※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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③ イチゴちゃんとしるしの木立

 木曜日が、やってくる。

 ユキにとっての休日であるため遠慮なく惰眠を貪ることにしており、起床時間は遅くなる。だから、目覚めたときに目に入る部屋の様子が、いつもとは違って見える。普段は夜明け前から働きだすため辺りは薄暗いが、木曜日だけは既に日が昇った状態で朝を迎える。今やカーテンの向こう側は、すっかり白んでいた。

 

「本当に晴れたんだあ…」

 

 カーテンを開けた先に広がる、薄青の明るい空。あの空を切り取ってテーラーに託したら、きっと、清楚なワンピースを仕立ててくれるだろう。そんなことを思うくらいに、澄んだ好天だった。この場合、雨晴れと言うのかもしれない。昨夜、眠りにつくまでは雨音がしていたのだから。雨粒が窓を叩く音は、なかなかに激しかったと記憶している。スマホで天気予報を確認して、翌日は晴れると分かって以降も「こんなに土砂降りなのに?」と疑ってしまったほどだ。でも、こうして、シャワーを浴びてすっきりしたみたいに、雨で砂埃を洗い流した町は気持ちのいい空気に満ちていて、朝日に照らされてきらきらしている。やっぱり天気予報って当たるんだなあ、すごいなあと、ユキは今日も今日とてのんきであった。

 

「やったね、イチゴちゃん。お花見日和だよ!」

 

 振り返って、ユキはイチゴに笑いかける。窓から射しこんでくる光の中で影を伸ばしながら、当のイチゴは、眩しそうに目を細めていた。

 

***

 

 花見の計画は、花見とは何ら関係のない事柄から端を発している。

 さかのぼること一週間前。ユキは、来月に迫ったイチゴの誕生日を(※当のイチゴよりも)楽しみにしており、普段はパンを焼いているこの手で、当日はケーキを焼いてあげようと考えていた。どんなデザインにしようか、どんな木の実を使おうか、あれこれと考えるのは心が浮き立つことだった。ちょっぴり気もそぞろな状態で店に立っていたので、「最近はすっかり春らしくなってきたわねえ」と話しかけてきた客への反応が遅れてしまった。いけない、集中しなきゃ。ワンテンポの遅れを取り繕うように頷きながら、「ここ数日は特に陽射しも暖かいですよね」と返し、窓の外を見遣った。そのときだった。偶然、一羽のムックルが横切っていった。銀灰色の翼をパタパタと動かして――…

 

 ――…飛ぶ。

 

 一つの動詞が、頭の中で静電気みたいにぱちんと弾けた。次いで、店内にいたイチゴに視線を向けた。彼はもうすぐ一歳になる。だが、飛行している姿を見たことは一度もない。その事実に気付いたとき、ユキは、さあと音をたてて血の気がひくのを感じた。

 ユキは、イチゴを拾った当初、『ルチャブルの育て方』を読みながら一度は思案したのだ。鳥なのだからイチゴもいつかは飛ぶことになるだろう。人間であるユキには飛ぶ手本を示せないのだから、イチゴの飛行練習を支えるには工夫が必要だ、と。何かしらの動画に頼ったり、実際にポケモンが飛ぶところを見にいったり、具体策を考えねばならないと。

 鳥ポケモンの中には、孵化してから一カ月も経てば巣立ちをする種族もいるそうで、ルチャブルも例外ではないらしい。群れを作らない生態もあって、野生のルチャブルは独立心が強いのだとか。人と共に暮らすルチャブルの場合であっても、成長と共に羽が生えそろって翼が丈夫になれば、羽ばたく素振りなどを見せて飛ぶことへの関心を示すようになると本に書いてあった。ならば、イチゴからのシグナルを見落とさぬよう注意しておこう。そんなふうに、頭の隅に書き留めておいたつもりだったのに。

 飛びたそうな様子をイチゴがこれまでに見せてこなかった。それも一因かもしれない。だが、責任転嫁はできない。ユキとの暮らしの中で飛ぶ必要性が生じず、結果、彼の意欲を減退させた可能性だってある。ユキが気付いて、飛ぶ練習をしてみようと誘うなり促すなりするべきだったのだ。保護者として。

 白状しよう。忘れていたのだ。かつての脳内のメモを、失くしたことにすら気付いていなかった。仕事は忙しくも充実し、イチゴとの生活が楽しく、日々に遣り甲斐と張りがあって、今にいたるまで何の問題もなかった(と思い込んでいた)ので、イチゴがユキの隣にいることを当たり前のように思っていた。今までに「どこかへ飛び去ってしまったらどうしよう」という不安を感じてこなかったのは、つまり、飛ぶことの想定がユキの頭から抜け落ちていたからに他ならない。

 ムックルを見た瞬間の、「思い出した!」という感覚。思い出したものの、取り返しのつかないことも同時に気付いてしまい、今更ながら途方に暮れている。自分自身のことではなく、家族(イチゴ)を巻き込む過失であっただけに、尚更。

 ぐるぐると考えを巡らせているうちにも何とかその日の営業を終え、閉店作業に取り掛かる。黙々と手伝っているイチゴに対して、ユキは、やおら切り出した。

 

「あの…ですね。イチゴちゃん、…例えば、その、飛ぶということにご興味などは…?」

 

 イチゴは面食らっていた。そして、少しばかり呆れたような目つきになった。それはそうだろう、脈絡がなさすぎる。ついでに言えば、ユキが行き当たりばったりで口を開いた所為で、実に妙ちきりんな言い回しになっていた。胡散臭いセールスマンのようだ。

 

「そういえば、イチゴちゃんが飛んでるの、見たことないなって、…今日、唐突にね、気付いちゃったというか」

 

 言葉にするとより一層罪悪感が鮮明になり、ユキの目には、俄かに涙の膜が張っていく。

 

「何だか、言い訳がましくなっちゃった。ごめんなさい。…正直に言うとね、私、イチゴちゃんが飛ばないことを気に留めてなかったの。もっと早くに、おかしいなって、思うべきだった。ポケモンセンターに相談するとか、練習してみようってイチゴちゃんに提案するとか、できることはあったのに。わた、…わたしの、せいで、…イチゴちゃんがとべなくなったら…」

 

 どうしよう…と最後は涙声で尻切れトンボになりながら、ユキは項垂れる。成人女性とは思えないほどの情けなさだ。どうしようと言ったって、イチゴは困るに決まっている。むしろイチゴの方こそどうしたらいいのと言いたいはずなのに。保護者なら、自分の非を認めて、それでも絶対にイチゴちゃんが飛べるようになる方法を見つけるからねと断言して、安心させなくては。ユキはぐしぐしと拳で目元を拭い、顔を上げる。そのタイミングを待っていたかのように、イチゴはユキが発言する前に先んじて、エプロンの裾を引っ張ってきた。

 

「るっちゃ」

 

 エプロンの裾を掴んだまま何度か鳴いて、ユキを店の裏にある勝手口の方へ連れていこうとする。片付けはまだ残っているが、一旦、中止だ。「外に行くの?」と確認すれば、こくんと首肯するので、ユキはイチゴと共に店を後にした。

 

***

 

 閉店時間は16時ということにしているが、実際は、パンが完売した時点で店を閉める。だから、夕方を待つことなく営業が終わることもしばしばだ。その日も早めの店仕舞いとなっており、外はまだ昼間の明るさを維持している。

 歩き始めて十分と経たず、イチゴは足を止めた。ふたりの目の前にあるのは公園、ここがイチゴにとっての目的地であるらしい。敷地としてはさほど大きくはないものの遊具が充実している場所なので、子どもたちには人気がある。現に、今、スクールから帰ってきた低学年の子どもたちが詰めかけていて非常に賑やかだ。

「あ、ユキちゃんだ」「イチゴちゃんだ」と、子どもたちが寄ってくる。何しにきたの?遊ぶの?散歩?矢継ぎ早に問われるが、ユキ自身も答えられずにあたふたとしてしまう。一方のイチゴは終始冷静で、群がる子どもたちには構わずに、ずんずんとジャングルジムへと突き進む。ユキも、興味をひかれた子どもたちも、まるで笛吹き男に従うようにイチゴのあとをついていく。

 年季が入り、あちこちの塗装が剥げている黄色のジャングルジム。イチゴは軽やかに地を蹴って、創作物によく登場するニンジャさながらにひょいひょいと跳躍を繰り返し、瞬く間にジャングルジムの登頂を果たした。のぼる過程にも見応えがあったが、それ以上に、ジャングルジムの上でさっと両翼を広げたイチゴの姿は息を吞むほどに雄々しく、神話に出てくる獣の彫刻のようだった。彼はそのまま虚空へと身を躍らせ、ユキと子どもたち複数の声が「あ!」と重なる中、滑らかに滑空し、転倒することなく無事に着地をしてみせた。進んだ距離、目算で十メートルほどだろうか。着地点でイチゴはユキへと振り返り、「ざっとこんなもんよ」とでも言うようなドヤ顔をきめている。危なげなくこなされた一連の動きを見届けたあと、ユキは子どもたちと一緒になってわっと歓声を上げ、しきりに拍手を送った。

 

「すごい!すごいよイチゴちゃん!」

 

 一番に駆け寄って、ユキはイチゴを抱きしめた。この子は、飛ぼうと思えばどうとでもなるから気にするなと、それを伝えるために実演してくれたんだ。ユキの方が励まされ、慰められ、安心させられて、立つ瀬がないほどだった。じんわりと胸の奥が熱くなり、再び涙腺が刺激されていく。

 

 ふと、ひらめく刹那。そうだ、…もっと広々とした場所で、のびのびと飛ぶことを楽しんでほしい。町中では建物や電線が遮蔽物となって思う存分飛び回るというわけにはいかないだろうし、(今回はユキが付き添っていたからいいものの)公園を使おうにも子どもたちが大勢いるので勝手なことはできない。賢いイチゴのことなので心配はないだろうが、万が一、手狭なところで滑空を試みて自身が怪我をしたり、あるいは他者を負傷させたりしたら大変だ。

 

「ねえ、イチゴちゃん。今度の店休日、お花見に行こうか」

 

 手を繋ぎ合って帰路につく途中、ユキはイチゴに話しかける。

 

「言葉の通りに、羽を伸ばそう。ピケタウンの外になるんだけど、大きな公園があってね。いっぱいお花が植えられて、綺麗なんだって。そこで、もっと気兼ねなく飛ぶ練習をしようよ。上空からのお花見…、素敵だと思うなあ」

 

 ピケタウンを出て北に進むと、砂塵舞う赤茶けた荒野のドライブコースがあり、そこを更に走り抜ければ突如として緑地が現れる。豊かな自然を利用した大きな公園が整備されていることはユキも知っており、直に訪れたことはないが、人にとってもポケモンにとっても憩いの場になっていると聞いたことがある。そこでなら、イチゴも活発になれるだろう。更に、近頃ラジオで耳に入れた情報によれば、公園内では春の花々が咲き誇り、特に満開となった桜の美しさが公園の利用者を楽しませているという。

 次の休日は、ピクニックバスケットにサンドイッチを詰めて、イチゴちゃんと出かけよう。そこかしこに花が咲く広々とした公園で、イチゴちゃんには目一杯に身体を動かしてもらって…。思いつきにしては魅力的な案に感じられた。イチゴにも異論はなさそうだった。急な誘いにも関わらず、素直に首を縦に振ってくれるイチゴが、愛おしかった。

 

+++

 

 今世で生まれついた種族こそルチャブルであるが、イチゴの中身は蛙である。跳ぶことは知っていても飛ぶことは門外漢。ただ、ルチャブルの戦い方は「身軽さを活かして相手を翻弄、制空権を我が物にして敵の頭上から攻撃」という華麗でテクニカルなところに醍醐味があるわけで、だから、イチゴもいずれは飛ぶ練習をするつもりでいた。その練習をいつ始めるのが適当であるのかは分からなかったので、ひとまず空中で滑空姿勢を保てるよう体幹を鍛えておいたし、いざ本番というときに無様な様を晒さぬよう、記憶にある彩鷹の姿を何度も反芻した。ルチャブルが飛んでいるところは散々見てきたので、彼を手本としてイメージトレーニングを積めばよく、いま自分にできることを淡々とやるだけだった。そのときがくれば、本を読んで勉強を続けている女が声をかけてくるだろう。そうやって、当てにしていたところもある。だが、月日は過ぎ去る一方であり、生誕一周年を目前にした頃になって蓋を開けてみれば当の女は「気にしてなかった」とほざいたばかりか、今になって嗚咽する始末。唖然とせずにはいられなかったが、しかし、こいつを信用したのが間違いだったのかもしれんとイチゴもそれなりに反省して、女の目の前で飛ぶ真似事を披露したのだった。ジャングルジムから飛び降りただけなのだが、自分が思い描いていた通りの動きはできたと思うし、僅かな時間であれ翼を使って空中を切るように移動するのは心地よかった。

 で、鉄は熱いうちに打てということだろう。イチゴは既に飛ぶ準備ができている、そう判断して勢いづいた女がイチゴを町外の公園へと連れてきた。ピケタウンに点在しているような子どものたまり場ではなく、広大な敷地面積を誇っている。もとはこの辺り一帯が大規模な園芸試験場だったとかで、その名残からか数多(あまた)の植物が栽培、展示してある。中でも巨大花壇は圧巻で、まさに爛漫。様々な種類の花が一斉に咲き乱れるそこは、無数の色彩が織り込まれた世界一大きく豪奢な絨毯に見えた。花々の色を鮮やかに引き立てる緑の木立も陽を照り返して麗しく、遠くにはかのナッペ山が雄大に聳え立っているのが見える。絵になる風景だったし、実際、園内でスケッチブックを広げる人間も何人か見かけた。

 公園を散策するイチゴは、ちょうど桜並木に差しかかったところだ。桜の花があればこそ、平凡な風景も絶景へと変貌する。花弁の淡い色合いも、これほど重なり合って咲き満ちれば絢爛に見えるのだから不思議なものだ。桜を通り抜けてくる木漏れ日が、舞い落ちてくる花びらが、イチゴの頬を柔らかく撫でていく。

 かつての春を思い出す。桜を背景にすると、ルチャブルの存在が、生まれ持ったその色彩が、殊更に強調されて、彼こそが主役に見えた。ルチャブルがいれば、桜すらもまた霞んでしまうほど――…感慨にふけるところへ、不意に、春のそよ風を受ける。花を揺らし、周囲へ芳香を四散させる優しい風。イチゴに、内なるルチャブルが囁きかける。この風は前触れだと。この風は先駆けだと。すぐに突風が追いかけてくる。構えろ。そう教えてくれる。ルチャブルの肉体が、イチゴの意思よりも素早く反応したため、イチゴは大した自覚もなく翼を広げる格好になっている。これでいいんだな、ルチャブル。イチゴが心に向かって確認すると、彼が頷いてくれる気配があった。

 

 ほら、今だ!いけ!風を捕まえろ!

 

 ルチャブルが背を押してくれた。力まず、恐れず、ルチャブルの声と風の流れに沿えばいい。おかげで、イチゴは、難なく上昇気流をとらえて空高く舞い上がった。鍛えた体幹と持ち前のバランス感覚で上手く滞空し、イチゴは、眼下に広がる景色を眺めた。

 

 翼を持つ者の特権――…この世に醜いものなど何もありはしないと錯覚させてくれるような、何もかもを肯定するような、心を洗うような光景との邂逅。視界を遮るものは何もない。ある意味、この場は「最(・)高(・)」の展望台といえるだろう。地上で見ればどこにでもあるような景観が、はるか上空から俯瞰すれば途端に神秘的なものへと移りゆく。殺伐とした不毛の大地、生命力を誇示する花々、自然を切り崩して築かれた人間の街、…あらゆるものが混然としている。下界の喧騒は届かず、ここでは、ただひたすらに、世界は静謐を保って煌めいている。

 

『おまえの眼を通して見る世界は、綺麗だ』

 

 そう。おまえがオレに見せてくれる。かつて、おまえがどのように世界を眺めていたのか。おまえには、世界がどんなふうに見えていたのか。

 おまえのことを、また一つ、知ることができた。鷹の器に抱かれて、蛙の魂は清らかな感動に震えている。

 

+++

 

 イチゴちゃんがあんまり可愛いから、風の精霊があの子をかかえ上げて空へと連れてっちゃった。そんなことを思うくらい、音もなく、隣を歩いていたはずのイチゴはぐんぐんと上昇し、あっという間にユキの手の届かない高度へと到達した。視認できるイチゴは今や豆粒くらいに小さく、辛うじて、翼を広げた状態で滞空していることが分かる。見えない糸で繋がれている凧みたいだ。墜落してこないかハラハラするのだが、上空で姿勢を維持しているということは、少なくともイチゴは冷静に行動できているのだろう。ユキは地上で大きく腕を振り、声を張り上げる。

 

「おーい!イチゴちゃーん!」

 

 こちらの声が聞こえているかは定かではないが、鳥は目がいいと聞く。きっとユキの姿は見えているはずだ。

 見守るそのさなか、ユキの真上で滞空していたイチゴに動きがあった。緩やかな速度ではあったが、確実に、イチゴが東に向かって流されている。イチゴが自発的に東へ向かっているようには見えないので、気流に吞まれたものと思われた。

 この機に乗じてイチゴが野生界へと逃げ帰ってしまうのではないか…などという疑念を、ユキは欠片も思い浮かべたりはしない。イチゴのことを心の底から信じているためだ。今、ユキの胸を占めるのは、イチゴを迷子にしたくないという一念である。イチゴが自力で戻ってくるのをこの場で待っていた方がいい、むやみに動いて行き違いになったら困るという判断は、「このままイチゴと会えなくなるかもしれない」という恐怖によって塗り潰されており、気付けば、ユキはイチゴと同じく東へ向かって駆けだしていた。

 

 公園を出て、駐車場を突っ切って――…やがてユキが足を踏み入れたのは雑木林だった。コンクリートで固められていた足元が一転し、靴底で土を踏みしめる感触が伝わってくる。世間に訪れた春の季節とは切り離されたかのように薄暗い場所だが、この雑木林のどこかにイチゴが消えていくのを見たので、未知の空間へと分け入ることに躊躇いはない。早く見つけてあげなければという一心で歩を進めていく。

 現時点で、ユキには手持ちのポケモンがいないことになる。野生のポケモンが出現するフィールドに単身で赴くことの危険を、このときのユキはいまいち理解しきれていなかった。

 通常、義務教育において、子どもらの自衛を促すべくポケモンに関する基礎知識を学ばせる。「火は草に強く、草は水に強く、水は火に強い」という三竦み、すなわち基本中の基本くらいはユキも知っている。だが、ポケモンのタイプを全て諳んじることができるかどうかも怪しく、それぞれのタイプ相性やダメージ倍率といったものを網羅するのはお手上げという素人だ(ルチャブルというポケモンに限っては、イチゴを守るために、苦手とされるタイプ五種類(飛/電/超/氷/妖)を頑張って覚えた)。個々のポケモンの弱点を知らないため、対処の幅は一気に狭くなる。その上、ポケモンの恐ろしさを思い知るような経験もなかった。ゆえに、ユキの現状が「土地勘のない異国の街を夜に出歩いた挙句スラムに迷い込んでしまった」くらい危険であることに思い至らないのである。

 

「イチゴちゃーん!聞こえてたら返事をしてー!イチゴちゃぁーんッ!」

 

 もう少しポケモンの生態に詳しかったなら、雑木林を進むにつれて次第に見えてきた奇妙な光景や、辺りに漂う甘い匂いを警戒できただろう。奥まった場所に生え出た木々は、いずれも幹の部分に特徴があった。多様な色で縞模様が描き込まれている。一見するとアート作品のようでもあり、事実、ユキは現代アートの類として自己完結をしてしまう。自然物を取り入れた前衛的な表現があることは知っていたし、まさかタギング(スプレーなどで描かれた落書きの一種)をするポケモンがいるとは思いもよらないことだった。知識があれば、樹の幹に描かれた模様はタギングルの縄張りを主張する目印であることを看破できたはずだし、この模様がタギングルの毒唾で描かれていることも、その毒唾の成分によって芳香が発生していることも気付けただろうに。

 

 ユキは、突如として身体を強張らせた。自分に向かって距離を縮めてくるポケモンを認めたからだ。黄と黒の警戒色を纏って現れたそのポケモンは、蜂と蜂の巣が一体化したような不思議な外見をしている。頭部も背中の翅も蜂のそれで、下半身にあたるところに蜂の巣がくっついており、その形状は美しく広がったドレスを思わせる。体格はユキとほとんど変わらない大きさで、圧倒される。貫禄がある。一目見て、「女王蜂」という言葉が浮かぶ(それもそのはず、ビークインである)。冷たく光る赤い目、低く響く羽音。あまり機嫌がよさそうには見えない。人間がいることに不快感を覚えているのだろうか。せめて蜂から後ずさるなり背を向けて逃げるなりすればいいものを、ユキの頭の中は真っ白になっていて、身体に何の指令も出せずにいた。武器として振り回せそうな枝はいくらでも目につくが、立ち向かえるはずもない。反撃は今のユキにとって一番ありえない選択肢だった。下手に刺激しないよう、石のように固まり続けることしかできない。いかに非力な一般人であることか嫌というほど痛感させられる。

 

 ここで、今一度、タギングルが描く模様について補足しておこう。縄張りを示す以外に、そこから香ばしい匂いを漂わせるのは、罠としての役割を持たせているためだ。この匂いによって模様まで虫ポケモンを引きつけ、模様に含ませた毒で痺れさせ、動けなったところを狩るのである。

 タギングル自体は夜行性なので日の高い時間帯には活動せず、縄張りを侵したユキを攻撃してくることはない。しかし、虫ポケモンの方はそうもいかない。特殊な模様に惹きつけられてやってくるのに昼夜は関係せず、よって、匂いにつられたビークインとユキが運悪く鉢合わせしてしまった状況である。

 

 女王然としたポケモンを守るように、蜂の巣から小さな蜂が飛び出してくる。彼らには――ミツハニーには、見覚えがあった。以前、はちみつパンを作るために養蜂場を訪ね、蜂蜜を分けてもらったことがあるのだが、そこでミツハニーたちを目にしたのだった。あのときは、蜜を求めて丘の上を飛び回る様子を見てのどかな印象を受けたし、牧歌的な眺めだと感じたものだが、いま目の前にいる二体のミツハニーからは、明らかに敵意が発せられていた。ユキの記憶にあるポケモンと同一とは思えないほど険しい表情を見せ、女王蜂を守らんとしている。

 私、刺されちゃうのかな。

 こんなにも危機的な状況に陥ってもなお、ユキの足は動かない。凍りついたままだ。はくはくと意味もなく開閉する口は、震える唇は、ふ、ふ、と短い呼気を繰り返す。動悸がして、恐怖で胃が縮んで、今にも吐いてしまいそうだった。

 

+++

 

 空中遊泳が楽しいあまり、調子にのった感は否めない。上昇したあと、すぐに元いた地点へ引き返していれば何の問題もなかったのだが、イチゴは目に入った雑木林の方へと進路を変更した(「イチゴが自発的に東へ向かっているようには見えない」とユキが感じたのは誤りだったわけである)。公園からさして距離はないのですぐに戻れると高を括り、鬱蒼と茂る木々の間に舞い降りた。飛ぶことが成功したばかりか、雑木林をうろつくホシガリスなどの小さなポケモンたちを見て、明確な食欲が湧いたのは嬉しい驚きだった。自身が蛙のままであったなら決して餌と認識しない相手に、今、鷹として狩りの意欲を掻き立てられた。ルチャブルの肉体にいよいよ馴染んできたことが知れて、それが、イチゴには喜ばしい。

 人間と共にある暮らしの中では規則正しく食事が提供されるため、飢えることを怯えずに済む。イチゴは生まれたときからポケモンフーズか木の実、パンを口にしてきており、生肉を食ってこなかったためか、町で出会うポケモンたちに食指が動いたことはなかった。元より、人間の管理下にあるポケモンに危害を加えるのは何かと面倒なことを引き起こすので避けるべきというのがポケモン間の共通認識であり、暗黙の了解である。狩りたいなら野生に帰れということだ。今のイチゴは、弱肉強食の理が機能している環境の下で殺生与奪の権限を行使できる状況にいるため、本能が疼いたのだろう。だから、小さなポケモンたちが美味そうに見えている。…だが、このタイミングで、女が用意していた昼食のことが脳裏を過る。出発前に覗き込んだバスケットの中身は、目が釘付けになってしまうようなものばかりだった。肉に魚、卵、野菜、フルーツなど、具材は豊富であり、様々なサンドイッチを食べたいという願いを叶えた欲張りセットだ。もちろん、具を挟んでいるパンは女が手ずから焼いたものである。カットした際の断面がどうなるかも計算され、その見栄えは見事の一言であり、職人技が光っていた。眺めているだけで涎が出てくるご馳走だったし、腹をすかせた状態で食べねば勿体ない。狩りへの挑戦は、また、いずれ。今日のところはこの辺で戻ってやるかとイチゴが思い直したとき、ふと、「あの女は今なにをしているか」ということが気にかかった。

 

 あの女が公園に留まっているはずがない。

 血相を変えて探しにくるに決まっている。

 

 大してポケモンに詳しくないくせに、あの女のことだ、手持ちゼロの丸腰で雑木林に突っ込んでいくんだろう。それが自殺行為とも思わずに。

 それもこれもイチゴの所為なのだが、自分が調子こいて公園の外まで飛んでいったことはまるっと棚に上げ、イチゴはやれやれだぜとスカした仕草で肩をすくめた。

 まさに、そのときである。風が遠くの声をつれてきたのだ。「イチゴちゃぁーんッ!」…だと…あンのパン娘…!

 案の定だった。イチゴを探している。だが、イチゴが女の居場所を突き止める方が早かろう。音を発信するということは、その存在を周囲に知らせるということだ。イチゴだけではない、雑木林にいる野生のポケモンたちが女に気付くということだ。…人間を警戒して近寄らないことを選択するポケモンばかりではない。人間の存在そのものに刺激され、攻撃的になる者もいるというのに。

 全く世話の焼ける…と、読者諸氏からオイどの口がほざくねんと総ツッコミが入りそうなことを胸中で呟きつつ、イチゴは翔ける。声のした方向へ正確に翔ける。ものの数分で、イチゴは、見慣れたぽっちゃり女を見つけ出す。女が怯えた目で見つめる先には、ビークインとミツハニー。なんと分かりやすい構図だ。女の陥った状況が一目瞭然だった。

 

 他者のピンチに駆けつける。助けようと手を伸ばす。それがルチャブルだ。

 分かっているから、イチゴは、女と蜂共の間に割って入った。少年漫画等でよくある王道の展開。ルチャブルらしい振舞いとしては、まず完璧であったと思う。背後にいる女にとって、ひらめくイチゴの翼は、颯爽と翻るヒーローのマントのように見えたことだろう。

 バトルができる。そのことに、イチゴは高揚している。許されるなら開戦早々に中指立てて『ぶっ殺すぞ虫けら!』などと品のないことを大声で喚きたい。恫喝は相手を委縮させるだけでなく、それを声高に叫ぶ側を奮い立たせる効果がある。

 まあ、言わないけど。言えないけど。ルチャブルがそんなこと言うわけないし。

 それに、誰がどこで聞いているか分からない。特に鳥ポケモンには要注意だ。あいつらはSNSも真っ青の拡散力を持っている。イチゴが口汚く罵っていたことを言いふらされたら、その日のうちにはピケタウン全体に噂が広まるはずだ。築き上げてきたイメージをぶち壊すのはなしだ、余計なことはせずにちゃっちゃと仕留めることだけに集中するとしよう。

 

 ミツハニーは、雑魚にしてはこなれた体捌きを見せる。しかし、それは彼らの実力ではない。フェロモンで巧みに操るビークインがいればこそだ。

 だが、いかに優秀な傀儡だろうと、イチゴが相手とあらば意味がない。この鷹、中身は蛙、しかも百戦錬磨のカンスト済である。力の差は歴然としている。複数で攻められようと、ミツハニーごときは脅威でも何でもない。捻じ伏せるのは造作もない。ぺちーんと「つばさでうつ」、しゃきーんと「つばめがえし」。繰り出す飛行技。滑らかな連携。せっかくのルチャブルの肉体だ、是非とも翼を使った技を取り入れたかった。――嗚呼、なんという抑えがたい昂奮。技がきまる度に心が躍る。

 

 兵を蹴散らして、さあ、本丸への道は開かれた。

 

 ミツハニーを秒で片付けられたことに動揺せず、怯みもしないところは流石に女王というべきか。こういう奴だからこそ倒し甲斐もあるというものだ。イチゴが不敵に笑ってみせた――瞬間。

 

『 助太刀するぞ! 』

 

 よく通る、澄んだ鳴き声。声の主を確認するよりも先に、ビークインの顔面に白いものがべちゃりと付着した。目くらましである。クリームか?いや、…きめ細かな泡の集合体。知っている。この泡を知っている。イチゴは、どくんと、心臓が大きく脈打つのを感じる。

 

 これは、…ケロムース――…?

 

 さしものビークインも目元を擦り、よろめいている。何にせよ、またとないチャンスだ。これほど隙だらけなら、大技をバシッとかます好機である。

 イチゴは、高々と跳躍した。翼を広げ、胸を張り、ビークインの脳天を目がけて落下する。

 

「いっけーッ!イチゴちゃん!頑張れー!!!」

 

 ンなこと言われなくてもやるっつーの。

 イチゴの視線はビークインに向いている。女は目に入らず、声だけが届く。だが、考えてもみれば、観客の声援を受けて奮起するレスラーとは重ね重ねルチャブルらしいではないか。勝利に至るまでの過程を華々しくするという意味では、悪くない演出だ。

 

 此処一番で冴えわたる「フライングプレス」、どっかーん!

 

 ルチャブルの専用技とあっては採用しておきたい大技だ。それが、初実戦の場で、有名実況者に早口でまくしたててもらいたいくらい、文句のつけようのないかたちで決まった。どこかでカンカンカンとゴングが鳴っているような、今この瞬間にスポットライトを浴びているような、そんな気さえする。相手を倒して立ち上がった直後は全身の血肉が湧きたつように熱く、汗が滴り、それがまた実に爽快だった。

 まだイチゴ自身の体重が足りないためか、攻撃も相応に軽くなってしまったようで、ビークインを気絶させるところまではいかなかった。彼女は呻きながら身を起こし、戦意喪失の態でミツハニーを自前の巣に戻すと雑木林の奥へ消えていった。

 気配が遠ざかったことを確認して、ようやく、イチゴは女の方へ振り返ることができた。胸の前でぎゅっと両手を握り合わせている女は、目を潤ませ、頬を紅潮させている。大好きな「イチゴちゃん」の勇姿をこれでもかと見せたのだから、感情の処理が追いついていないのではないか。畳みかけられる推しの輝く英姿、オレだったら尊さの過剰摂取で放心する。…そんな、つまらぬことを考えていた折に、もうひとりの存在に気付いた。

 女の足元で、ちんまりと座っている。

 ケロムースで援護してくれたのだから察しはついていたのに、いざそのポケモンを目の当たりにすると、イチゴは目を瞠るよりほかになかった。

 

 一体のケロマツ。イチゴのあるべき本来の姿であり、そして、――目の前の彼はか(・)つ(・)て(・)の(・)自(・)分(・)と(・)瓜(・)二(・)つ(・)の(・)顔(・)を(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。

 

 他者のピンチに駆けつける。助けようと手を伸ばす。それがルチャブルだ。

 分かっているから、イチゴは、胸の中で込み上げてくる歓喜に情緒を乱されて思わず涙ぐむ。自分と対峙するケロマツが誰なのか、その本質を、確信を以て理解した瞬間だった。

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