『酒を飲ませたのか』
確認をとるために尋ねただけのはずなのに、それにしては自嘲したくなるくらい固い声が出た。鏡でも見てみないことには分からないが、きっと表情も強張っているのだろう。
ゲッコウガの内心の苛立ちに気付いているのかいないのか、ルチャブルの隣に座っているチャオブーは困ったように後頭部を掻いた。
『ごめんよ、先生。まずかった?』
チャオブーが手にしているのは、小さくとも杯であるし、少量であれ中身は酒である。酒といっても、かつての人間たちが醸造していたような立派なものではない。だが、ポケモンしかいない世界であれ農耕の知識や技術はそれなりに普及しており、穀物やイモ類、
『さっきの演舞みて、おれ、感動しちゃって。だから、
言い訳がましくもない、ただの事情説明だ。現に、チャオブーに悪びれたところはない。そもそも、祝杯をあげようというチャオブーの気遣いは悪いことでも何でもない。ただ、ゲッコウガひとりがむくれているだけなのである。
ルチャブルは、ほんのりと頬を染めて、柔らかく微笑むばかりだ。酔って体調を損ねている様子も一切見られない。打ち解けた集落の者たちと酒を飲みながらわいわいやれているのが嬉しいらしい。
周囲の者は、ほろ酔いとしか思わないだろう。しかし、ゲッコウガはルチャブルの酒の弱さを知っている。今世とてどうやら例外ではなかった。口数が減り、にこにこと愛らしく笑い、いかにも人畜無害といった態だが、ルチャブルはこれでがっつりと酔っているのである。よって、隙も生まれる。無防備な彼を、これ以上、環視の中に留めておきたくないというのがゲッコウガの本音だった。
『ルチャブルへの労い、寿ぎ、…まずは礼を言う』
気を抜くと怒鳴り散らしそうになるため、己を必死で律するゲッコウガである。知られていない…というか、ひた隠しにしているので露見していないのだが、元々、ゲッコウガは短気で喧嘩っ早い。しかし、主賓のひとりである自分がこの場で唐突に罵倒すれば地獄みたいな空気になることは確定であり、集落の者にとって理不尽であるどころかジジーロンの顔にまで泥を塗ることになる。時間をかけて積み上げてきた信頼も一瞬で瓦解する。ゲッコウガの豹変はこの里のみならずルチャブルをも失望させるだろう。それだけは避けねばならない。
上手く笑えているか自信がないまま、ゲッコウガはルチャブルの手を引いた。
『明日から取り掛かる調薬や薬草採取のことを考えると、今のうちに休ませて酔いをさましておいた方がよさそうだ。我々は先に失礼するとしよう。…皆は、気にせずに引き続き宴会を楽しんでくれ』
特に抵抗することなく、ルチャブルはおとなしくゲッコウガについていく。背後から『酔ってたって構わねえのになあ』というぼやきや、『察しなよ。旦那の可愛い顔、あたしらには見せたくなかったのさ』とたしなめている声が聞こえてくる。
『それにしても、先生、存外に悋気持ちだったんだねえ』
こういうときは、雌の方がやはり鋭い。
…妬いて悪いか。余計なお世話だと小さく吐き捨てつつ、ゲッコウガはルチャブルの手を掴んだまま歩き続けた。
***
ふたりが宿泊する部屋は、集落内の居住区にある。住民たちが暮らしている長屋のうち、一番端の部屋をあてがわれていた。行商の者は野宿が基本となる中、まず屋内で休めるだけでも幸運だし、広間での雑魚寝ではなく個室を用意してもらえるとは破格の待遇である。
小さな
ルチャブルは、無邪気に、ゲッコウガに腕を絡めてぴっとりと寄り添ってくる。嗚呼…本当に可愛い…としみじみ思いつつ、蛙は項垂れた。
見せたくない。ルチャブルの舞姿も、酔ったときの無防備な表情も。自分だけが知っていればそれで十分じゃないか。そう思う。…しかし、里の者たちと交流するルチャブルは楽しそうだった。相撲のときだって活き活きとしていたし、披露した舞に感嘆されたときは誇らしげだった。酒を交えて談笑する頃には、周囲にすっかり心を許していて。ルチャブルは明るく社交的に振舞えるので、初めて訪れた場にも民にも溶け込むのが早かった。こうして他者と共に過ごす豊かな経験が、後にルチャブルの舞にも良い影響を与えるだろうと想像がつく。そう、ルチャブルはゲッコウガの番ではあるが助手ではない。ゲッコウガの手解きによって薬師としての知識や技能を身につけつつあるとはいえ、本来は舞踊という芸能の探求者なのだ。ゲッコウガとふたりきりの閉鎖的な関係に終始するよりは、より多くの他者と繋がり合った方がルチャブル自身の素養を深めることになり、ひいては舞うための技がより洗練されていくことにもなろう。…そもそも、ゲッコウガ自身が
これからだって、ルチャブルを様々な集落へと連れていく。ルチャブルが多くのポケモンと出会い、親しくなる機会も多くなる。そのたびに逐一心を乱していたら
…しかし、で、ある。
自分自身がもっと寛容にならねばダメだとゲッコウガは分かっているのだが、自覚していたところで身の内に長らくこびりついたままの独占欲を易々と消せるはずもなく。
執着を拗らせ、鬱憤が溜まったとき、大抵はルチャブルを組み敷いて交尾にもつれ込むことで自身を落ち着かせてきた。大丈夫、ルチャブルはオレのものだと納得することができたからだ。交尾中のルチャブルこそゲッコウガのみが知ることを許される絶対的なものである。よって、今回も…と、実は密かに企んでいたのだが、下衆の目論見はあっさりと打ち砕かれた。
『みんな、優しかったな』
酒が入っているためか少々もたついた口調で、ルチャブルが呟く。
『ゲッコウガが好かれてるから、大事にされるんだ』
やっぱりおまえはすごいな。
ルチャブルは手放しで褒めあげてくれる。酒で開放的になっている分、その口からは、本音が零れる。…何とも、胸にぐっとくる着火剤ではないか。よし、このままキスして事に及んでしまおう、…と、思ったのだけれど――…
『俺たちも…明日から頑張ろうな…』
…――小鳥の語尾は、むにゃむにゃと曖昧になっていき、やがてシームレスで寝息へと移り変わっていく。見遣れば、ルチャブルはゲッコウガに身体を預けたまま、今まさに寝入ったところだった。
『…敵わんでござるなあ』
客観的に見れば、そうだ、ゲッコウガは集落の者たちから好かれているといっていい。彼らは頻繁に訪れるわけでもないひとりの薬師を気に入り、その薬を尊び、恩に報いてくれる。所詮は部外者だというのに、番を連れてくればこんなに盛大な宴を開いてくれるほどには、親しまれているのだった。ゲッコウガの「信頼できる薬師としての擬態能力」が秀でていたという証左でもある。柄にでもなく笑顔や愛想を振りまき、他者の懐に入り、ルチャブルに関する情報がないか聞き込みをしていたかつての日々――…畢竟、全てはルチャブルのためなのである。
この世でただ一羽、ルチャブルだけが、ゲッコウガに
部屋の隅で畳まれていた毛布に気付き、しゅるりと舌を伸ばしてたぐり寄せた。それは随分と使い込まれてくたびれたものだったが、ふたりで
遠くで聞こえる宴の喧騒、近くで聞こえるルチャブルの息遣い。それぞれが心地よくゲッコウガを満たして、眠りへと
【 おまけ 】
生薬となる樹皮を剥ぐとき、薬草を刈るときや刻むときに、ルチャブルは小刀を使う。ゲッコウガから借りているものだ。好きなように使ってくれとは言われているが、そろそろ自前のものを持ちたいと思っていたところだった。
聞けば、ゲッコウガの小刀も普段使いの小鍋も、この里のデカヌチャンたちに作ってもらったのだとか。そのことを覚えていたので、たたら場で確認してみると、ひとりのデカヌチャンが頷いた。
『あたいが打ったんだ。今も使ってくれてんなら、工匠冥利に尽きるってもんさ』
いい素材があったから、うちでつくった鉄と混ぜて打ったんだよ。デカヌチャンは楽しげに話してくれた。
『どっちも鳥由来の鋼を溶かして鍛えたから、よく覚えてる。小鍋の方にはアーマーガーの、小刀の方にはエアームドの羽を使ったんだ』
『…羽ではないんだが、これも鋼タイプのポケモンが持ってたものなんだ。小刀の素材に使えるだろうか』
ルチャブルは、ジャラランガの鱗を取り出す。ルチャブルが旅に出るときに、餞別で貰ったものだ。
デカヌチャンはすぐに興味を示し、受け取った一枚の鱗を日の光に透かすようにしながら検めた。『へえ、こりゃ面白い』と、呟きがぽろり。
『初めて見たよ。そのポケモンってのは?』
『ジャラランガだ。だいぶ年かさの』
『…ジャラランガ…、聞いたこともお目にかかったこともないけど、さぞお強い御方なんだろうねえ』
『ドラゴンだからな。…それに、格闘家としても優れた御仁だった。龍の舞を発現させたときなんかは本当に勇ましくて…』
見知らぬポケモンのことが、鱗から分かるのか。問うと、デカヌチャンは真面目な顔で頷いてくる。
『分かるよ。何つーのかな…その素材がまとう雰囲気、…みたいなもんがさ、あるから』
心してこの鱗と向き合うと約束してくれたデカヌチャンである。ルチャブルが持っていた三枚の鱗のうち、一枚は小刀に、もう一枚は小刀の注文を受けてもらう報酬代わりに、最後の一枚は「また別の機会で、別の土地で、交換材料になるかもしれないから」と、そのままルチャブルが持っておくということで話がまとまった。
『あんたらの祝いの品になるよう、腕に縒りをかけるよ』
経験に裏打ちされた自信が溢れ、彼女の青い目がきらきらと輝きを放つ。
『たとえば、「関係が
大槌をひゅんと回して勇ましく肩に担ぎ直し、デカヌチャンは熱気と火花の満ちる鍛冶場へ意気揚揚と向かっていく。小さな背中が、真っ直ぐに伸びている。ルチャブルは、彼女の背に、それこそ鋼のように頑丈で頼もしい気骨を見出すのだった。