※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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幕間
木曜日のユキちゃん


 ユキ・ヤナギ。齢(よわい)二十五にしてパン屋をひとりで切り回す彼女自身、まるでパンで出来たような女性(ひと)だった。ちいちゃくて、全体にまるみを帯びたふくよかな体つきをしているものだから、ころんと手のひらにのる白パンを彷彿とさせる。絵本によく出てくるあのパンが例えに挙がるのは、色白な肌も一因だ。見るからにきめ細やか、むっちり、触ったらさぞやもちもちしているだろうと容易に想像できる。十分にこねて、一晩寝かせたパン生地のよう。そんな肌に映える髪や目の色は、さながら炊きたてのあんこ。とりわけ砂糖をたっぷりと使ったあんこ特有の、艶やかな小豆色である。まるであつらえたみたいに、頬も唇もほんのりと桜色をしていて、見る人によっては、ユキからあんぱんを連想する場合もあるだろう。

 畢竟、ユキを見ているとおいしそうなものばかりが思い浮かぶというわけだ。ならば、自ずと人は心を許す。女優がごとき華やかな美女…には程遠いけれど、笑うとスボミーそっくりになる愛嬌ある顔立ちに加え、見た目の通りにおっとりとした人柄もあり、ユキは誰であろうと警戒心を抱かせない。ユキも、ユキが営むパン屋も、今ではピケタウンにおける「安心」の代名詞。子どもからお年寄りまで気兼ねなく来店している。

 

***

 

 ユキの実家は、パルデア屈指の食道楽の町チャンプルタウンの近郊にある。物心がついたときから、両親と共にこの町へと繰り出しては美味しいものをたらふく食べて育ってきた。食べると人は満たされ、幸せになるのだという経験を、非常に贅沢な環境下で積めたということでもある。それゆえか、自分が作ったものを誰かに食べてほしい、幸せにしたいという漠然とした願いを持つようになった。

 飲食店がひしめくチャンプルタウンの中で、ユキの心を特に捉えて離さなかったのが、暮らしの中で最も多く口にする「主食」――パンだった。成長するにつれ、パンを食べることも作ることも好きになった。いつしか、自分の店を構えてパンを売ることに憧れを抱くようになっていった。製パン学科のある専門学校に通わせてもらい、在学中にいくつかの資格を取り、卒業後は修業を兼ねて実際にパン屋で働くことにした。社会人第一歩としての勤務先はチャンプルタウンでも名を馳せる店であり、平日だろうが週末だろうが開店前から行列必至という人気ぶりだった(働き手として潜り込めたのは運がよかったとしか言いようがない)。

 人気店らしいエピソードは山のようにある。パンの味はもちろんのこと、周囲に知れ渡る看板商品が確立され、内装も公式ホームページも隙なく洒落ていて、シンボルマークがついた紙袋を持ち歩いているだけで通りすがりの者の目をひくほど。パンのサブスクリプションも大当たり、(作り方を真似できるかはともかく)販売しているパンの詳細なレシピ本まで出版しており、とにかく客を掴むための工夫を怠らない店だった。パン作りへの哲学や情熱を学び、五感を以てパンと向き合う日々――それらは間違いなくユキの財産となったが、人気店での勤務経験は、チャンプルタウンという飲食業界の激戦区に店を構えて鎬を削るような商いよりも、もっとゆったりと自分らしいパン屋を営みたいという想いを一層強くさせたのだった。

 

 さて、どこで開店しようかしら。

 

 いよいよ自分の店を持てそうな資金が貯まってくると、ユキは地図を眺めながら悩んだ。夢の実現に関わることだったから、悩みさえもまた楽しかった。

 一人娘ということもあり、両親はできるだけ実家の近くにいてほしい様子だったが、モトトカゲに五分ほど走ってもらえばチャンプルタウンに着くような土地で飲食店の営業をする勇気はなかったので、実家近辺は出店候補地からは真っ先に外している。自分の店を持つと意気込んでも、所詮は小娘。出だしから不相応なことはしたくない。

「まあ、気楽にね」「おまえの人生なんだから好きなようにやってみなさい」と、両親からは理解のある言葉が聞けている。ただし、彼らは「一度なりとも自営業の経歴があれば、たとえ店をたたむことになろうとその後の働き口は容易に見つかるはずだ」と考えている節があった。再就職先はチャンプルタウンにすればいい。常に人手を求めているし、そもそも、有名店で働いていたことがユキに箔をつけている。そう思っているのだ。失敗を前提とされ、その後の再出発まで想定されていることは少々情けなくもあるのだが、両親があれこれと口を出してこないのはありがたく、ユキの将来への希望はそれこそパンのように膨らんでいくばかりだった。

 

 出店地を考えていた折、友人から気晴らしに遊びに来ないかと連絡があり、彼女の住まうハッコウシティに出かける機会があった。そんな伝手でもなければおいそれとは行けない煌びやかな大都会である。彼女は専門学校時代の親しい友人で、実家がハッコウシティでパティスリーを経営しており、家業を手伝うために専門学校に入学していた。元から基盤がなければ店を出すことは難しい土地であるし、何より、地価もテナント料も目玉が飛び出るような額だ。友人もそれは重々承知しているのか、喫茶店で互いの近況を喋り合っている中で一度も「ユキもこっちにきてパン屋をやってみたら」などという無責任なことは言わなかった。当のユキも、流行の最先端をひた走るようなこの街で暮らす自分の姿を思い描くことはなかった。まるで、童話にある『田舎(いなか)のワッカネズミと都会(まち)のワッカネズミ』みたいだ。言うまでもなく、ユキは前者である。

 もっと落ち着いた場所の方が、私には馴染むみたい。そう思いながら、ハッコウ観光の帰りに空飛ぶタクシーに乗った所為だろうか。イキリンコたちの羽ばたきを聞きながら不意に窓の外を見たとき、何やら無性に眼下の光景が気になった。不夜城の大都会とはおよそ対極に位置する静かな大地――…行きでは気にかけることもなかった東三番エリア一帯の荒野と、その片隅にぽつんと存在する小さな町。まっすぐ実家を目指すはずが、ユキは行先を変えて、目にした小さな町に――ピケタウンに急遽着地してもらうのだった。

 

「イキリンコたちにとってもいい休憩になりますからね」

 

 ドライバーの男性は気さくな笑みを浮かべ、目的地の変更に快く応じてくれた。何か気になりましたかと尋ねられ、ユキは「せっかくなのでこれを機に立ち寄ってみようと思った」という、適当が過ぎる返答をした。咄嗟に口をついて出たでたらめである。しかし、ドライバーは特に不審そうな顔をすることもなく、むしろ納得したように頷いた。

 

「お客様はハッコウシティからの帰りでしたよね。都会での観光も楽しいですが、こういう質素な町もオツなものです。ふと心惹かれたお気持ちも分かる気がしますよ」

 

 ピケタウン。名前だけは知っていた。ナッペ山の麓に沿って続く長い長いプルピケ山道――チャン『プル』タウンと『ピケ』タウンをつなぐ山道なので、その名がついたとされている。西端のチャンプルタウンのことは近所なのでよく知っているが、東端にあるピケタウンの詳細は知らない。訪れたのだって、これが初回だ。今日のような心境の変化がなければ一生縁がなかったかもしれない。

 少し歩いてきますとドライバーに告げ、ユキは町中へと繰り出した。まだ日は高く、実家には夕暮れ時にでも着けばいいと考えていた身からすれば、小一時間くらいはこの町を散策できそうだった。

 

 静かだった。しかし、それは寂れているということではない。落ち着きがあって穏やかなのだ。行き交う人々や広場で遊ぶ子どもたちの表情は明るく、ユキが道などを尋ねた際も、物腰柔らかく応じてくれる人ばかりだった。

 整然とした石畳に、無駄を削ぎ落したかのような簡素な街並み。飾りけのなさがかえって好印象で、素朴な美しさが根付いているように感じられた。一度も来たことがない町なのに、ノスタルジックでさえあった。

 

「ピケタウンって、何か売りがある町なんですか」

 

 空飛ぶタクシー乗り場に戻ってドライバーに問うてみたところ、彼は少しばかり首をひねった。言葉を探すのは、すぐに答えられるような特徴がないためだろうか。ユキの推測は当たっており、始めにドライバーは「これといった観光資源はないしなあ…」と呟いた。

 

「このあたりの採掘場で働く労働者が集まってできた町ですし、仕事以外で人を呼び込むようなものは元からないといいますか…」

 

 タクシー乗り場は高台にあり、そこから、ピケタウンを囲む広大な採掘場が見えた。工事現場の足組に、黒々と開いた坑道の入り口。映画のロケ地にもなりそうな赤茶けた荒野や岩山が地平線の果てまで延々と広がっている。時折、白っぽい砂埃が舞う。複雑な地形が風を巻き起こしているらしい。こうして風が砂を運んでくるために、町の上空も足元もやや砂っぽいが、それもまたピケタウンの味に思える。ついでに、砂の他にも、吹き抜ける風はアノクサを連れてきた。ユキは、ころころと風任せに転がっていくアノクサが岩場に消えていくのを見た。

 

「売りとなるものを強いて挙げるなら、住人たちの気質じゃないですかね。働き者だし、愛想はいいし。他所からくるには便の悪い土地ではありますが、案外、住み心地は悪くない町かもしれません」

 

 観光業に携わり、各地の情報に通じているはずのドライバーからも、大した褒め言葉は聞けなかった。しかし、悪評もなかった。それで十分だった。ユキは自分の目と耳で見聞きしたことを信じることにした。ほとんど「直感」としか言いようがないのだが、この瞬間に、ユキにとっての出店候補地が絞り込まれたのである。

 

***

 

「嬉しいですねえ、若い方にきていただけるとなると」

 

 ――物件を紹介しながら、不動産会社の社員が明るい声を響かせた。勤め人というよりは世間話が好きなおばちゃんといった女性社員と共に、ユキは内見に来ている。この女性はセールストーク以上に「そんなことを客に聞かせていいのか」と笑ってしまいそうなほどぶっちゃけた話もしてくれて、おかげで、ユキの方も遠慮なく質問ができた。

 現場は、ちょこんと佇む二階建ての建物。一階の店舗の窓には、テナント募集の張り紙が出ている。建物自体は見た目以上に古いので、内装を整えるのに手間がかかるかもしれないと説明されたが、ユキにとっては大した気がかりにならなかった。「空き店舗への新規出店を支援し、町内の活性化を促進する」ことが目的の事業だとかで、町に申請すれば内装工事費などを対象に助成金が出ることは事前に調べてある。得られる援助は存分に使い、満足いくまで手を加えることにしよう。

 

「元はね、お年を召されたおじいちゃんが一人で写真館をやってたんです。でも、寄る年波には勝てないと申しますでしょ。継ぐ人もいないからって、お店を畳むことになって。あとは施設の世話になってね。それで、一昨年の暮れでしたかねえ、…そうです、眠るような安らかな最期だったって聞いてますよ」

 

 忘れ形見として残ったこの店舗で、(ユキの計画と同様に)町からの助成金を活用するかたちで若い女性が雑貨屋を開いたらしいのだが、長続きはしなかったそうだ。

 

「この町で小洒落た雑貨屋を営むこと自体が大胆な試みでしたけど…一年ともたなかったと思いますねえ…。ご覧の通りこぢんまりした物件ですから、在庫の置き場にも困ったでしょうし、傍目から見ても経営は大変そうでしたよ。結局、ネット通販に切り替えた方が食べていけそうだってことで、店を手放して」

 

 その女性は既に引っ越しており、もうこの町にはいないとのこと。写真屋、雑貨屋、そして――パン屋。三番目の主として、今、ユキがやってきたというわけなのだった。

 内見場所を二階に移したが、そこは見るからに、そして驚くほどに狭い。一応、一人暮らしならばかろうじて成立しそうな設備が一通り揃ってはいた。人ひとりが何とか入れるトイレとシャワー室があり、台所と呼べるかどうかも怪しい極小サイズだがミニキッチンもついている。洗濯機を置けるのは階下、しかも屋外。冷蔵庫とベッドを運び込んだらもうぎゅう詰めになるだろう。住宅付貸店舗ということで紹介してもらった物件だが、これを住宅にカウントしていいのかは微妙なラインであるし、給湯室と言われた方がまだしっくりくる。ただ、それでも、ユキは「何とかなる」と信じているし、予算に合う物件と出会えた幸運を喜んでいるのだった。私物は大して多くないし、これといった収納スペースが見当たらない部屋でも工夫次第で楽しい空間にできるはずだ。と、実に前向きな姿勢でいる。

 

「パン屋さん、楽しみにしてます。買いにきますね」

 

 不動産会社の女性が笑いかけてくれた(後に彼女は常連となり、このときの発言がその場限りの社交辞令でも何でもなかったことが判明する)。ユキも、その笑顔に応えようと思った。細々としたことにさえ目をつむれば、温かみのある雰囲気の建物であり、ユキは早々にこの物件が気に入り始めていた。

 

***

 

 パン屋の名は、『木曜日(Jueves)』(フエベスと読む)

 木曜日が定休日であることを覚えてもらうために、こんな店名になった。この町角の小さなパン屋は、気付けば開店して五周年を迎えようとしている。

 当初、町では、あっという間に消え去った雑貨屋の後釜に何が収まるのだろうと興味を持たれていたらしい。そんな中でパン屋がやってきたものだから、ユキは大いに歓待されたのだった。

 ピケタウンにも当たり前にスーパーが点在し、コンビニだってある。これらが、ピケタウンの食生活のほとんどを支えているといっていい。それで回せる規模の町だった。パンだって例外ではない。入手は造作もない。だが、焼きたての手作りパンを買えることや、パン屋でしか買えないものがあるという品揃えは、ユキが想像する以上に町民たちにとって魅力的に映ったようで、開店して以降、客足が途絶えたことはなかった。一日、また一日と、パンを売り続けることが叶う日々に、ユキは感謝していた。

 

 客がくるのは、もちろん、ユキの作るパンの美味しさを知ったがゆえである。

 パンが好きで、食べるのも作るのも好きで、やがてそれが特技になって、仕事になる――その根底には天性の才能があった。ユキのふっくらとした手によって生み出される、何度でも食べたくなるような優しい味わいのパンは、瞬く間に、ピケタウンの人々を虜にしたのだった。

 

 ユキがピケタウンに住んで半年も経つ頃には、町内の幼稚園から「園児のおやつにしたい」という依頼がきたし、他にも「スクールの売店に置きたい」という話や「ピケタウンにカフェを開く予定だから、木曜日(Jueves)のパンを軽食のメニューに載せたい」という仕事の誘いもあった。食べきれるよう敢えて小ぶりなパンにしており、値段も手頃だから、子どもたちが「ユキちゃん、ユキちゃん」と親しく呼びかけながら小遣いを握りしめて店にやってくる。もっと思いがけなかったのは、体格のいい土工や林業の関係者が定期的にパンを買ってくれることだった。女性客が多いと言われるパン屋だが、ユキの店では、結構な割合で男性客(それも、いかついおにいちゃんやおじちゃん連中)がいるのである。ピケタウンの「ピケ」とは、「穴を開けること」を意味し、その名の通り住民の多くが採掘を生業にしているのだが、町の北西から南西にかけた一帯は森林が占め、林業に携わる労働者も多かった。彼ら曰く「作業の合間、休憩時に摂る補給食になる」という理由で、出勤前にユキのところに立ち寄っていく。こうして安定した仕事が約束され、客も定着し、今では町中で気さくに挨拶してくれる顔馴染みも随分と増えた。このまま町に愛されるパン屋として育っていけたらなあと願ってやまないユキなのである。

 

 

「イタドリさーん!こんにちはー!」

 

 

 ユキが大きく手を振ると、作業着姿の男性――イタドリが振り向き、手を振り返してくれた。

 ピケタウン唯一の木の実農園である。町内のスーパーに農産物直売コーナー(インショップ)があり、そこで購入した木の実の味が忘れられず、パッケージに印字されていた生産者のところへ出向いたことで縁ができた。

 

「いつもありがとなあ、ユキちゃん」

 

 目尻に皺を刻み、イタドリはにこやかに破顔する。

 この農園で栽培しているのはウブの実とマゴの実の二種類で、ユキは直接買い付けることにしていた。ジャムを作って売ったり、ジャムパンの中身に使っている。季節の商品なので、「木曜日(Jueves)」を訪れる客にも好評だ。

 実のところ、イタドリにも喜ばれ、感謝されている。生産者の顔が見えるような工夫をしようと、店内で「イタドリ農園の木の実を使っています」とポップ広告を出し、農園の連絡先が書かれたカードを置いたのだが、それらが地味に効果を発揮したようで、イタドリの農園では全体的に売り上げがよくなったのだという。「ユキちゃんのお店で知ったから」という問い合わせもあるらしい。実際に数字に現れ、世話になっている生産者の助けになっているというのなら、嬉しい限りだ。

 

「ちょうど今、ジュプトルに飯を食わせてたところさ。後片付けしてくるから、ちょっと待っててくれるかい」

 

 ジュプトルは、いわば見張り番。木の実を食べにくるポケモンや木の根をかじるポケモン、熟した頃を見計らって盗みを働くような不届きな人間を退ける役目を担っている。食事の時間は、果樹を守るため常に気を張っているジュプトルにとっては重要な休息だろう。どうぞお気になさらずと送り出した後、ユキは、農園におけるお気に入りスポットへと足を向けた。

 一陣の風が、短く揃えているユキの髪をさらさらと梳いていく。ナッペ山から吹下ろす風は未だにひやりとするものの、陽射しには十分に春を感じさせるだけの熱が含まれている。この時期に農園を訪れると、たわわに実った木の実以外に目を楽しませてくれるものがある。艶やかで、宝石のように光沢のある赤――…イチゴの実だ。イタドリ曰く「趣味で育てているもの」で、商品ではない。確かに、庭先で世話をしている程度の規模である、が、一見の価値があるとユキは思っている。

 イチゴを育てるのに、石垣を用いているのだから。

 日光を受けた石垣が熱を持ち、土を暖め、イチゴの育成に役立っているのだという。端然と積まれた石垣に根を張り、葉を広げ、白い花を咲かせ、赤い実をつけるその姿。岩石の灰褐色が、余計に、イチゴの持つ可憐な色彩を鮮やかに際立たせている。イチゴと言えばハウス栽培と頭から決めにかかっていただけに 当初は目の前に広がる光景に呆気にとられるばかりだった。

 なかなか他ではお目にかかれないものであるわけだが、その日、ユキは石垣イチゴの傍でもう一つの珍しいものを発見することになる。

 

「……、…卵…?」

 

 それがポケモンの卵だという知識はある。しかし、実物を見たのは初めてだ。注意深く見なければ、屋外に設置された何らかのオブジェだと早合点して素通りしたかもしれない。それほどに、ユキの日常ではおそよ関わりのないものだった。今までポケモンを育てたことがないので尚更である。

 白地に緑色のぶち模様がついた卵だ。辺りを確認してみても、親らしきポケモンは見当たらない。離れたところからこちらの動向を見ているということも考えられなくはないが、ひとまず卵に近づくことにした。恐る恐る触れてみる。ほのかに暖かい。きっと、卵の中身はまだ生きている。持ち上げてみる。想像以上の重みがあり、ずしりと、ユキの両腕に負荷がかかった。判明したのはこのくらいだ。何が生まれてくるのかは不明なままだった。

 

「イタドリさん!あの、これ…」

 

 報告しようと声をあげたが、直後、ユキの腕の中で卵がぶるりと身震いした。勘違いではなかった。卵は小刻みな振動を続ける。中から発せられている振動は殻にも伝わり、ピシリと音を伴いながら表面にヒビを入れた。

 

 殻を脱ぎ捨てて、この世界に出てこようとしている!

 

「うわ、わわ、…!」

 

 焦る。焦るのだが、ユキは、卵をしっかりと抱え直した。ユキの心を染めたもの――…月並みなことをいうならば、母性。これから高らかに産声をあげるヒナを、責任をもって受けとめなければ。そう決意する。

 ユキの腕に抱かれ、卵は身をよじるように動く。殻の破片が飛び散る。命の誕生を謳う神聖な光がほとばしり、あまりの眩さに、束の間、ユキは目を閉じた。

 

 静寂。たっぷりと十秒数えて、ユキはゆっくりと目を開けた。いま自分が抱きしめているものを見た。瞬間、思わず、感嘆の声を上げていた。

 

「わあ、…きれい…!」

 

 イチゴの傍で見つけただけのことはあると言おうか。イチゴの実がそのまま妖精になったのではないかと思うほどの、濡れた真紅の翼が真っ先に目を惹いた。次いで、乾かずぺしょりと頭にはりついている橙の冠羽や、顔を覆う緑の羽毛、足を覆う黄みがかった脚鱗。一見して、鳥である。だが、鳥とはいえ亜人とでも形容すべき人型であり、親しみやすい外見をしている。生まれたばかりの小さな鳥は、目を閉じたまま、ぷああ、と大きく欠伸(あくび)をした。眠気を誘うというよりも、肺の中いっぱいに空気を吸い込むための動作に見えた。

 

 ユキはパン職人であり、別にグルテンフリーの商品を扱っているということもないから、当然、小麦粉の塊を毎日捏ねている。自分のため、他者のため、小麦は生きていくうえで必要不可欠のもの――そういう位置におさまることが小麦の陰謀だったのではないかと囁く学者がかつてこの世にいたらしい。自分の種を増やし、生息地を広げていくため、人類を奴隷化したのだという大胆な説だ。狩猟ではなく農耕に切り替えたとき、人間は定住が必須になる。それゆえ、コミュニティを維持するために作物を作り続けなければならない状況になった。小麦は大いに狡猾を働かせ、その状況を利用したのに違いない。長きを経て、今や世界三大穀物の一角にのし上がっているのだから。

 美味なるものの原材料ともなれば、人間は生産を奨励する。大事に庇護する。それだけの価値がある。ユキが出会ったこの小鳥もまた、美しいという単純にして絶対的な価値を生まれながらに持っていた。心惹かれるには十分だったし、また、そうあることで自身を他者に守らせようという戦略なのかもしれなかった。現に、ユキは、どうやったらこの子をお世話できるのかしらと頭の隅で考え始めている。

 

 生まれて間もない、出会って間もないこの小さなポケモンには、ユキの心をまさしく隷属させるだけの、不思議な魅力が宿っていたのである。

 

 






【 その後のユキちゃん 】
 保護を願い出たユキは、イタドリから「とりあえずボールに入れておこう」と提案を受けた。孵化したばかりのポケモンは体温を調節する機能が未熟だからと言い置いて、イタドリは一旦農園に隣接する自宅に戻り、モンスターボールを取ってきてくれた。
 赤い光線を浴び、ヒナがボールの内部に吸い込まれていく。初めて手にしたボールは、中にポケモンがいるとは思えないほど軽い。

「最近のボールは色々と機能が充実しててね…」

 イタドリの説明に従って操作し、中央のボタンを長押しすると、ボールの側面に「ルチャブル」と表示された。どうやら、捕まえたポケモンを解析する仕組みが備わっているらしい。見知らぬポケモンの正体を明らかにするのみならず、ポケモンの取り違えを防ぐことを目的とした機能だとイタドリは語る。

「あとのことは、ポケモンセンターで聞くといい。色んな手続きのことや、予防接種のこともフォローしてくれる。ルチャブルって種族が分かったからって、この場で生態や世話の仕方を一から調べるわけにもいかんからな。専門家に任せておけば安心だよ、ユキちゃん」

 イタドリは、もしルチャブルの親を見かけたら連絡すると言うものの、その口調はどこかぎこちない。親が現れる可能性はほとんどゼロに近いと思っているのだろう。聞けば、果樹エリアとは違い、石垣イチゴの辺りには防犯カメラを設置しておらず、卵がやってきた経緯は知りようがないという。イタドリは「おまえは何か気付いてたかい」とジュプトルにも尋ねたのだが、彼は残念そうに首を振っただけだった。

「イタドリさん。収穫してもらってる木の実、また後で取りにうかがっても構いませんか」
「いいよいいよ、待ってる。今はルチャブルのことで頭がいっぱいだろうしな」

 ユキはモンスターボールをしっかりとリュックにしまいこむと、スクーターに跨る。逸る気持ちからいつになく力んで、ついキーを勢いよく回し、スタータースイッチも必要以上に押し込んでしまった。
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