山火事の痕を目の当たりにしたのは初めてだった。
地表の草や木々の葉の一切が焼けているため、炭化した幹と枝だけが目立ち、山肌に無数の黒い針が突き刺さっているような光景が広がる。すんと辺りの臭いを嗅いでみるが、思いのほか焦げ臭さは感じない。鎮火して随分と経っているらしく、足元を見遣れば、焦土の中であれ新たな芽がちらほらと確認できた。春が本格化すれば、まだ地中で眠っている種も含めて一斉に芽吹き、やがて緑を取り戻すだろう。
山火事に見舞われたポケモンたちには災難だったが、その一方、山火事には恩恵もあるのだとジャラランガが話していたことを思い出す。まず立ち枯れした樹や病気の樹が焼失するし、余分な樹木が間引きされれば地面に降り注ぐ太陽光が増えて新しい植物が顔を出す。火災で発生した灰のおかげで土壌の栄養分が豊富になり、新たに生え出た植物の成長も助けてくれる。野山の若返りという意味では、確かに、山火事は自然界にとって有益ということになりそうだ。今後の再生を祈るばかりである。
視界を遮るものが燃えて隠れる場所がなくなったため、他のポケモンの影もない。それは、縄張りを気にすることなく山に入りやすいということでもある。さて、どうしようか。迂回して別の森に立ち寄るか、あるいはこの焼け野原を突っ切って手っ取り早く山向こうへと抜けるか――…こうして考えを巡らせているときに限って、中断を余儀なくされる出来事が起こったりする。
どこからともなく聞こえてくる、子どもの泣く声。
厄介事に首を突っ込むであろう可能性について、ルチャブルは勘定に入れない。泣くというのはある種の発信であるため、誰かが困っているのなら助けようと自然に発想するのである。この鷹は。ゆえに、ルチャブルはひとまず声のする方へと走った。
ベロバーたちの薄桃色の肌は、黒々とした焼け跡の中でよく目立った。彼らは何かを――小さな灰色の毛玉を集団で取り囲み、囃し立てながら、引っ張ったり蹴とばしたりしている。明らかな加虐行為であり、被害者である毛玉からは先程聞きつけた泣き声がした。頭部を守るように身を丸めているその毛玉に、黒い鉤爪とくすんだ色の小判が見える。どうやら幼いニャースが標的となっていた。子どもがいじめられているという状況を見逃すことなど到底できず、ルチャブルはばさりと羽ばたいて、上空からベロバーとニャースの間に割って入った。ただの見切り発車ではない。揉め事を仲裁するには荒事に対応できるだけの力が求められるものだが、積み重ねてきた鍛錬やジャラランガとの生活、これまでの旅を通じて、ルチャブルは己の強さをあてにできる程度には武力を備えていた。
『やめろ』
端的に言い放つ。うずくまっているニャースを翼の影に隠して、ルチャブルは周囲のベロバーたちを睨みつける。その眼光に束の間気圧されるも、彼らはすぐに眉間にしわを寄せて鼻を鳴らし、不満をあらわにした。
『事情も知らねえ野郎が、勝手ぬかしてんじゃねえぞ』
『そうだな、俺は何も知らない。だが、頑是ない相手に寄ってたかるほどのことか?』
問えば、せせら笑いが起こった。意地悪ポケモンと分類されるだけのことはある、実に不愉快な笑い方だった。
『外をひとりでふらついてたそいつが悪ィのさ。現実の厳しさってやつを教えてやらねえとなあ!』
まるで反省の見えない嘲笑に、ルチャブルは白ける。これが狩りであったなら、ルチャブルはベロバーたちを止めなかった。しかし、悪意に歪むにやけ面で弱い者をいたぶっていたとなれば、理不尽への怒りの方が勝る。
――ベロバーの側には、一応、のっぴきならないわけがあった。彼らはその生態上、ポケモンが発するマイナスエネルギーを糧にして生きている。だから、相手の負の感情を促進させるべく積極的に嫌がらせを行う。そうして定期的にマイナスエネルギーを取り込まないと自身の健康を損なうという、非常に難儀な特徴を有していた。そのことを、ルチャブルは知らない。知らないが、彼らの生態について説明を受けたところで「ならば仕方がない、気が済むまでこのニャースをいびればいい」と差し出すことはあり得なかった。
『おまえたちの意図するところは、もう十分に伝わったはずだ』
ルチャブルはニャースを抱き上げた。ルチャブルの両腕におさまるほどの幼いニャースだった。小さな身体は未だぶるぶると震えていて、こんな子どもが何の抵抗もできないまま必死で暴行を耐えていたのかと思うと憐れを誘った。
『集落外を軽率にうろついたらどうなるか、骨身にこたえただろうさ。じゃあな』
『じゃあな?ふざけんじゃねえぞ鳥野郎』
かちかちと牙を打ち鳴らし、ベロバーたちが臨戦態勢を取る。
『なんだ、俺と一戦交える気か?本気で?』
ルチャブルの余裕は崩れない。ニャースを抱えて腕が塞がっているにも関わらずその立ち振る舞いには隙がなかった。手練れの風格である。
虚栄で物を言っているのではないことが伝わり始めたのか、ベロバーたちが僅かに及び腰になった。そして、その瞬間こそが離脱のタイミングであり、ルチャブルは正しく見定めて地を蹴る。軽やかな動作で樹木の枝をめがけ、その後も枝から枝へと飛び移っていく。自慢の両翼が使えずとも、逃げおおせるには脚力だけで十分だった。背後から悔しそうな喚き声が聞こえてきたが、ルチャブルは一度も振り返らずにその場を後にした。
『…山火事で住処を失った連中ばかりで、皆、気が立っている。こういうとき、当分は治安が悪くなるんだ。ひとり歩きはするな。分かったな』
忠告はしてみたが、さて、どれほど響いているのやら。腕の中のニャースはぐすぐすとすすり泣きを続けており、一向に泣き止む気配がない。
集落まで送っていく気でいたルチャブルは、どこに住んでいるのか尋ねもしたのだが、嗚咽が返ってくるばかりで会話も成り立たない。落ち着かせたりあやしたりするために木の実の一つや二つ欲しいところだが、火事で木々が焼け落ちた云々以前にそう簡単に見つけられる時期ではなく、ルチャブルはそっと嘆息した。子どもの足で移動してきたのなら集落からそう離れてはいまい。焼け残った方の森の中で聞き込みをしようと歩いていると、途中、親切なグルトンが『困りごとかい』と声をかけてくれた。迷子を保護した旨を話すと、運のいいことに、グルトンはニャースの里に心当たりがあるという。
『いやあ、もしやと思って…』
ここから少し行った先にニャイキングの治める集落があり、奇遇にも、グルトンはそこへ向かう最中だったとのこと。
『村長以外の住民はニャースばっかりでさ。この子の親もいるかもしれない』
もののついでだから案内するというグルトンの言葉に、ルチャブルは素直に甘えることにした。道すがらグルトンと喋りながら歩を進め、そのうちにニャースはすうすうと寝息をたて始めた。こちらに害はないと分かってようやく安心したのか、単にくたびれたのか。親の方も心配しているだろうから、早く元居た場所に帰してやりたかった。
『この季節にして食糧に困っていないどころか、他のポケモンにも分けてくれる集落なんだよ。もちろん対価は必要なんだけど、それでもありがたくってねえ。おいらは、もう何度か世話になってんだ。集落内の雑草を抜いたり土を耕したりして、そいで、分け前をもらって』
火事で困窮してるポケモンが多いから、本当に助かってる。グルトンはにこやかに話し続ける。陽気な性格らしく、このお喋りは目的地に到着するまでやみそうにない。特段饒舌ではないルチャブルは専ら聞き役である。相手が話してくれた方が気楽なので、それで構わなかった。
『このへんにはタルップルも住んでるし、そっちからも蜜をわけてもらいたいんだけど…これがなかなか手強くて。おいらたち、お互いにあんまり仲良くできなくてさ。喧嘩するくらいならニャイキングの集落を頼った方が平和なんだよな』
ほら、見えてきたよ。
グルトンが前脚で示す方を見れば、確かに、そこにはこじんまりとした集落があった。新しい小屋ばかりで、できて間もない集落であることがわかる。そういえば、先程、もとは別の森にいたニャイキングの一派が火事から逃れてきて築いた里だとグルトンが言っていた。
自分たちも山火事の被害者であり、新天地での生活を始めたばかりで余裕もないだろうに、困ったときは持ちつ持たれつとばかりに他のポケモンに食糧を分け与えるとは。なんと懐が深いのだろう。この集落を束ねる長はよほどの傑物に違いないと思いながら敷地内に足を踏み入れると、すぐに何体かのニャースが振り返り、そのうちの一体が目を見開いてルチャブルに駆け寄ってきた。
『ぼうや!』
悲痛とも安堵ともつかない、複雑な感情が入り交じるヒステリックな声。まるで救いを求めるように伸ばされたその腕に、子どもを渡す。母親はその場で泣き崩れ、騒動で目覚めた子どもが寝起きのために現状を理解できず混乱のまま再び泣き、ふたり分の泣き声が重なり合って集落に響いた。
『見つかったと聞いたが、本当か』
ルチャブルと母子の周りにできつつあった住民たちの輪を掻き分け、ニャイキングか姿を現す。
低く威圧的な声に厳しい口調、鋭い目つきは、彼こそ集落を治める者だとわからせるに十分だった。集落外の者とも食糧を分かち合うという心温まるエピソードからは想像できなかった冷酷さを、第一印象として抱く。
ルチャブルが迷子を保護した経緯とグルトンの親切について語ると、ニャイキングはまず母子に目を向けた。
『子どもを休ませろ。怪我がないかもう一度検めておけ。食欲があるようなら木の実を食わせるんだ』
指示した直後、ニャイキングの目がぎょろりと動いてグルトンを見遣る。
『おまえはこの集落に顔を出したことがある奴だな』
緊張の面持ちでグルトンが『へい』と答えると、ニャイキングは『交換所で木の実を持っていけ』と言う。
『今回はおまえの気遣いを対価にしよう。群れの者が世話になったな』
グルトンは一礼すると、いそいそとその場を離れていく。ルチャブルの横を通り過ぎる際、彼からこっそり『おいらの株を上げてくれたあんたのおかげだぜ、兄さん。ありがとな』と囁かれた。見送る後ろ姿の中央で、くるりと巻かれた尻尾が嬉しそうに揺れていた。
さて俺が最後かとルチャブルがニャイキングの様子を窺うと、彼は『少し待ってろ』と待機を命じてきた。
『おい、おまえたち。客だ。池のほとりに通せ』
一体の若いニャースが、命令を受けたそばから迅速にルチャブルのもとへやってくる。『こちらにどうぞ』と言われるがまま、ルチャブルは日当たりのいい草地に案内された。
すぐ目の前に、美しい池がある。春を間近に控えた季節特有の淡い日光が水面で反射してきらきらと輝く光景、感嘆するばかりだ。『この集落でもとびきり眺めのいい場所ですよ』と案内してくれたニャースが胸を張る。
『さあ、腰をおろしてくつろいでください。よかったら、お茶でもいかがですか』
木の実の殻を利用した小さな椀を差し出された。水出し茶だという。水に僅かながら黄緑が着色されたようなごく薄い色味のそれは、茶というには少々青臭い香りがした。
『汲み置きした池の水に、生の茶葉を入れて作ってます』
一口含むと、見た目に反して強い苦みが先陣を切った。行儀などを気にする間もなく顔をしかめてしまったが、ルチャブルの表情から察したのか、ニャースは『慣れたら不思議と癖になるんですよ』と苦笑を見せる。
『実際、疲労回復によく効きます。独特の味ではありますが、遠方からきた方々にお出しすると喜ばれるんです』
茶の味はさておき、ルチャブルを労うつもりだったらしい。事実、苦みが引いた後には嘘みたいに爽やかな風味が口の中に残る。奇妙な心地だった。
ちびちびと茶を飲み、待つというよりは休憩するくらいの気持ちでのんびりしていると、背後で、草を踏む音が近付いてくる。
『すまんな。真っ先に謝礼をすべきところだったが、無礼を詫びる』
そのまま、ニャイキングはどすんとルチャブルの隣に座ってあぐらを組んだ。
『改めて自己紹介をしよう。オレがこのシマを仕切ってるニャイキングだ。歓迎する』
『ルチャブルだ。この森には旅の途中で通りかかった。さっきの子どもと出会ったのも偶然なんだが、役に立ててよかったと思ってる』
『やけに謙遜するんだな。おまえを待たせている間に話を聞いてきたんだぞ、ベロバーの連中から助けてくれたそうじゃねえか』
礼を言う。
褐色の双眸が、真っ直ぐにルチャブルを見つめる。
『最初はな、誘拐の線も疑って群れの連中に探しにいかせてたんだ。おまえとは入れ違いになった格好だな。で、しゃくりあげるチビから事情を聴き出すのにゃァ苦労したが…、焼け跡が見たくて村を抜け出したんだとよ。ひとりで外に出るなとチビ共には何度も言い聞かせてあるんだがな…あいつらには理屈が通じねえ』
喉元過ぎれば、だな。ルチャブルは胸中で独り言つ。山火事から逃れる道中は、幼心にもどんなに恐ろしかったかしれない。だが、こうして安住の地を見つけ、平和な日々を送っているうちに、かつての恐怖が薄らいでしまったのだろう。それに、子どもであれば尚のこと「行くな」と禁じられれば気になるものだし、どうせ大丈夫と根拠もなしに思い込んでしまうことだってある。今回の苦い経験から学ぶものがあれば御の字だ。
『旅する身の上というのなら、今夜は泊まっていけ。客をもてなすくらいの余裕はある』
ありがたい申し出だった。今は晴れているが、少しずつ羽毛が重たくなるのを感じていたところだ。おそらく夜には雨が降ってくるだろう。食事を振舞ってもらえる上に屋根のある場所で一晩を過ごせるのなら、願ったり叶ったりだった。
***
子守唄のような優しい小雨が夜通し降っていたが、夜が明ける頃にようやくあがった。早朝、ひっそりとルチャブルは起きだして、宴のあともそのままに周囲で眠るニャースたちを起さぬよう、外へ出た。
まだ眩しさのない、薄明りの陽光が美しかった。草にのる雨粒と朝露で足元を濡らしながら、池に近付き、すくった水で顔を洗った。凍てつくほどに冷たい水が清々しく、自分の肉体が芯から目覚めて冴えわたっていくことを実感する。昨日飲ませてもらった茶のおかげか、雑魚寝だった割に疲れは残っておらず、身体が軽かった。
もてなしの礼を告げたら午前のうちにここを出立しよう。そう思いながら顔を上げると、集落の端に、柵で囲われた箇所があることに気付いた。果樹園である。緑の葉の隙間から、鮮やかな色をした木の実がのぞいている。木の実の形も色も様々であり、自然の恵みが彩り豊かに実っていることは一目瞭然だった。じきに春が巡るとはいえ周辺では新緑も大して出ていないというのに、ここでは既に葉が生い茂るどころか結実してたわわになっている。
この実りを報酬にできるからこそ集落はよそのポケモンたちから労力を借りることが可能となり、隅々まで整備されているわけだ。ルチャブルが今までの旅で立ち寄ってきた集落の中にも、豊かな暮らしをしていたところが複数あったが、いずれも「食」に関する強みを持っていた。そういう集落では、大抵、美味いものを生成する能力を持ったポケモンがいる。ミルクにクリーム、卵、油、香辛料など、魅力あふれる多様な「商品」を自分の身体を資本にしていくらでも供給してくれるのだから、多くのポケモンが群がるのは当然だった。それにあわせて交易が盛んになるので集落はますます活気づき、よりいっそう栄えていく。羨ましい限りだとルチャブルが果樹を眺めていると、樹の根元で何かが動いた。明らかに、ルチャブルの存在を知って焦り、慌てて身を翻したような挙動だった。木の実を狙って侵入した何者かだとすれば、発見できたのは幸いだ。自分が退治しておこう。心に決めて、ルチャブルはたんと地を蹴り、風を切って目的地へと滑空する。
木々の間を覗き込み、観念しろと声高に叫ぶつもりが――…そこにいたのは、怯えた目でルチャブルを見てくる小さなチュリネだった。日光と水があれば生きていける、いかにも植物らしい見た目をしている。口はなく、彼女にとって木の実は食すものではないはずだ。当初の自分の推測とは異なり、盗みを働くためにやってきたとは考えにくい相手である。それに、チュリネと聞いて思い浮かべる丸々とした姿とは程遠く、目の前の彼女は全体にやつれているため、いやでも憐憫の情が湧いた。
『怖がらせて悪かった』
ルチャブルは一言詫びて、チュリネの警戒を解こうと試みる。
『影が見えて、…だから、誰がいるのか気になって確認しにきただけなんだ』
優しく聞こえるよう努めて口調に気を付けたことが功を奏したのか、チュリネは震えながらも小さな声を紡いできた。
『…私…表に出るつもりじゃなかったんです…。隠れていなきゃいけなかったのに、…でも、…あなたの羽の色が綺麗で、つい、心惹かれて…』
そんなことを言われたのでは、もう、何も追及できなかった。ルチャブルはチュリネをこの場から逃がそうと思い、口を開く。
『ここは集落の者たちが大事にしている果樹園だ。外から迷い込んだのか?不用意にうろついたら変な誤解をされるかもしれない。帰ったほうがいいぞ』
集落の住民はニャイキングとニャースしかいないと思い込んでいたからこその発言だった。ゆえに、直後、ルチャブルはチュリネからそっと首を横に振られることとなる。
『私が、果樹園の管理をしているんです』
ひとりで、とは言わずもがなだろう。
痩せ細った外見から察せられるチュリネの負担を想像すると、途端に遣る瀬無さが募った。
『この集落でたくさん木の実が収穫できているのは、おまえのおかげなんだな』
『……、そう…なるのかな…』
『春の盛りかと錯覚するくらいの実のつけ方だ。それも、おまえの苦労あってのことだと思う。俺だって昨晩木の実を食わせてもらった。美味かったよ。だが、それで周囲の者が肥え太る一方、おまえがこんなにも痩せているのはフェアじゃない。働き詰めてるんじゃないのか』
『これがせめてもの恩返しなんです。…私には山火事から命を救ってもらった恩があるので。私にできることで皆さんに貢献しないと…』
自ら望んでそうしているというより、「自ら望んでそうしている」と自分に言い聞かせているようにしか聞こえず、ルチャブルは居たたまれない気分になった。
これ以上何と声をかけていいか分からずに途方に暮れていたところへ、『おはようございます』と後ろから挨拶を受けた。振り返ってみると、あくびを噛み殺して眠そうに目をこするニャースがいた。
『鷹の御仁はお早いんですねえ』
のんきなことを言うばかりで、ルチャブルが果樹園にいることを咎めてこなかった。寝起きだからか、ルチャブルがなぜここにいるのか怪しめるほど頭が回っていないらしい。
『チュリネも、おはよう』
そう言うと、ニャースはぞんざいな態度でチュリネの頭部にある葉を毟った。慣れているから雑に扱う、そんな手つきだった。止める間もなく、ルチャブルは唖然としてしまう。チュリネの方は痛みに耐えるようにぎゅっと目を閉じているだけで、抗いもしない。
『…おまえ、何を…』
やっとのことで言葉を絞り出すルチャブルに、ニャースはあっけらかんと笑いかける。
『茶摘みは僕の担当なんですよ。大丈夫、明日になればまた新しい葉が生えてきますから。それに、彼女が光合成できるよう一枚は残すようにしてるので心配しないでください』
「大丈夫」も「心配するな」もチュリネが言うべきことでおまえが口にしていい台詞じゃないだろうがと喉元まで出かかった。しかし、何も知らずに自分が昨日飲んだ茶はチュリネの葉を使っていたことを悟って気が重くなり、その場では口を開けなかった。
朗らかにチュリネに挨拶しておきながら、その実彼女の萎れた様を見ても気にかけず、それどころか作業的に葉を千切っていったニャースの態度に、気味の悪いものすら感じる。まさか、命を助けてやったのだから酷使も当然と思っているのだろうか。
『…いつも、こうなのか』
ニャースが去っていった後で、改めてチュリネに問う。彼女は俯いたままで、ルチャブルに答えることはなかった。だが、沈黙こそが肯定を示している。
チュリネ自身がこの状況に納得しているとはとても思えず、逃がしてやりたいという考えが再び浮かぶものの、彼女が集落の一員と判明した以上、ルチャブルの自己判断による勝手は許されない。たとえばチュリネ自身が逃げたいと望まない限りルチャブルにはどうすることもできないのだ。ただ、休ませてやるようニャイキングに進言するお節介くらいは焼いても構わないだろうか。
ニャイキングがチュリネのことをどのように捉えているのかも確認しておいた方がいい。話をしてみよう。思い立つルチャブルは、踵を返す。その目に、集落が映る。自分を歓待してくれた里は、今を以て急に、遠くに感じられた。