『休ませてやれ…ねえ…』
顎から胴にかけて生える豊かな体毛を撫でながら、ニャイキングは冷ややかにルチャブルを見てきた。
『そりゃあ、オレらだって心配してるんだぜ。だがな、あのお嬢さんは「気が済むまでさせてくれ」の一点張りだ。頑固…いや、一途というべきか…。この集落への恩返しを第一に暮らしてるわけだ。健気なもんさ』
ニャイキングは赤銅色の目を細め、何食わぬ顔で『彼女はここでの暮らしに満足しているはずだ』と言ってのける。だが、ルチャブルは実際にチュリネの現状を目の当たりにして以降「チュリネが逃げ出せないよう過労で弱らせて飼い殺しにしているのではないか」という疑いを持っているため、いかに聞こえのいい言葉を並べられようとも、ニャイキングの言い様は白々しく感じられた。
『山火事で命を拾っただけじゃねえ、好みの土と水が豊富にあるこの場所で自分の能力を遺憾なく発揮しながら他者に貢献できる…幸せなことじゃねえかよ。当のチュリネが頑張りたいってんなら、オレらは好きにさせておくだけだ』
『その頑張りも、健康あってのことだ。チュリネが倒れたらどうしようもない』
『……、…あのなあ、ルチャブルさんよ』
ずい、と目の前に迫るニャイキング。彼は挑発的に、口が耳元まで裂けるような化け猫じみた有様で笑みを浮かべた。上下に生えそろうトラバサミがごとき鋭利な牙が剥き出しになり、ルチャブルを威圧してくる。
『部外者がちぃっと踏み込みすぎじゃねえのかい』
『部外者だから言えることもあるだろ』
『チュリネを休ませている間、その分だけ木の実の生産が落ちる。どう補填するんだ?ん?』
…これが本音だ。心配なのは木の実の方じゃないか。
しかしながら、ここで食って掛かったところでチュリネを救うことにはならない。ルチャブルはぐっと口を引き結んで、湧き上がる怒りをこらえる。
『おまえは仲間を助けてくれた。今回許可なく
『…木の実の他に提供できるものがあればいいってことか』
見得を切るからには相応の成果を出す必要があるが、そもそも、ルチャブルとてただの言いっぱなしで終わらせる気はない。木の実の代わりとなるものを探してくることを自ら請け負い、その場をあとにした。
***
ルチャブルは、グルトンの話を覚えていた。この辺りに棲むというタルップルを頼みにしようと思いたち、森の中で匂いを嗅ぐ。猛禽の嗅覚はそれなりに鋭敏であるため、すぐに、風にのって運ばれてくる蜜の香りを捉えた。
香りを辿って進んでいくと、ほどなくして目的の
のんびりとした咀嚼。そして嚥下。相手の動作に合わせてタイミングを見計い、ルチャブルは口を開くが、先んじてタルップルの方から声をかけてくれた。
『お待たせ』
タルップルはべろりと口周りを舐めてきれいにした後、頭部や鼻先を器用に動かして獲物の残骸を片付ける。もがれた脚や触覚、翅の一部。アゲハントのものだということは、翅の模様で判別できた。
『久しぶりのエサだったからさ、夢中で食べちゃった』
『…その翅は?あとから食べるのか』
『いや、これは物々交換用だよ。蝶や蛾の鱗粉を欲しがるやつが割といてね。行商がきたときのために、翅はとっておくことにしてるんだ』
腹が膨れたばかりだからか、タルップルは機嫌がよかった。初対面のルチャブルにもにこやかに応じてくれている。
『それで?お兄さんは何の用なの?』
『おまえがつくる蜜を分けてほしくて探してたんだ』
単刀直入に切りだした後、ルチャブルはニャイキングの集落について語り、チュリネの境遇を憂いている己の心境を率直に話した。
『木の実の他にも配給できるものがあれば、チュリネの負担を減らしてやれると思うんだ。…毎日じゃなくて、時々でいい。時々でいいから、協力してくれると…』
『別にいいけど?』
…一瞬、都合のいい幻聴かと思ってしまった。
拍子抜けするほどあっさりとタルップルが返事を寄越すので、喜ぶよりも先にルチャブルは面食らうこととなった。
『い、…いいのか』
交渉が長引くことも当然覚悟していただけに、つい確認をとってしまったが、やはり淡々とした調子で『うん。断る理由も特に思いつかないし』と補足し、タルップルは結論を変えない。
『集落の責任者が頭下げに来いよとは思わなくもないけど、そのへんは、まあいいいとして。
僕の蜜はご覧の通りほとんど垂れ流しの状態なんでね。君らにとっては美味しいものなのかもしれないけど、僕にとっては獲物をおびき寄せたり敵に吐きかけて身を守るためのもので、自分で舐めたりはしないしさ。だから、出し惜しみするほどのものでもないんだよ。役に立つなら、好きに使ってくれていい』
僕が手を貸すのは意外だった?と、からかうように笑いかけられたので、つられてルチャブルも笑みが浮かんだ。『蜜をもらうのは難しいとグルトンから聞いていた』と打ち明けると、タルップルは『あー…グルトンかあ…』とぼやく。
『彼らのことは嫌いじゃないんだ。でも、近付かれたら困るんだよねえ…。
僕の主食はリンゴなんだけど、さっき君が見たように、虫だって好物だからさ。僕が分泌する蜜や香りに惑わされた奴らを狩るわけ。その点、グルトンの体質は僕とは正反対でね。体から虫を退ける香りがしてるんだよ。ハーブみたいな。だから、グルトンがきたら追い払ってるのさ。邪険にするのは心苦しいけど、狩りの邪魔をされたくないもの』
グルトンが例外なだけで、タルップルの基本スタンスは「来るもの拒まず」らしい。すんなりと受け入れてもらえたことはありがたいが、ここでタルップルに甘えきってしまっては一方的な搾取になりかねず、下手をしたらチュリネの二の舞だ。
『善意に感謝するが、一応、報酬を設定してくれるか。見返りを求めない姿勢がかえって不自然に思われるかもしれない』
『なるほどね。…そうだ、集落には池があるんだっけ?チュリネが居つくくらいだ、さぞやうまい水なんだろうなあ。その水を飲ませてもらえるなら、蜜をあげるってことにしようか』
『分かった。ニャイキングには必ず話を通そう』
誰かにとって損になる話ではない。それに、既に池の水を使った茶は提供されてきたのだから、木の実ではなく集落の水を対価にすることにも異論は出ないだろう。ルチャブルはタルップルとの約束を手土産に集落へと戻る。前向きな返事がもらえた分、足取りが軽くなるのを感じていた。
――ニャイキングは、とうに、「特定の者ひとりから利益を搾り取る」システムがいつか瓦解することを理解している。新たな集落の生活が安定するまではチュリネを馬車馬のように働かせてきたが、そろそろ別の一手を講じる必要があると考えていたところだ。そんな折に現れたのが、ルチャブルである。ニャイキングは、ルチャブルの言動からその性格を早々に見抜き、「こいつもチュリネと同じで、何かと押しつけてやらせておけば勝手に頑張る奴だ」と見なしたからこそ、敢えてルチャブルを焚きつけた。言うまでもなく、ルチャブル自身はそのことに気付いていない。つまり、ルチャブルはニャイキングの手のひらで転がされるがままに奔走し、タルップルの勧誘にこぎつけたことになる。
ルチャブルは、利用されているなどとは考えもしない。ただ、いじらしいチュリネを見捨てることができず、寂しそうにしていた彼女を励ましてやりたくて、行動しているだけだった。
***
茶葉の代わりにタルップルの蜜を溶かした蜜水は、文句のつけようのない美味さだった。甘露もかくやと思わせる味は大変に好評で、それゆえに満足感が高く、所詮は代替品などと言ってごねる者はほとんどいなかった。いつでも木の実をもらえることがむしろ出来過ぎていたのだと理解してくれるポケモンが多く、これで一時しのぎができそうだとルチャブルは胸を撫でおろす。
有言実行を果たしたルチャブルは、その後しばらく集落の片隅に滞在することを許された。長居するつもりはなかったのだが、自分の提案したことがうまく機能してチュリネが住みやすくなるまで見届けておこうと思ったのだ。
いつもの要領で枝と木葉の庵をつくり、そこで寝泊まりをする。既にもてなされるべき客の立場ではなくなっているため、食糧は自分で調達しながら、チュリネを気にかける生活が始まった。
数日おきにタルップルがやってきて蜜を提供し、蜜水を目当てにグルトンもやってきて、蜜水の対価に自身の香りを果樹園にふりまき虫除けに協力してくれた。結果、果樹園の管理が楽になっただけでなく、木の実の収穫や茶摘みの回数を以前より制限してもらうことが可能になり、チュリネは葉が生えそろったままで休息をとれるようになった。
これを機に、食べ物以外で集落の売りを生み出せないものだろうか。そう考え、ルチャブルは小物作りを再開した。
チュリネには以前と比べて余裕ができている。これで多少なりとも心身が回復するはずだと思われた矢先、空では曇天が増え、そのうちに雨が降り始めた。春の長雨の到来である。慈雨とはいえ天気はぐずつくばかり、気が滅入る一方だ。心配になって時々チュリネの様子を見にいくのだが、雨にうたれながら木の根元で縮こまっている彼女の姿を見るたびに胸が痛んだ。休める時間は増えたはずなのに、チュリネはちっとも元気にならない。『大丈夫か』と声をかけると、チュリネは弱々しく微笑みを返してきた。
『おかげさまでゆっくりできているんです。あとは、日の光を浴びることができれば…。こればかりは晴れるまでの辛抱ですね…』
そうは言っても、いつ晴れるのかは分からない。待っている間にもチュリネはどんどん衰弱していく。これまでの働き過ぎが祟り、やはり体調を崩しているらしかった。葉っぱ一枚での光合成では自分の身を健やかに保つだけのエネルギーを作り出すことができなかったのだろう。
だが、今は違う。チュリネの頭部では三枚の葉が揺れている。この状態でしっかりと光合成をさせてやりたい。日照り乞いでもできれば――…このとき、ルチャブルは閃きを得た。一旦集落の外へ出て、少しでも天に近付けるよう、雨がそぼ降る中を移動して崖の上へとやってきた。みおろした先にあるニャイキングたちの集落と果樹園を眺めたあと、心を落ち着けて集中するために、きゅっと目を閉じた。
舞の根源は祈りと感謝。
この世を創ったとされる上位の存在へ洗練された舞を奉納することで、己の内なる祈願を届ける。
お願いだ。どうか、…どうか、晴れ間を与えてくれ。助けたい相手がいるんだ。ルチャブルは、己の願いをのせて、崖の上で舞い踊った。雨は、ルチャブルと天空とを繋ぐ無数の糸だった。あの春の野で舞ったときのように、自然界と一体になった心地がした。
晴れますように。晴れますように。自分の記憶の中から晴天の記憶を引っ張り出し、強くイメージした。暖かな陽だまりでのうたた寝。真っ白な雲。七色の虹。揺れていた麦の穂。いつか見た夏の星空。バルビートたちが明滅させる蛍火――…一心に祈りをささげて、舞をささげて、目を開けて、しなやかに仰け反り空を見上げた。
応答が、あった。
鈍色の雲が割れた。まるで見えない手が雲をぐいと左右に押し開いているみたいに、局所的ではあったが、心から待ちわびた青空が見えた。目算、ルチャブルを中心としたおよそ半径2㎞の範囲で日光が燦々と降り注いでいる。他所ではまだ雨が止まないのに、ルチャブルのいる場所だけが晴れた。
ルチャブルには、確信があった。偶然でも何でもなく、この現象を自分が引き起こしたのだという確信があった。そして実際、それは正しかった。ルチャブルが初めて自力で発動させた『日本晴れ』である。
この陽光がニャイキングの集落にも届き、今頃、チュリネの身体が温まっているといい。それを確かめに、今一度引き返そう――…ルチャブルが踵を返した瞬間と、何者かが水溜まりに足を踏み入れてぱしゃりと音を立てた瞬間とが、重なった。
音がした方へ視線を向ける。ひとり佇む者がある。三度笠。道中合羽。一見してさすらいの格好と分かる。合羽の裾からすらりと伸びる手足の先には、吸盤と水かきが見えた。蛙なのだろうが、今までに出会ったことのあるドクロッグやニョロトノとはまた種類が異なっており、見覚えのない種族である。
互いに身動きもせず対峙する。ルチャブルの琥珀色の目と、三度笠の下からのぞく桜色の目とが、向かい合わせになる。視線が絡まりあう。今にして思えば、そのとき確かに結びついたのだ。出会うべくして出会ったのだ。これから先の苦楽を分かち、支え合うふたりとして。