※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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第六章/洋:パルデア
プロローグ


「あ!起きてる!」

 

 浮上していく意識に合わせ、ゆるりと瞼を開ける。すると、人間の声が鼓膜を揺すった。時が経つにつれぼやけた視界が少しずつクリアになり、両の眼(まなこ)に女が映る。少女と呼ぶほど幼くはなく、しかしながら大人というにはまだ青い。そんな、若い娘。先ほど耳にした声は、その若さを象徴するように甘やかだった。甘やかとはいえ水飴みたいにべたつきはしない、くどさのない甘納豆の声音。そのイメージと重なる柔和な笑みを浮かべた顔は、ふくよかで下膨れており、おたふくのお面そのものだ。前かがみになって覗き込んでくる際、内巻きになったボブカットの黒髪がさらりと揺れた。

 

「やっぱり、赤ちゃんだもんね。眠ってる時間の方が長いもの。だから、あなたの目、いま初めて見ることができた」

 

 おっきなおめめだね。吸い込まれちゃいそう。

 女は目尻を下げ、シフォンケーキのようにふわりとした表情をつくる。

 

「綺麗な金色。おひさまみたい」

 

 こんなふうに、女という生き物はものを大袈裟に言いがちだ。ゲ(・)ッ(・)コ(・)ウ(・)ガ(・)は…、否、「赤ちゃん」と口にした女の言葉によればケロマツと言ったほうが正しかろう、…ケロマツは女の称賛をふふんと鼻先であしらう。

 確かに、世間一般のケロマツの目は薄黄色であるが、それを金色だ太陽だと表現するのは些か仰々しい。天に輝く黄金の日輪と見紛うほど美々しいものは、そう、例えばルチャブルの双眸で――…

 

 …――ルチャブル?

 

 俄かに胸騒ぎがした。その胸騒ぎは、ほとんど反射的に、ケロマツの視線を己の手元に向けさせた。

 そこにあったものを認めたときのケロマツの感情は、驚愕などという一言で片づけられるものではなく、激しく彼を動揺させた。

 吸盤のついた白い指先ではない。蛙の前脚ではない。目に飛び込んできたのは、小さくとも猛禽のものだと分からせるに十分な黄色い鉤爪と、手の動きに合わせて軽やかに動く緑の羽だった。翼だ。翻すと、翼の表は燃えるような紅蓮を纏っていて――インナーカラーを彷彿とさせる美麗な羽は、もう間違えようがない。ルチャブルしか持ちえない唯一無二の特徴だ。

 

 若い女の部屋とくれば姿見(かがみ)があるはず。動悸を覚えながらも周囲を見回せば、あった、スタンドミラーが置かれている。ふらふらと近付く。女は何も見咎めてこない。「何でも珍しいよね。色々触ってみてもいいからね」などとのんきなことを言っている。

 

 ケロマツは、鏡の前に立った。

 ルチャブルが、見返してきた。

 幼いのは当然としても、既に成体の面影が濃い。恋焦がれてやまない、最愛の小鳥を生き写しにしたポケモンが、そこにいた。

 

「それがあなたの姿なんだよ。自分のことだって、分かるかな?」

 

 背後から女がにこやかに話しかけ、追討ちをかける。

 たまらず膝崩れを起こし、ケロマツ(ルチャブル)はぺしょりとその場に座り込んだ。

 こんな形で。

 まさか、こんな形で愛しの我が運命と出会うことになろうとは誰が想像できただろう。

 この世で産声をあげて、新たな生の幕を開けて、いつも通りに、ルチャブルを探すところから始まるのだとばかり思っていた。

 

 ところが、今世では、既(・)に(・)ル(・)チ(・)ャ(・)ブ(・)ル(・)と(・)の(・)再(・)会(・)が(・)叶(・)っ(・)た(・)。

 叶って、しまった。

 

 こんな事態を望んでいたわけではない。ケロマツ(ルチャブル)は心臓が締め付けられたように感じ、思わず胸元を押さえた。掌に、真っ新な羽毛の柔らかさが伝わってきて、その切なさに心身が千切れてしまいそうだった。

 ルチャブルと恋がしたかった。ルチャブルを愛したかった。この手で抱きしめたかった、…それなのに。

 ルチャブルと初めて出会った遥か昔の「あの日」から、ずっと一緒にいたいと願い続けた。それは事実だ。だからこうして奇跡のような転生を繰り返してきた。共に生きていきたい、寄り添っていたいと、…その想いに偽りはないがこんなふうに溶け合うのは望みに反している。おまえの美しさはおまえの心あってのものだった。いくらおまえが愛おしくても、おまえの美しさを羨んでも、取って代わろうだなんて思うものか。おまえの一生を奪うつもりなど毛頭なかったんだ!ルチャブル!

 

 ケロマツ(ルチャブル)が普段通りに冷静であったなら、もっと別の可能性について考えが及んだはずだった。しかし、これほど深く打ちひしがれていては、脳みそはまともに機能しない。分別は消し飛び、精神的な余裕も皆無。で、あるからして、彼はすっかり己(・)の(・)魂(・)が(・)ル(・)チ(・)ャ(・)ブ(・)ル(・)の(・)器(・)を(・)乗(・)っ(・)取(・)っ(・)た(・)の(・)だ(・)と(・)思(・)い(・)込(・)ん(・)で(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)のである。

 

 絶望。奈落の底に向かって沈んでいくような、銷魂(しょうこん)。生まれたての身でありながら死が頭をよぎる。

 だが、しかし――…この肉体はルチャブルのものだ。ルチャブルそのものだ。どうして害することができるだろう。ならば、やはり、生きるよりほかにないのだ。この肉体を以て。ルチャブルへの愛ゆえに。

 

 

 オレがこの身を慈しもう。

 

 

 自ら育て、鍛え、あの彩鷹の誇りに恥じぬ者として生きていこう。あらん限りの幸福を与えよう。ケロマツ(ルチャブル)は悲壮なほどの決意を宿して、再び、立ち上がる。

 振り向いた先では、ケロマツ(ルチャブル)の胸の内を知る由もない女が、相変わらず餅みたいな頬をふくふくとさせて佇んでいる。

 

「改めて、挨拶しよっか。初めまして。私は、ユキ。あなたとはイチゴ畑で出会ったの」

 

 仲良しになれたらいいな。

 女は、そっとケロマツ(ルチャブル)の手を取り、優しく握る。

 

「あなたのことも、イチゴみたいだなあって思ってたんだ。イチゴの花は白いし、葉っぱは緑、実は赤いでしょう?あなたも、おんなじ色を、全部持ってるよね。だから、あなたのこと、イチゴちゃんって呼ぼうと思って」

 

 これからよろしくね、イチゴちゃん。

 

 馴れ馴れしくするんじゃねえよ。本音では、そう思っている。たとえ親しげに差し伸べられた手であろうと、気にくわないならば躊躇いなく振りほどく冷淡が、ケロマツにはある。人間の言葉を喋れたなら、この場で「なにがイチゴちゃんだ冗談は顔だけにしておけよブス」などという罵倒を平然と言い放っていたところだ。

 しかし、今やケロマツの価値観を基準にするわけにはいかない。ルチャブルとしての振舞いが課せられている。

 ルチャブルなら、この女の優しさに誠実な態度で応える。与えられた名と、そこに込められた想いを大事にする。だから、ケロマツ(ルチャブル)にとって、…嗚呼、くそ、…イ(・)チ(・)ゴ(・)にとってどんなに不本意でも、顔には出さない。手を握り返すことで、女に了承の意思を伝える。イチゴからも笑いかけてみる。…きっと、ルチャブルなら、こうするはずだから。

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