俺は幸運だ。
このひと月の間で、ルチャブルが幾度となく胸中に浮かべた感想だった。
正直なところ、籠の中にいる間は生きた心地がしなかった。しかし、どんなにひどい目に遭わされるかしれないと絶望的な気持ちでいたルチャブルを、主人は温かく迎え入れてくれた。彼女は詩歌をたしなみ、楽器を好み、花鳥風月を愛でる文化人で、よくルチャブルを側に置いては多様な話を聞かせてくる。
ただの愛玩用として人形扱いされることはなかった。何かにつけ、こちらの意志はきちんと尊重されている。大切に保護されている。ゆえに、少なくとも恩知らずの穀潰しにだけはなるまいと、ルチャブルは機会あらば報いたいと思っていたが、その契機は案外とすぐに訪れた。
彼女は大国の姫君だ。平民にはない豊かさや特権を約束された人生と引き換えに、要人として命を狙われることを勘定に入れねばならない酷な立場にあった。無論、厳重な警備体制が整えられてはいるがそれでも隙はあり、敷地内まで賊の侵入を許してしまったことも幾度か。
――ところが。
監視をかいくぐってきた手練れの凶刃が迫るたび、ルチャブルは見事にそれらことごとくを撃退してみせた。人間側からしてみれば、小柄な彼が剣呑な事態に臆せず立ち向かって強者をばったばったと薙ぎ倒していく様は意外でもあり痛快でもあり、やんややんやの拍手喝采である。
このことがきっかけで、彼は主人からも周囲からも信頼を寄せられることとなり、今では立派な護身刀として活躍している。
頼もしい強さが証明されたことで、いっそう、主人はルチャブルを連れて歩いた。本日もそう、晴れやかな空のもと、城内の庭園散策に付き添っている現在だ。
季節は、晩秋。
庭の紅葉は、まるで錦で着飾ったように美麗な景観を作り出している。
こうして四季の移ろいを楽しむ感覚も、主人を通じて身につけたルチャブルの素養の一つだった。
いつしか涼しげな風が吹いて、さやさやと優しく音を立てながら姫君の髪をなびかせる。鈴を転がすような声で、彼女は「吹く風の色のちくさに見えつるは秋の木の葉の散ればなりけり」と口ずさむ。「葉が舞うこの季節は、まるで風にも色がついているように見えるね」と、怜悧な貴人が話しかけてくる。
「おまえの身にも四季が一揃い。花の赤、夏の青葉、秋の黄色に雪の白」
よく笑う己が主人は、聡明で美しい。
いかにも風雅で平和な空間である。
なればこそ、ルチャブルは紛れ込んだ違和感に敏い。
本能的に「妙だ」と察した方向へ視線を向けると、何者かが――いた。
それは遠く、木の中に巧妙に隠れているから枝や葉で見えづらくはあるが、確かにこちらをうかがっている。
ただし、敵意はない。
排撃のために姫君の傍を離れるかどうか迷うところではあったが、この外歩きがもう間もなく終わることを知っているルチャブルは、警戒はしつつも主人の隣に位置取ることを選んだ。
影の者が誰であったのか、その顔を拝んだのはとっぷりと夜が更けた頃だった。
***
姫君が寝静まったことを確認してから、ようやっとルチャブルの一日が終わる。
残るは、ひとりきりのささやかな時間だ。夜風に当たろうと、主人の部屋をそっと抜け出して、縁側に腰をおろし柱に寄りかかる。
テッカニンの大合唱も今や昔のこと。
今宵はどこからか、ススキの揺れる音やコロボーシの美しい鳴き声が聞こえてくる。それらに耳を傾けながら、ほっと一息を吐いたときだった。
『 月見でござるか 』
生来の負けず嫌いが、肩が跳ねそうになるのをどうにか押しとどめた。
驚きを悟られないよう強く口を引き結んで、ルチャブルは声がした方へ横目を滑らせる。
満月の下で浮かび上がる瞳の色は、曼殊沙華。濃紺の表皮が光る痩躯、その首回りへ巻き付けた長い舌が、やけに目立っている。
床を軋ませることなく忍び寄ってきた相手である。身のこなしも軽かろう。今の自分の体勢から咄嗟に繰り出すことができるのはシザークロスくらいか。主人の部屋もすぐそこだ、この場で仕留めるなら命中率重視で攻めた方がいい。ルチャブルは、密かに両腕へ力をこめて臨戦に備える。
返事をせずとも気を悪くしたふうはなく、相手は依然として話しかけてくる。
『不意打ちに眉一つ動かさないとは、さすがルチャブル殿。戦士の評判は伊達ではござらんな』
『…昼間の、』
簡潔に問うと、相手は反応があったことそれ自体を喜ぶように、表情を緩ませる。
『やはり見抜かれていたか。上手く気配を断ったつもりであったのに』
感心したような呟きと共に、相席していいか尋ねられたが、突っぱねた。
『この離れが貴人の私室用と知ってのことか、おまえ。名乗らない、用向きも話さない…そんな奴をこれ以上近付けるわけにはいかない』
とうとうルチャブルは立ち上がって対峙するが、向こうには大した動揺も見えなかった。
それどころか、潔く一礼してくる。
『失礼した。拙者はゲッコウガ。城の御庭番として仕えている身でござる』
だから隠密に動くのは十八番なのかと、納得もいく。このところは間者として遠国御用の任務(=間諜含む遠国の実情調査)に同行しており、不在だったという。奴の言い分を信じるならば、の話だが。
『拙者の知らぬうちに城内で新たな仲間が加わっていたとあっては、挨拶をするのが筋というもの。しかし見計らっていたらこんな時間になってしまう始末、面目次第もない』
申し訳ないという割にはこともなげに笑い、近寄っていいと許可を出さぬうちから、しれっと隣に座ってくる。
なんだか毒気を抜かれてしまったルチャブルも、再度、その場に座り直した。
これが機縁だった。
初の顔合わせ以降、ゲッコウガは自身の仕事の合間を縫って、ルチャブルのもとにやってくるようになった。
多くは夜間だったが、隙あらば人目を忍んで昼間にも、一言二言交わすことがあった。
共にポケモン、共通の主人。それだけで、多少なり気安くなれた。本格的に心を許したあたりから、もとより向上心の強さもあって、互いを稽古相手に夜な夜な組手を行うことも増えていった。
実際に不思議とウマも合い、他愛ないことを話しながら笑う時を重ねていけば、自然と友情くらいは芽吹いていく。例えば花見だ行楽だと主人が物見遊山に出かける場合は、籠に同乗するルチャブルは勿論のこと、後ろから影のようにゲッコウガもついてきた。出かけ先で敵の襲撃に遭うことも一度や二度ではなかったが、ふたりして背を預け合って共闘するくらいには、腹の底から信用するようになっていた。
冬の厳しさを耐え抜いて、世の中に巡るは爛漫うららかな春。思えばこの頃から、ゲッコウガに小さな変化が現れていた。
ルチャブルへ、花を贈り届けるようになった。
外回りの仕事があったからと話す彼は、ついでのように花を携えてきた。初めて貰ったのは、忘れもしない――桜の枝である。つい先日花見で目の当たりにした品種ではない、山奥で自生しているという見事な八重桜だった。
『堂々とした枝振りを見ていたら、御主を思い出して、つい』
そんなことを恥じらいもなく平然と言いきってルチャブルに手渡したあと、まだ片付ける用事が残っているからと瞬く間に姿を消した。
礼を言う暇もなく呆然と廊下に取り残されていたルチャブルを、主人が目ざとく発見してくる。
「その花、どうしたんだ」
まさか城内の庭園から手折ってきたかと誤解されてはたまらない。どうやって釈明しようか。珍しく焦り顔を見せるルチャブルを、対する姫君は可笑しそうに眺めている。
「安心しなさい。この城に植わっているものでないことは分かっているよ。
誰ぞ贈られでもしたか。粋なものだ」
萎れてはしのびないと、主人は味のある陶器の花瓶に活けてくれた。せっかく貰ったのにどうすればと持てあますところだったルチャブルにとって、彼女が草花を慈しむ人間であったことは幸いだった。
「…お相手は、おまえに外の世界を見せてくれようとしたんじゃないのかな」
いつ去ってもいいと言っているのに、おまえ、私への忠誠心の所為でどこへも行けないのだもの。
縛りつけているねとすまなそうに目を細められたので、ルチャブルはそっとかぶりを振った。この在り方に後悔しているわけではないことを示すために。
主人を敬愛しているのは確かであったし、彼女を守ろうという自発的な思いがあるから、好きこのんで傍に寄りそっているだけだ。
一方、主人の言うとおりであるならば、あらためてゲッコウガの優しさに対する礼を伝えねばと念頭に置くことにした。
折を見て、感謝を告げることは滞りなく叶った。ありがとう。嬉しかった。端的な一言だ。催促したつもりはない。
しかし、この可憐な贈り物は一回きりでは終わらなかった。
それはきっと、ゲッコウガの思い遣りだったのだろうと思う。以降も何度となく、楚々とした野花がルチャブルの手に渡り、そのたびに「今回はどうやって活けようか」と楽しそうに主人が趣向を凝らす。時には、その植物に関する豆知識を披露してくれる。そんな一連の流れが、半ば習慣と化してきた。
山野を慎ましく彩っているのであろう花々は、どんな季節でも、どんな姿をしていても、美しかった。できることなら現地に咲くその風景を共に見てみたいものだと淡く考えたことだってあったし、何より、室内に活けられ瑞々しさを保つ花を目にするごとに、それをもたらした相手のことを自ずと思い出す。『御主に見せたくて』と穏やかに笑うゲッコウガを、何度も思い返す。
嫌な気はしない。むしろ、気遣ってくれる友の存在はありがたい。しかし、おかしい。いつのまにか頭の中がゲッコウガのことばかりだ。なんだか脳裏に彼の姿が刷り込まれている気さえして、その幻影を振り払うべく、ルチャブルは益々姫君の身辺警護に熱を入れていくのだった。
***
『いつもと違う匂いがする』
いつもと同じ雑談の夜を過ごしながら、ふとルチャブルが呟いた。
隣にいるゲッコウガは最初こそ小首を傾げていたが、そのうちに思い当たるものがあったらしい。幾分か、その表情に影が差す。
『今日は人間たちと共に尋問室にいたから、…おそらく、そのときに使用された香が染みついているのでござろう』
尋問。
そこにはたぶん、捕虜がいて、聞き出すべき情報を持っていて。自白剤を使ったり、あるいは…拷問も、あるか。
だとすれば、胸の悪くなるようなものを、ゲッコウガは見聞きしているはずだ。
ルチャブルは決して饒舌な方ではなく、ともすれば不器用でぶっきらぼうかもしれない。それでも、『つらかっただろうに』『おまえは大丈夫なのか』と、何か慰めの言葉の一つくらいと口を開きかけた――そのときだった。
『…ッ』
ぞくりと、背筋に震えが奔る。
徐々に、けれど確実に、身体の中心から末端に向かって熱気が広がっていく。
言葉を紡ぐはずだった口元は、いまや、はくはくと喘ぐように力なく動くばかりだ。呼吸の浅さに伴って鼓動も速まり始めている。
…何だ、この異変は。
いったい、…
『ルチャブル?』
今ではすっかり気楽な呼び方で定着したゲッコウガが、覗き込んでくる。
何の気なしに腕を掴まれた瞬間、たまりかねたルチャブルは『ひ、』と小さく息を呑んだ。鋭い刺激だった。触れられた個所から静電気が駆け抜けていくような、瞬間的な火花。
触覚が研ぎ澄まされている――…些末な接触すら、快感として変換できるほどに。
これはちょっとシャレになってないぞとルチャブルがぐるぐる混乱に支配されていくさなか、あまりの過剰な反応を不審に思ったらしいゲッコウガは、いよいよ本気で心配してくる。
『どうした、様子が…』
そうだとも。言われるまでもなく自分の異常くらい分かっている。この急激な変調、焚かれた香が原因だとしか思えない。こうして、分別を失わせて、洗いざらい喋らせる作用があるというわけか。どうりで、脳がゆだって正常な判断がくだせない。
付け加えておくと、もっとまずいことが起こりつつあった。
勃つ兆しがあった。
不覚にも。
こうなってしまえば、立ち去る以外の選択肢がない。ルチャブルは場を離れようと予告なく身じろぎしたが、結論を言えば不発に終わったし、なんならもっと最悪の事態に転がった。
立ち上がろうにも下肢に力が入らず、身体はどうしようもなくふらついた。体勢を崩したルチャブルを、当然のように、ゲッコウガが受け止めた。
そう、至って常識的な善意で受け止めてくれたのだ。包み込むように。
腕に触れられた先程に比べ、これは、あまりにも――…
『ッあ、…』
密着すればこそ例の香りは濃密に、強烈に、ルチャブルに働きかけた。
もがこうにも足掻こうにも、『暴れるな落ち着け』となだめてくるゲッコウガによって皮肉にも阻まれ、悪循環に陥っていく。
全身を愛撫されている、そんな馬鹿げた錯覚に脳みそが狂っていく。
固さを増して誤魔化しがきかなくなっているものにも気付かれ、ゲッコウガの見開かれた目を見た途端、ルチャブルは羞恥で泣きたくなった。
『見、るな…ッ!』
はなせ、と、もはや震える声で要求するのだが、ルチャブルの身を案じるゲッコウガによって当たり前のように棄却された。それどころか、水かきのついた冷えた手のひらがルチャブルの肉茎を握ってくる。
『つらかっただろうに。…大丈夫か』
違う。
違う、…それは、本来なら俺がおまえに言いたかったセリフなのに。
嘆かわしく思いながらも、意に反して言うことをきかない身体は耳元で囁かれる低い声に反応し、ふるりと甘やかに身震いをする。
『…さて、どうする…?』
このまま抜いてやろうか。
問われ、ゆるゆると焦らすようにしごかれ、ルチャブルは喉を反らして声を上げた。
ゲッコウガもさすがに一旦手を止め、悲痛にわななくルチャブルを抱きかかえて足早に移動した。疾風のように駆け、迷いなく寝殿の隅にある納戸を開け、猛然となだれこんでいく。着物用の防虫剤か、微かに樟脳の匂いが鼻先をかすめた。
気兼ねせず休むことができるようにという配慮かと思いきや、ルチャブルの視界はくるりと反転した。抵抗する間もなかったので、押し倒されたのだと理解するにもしばしの時間を要した。
どこか酷薄に笑いつつ、ゲッコウガは遠慮もなしにその端麗な顔を寄せてくる。
『ここでなら、好きなだけ善がれるでござるよルチャブル』
悪魔じみた甘美な声で、そそのかされる。
『割り切ればいい。拙者と、御主の、ふたりだけの秘密として』
『ひ、みつ、…?』
『そう、…仕方ない。誰も悪くない。ルチャブルは、何も怖がらなくていい』
『おれ、は、…わるく、ない?』
首肯される。熱に浮かされて
『真面目な御主のことだ、清廉な姫君の傍だからと欲を抑え込んでいたのでござろう?他に手頃な雌もいない環境下では、さぞ不便だったはず。拙者でよければ代わりを務めよう、…いや、』
務めさせて。
相手から懇願される形をとられ、ただでさえまともに動いていないルチャブルの脳は、勝手に罪悪感を薄れさせていく。
そうか。
頼み込まれては、断るのも、野暮か。
己に都合よく、狡く、思考が霞がかっていく。
『ン、あ、…ぁっ!』
生温かくてぬるりとしたものが股座を囲い込んでくる。
口内。咥えられているのだと理解が及ぶ頃には押し寄せる過多な情報をどうにも処理できず、ルチャブルは、はしたない現実から逃れるように自身の顔を翼で覆い隠した。
瞼にぎゅうと力を込めてみても、大した効果はない。かえって知覚が鮮明になっただけだ。ぐちゅぐちゅとくぐもった水音がやたらと大きく響いて聴こえ、視覚を遮断した分いくらか感度も底上げされている。城仕えになってからずっと触ってなかったことまで暴露した挙句、だからそんなに激しくするなと、途切れ途切れに、しかし懸命に訴えるのだが、ついぞ聞き届けられることはなかった。
『いや』『だめ』と出てくる言葉は拒絶しているのに、肉体は跳ねて腰を浮かせている。背がしなる。ゲッコウガの舌使いも時を追うごとに過激になっていく。
『やめ、……ッはなせ、出る……う、ぁ……!』
一滴残らず吸い出そうとするかのようにゲッコウガは最後まですすりきって、喉を鳴らしてすべてを飲み下してしまった。
――愁傷。
射精と同時に到来した虚無感によってようやく冷静を取り戻したルチャブルは、遅まきながらも愕然とする。
手放しで言われるがまま相手に甘えて。同じ雄に奉仕の真似事をさせて。つい数秒前まで快楽を貪ることしか頭になかった。
いつも気にかけてくれている大事な朋友を、同じだけ大事にしたいと思っていたはずだったのに。事の重大さを痛感して、今度こそ、ルチャブルはぼろぼろと泣きだした。
『泣かせたかったわけじゃないでござる』
助け起こしたルチャブルをそのまま抱きしめて背を撫でるゲッコウガに、このときばかりは陥落した。すがる資格などないというのに、ルチャブルは彼の胸元へと顔をうずめてしまう。
『すまない、俺は…!』
『気にしてない』
それは同情でも気休めでもなく、真実そうであるように、あくまで彼の声音は温かい。
もうおやすみとあやしてどこまでも甘やかしてくる言葉に誘われるように、吐精に疲れ泣き疲れ、やがてルチャブルは幼子のように意識を手放した。
***
実に鳥らしく、目が覚めた時点では未だ夜明け前だった。
ルチャブルは慌てて周りを見渡したが、記憶にある納戸ではない。自身に宛がわれた寝床の中にいる。
少し離れたところでは姫君が安らかに夢の世界に浸っており、ゲッコウガがここまで運び込んでくれたのだろうと察しがついた。
混乱しかない昨夜だった。詳細を覚えているとは言い難いものの、おおよそ概要が脳裏にあればそれだけで十分であり、どんな顔をしていればいいんだと一日の始まりからして頭を抱えたくなる状態であった。
――それなのに。
当のゲッコウガが、顔色一つ変えずまったく普段通りなので、いっそ拍子抜けだった。
ひとりあれこれと悩んでいたのが馬鹿馬鹿しいというか、あの出来事も絵空事だったんじゃないかと思えてくるほど徹底して素知らぬふりをしているゲッコウガを前に、あらためて問いただすのも気が引ける。目が合ったとき『何も言わなくていい』と制止されたふうでもあったので、ルチャブルもまた蒸し返すのはやめておいた。
結局、流された形である。
一夜の過ちには蓋をすることにしたが、…その詰めのあまさに気付かされたのは、一週間ほど経ったあとだった。
身体の疼きを自覚した、その刹那に。
真っ先に、ルチャブルは自分自身へ失望した。あのときの猛毒のような快楽が根付いているのだと知って、ぞっとした。事実から目を背けることを許さない、ルチャブルを定期的に追い詰める置き土産が、身の内に巣食ってしまっていた。
ゲッコウガの指摘した通り、ルチャブルには真面目で融通のきかない一面があったため、性欲に屈しかけている己を呪った。どうにかすると、今まで耐えてきたものを瓦解させたあの香りに、ひいてはゲッコウガに八つ当たりでもしそうな気配があって、そんな責任転嫁をしないよう自分を強く律する必要さえあった。
少なからず、次は自分でどうにか処理するべきだ――そう思っているところへ、狙いすましたかのように、ゲッコウガがルチャブルの弱さを突いてくる。
『拙者に手伝えることはないか』と。
『御主の助けになるのなら』と、やはり自ら志願するような口振りと共に見つめてくる。その赤銅色の瞳には、なんら見返りを期待しない純粋な厚意だけがあって、ルチャブルに揺さぶりをかける。
人目をはばかり、あの納戸に入って。
そこから向こう、暗がりの中で、ゲッコウガはいつでもルチャブルのわがままを許した。触れるだけの口付けを落として、性的なものを微塵も予感させない手つきでルチャブルを労わって。『これは一時的なものだから』『気に病むな』『環境がそうさせるんだ仕方ない』とルチャブルが欲しがる呪文を繰り返し囁いて、極めつきに『拙者が望んだことだから』と、精神的な負担をゼロまで戻してくれる。そのさきで、腰砕けになるような、蕩けるような快楽が――ルチャブルを後戻りできないところまで懐柔していく。
こうして、ゲッコウガと確かな友情を築いていたはずのルチャブルは、友としての関係からはるかに逸脱する秘密の夜をも積み上げていくことになった。知らず知らずのうちにぬかるみへはまったように抜け出せなくなってしまい、ずるずると溺れて囚われていくのだった。
***
ここ暫く、ゲッコウガとは会えていない。言葉を交わせぬ日々が続くのは道理で、彼は長期任務により城をあけているのだった。
ぽっかりとした空白を覚える。
あの花も、声も、匂いも、温もりも――忘れてしまいそうで、怖くなる。
「おまえ、寂しいんだろう」
主人に図星を指され、ルチャブルはぐっと声を詰まらせた。
「恋をする生き物は誰でも、きまって、そんな目をして彼方を見つめる」
ことさら「恋」という発言に驚愕し、思わず食い入るように主人を見つめると、彼女は飄々とルチャブルからの視線をいなした。
「この国には『衆道』という関係性があるんだ。互いに想う相手は一生にただひとりと断言するほどの、男同士で育む情熱的な絆…」
もはや全てを見透かしたように、彼女はよどみなく述べる。優雅に扇を広げて品よく口元を覆い、笑っていた。
「十分に煮詰めて、隠し味には相手への尊敬を一つまみ…大体、生理的な嫌悪がなければどうにかなるものだ。正当化をはかるための言い訳なんて探そうとしなくていい。肝心なのはいつだって自分の心の持ちようだからね。
…だが、おまえ。よくお聞き。
口を開けて餌待つばかりの雛鳥の顔はそろそろ捨てることだ。貰いっぱなしは、己の格を下げることに繋がる。覚えておきなさい」
やはり第三者は岡目八目である。
閉ざされた世界に風穴を開けてくれた主人の言葉があったからこそ、ルチャブルはようやく、腹をくくるのだった。
だから、半月振りに再会したゲッコウガに申し出ることにした。
『おまえにも気持ちよくなってほしい』と。
例によって、あの納戸である。
いつになく、ふたりは向き合って正座していた。
自分の弱さを直視するのは、愉快な体験ではない。それでも、ルチャブルの中では、恥じて口を閉ざすよりこれまでに彼から受けた誠実へ報いたい気持ちの方が勝った。
『俺は、おまえから与えられてばかりで』
緊張により口の中が早くも乾いてくるが、ルチャブルはめげずに先を続けた。
『それは、フェアじゃないって、思って。おまえとは、対等でありたい。でも、…』
ゲッコウガは黙って聞いてくれている。
だからこそ余計にこれから言うことが気恥ずかしくてならないのだが、思いきって顔を上げたルチャブルは、勢い任せにまくしたてた。
『おまえには感謝してる。…今更だし、この期に及んで都合のいいことを言ってるのは分かってる、けど、…ッ、…一方的なのは嫌だ。
仕方ない、とか。義務、みたいな。そういうのじゃなくて、ちゃんと、』
好きだからって理由で、触れ合いたい。
…言った。言ってやったぞ。
相変わらず、言葉にするのも、実際に口に出すことも苦手だ。しかし拙いながら、自分の想いは表に引っ張り出せた気がする。
さて反応は、と、ゲッコウガを見つめ直した折のこと。
どきりと一つ、心臓が脈打った。
彼の真剣な目つきが、これから獲物に牙をかけんとする捕食者のそれを彷彿とさせ、金縛りみたいにこちらの身体を硬直させていく。
『…今までは、惚れた相手に手を出す口実を作ってきた』
実態として、拙者は御主が思うほどの漢ではござらん。
ゲッコウガはどこか自嘲気味に話したうえで、距離を詰めてきた。
『拙者にも気持ちよくなってほしい、好きという理由で触れたい…では、ルチャブルもこちらを好いてくれていると――』
――解釈するが、よろしいか。
もうあと一歩で逃げ道が塞がれようという、凄みのある尋ね方。
嗚呼これは心して答えなくてはならないと、ルチャブルは生唾を呑み込んだ。
返答といっても、小さく頷きかえすのが精々。しかしゲッコウガには、それで十分に感無量らしかった。
力いっぱい抱擁される直前に『つかまえた』と口が動いたのが見えて――俺はとんでもない奴の手を取ってしまったんじゃないかと、今になって勘付くことになるルチャブルである。
***
『は、…ぁ、…』
吐息が濡れている。
抑えようにも、ゲッコウガに衝かれる度に身体の奥から押し出されてくる。そんな、とめどない、甘ったるい、およそ自分のものだとは認めたくない声が、ひっきりなしに口をまたいでくる。
そうしたルチャブルの痴態に煽られてゲッコウガは調子づき、より奥を暴いてやろうと、腰を打ち据えてくる。
『ッ、あぁあっ…!』
また、砂糖まみれの声が。
口の端から涎と共に、零れ落ちた。
思いの丈をぶつけて、それから。
数日分の夜を費やして、一生分の恥ずかしい目に遭ったんじゃないかと泣き言も恨み言も存分に言いたくなるほどいやらしい体勢を強いられながら、ルチャブルは小さな孔をほぐされた。
当初、雄同士のやり方なんぞ無知同然であったルチャブルは、事実を知って蒼白になった。口で、とか。兜合わせ、とか。そんな次元をひょんと通り越しており、いったい自分の身体がどんなことになってしまうのか想像もつかずにくらりと目が回った。しかし、肝心のゲッコウガが『この手で御主を抱けるとは』とあんまり幸せそうにしているので、とてもではないが不平を言える雰囲気ではなく、こうなってはルチャブルにも意地がある。『やってやらァ』くらいの、かなり自暴自棄に近い覚悟を握りしめるのだった。
他者の一部が己のナカに入ってきたときの衝撃を、きっと、一生忘れはしないだろう。ゲッコウガの舌が柔軟性に富んでいる分、当該箇所が唾液にまみれてぬかるんでしまえば、それだけであっさりと体内への侵入を果たして好き勝手に暴れるし、(なんでそんなものがあるんだと恐ろしくなるが)彼が御庭番の詰所からくすねてきた筋弛緩やら催淫やらの効能を持つ軟膏の助けも借りつつ、合体前だというのにこれでもかと犯されたのは序の口であった。
これならいけるだろうと、心も体も準備を整えた今夜。
まあぶっちゃけてしまえば本番初回からはちゃめちゃに襲われてしまったわけなのだが、『思ったほど痛みは持ち越されなかった』とは、抱き潰されて無事死亡ルチャブルの言である。
一応ゲッコウガの名誉のために弁明を添えておくと、彼は理性ぷっつんギリギリのところながらもルチャブルへの負担軽減につとめようと頑張ってくれたのだ。途中までは。
どこかの境目を越えてしまって以降、互いに、快楽を拾い合うのに我を忘れて夢中になっていた。
ルチャブルの思いに嘘はなかった。ゲッコウガにも気持ちよくなってほしかった。彼みたいに、相手の性器を舐めることはおいそれと真似できそうにないが、代わりに下の口でしゃぶってやるのはやぶさかでないと相当品のない、しかし本気で、そんなことを考え決意したからこその、何とか乗り越えてきた羞恥の数々である。
相手の屹立した一物を目の当たりにしたとき、意外にも、ルチャブルはほっとしていた。そりゃァ、太さも長さも『ホントにこんなの挿れるつもりかよ』と不安になったのは認める。だが同時に、相手が同じく雄であるところの自分に興奮してくれている紛れもない証明であったから、柄にでもなく、嬉しさに近いものを感じたことも事実だった。
『う、…』
違和感という意味では、もちろん、開発当初よりぐんと薄れている。だが、想像はどこまでいっても想像でしかなく、いざ本命を迎え始めると、そこには舌や指とは比べ物にならない圧迫感があった。
随分と御立派な、抜き身の刀身。
そいつが、排せつ以外を目的にしていない部分を侵食してくるにも関わらず、己の肉体は痛みよりも快感の方をより多く知覚している。あの地獄のような赤っ恥の成果が如実に表れていることを喜ぶべきなのだろうが、なんとも複雑な気分だった。
慣れないうちは負担の軽い体位からと、四つ這いになって尻を突き出す格好にさせられて、後ろから…という状況下。この体勢だって死ぬほど恥ずかしい。無論、雄としての屈辱を感じないではないのだが、…これも好きな奴のためだと思えば耐えられた。
あいつは、今、どんな顔をしているんだろう。…なんて、呻き声をもらすまいと口をかたく食いしばりながら、そんなことを思う。
決して傷つけないようにという配慮がいやというほど分かる慎重な様で前進していた雄根が、一度動きを止める。直後、『ぜんぶ入った』との掠れた声。そこに「気を張ってないとすぐにでも出る」という同性だからこそ分かる切羽詰まった響きが滲んでいたものだから、嗚呼こいつが気持ちいいならよかったと考えてしまって、――俺ってどんだけこいつのこと好きなんだよとまた恥ずかしさを上乗せし、盛大に照れるしかないルチャブルだった。言わんけど。
『ん、…ッふ、ァ、』
律動と、撹拌。
強弱、緩急、いくつかの工夫が重なり合うことで、初めのうちは鈍かった甘さが、どんどん、鮮烈になっていく。
腰は掴まれしっかりと固定されてしまっていて、ここでは、与えられる刺激だけを従順に受け取ることしか許されていない。
『ひ、…ン、ん…っ』
ずっと、とろ火にかけられているみたいだ。熱せられて、炙られて。次には揺さぶられて、穿たれて、まさぐられて、こすられて、そうしているうちに視界が白んでいく。目の奥で火の粉が爆ぜ、星のように明滅を繰り返している。
くち、ぬぷ、と、いかにも淫猥で耳を塞ぎたいほどに濁った音が聞こえるが、合間合間に『好きだ』とささめく切ない声への名残惜しさに、つい、耳をそばだててしまう。一心に求められていると身に染みるから、どうしようもなく、多幸感があふれていく。
『俺も、…』
酒の力がないとまともなこと一つ言えないといった類の野郎は、世の中、どこにでもいる。
自分も似たようなものだった。
日常の空気感じゃ気恥ずかしくてかなわないから、こうした、非現実の中でないと思いきれやしない。
だから、ルチャブルは滅多なことでは言わない、その恋心を相手に告げた。
それが、指をかけてはいけなかった引き金とも知らないままで。
『 俺も、好きだ 』
言い終わった途端、いきなり、ずるりとブツが引き抜かれる。
その刺激の強さに息をつめた一瞬、ぐるりと体勢が変わった。
『あ、…』
見上げた先にいるゲッコウガの眼力によって、射貫かれる。
何て顔してんだよと軽口くらいたたければよかったのだろうが、そんな隙はなかった。
上がっている息と同じくらい荒々しく、矢庭に根元まで突き込まれて――全神経が強制的にクラッシュする。
『 うァあ"あ"ぁあッ!!! 』
絶叫と射精が並行し、ルチャブルの理性を引き千切った。
どちゅ、て。おい。体内から聞こえてきたらだいぶダメな感じの重たい音がしたんだが。嘘だろ。え、大丈夫かこれ。ぜったい初心者にやる仕打ちじゃない。
『やはりこの方が…御主の乱れた姿を堪能できる…』
一切悪びれた様子もなく、うっとりと、見ようによっては大変な悪党面でゲッコウガが嗤っていた。
『拙者だけが知っておきたい。…見たい。聞きたい。嗅ぎたい。触れたい、』
食べてしまいたい。
低く、甘く、脅される。逃がさない気満々の動きが、再開されていく。
彼の色気にあてられて、酔わされて、いつしか思考力を奪われていく。
神経が焼き切れる。
脳髄がとろけだす。
狂おしい夜の饗宴は、まだ、終わらない。