幼い子ども特有の甲高いはしゃぎ声が、駆け足の音と共に近付いてくる。鬼事でもしていたのか、
『擦り傷だけだ。すぐ治る』
しゃくりあげる子どもを落ち着かせながら、ゲッコウガは竹筒の水で傷まわりの土を洗い流した。
『おまえたち、よく見ておけ。少々の怪我なら傷口をきれいにしておけば問題ない。それでも不安なときは、植物の力も借りて手当てしろ』
ゲッコウガは、すぐ傍らに生えいていた野花を指した。地表を這うように広がる葉の上で、小さく愛らしい紫色の花が揺れている。
『いつでもどこにでも生えている便利な薬草の代表格だ。キランソウという。葉を揉み潰して、その汁を傷に塗れば化膿止めになる。虫刺されや火傷にもよく効く。おまえたちは炎タイプだから火傷とは縁がないだろうが、…幼いがゆえにうっかり誰かに火傷を負わせることはあるかもしれん。この薬草一つでも覚えておいて損はないぞ』
この時点で既に、アチャモたちは分かりやすく安堵の顔つきをしていた。泣き顔も困り顔も消え、すっかり元気を取り戻している。適切に対処してもらったばかりでなく、助言と知識を授かったためか、ゲッコウガを見る彼らの目は一様に輝いていた。『ありがとう!』と声を揃え、ぺこりと愛らしいお辞儀を披露したあと、アチャモたちは走り去っていく。力強く地を蹴る脚に怪我の影響は全く見られず、ルチャブルも胸を撫でおろした。
迅速なゲッコウガの対応は素晴らしかった。比較して、何もできなかった自分が決まり悪く感じられて仕方ない。
――以前、ゲッコウガに、なぜ薬師を志したのか尋ねたことがある。彼は少し考える素振りを見せてから『やはり遣り甲斐だろうな。曖昧で抽象的な回答だが』と言った。
聞けば、ゲッコウガの故郷は集落内で薬草を育てており、それらはごく身近なもので、当たり前のように日常生活に取り入れていたという。しかし、いつしかゲッコウガは余所のポケモンが薬草目当てに自分たちの集落を訪れていることに気付くようになり、どうやら他の里はさほど薬草には通じていないようだと悟るに至った。
考えてもみれば、薬草に精通するポケモンや他者を回復させる技を習得しているポケモンがどこにでもいるわけではない。また、寒冷地や火山帯など植物がそもそも育ちにくい地域では薬草自体の入手が困難になっている。そうした現実を知るたびに、自分自身が各地へ薬草を届けにいく役目を担えるのではないかという思いが強くなっていった――…
『植物それぞれの薬効、毒の有無…知識の蓄積は単純に自分のためでもあるが、正確に記憶しておくことは伝達のうえでも重要だ。
必要とされるところへ生薬を届けることはもちろん、拙者がいなくても以降の生活が立ちゆくよう薬草の栽培方法や利用手段を教えてやれたら、それは対象集落へのよりよい貢献になるはず。だから、なるべく種や苗も集めるよう心掛けている。痩せた土地にも根付くような薬草の種が見つかったときなんかは、結構、嬉しい』
言わずもがなであるが、ゲッコウガの口から出てきた話は八割方でたらめである。虚実を混ぜてあり、無論、そんなことはルチャブルの与り知らぬところだった。読者諸氏はよくもまあ心にもないことを平然とほざきやがるなこの蛙はと看破していらっしゃることと思うが、ルチャブルはゲッコウガの語る使命感(笑)を微塵も疑わず、それどころか感動する始末で、好感度は右肩上がりだった。
…と、まあ、そういう経緯もあり、ルチャブルは「ゲッコウガは崇高な理念のもとで薬師という職を選んだのだ」と思い込んでいるし、ゆえに、ゲッコウガがこれからも多くのポケモンを救うことを確信している。今し方アチャモに手を差し伸べたのだって、彼にとっては呼吸をするように自然なことなのだと信じきっている。
この利け者の隣にありながら、自分は知らん顔をし続けられるだろうか。知識も技術もないからと言い訳を重ね続けるのだろうか。
…事実、それで問題ない。
専門家なのだから委ねておけばいいだけの話である。ゲッコウガは腕が立つのだし、いくら善意とはいえ無知の素人が差し出がましいことをするのはかえって邪魔になる。ルチャブルにはルチャブルの旅の目的が別にあるのだから、ゲッコウガに気兼ねする必要はない。無理にゲッコウガと同じ土俵に立たなくてもいい。……などと、すっぱりと割り切れたなら、ルチャブルとて悩みはしないわけで。
相棒となった今、ゲッコウガが働く様を遠巻きに眺めているだけというのは歯がゆい。せめて補助くらいはできるようになりたい、と、これがルチャブルだった。
『…俺にも薬草のことを教えてもらえるか』
アチャモたちを見送った後、ルチャブルはおもむろに切り出した。
『共に旅する仲なんだ。おまえが大変なときに支えられるような存在でありたい』
否と返すゲッコウガでないことは、ルチャブルも分かっている。分かっている、が、『望むのならいくらでも』と実際に快諾されれば嬉しく、重ねて『御主の気遣いをありがたく受け取ろう』と言われれば、温かいものが胸の内に広がった。
門外漢に対し、ゲッコウガは根気よく教えてくれた。これまでにいくつもの集落で薬草のことを伝授してきた経歴は伊達ではなく、教え方が堂に入っている。対するルチャブルも粘り強く、知識を吸収するまでに多少の時間を要するものの、一度覚えたことは確実に身につけた。薬草に関する取扱いは日ごとに巧みになっていったし、ゲッコウガが背負う柳行李の中身も覚えた。今では専門の道具も使えるし、未だ調薬とはいかずとも、薬研を用いて素材をすりつぶしたり粉末にするくらいなら問題なくできるようになっていた。
ふたり旅の日々は流れ、シャガの楚々とした白い花が野山に咲きだす頃――…世は夏を迎えようとしていた。
ゲッコウガが『この辺りにヤマモモが生えていたはずだ』というので周辺を探すと、ほどなくして赤褐色の実をたわわにつけた樹を探し当てることが叶った。ヤマモモは樹皮が染料になる他、
『皮に用があるんだろ?』
一応、確認をとる。ゲッコウガは頷きながら『酒があればな…』と呟いた。どうやら、彼もルチャブルと似たようなことを考えていたようだ。
『実が傷みやすいのが難点…、こればかりは仕方ないか。樹皮は頂戴することにして、…その前に、ここで一服しておこう。実は茶請けにして、この場で食うでござるよ』
ゲッコウガは、実の重みで垂れ下がっている枝を更に引き寄せ、一粒を
今までに何度となくゲッコウガと食事の時を共にしてきたし、彼から料理を振舞ってもらったこともある。ただ、手ずから食べさせてもらうというのは、普段の食事とは比べ物にならないくらい「給餌」の意識をルチャブルに持たせた。特に、鳥にとって給餌は求愛の意味が強いため、ルチャブルは動揺してしまったのだが、内心が表に出てこないよう努めてゲッコウガに応じた。ヤマモモを食べる瞬間、ゲッコウガの指先が、僅かにルチャブルの口に触れた。たったそれだけのことにさえ心を揺さぶられながら、実を咀嚼する。噛むほどに瑞々しい果汁が溢れて、喉を潤していく。蜂蜜のようにはっきりとした強烈な甘みも嫌いではないが、このヤマモモみたいに、野性味のあるほのかな甘みの方がルチャブルの好みに合っている。
黙ってヤマモモを味わうルチャブルを、ゲッコウガは目を細めて見つめている。そっと、彼の指先がルチャブルの頬を撫でてくる。…これまで色っぽい物事とは無縁で、何ならその手のことには鈍感な部類に入るルチャブルとはいえ、ゲッコウガから寄越されたその仕草の中にある匂い立つような恋の気配に気付かないわけにはいかず、すとんと腑に落ちた想いと一緒にヤマモモを飲み込んだ。どちらからともなく、吸い寄せられるように顔が近づいていた。誰に教えられたわけでもないのにルチャブルの目は自然と閉じていて、そのうちに、口の先に熱が灯った。生まれて初めて知った、甘酸っぱい熱だった。
『 好きだ 』
ルチャブルを芯からとらえる真っ直ぐな声。次に目を開けたとき、そこにいたのは、いつもの優しげなゲッコウガではなかった。
間違いなく、自分自身に向けられている情欲――…熱を帯びた目で射抜かれては、そらすことも叶わない。否応なく頬が染まる。赤面した自分を直視されていることで、ルチャブルの体温も拍動も更に跳ね上がっていく。
『舞い踊るルチャブルの姿を一目見たあのときから心を奪われていた。御主のことを知れば知るほど、愛おしさが募った。まるで自分のことのように他者を案じ、寄り添う御主の優しさが眩しかった。…ふたりで旅を始めて以降も、御主に入れ込む一方だ。共に過ごす毎日が、拙者にとってはかけがえのないものになっていったんだ』
ゲッコウガは静かにルチャブルの手を取った。恭しいその態度に、混じりけのない誠実が現れている。
『オレを選んでくれ。必ず幸せにする』
――他者からこんなにも切実な想いを向けられる日がこようとは思いもしなかった。野暮天な己とていずれは雌と番うときがくるのだろう、そんなふうに漠然と思っていたのに、…今、同性のポケモンに惹かれていることを自覚する。キスしたって何の抵抗もなく受け入れることができたし、それどころか、誤魔化しのない一途な求愛に胸が高鳴っていく。
薬草のことだけではない。本来の格闘家として
繁殖について、頭をよぎらないではなかった。ゲッコウガとの間に卵を為したいと切望する雌は大勢いるはずだ。しかし、ルチャブルは、選ばれたのは自分だという優越感を捨てられなかった。おまえはもっと相応しい雌を探した方がいいと聞き分けよく身を引くこともできなかった。
『…おまえを選ぶよ、ゲッコウガ。番選びは男子一生の大事だ。おまえが相手なら、これ以上の良縁はない』
ルチャブルは、ゲッコウガの手を自身の両手で改めて包み込むように握った。すると、握り合った手ごとゲッコウガに引き寄せられ、ふたりは抱擁する格好となった。つい甘えたいような気持ちになって、額をゲッコウガの胸元につけてみると、背に回された彼の腕に力がこもった。自分が好かれていることを分からせる力強くも優しい抱き方で、不意に、ルチャブルは泣きたくなる。
間近で嗅ぐゲッコウガの体臭が、ルチャブルの鼻先をかすめる。そこに薬草のようなほろ苦さはなく、山奥の渓流を彷彿とさせる爽やかな水の匂いがした。その匂いをどこか懐かしく感じてしまうのだから、不思議だった。
きっと、ふたりはこうなる定めにあったのだ。だから余計に慕情が込み上げてくるのだ。ルチャブルはこうして自分の運命と心を通わせられた尊さを想わずにはいられなかった。好いた相手の腕の中、美しい夢を見るような心地で、ルチャブルは初めて自身に訪れた甘やかな恋に浸るのだった。