最も縁遠い存在。しかし、どこか浮世離れしている彼が自説を披露してくれるなら、きっと、画としても面白いものになる。
ありがたいことに、収録直前、フラダリから「思うところがあるから話を振ってくれ」と耳打ちされた。本人からの申し出とは願ってもいない。弁が立つ彼のことだ、必ず視聴者を納得させてくれるだろう。
「さて、最初にお届けするのは、カロス中で物議を醸しているあの話題から――…」
新チャンピオン誕生から引退までの流れ、最近になって暴露された彼にまつわる週刊誌の報道内容をダイジェストで紹介した後、パキラはフラダリの方へ視線を向けた。
「このように、非常にセンセーショナルな内容であり、今もなお世間では彼のことで持ちきりです。…ホロキャスターの開発など情報通信業でも活躍されているフラダリさんは、日夜多くのニュースに触れ、情報や人々の感情を分析なさっているとうかがっていますが、今回の件に関しては何かお考えはありますか」
カメラを前にしようが何だろうが、フラダリは緊張している様子を微塵も見せない。
燃え盛る炎のような逆立った赤毛に、たくわえられた立派な顎髭、凛とした眼光。重厚感のあるワインレッドのダブルスーツは、華やかながらも威厳がある。ノリの軽いバラエティー番組にはとことん馴染まない姿だが、だからこそ、かえって印象に残り、彼の言動が与える影響もその反響も大きくなるはずだ。
「社会的な関心が高い話題であることは、重々承知しております」
低く、穏やかな声音。その響きには、確固たる意志に裏打ちされた力強さがあった。聞く者の心を否応なく懐柔する声である。
「ですが、『みんなが言っているから』という理由で報道内容を信じている人が少なからず見受けられる点は気になりますね。渦中の本人が何の声明も発表していない以上、
マスメディアやインフルエンサーが発信する情報は、消費者に高い信頼性を持って受けとめられる傾向にあります。同時に、人は、自分が信じていることを補強するためにさらに情報を集めて、より偏った情報に依存してしまうこともあるのです」
「同じような意見にばかり接するようになった結果、特定の意見だけを信じてしまう危険性があると言うことですね」
「その通りです。こうした特定の意見や思想が増幅する現象はエコーチェンバーと呼ばれ、攻撃的な意見や誤情報などが広まる一因とされています。
虐待のみならず性風俗産業の話題が出てきてしまったために、特に未成年に対してはセンシティブにならざるを得ないわけですよね。感情も揺さぶられやすい。それは理解できます。
ですが、何度も繰り返すように、本人からの説明を待つべきです。本人が黙している以上、邪推は胸の内に留め、憶測を真実であるかのように解釈することはやめましょう。
我々にとっての確かな事実は他にあります。ここでは三つ挙げることにしましょう。
一つ、ポケモンリーグ協会の声明
二つ、ポケモンバトルの内容
三つ、彼個人と関わったことのある人々それぞれの体験
まず、協会の声明ですが、この公的機関が「本人に代わって」と明言して発表している以上、信用に値するでしょう。そして、その協会が、チャンピオン辞退の理由について「バディポケモンの治療に専念するため」と説明した。絆を育んできたポケモンの健康や生命に関することです。本人の会見を望む声もあったようですが、このデリケートな案件に対して「今の心境をお聞かせください」と訊けますか?また、その質疑に対して本人はしっかりと答えられるでしょうか。精神的な事情による会見の拒否は、充分正当な理由になり得ると考えます。
次に、彼が繰り広げてきたポケモンバトルに関してですが、これは今更私が説明するまでもないでしょう。彼の的確な指示にそって、ポケモンたちが躍動感ある姿を見せてくれた。手に汗握る白熱した試合が展開された。彼はポケモンを信じ、ポケモンは彼に応え、互いの強い結びつきを以て勝利を掴んできたのです。だからこそ我々は彼らに感動し、心の底から応援できた。それは今この番組を観ている視聴者の皆様ひとりひとりの実感としてご理解いただけると思います。
最後に――…私は、とりわけ子どもたちに、…かつて彼の生徒であった子どもたちに向かって語りかけておきたい」
カエンジシさながらに雄々しい風貌の男は、カメラに向かって驚くほど優しい視線を向けた。話し始めてから向こう、この男は一度も手元を見ていない。原稿や資料を読み上げたりしない。自身の考えを率直に届けていた。予め用意された綺麗事ではない、見せかけだけではない想いを伴って、フラダリの声がスタジオ内に響いていく。
「ひょっとしたら、周囲の大人は、あなた方の先生だった人物に関して口ごもることがあるかもしれません。…しかしながら、大人とて時には迷い、答えに窮するものです。ご容赦いただきたい。
ただ、この場で言っておきたいのは、あなた方が先生と紡いできた思い出はかけがえのないものであり、それらをなかったことにはしなくてもいいということなのです。思い出の中にいる先生を信じてください。共に学校生活を過ごした日々は紛れもなく本物なのですから。
優しい先生だったと感じたのなら、彼は事実、優しい先生だった。救われたと感じたのなら、彼は事実、生徒の心を救っている。…私は、テレビで見かけた少女のことを思い出します。彼女は、向けられたマイクに向かって『大好きな先生だったから、活躍してくれて嬉しい』と笑顔で答えていた。あの笑顔以上に、彼の教育者としての適性を物語るものはない。あの無垢な少女が、彼が人格者であったことを証明してくれた」
スタジオ内は静まり返っていた。だが、現場が冷え切っているのではなく、むしろ逆で、収録に携わる者たちのフラダリを見る目は今や完全に熱を帯びている。緊張感が生じるのも、フラダリが次に語る言葉を皆が固唾を呑んで待ち望んでいるからに他ならない。
この男は魔性なのだ、と、パキラは痛感する。フラダリには社会的な地位がある。それに相応しい有徳者であると
裏の顔――フレア団の頭領だ。「世界の浄化」を実現すべく暗躍するテロリスト集団のボスだ。熱弁を振るう口と同じその口で冷酷な指令を出し、秘密結社を束ね、自分たちの思想と相容れない人間やポケモンの抹殺を企む男なのである。かつてこの地方に君臨していた王家の末裔、その血筋は伊達ではない。否応なく下々の者を従わせる力を持っているフラダリの言葉は、一般人には劇薬のようなものだ。演説家としての彼を前にしては、人々はあっけなく陥落し、熱狂し、誰もが彼から感銘を受ける。つまり、フラダリがメディアを通じてカロス全土を相手に堂々と発言しているこの行為は、ほとんどプロパガンダに等しかった。
「過去はどうあれ、彼はあの聖域に辿り着き、歴史に残る偉業を成し遂げた。それを我々は目撃した。現場で。画面越しで。今こそその揺るがぬ真実を再確認しようではありませんか」
後に「フラダリ劇場」と呼ばれ、世間を騒然とさせる伝説の放送回である。
収録後、なぜ行方知れずの男の肩を持ったのかパキラが尋ねると「私が一石を投じて世論を操作することで、多方面に恩を売れる話題だったからな」という答えが返ってきた。
「…まあ、この返事ではあまりに露悪的か。彼に対する敬意も理由に含めておくことにしよう」
「敬意、ですか」
「何を隠そう、私も彼のポケモンバトルを観戦して胸を熱くした者の一人だ。あの華々しい戦績の裏で、どれほどの鍛錬を積んできたのか…競技である以上結果が全ての世界ではあるが、陰ながらの努力は無下にされるべきではない」
直に戦った君なら分かるだろうと言われ、パキラは頷いた。四天王として、挑戦者である彼を「火炎の間」で迎え撃ったあのとき――…タイプ相性の良し悪しを抜きにしても、自慢のポケモンたちが次々と打ち破られていく光景は、にわかには信じ難かった。戦い甲斐のある強敵であったことは認めるが、生半可な鍛え方はしていないと自負していただけに、久方振りの敗北は堪えた。決着がついてからも、「お見事です」と一言を絞り出すのが精いっぱいだった。
「収録現場で一席ぶっておいて何だが、私とて彼には興味を持っているのだよ。
気付いていたか?彼はテレビ画面の向こう側で、時折、野良犬のような目を見せていた瞬間があった。どうあっても取り繕えない、荒んだ目つきだ」
多感な時期に虐げられていた者特有の目だよ、と、フラダリは悪党の顔をして笑みを浮かべる。
「気になるじゃないか。人間不信を根底に抱え、社会を憎む者はヒーローなど目指さぬものだ。それなのに、彼はなぜあれほどの大舞台に立つ決意をしたのか。なぜ苦労して手に入れた王の座に執着せず姿を消したのか…。一人の男が私情でこれだけ世間を引っ搔き回したのだとしたら、大したものじゃないか。是非、会って話をしてみたい。そして――…」
胸の内側で薄暗いものを巣食わせたままでいる彼なら、我らが掲げる正義に賛同してくれるかもしれない。この世界の浄化に協力してくれるかもしれない。そう思わないか。
フラダリは、優秀な手駒になると判断した人物を見逃さない。側近を務めているパキラは、「彼を探し出して連れてこい」という言外の指令を正しく受けとめた。
四天王を隠れ蓑にすればリーグ内での諜報活動は造作もない。新チャンピオン辞退の真相も、彼の行方も、丸裸にするのは時間の問題だ。「彼と接触してみます」と言葉少なに了承の意を伝えると、フラダリは満足そうに「期待している」と答えた。
目撃情報が多数ある一方、(メタモンが変身能力を駆使する所為で)一向に本人を捕捉できず、この追尾がいかに困難なものであったかをパキラが思い知るのはもう少し後になってからだが――それはまた別のお話なのであります。
+++++
――誰が言ったか、って大事よね。周囲への影響力がまるで違うもの。
自分専用に与えられた協会の執務室で、カルネは息をつく。今ではもう、世間は何事もなかったかのように落ち着きを取り戻している。当時のことが蒸し返されることもなく、これは明らかにフラダリによってもたらされた平穏であった。
歴史に残るポケモンバトルを繰り広げたあと、あっさりと目の前から姿を消した彼。新チャンピオンの電撃引退とその余波。陰湿な企みによって報道されたスキャンダルと、その後の顛末…。追憶のきっかけは、先程受信した一通のメールである。
「…なによ。こっちがどんなに大変だったか気にもしないで…」
愚痴っぽい呟きになったが、カルネの口角は上がっている。だって、こんな、幸せそうな写真…しかめっ面で眺めろと言うのが無理な話だ。
メールには、何の本文も記されていない。表題も、宛名も、挨拶もない。一枚の画像だけが添付されている。愛した人間以外の相手にはとことん無礼なのである、あのメタモンは。だが、定期的に連絡するよう約束をとりつけたカルネに対し、こうして最低限の形で応えてくれている。月に一、二度という頻度ではあったが、毎月の画像の送信が途切れたことはなかった。
旅先で撮ったと思われる写真だ。満面の笑みを浮かべる男にデデンネ、ルチャブル、そして仏頂面のゲッコウガが納まっている。いつもの表情、いつもの自撮りだ。背景は、雄大な自然であることが多い。それがどこに広がる景色なのか、細かく分析すれば彼らの所在地を確認できるだろうけれど、カルネはあえて追跡するようなことはしてこなかった。彼らが今もどこかで元気に生きている。それが確認できるだけで十分だと思っていた。
「…今回も綺麗な場所ね…」
この間のメールでは、白砂の眩しい海辺の写真が添付されていたが、今回彼らの周囲を彩っているのは紅葉だ。今が見頃なのだろう、どの樹も赤や黄で艶やかに着飾っている。まるで絵付けの職人が枝先の一つ一つに丹精込めて染錦を描き込んでいるような光景――…、実際にその場に立てば、誰であろうがうっとりと目元を緩めることだろう。遠くには層塔の黒い影も写っており、どうやら、彼ら一行はどこぞの古都*1でのんびりと観光を楽しんでいるらしい。翻ってカルネの方はどうかというと、まとまった休日を取っての旅行などもう何年もしていない。理由は単純、多忙の一言に尽きる。
彗星の如く現れた一人のトレーナーが新チャンピオンになったとき、これで私は女優業一本になるわねなどと思っていた。スケジュールの管理や調整も楽になるだろうし、そうなると、少しばかりお
彼がマスターズエイトに出場していたら、どんなバトルで魅せてくれただろう。私は観戦する側に回りたかったわ、とカルネは頬杖をついた。せめて事務処理に専念できる自分がもう一人いればいいのに、と、よく思う。その「もう一人」に限りなく近い存在になろうと心を砕いてくれている存在――マネージャーがいるので、何とか毎日が回っている。
「失礼します」
ノックの音がした。扉に向かって入室を促せば、今まさに思い浮かべていたマネージャーその人がやってくる。彼女は、…ミナミは盆を捧げ持っており、盆の上にはティーセットがのっている。濃く煮出した紅茶の香りが、カルネまで漂ってきた。
休憩に誘われ、カルネは執務室中央に据え置かれたソファに移動する。目の前のローテーブルに、ミナミが手際よく紅茶のカップとガトーショコラの皿を並べてくれた。
切り分けられたガトーショコラの断面から、フルーティーなカカオの香りが立ちのぼる。口に入れれば、見た目よりも随分と軽やかなショコラ生地がほろりと崩れ、上品な甘みが疲れを溶かし心を癒していく。後味の中に、微かにハチミツの風味を感じた。隠し味だとすれば、この豊かなコクにも納得がいく…。濃厚なチョコレートの味を堪能していたのだが、そのカルネの向かい側で、ミナミは遠慮がちに書類の束を取り出してきた。
「あの…カルネさん…。オファーを出してきている各企業にそろそろ返事をしないといけなくてですね…」
「あら、ケーキを食べながら仕事の話?」
休憩じゃなかったのかしらと冗談めかして言いながら、リストアップされたものに目を通してく。オファーを受けるか辞退するか選別していくうちに、ふと、ある化粧品に関するCMの出演依頼に興味を持った。
「…ふふ、こんなお仕事もきてたのね。変わり種のフェイスマスク…ヌメラの粘液由来成分が売りですって」
カロスでは名の知れたスキンケアブランドだ。新作自体が話題になるし、ヌメラのレアリティを考えれば尚更だった。ミナミがサンプル品を預かっていると言うので見せてもらうと、パッケージデザインも大変可愛らしく、洗練された色使いとデフォルメされたヌメラのイラストが購買意欲を掻き立てることだろう。
「この『売上げの一部がポケモン保護活動の支援金になります』ってところをもう少し強調してくれたら出演するってお返事しておいて」
「え、これに出るんですか!」
「面白そうだもの。ヌメラと共演できるって書いてあるし、きっと楽しい現場になるわ。
サンプルはありがたく頂戴していくわね。撮影前に、自分で使用感を確かめておきたいし」
カルネは、また一口、ガトーショコラを頬張る。
『 La vie est le chocolat, c'est l'amer qui fait apprécier le sucre 』…カロス地方の格言だ。『人生はチョコレート、苦みが甘みを引き立てる。』ここ最近は苦労の連続だったからこそ、愉快な仕事が舞い込めばそれだけ心が弾むというものだ。
そうよ。つらいことばかりじゃない。誰にだって、チョコレートのように甘美でとろける瞬間は訪れる。だから生きていけるんだわ。
カルネは顔を上げる。窓へと目を向ける。外では、カルネの心の景色を反映したかのような、澄んだ秋晴れの空が広がっていた。
【 了 】