空から運命が舞い降りてきた。
ケロマツには、そう思えてならなかった。
自分の眼は、今、世界で一番美しいものを映し出している。これまで見てきたどんなものよりも美しいと断言できる、そんな存在を目の当たりにしている。
ごく自然にほろりと温かな涙がこぼれ、ケロマツの頬をつたった。嗚呼、俺は彼と出会うために生まれてきたのだ。確信に満ちた想いが、心の中を染め上げていく。
***
ケロマツが生まれ育った川は、現在地「しるしの木立」から遥かに南下した場所*1にある。
暮らしやすい場所だったと、思う。人間に汚されていない冷たく澄んだ水も緑豊かな森も贅沢なものだったし、そこには笑い合う仲間だっていた。居心地の悪さを感じたことは一度もなかった。
ただ、ケロマツ自身が、欠けていた。
心にぽっかりと穴があいている。虚ろな部分がある。その感覚は消えることなく常につきまとい、ケロマツを逆撫でた。己の根幹がぐらついているみたいで、不安定で、落ち着かなかった。自分自身に対する、精神的で曖昧なこの不快感を少しでも薄めたくて、没頭できることを探した。そのうちに、身体を動かしているうちは無心になれると気付いた。肉体を酷使する鍛錬などはもってこいだったため、ケロマツは、心に巣食う虚しさを振り払いたい一心で肉体を強化し、技の威力や精度を上げることに時間を費やした。
それだもの、地元では負け知らずのポケモンになったのも必然といえる。
元より、ケロマツは努力をすればするだけ伸びゆく才能の塊のようなポケモンだった。進化前、それも第一形態の力量などたかが知れているはずなのに、事実、積み重ねてきた鍛錬はケロマツを裏切ることなく強さを与えた。周囲から一目置かれることは誇らしかった。しかし、強さや自尊は自信こそ授けてくれたけれども、結局、ケロマツの抱える虚しさを埋めてはくれなかった。
『君はいつ会っても張り詰めた顔をしているね』
あるとき、パモットから声をかけられた。友の中で一番付き合いが長く、気心知れた間柄である。加え、柔らかな話し方をするので話の中身が心に届きやすい。
『前から気になっていたんだけど、あまり踏み込んでもいけないかと思って見守ってたんだ。でも、君ったら、日毎に顔が強張っていくんだもの。もう放っておけないから、お節介を焼きたくなっちゃった』
僕にできることはないかな。
その真っ直ぐな優しさに触れ、また、友に心配をかけたことを申し訳なく思い、ケロマツは密かに悩み続けていたことを初めて他者に打ち明けた。パモットは穏やかに相打ちを打ちながら、ケロマツの語りに最後まで耳を傾けてくれた。
『君は、この小さなふるさとにはおさまらないポケモンなのかもしれないね』
パモットはケロマツの手を取り、力強く握った。
『いいかい、ケロマツ。「外」へ探しにいくんだ。君が求めるものは、ここにはない。ここでは、誰も、何も、君を満たしてあげることはできなかった。だから、旅に出なよ。そのために、きっと、君は強くなったんだ』
君が井の中の蛙になるのは勿体ないと思ってたところさ。そう言って、パモットはケロマツを送り出してくれた。自分の内側ばかりを気にして、鍛錬を口実に殻に閉じこもっていたケロマツに対し、外へ目を向けるよう諭してくれたパモットの助言はありがたいものだった。
こうした経緯で、ケロマツの放浪が始まった。
悩みの解消がいつ達成されるのかも分からない
このパルデア全土をくまなく訪ね歩くのだと決心して始めた旅であったのだが、故郷を出てから数か月が経とうという頃になって、ケロマツの行脚は唐突に終わりを迎えることになる。
北上する過程で辿り着いた「しるしの木立」。この雑木林の一帯を気に入って暫く滞在していたのだが、最近になって、辺鄙な場所にも関わらず人間の若者が居つくようになり*2、彼らの騒々しさに嫌気が差して別の場所を目指そうとしていた矢先だった。あの鮮やかな一羽が、ケロマツの目の前に現れた。
一目。
――たった一目で、心を鷲掴みにされた。
冗談を抜きに、落雷にうたれたがごとき衝撃に襲われた。
小柄ではあるが、均整の取れた引き締まる体躯。美しい羽を身にまとう立ち姿。全体に端正で愛らしい容貌をしているのに、どこか不釣り合いに、一対の目が琥珀色に煌めいて凛々しい印象を与えてくる。
こんなに心を揺さぶる相手に出会ったことがなかったから、いつにない己の高揚が新鮮で、理性では抑えられない感情を持て余すことすら面白く思えるほどだった。
一目惚れという言葉の意味を、このとき、正しく理解した。そして、自分の中にあいていたはずの穴がすっかり埋まっていることに気付いた。身と心にすっと芯が入ったような実感。生まれて初めて地に足ついた感覚。いくら鍛錬を重ねても、旅する日々を重ねても、どうにもならなかったものが、今、初対面のポケモンの存在それだけでケロマツを正常にしたのだった。
「前世から結びついている
声をかけてみようか。
高鳴る胸を押さえながら、ケロマツは思案する。突如として心に根付いた想いは、芽生えた恋は、衝動に突き動かされるがまま急速に膨らんでいく。
とにかく接点を作らなければ。大して口は上手くないし、凝ったことを言おうとすれば失敗するのがオチだ。飾りたてた言葉で見栄を張って口説くよりも、あまりの美しさに驚いて思わず話しかけてしまったのだと、素直に話そう。そうすれば相手からも反応があるだろうから、それを足掛かりに会話をして…。
さあ第一声だと息を吸ったケロマツよりも先に、彩鷹を振り向かせたのは、一陣の風だった。より正確に言うなら、その風が運んできた「声」だった。ケロマツはそれを正確に聞き取ることができなかったが、鷹の顔つきがはっきりと変わったことだけは見て取れた。迷うことなく鷹は翔けていく。彼が漂わせた
現着してからも、鷹の行動は迅速で隙が無い。勇猛果敢に振舞い、複数の蜂を相手取りながらも雑木林に迷い込んできたらしき人間の女性を助けようとしている。ポケモンに比べればはるかに非力な彼女を憐れんでのことだろうか。そう思えば、自ずと胸が熱くなった。
あの鷹が怯むことなく立ち向かっていけるのは、彼自身が実力者だからだ。ケロマツが強者の側にいるからこそ、見ていればそれと気付ける。洗練された、素晴らしい身のこなし。技のキレ。いっそ芸術的ですらある。それらを間近で拝めたことに興奮する。…嗚呼、惚れたが負けとはこのことだ。偏愛はよくないと分かってはいても、止められない。相手のなすこと逐一が、どれをとっても魅力的に感じられて、何でも肯定してやりたくなる。
手を貸さずとも、鷹は女性のガードをやり遂げるだろう。だがやはり、多勢に無勢はいただけない。その場に居合わせておきながら何もしないことに耐えられず、ケロマツは勝手ながら助太刀を申し出ることにした。後方支援くらいなら、出しゃばり過ぎるということもないだろう。そう思って放ったケロムースだったが、目眩ましの効果は十分にあったようだ。ビークインの体勢を崩すことができたし、そこへ畳みかける鷹の攻撃も冴え渡っていた。
『 協力してくれてありがとう。頼もしい助太刀だった 』
決着に安堵し、ケロマツは油断していた。だから、惚れた相手から笑いかけられ、礼を伝えられるという事態を咄嗟には受け止めきれず、心臓が早鐘を打ち始める。
己を魅了して止まぬ者に認知された。
鷹の目がしかとこちらを捉えている。
途端、多幸感に包まれる。思っていた通りだ、口を開けばその華麗な見た目に相応しい美声が出てくるなんて、と、頭の中はさっそく花畑だ。タンポポが咲き狂う春の野原みたいだ。今にきっと、滑稽な蛙が一匹、そのまま綿毛に変じてふわふわと舞い上がっていくことだろう。
盛大に照れているところへ、ケロマツは鷹と共に後ろから抱きすくめられた。感極まった女性の抱擁である。人間とこれほど濃密な接触をしたのは初めてだったが、悪い気分ではなかった。「ふたりとも、ありがとう」と感謝するその口調には誠実さが感じられたし、女性の腕の中は温かくて柔らかかった。何より、すぐ隣に鷹がいる。『うちの主人は感激屋なんだ』と、こそりと寄越された耳打ち(この発言で彼が人里のポケモンと判明した)。そんな仕草をされては、親しくなれたと錯覚してしまうじゃないか。ときめきに拍車がかかるケロマツである。
「公園に戻ろっか、イチゴちゃん。ピクニックの続きをしよう」
女性は「あなたもどうかな?」とケロマツを誘ってくれた。
「御礼をさせてほしいな。ごはん食べてかない?」
彼女の言葉に、鷹も大きく頷いている。『一緒に食べよう。彼女のサンドイッチは美味いんだ、オレが保証する』なんて茶目っ気のあることを言うばかりか、ごく自然にケロマツの手を取ってくるのだから、ここで『喜んで』以外の返事など皆無だった。
それに、思いがけず鷹の名を知れたことが嬉しい。イチゴ!イチゴか、実に可憐だ。嗚呼、早く己の口でその名を呼ばせてほしい。
***
それぞれが救出劇の当事者という特殊な体験が前提にあったことで、食事のひとときを経て以降、三者はすっかり打ち解けていた。ケロマツはイチゴと共にいられるだけでそれはもう至福の一言。ユキと名乗った女性の人柄や料理も気に入った。ユキとイチゴのふたりもケロマツに好意的だった、これは自惚れではないだろう。実際、ユキは「イチゴちゃんも楽しそうだったし、私も、あなたが家族になってくれたらいいなって思うよ」と穏和な調子で話し、優しく微笑んだ。
出会ったその日から同棲!
「家族」という甘美な響き!
ケロマツにとっては夢のような展開であり、しかも、当のイチゴが顔をほころばせながら『よろしくな』と受け入れてくれたのだから何も言うことはなかった。
「あなたと出会った日のことを忘れないように」と、ケロマツは「サクラ」と名付けられた。ユキ曰く「あなたの明るい青と白、空と雲そのものだね。桜の花が映える、春の空と同じ」とのこと。季節は春、しるしの木立で結ばれた縁、桜の下で食べた弁当。サクラの名には思い出が刻まれている。個としての名を得たことで、以前とは違う自分に生まれ変わったような気がした。名付けられる前と後では、己の生活振りも置かれた環境もまるきり変わってしまったのだから。
今のサクラの日常は、平穏そのものだった。外敵の襲来を恐れることなく、安息の地で衣食住が保障された生活の、なんと幸福なことか。サクラには、野生を離れて街中で暮らすことへの不安は一切なかった。イチゴが傍にいてくれる、ただそれだけで何でも乗り越えていけそうな心持ちになっていたのだった。人間と共生する術をイチゴから教わり、パン屋の手伝いもイチゴと一緒であればこそ苦にはならず、仕事の飲み込みはまずまずだったと思う。客と遣り取りすることも面白く、存外に自分の気質が接客向きだったことも新たな発見だった。不慣れゆえの失敗は多々あったものの、ユキとイチゴのフォローもあり、サクラは順調に人間社会に馴染んでいった。
人の世で生きるにあたり、身につけておくべき知識や所作はたくさんあった。イチゴの助けを借りながら、溺れてしまいそうなほどの膨大な情報をどうにか選り分けて自分のものにしていく。その過程において、人間が発明した便利なものに出くわしては驚愕することの連続だった。野生界ではありえない高度な知識と技術、それらの産物。一時期など、格闘関連の動画漁りにはまったものだ。パン屋の営業が終わった後、イチゴとふたりで動画を見ながら筋トレや組み手争いの研究をしてみたり、人里で暮らすからこそ得られた趣味もある。
満ち足りた毎日を過ごしていく中で、サクラはゲコガシラへと進化を果たし、その成長はユキやイチゴを喜ばせた。常連客の中には進化祝いを贈ってくれる者もあり、思いもよらぬ形で自分の人気を知ることができたのも嬉しかった。
故郷や昔の仲間を忘れたわけではない。時には、どうしているだろうかと思いを馳せることもある。しかし、薄情なようだが、たまには戻って顔を出そうかという結論には至らない。そこまでの未練はないのだった。サクラにとっての優先順位ぶっちぎり一位には、いつだって、イチゴが据えられている。イチゴの傍から離れるなど、片時も耐えられそうになかった。
***
サクラが人里で迎える、三度目だか四度目だかの冬――…その日、『パン屋
家族団らんの小旅行…では、ない。トリオの他に、部外者が一名。男である。今後、彼が部外者のままでいるのかそれともトリオの身内にカウントされるようになるのか、白黒をつけることになろう一日が幕を開けていた。
定休日以外に、ユキは年末年始にまとまった休みを取る。この
だが、今回の帰省は年明けに持ち越し。年末はフリッジタウンに滞在する予定だ。いつにないスケジュールは、男が――…『
土汚れが染みついた作業着で現れる彼、日頃の労働の賜物だろうなかなかにいいガタイをしている。それなりにやんちゃしてた元
来店、パンの購入、ちょっとした世間話、退店。確立されるルーティン。それ以外の露骨なアピールはしないが、青年はとにかく足繫く店に通ってきた。早々に「常連」と呼べる位置に納まりつつも、青年が一切馴れ馴れしくしなかったことが功を奏したのか、ユキの方も徐々に彼への信頼を強めていったように見えた。
『あいつはユキを狙ってるんだよな?』
サクラがイチゴに確認したところ、『間違いない』と断言が返ってきた。誰がどう見てもそうだ、と言う。だとすれば、サクラは疑問に思うのである。二人は頻繁に会ってるのに、大して仲が進展しない。妙だ。感じたままを話したところ、イチゴは『人間はポケモンより
『あの男はそこそこ強そうに見えるが、それだけじゃ番の決定打にならないのが人間の難儀なところだ。年収やら何やら、社会的な条件を複数設けて相手を選別するのは普通のことだし、単純に好みの問題もある。この手のことに関して、
全てはユキ次第だとイチゴが言うので、サクラはこの一組の男女を見守ることにした。縁があれば、自然と落ち着くべきところに落ち着くだろう。
すると、知り合って何ヶ月も経ってから、ようやく青年が動きを見せた。半分に折り畳んだ紙をユキに渡してきたのだ。閉店後、ユキは紙を開く。そこには、個人的な遣り取りができたら嬉しいという旨の短いメッセージと共に青年の連絡先が書かれていた(と、ユキがふたりに話して聞かせてくれた)。脈があると判断したから青年も一歩踏み込んできたのだろうし、実際、その読みは当たっていた。ユキは嬉しそうだった。その日を境にささやかながら二人の私的な交流が始まり、遂に、この度めでたくデートに誘われたのである。
「カウントダウン・フリッジっていう、年越しフェスなんだって。こういう音楽の野外イベント、行ったことないから楽しみだなあ。ライムさん?て人が、有名で、格好いいらしくてね。どんな歌を歌うんだろう…」
奇跡的にチケットが取れたから是非一緒に行きたい、と、普段口数の少ない青年にしては積極的に口説いてきて、ユキは一も二もなく快諾している。こうして、年末の予定が埋まったのだった。
聞けば、カウントダウン・フリッジは数日間にわたる催しなのだそうで、12月28日から開催される。30日までの三日間は所謂「通常日」であり、いよいよ年越しとなる31日大晦日の「特別日」とはタイムスケジュールが大きく異なっている。ユキと青年の参加日は
しかし、フェス会場内はポケモンの出入りが制限されているので同伴は難しい。かと言ってボールの中に入ったまま宿泊先のフロントに預けられるのも退屈だろうというユキの判断で、今、イチゴとサクラはポケモンホテルに預けられている。ここはボールレス、ケージレスでの一時預かりが売りで、施設内で他のポケモンと交流できるため、確かに気は紛れる。まあ、サクラは常にイチゴと行動を共にし、他所のポケモンから話しかけられても当たり障りのない態度で応じるのが関の山だったのだが。
『さすがに身体が冷えたな。早くヒーターの前にいこう』
サクラは、イチゴの手を引く。爪の先まで冷えていて、まるで氷柱を握っているみたいだ。かくいうサクラも、首まわりの泡マフラーが凍りかかっており、触るとシャリシャリ音をたてる部分がある。解凍を急がねばならない。
数分前まで、ふたりでポケモンホテルの中庭に出て、雪の上に互いの足跡をつけながら散策していた。伏し目がちに白い息を吐き出すイチゴの横顔や、この場にだけ春の花々が咲いているかのような豊かな色彩の羽に見惚れていたら、隙だらけだった所為でイチゴから雪玉を投げつけられるという悪戯を仕掛けられる羽目になり、そこから流れるように雪合戦へと突入した。お気楽なじゃれあいだったのだが、ふと手元を狂わせたサクラの雪玉が同じく中庭に出ていたセビエに当たってしまい、怒った彼が氷柱針を乱れ撃ってきたので、堪らずふたりは屋内に逃げ込んできたのだった。
『イベントは盛り上がっている真っ最中だろうな』
おやつとして配られた木の実を齧りつつ、サクラは窓の外へと視線を向け、夕方の気配を漂わせ始めている空を見遣った。
いつもの薄化粧ではお目にかからない口紅の色や、余所行きの服装、この日のために買った真新しいダウンコート。何より、輝いて見えたユキの表情。彼女とて青年とのデートが満更でもないのだと、サクラは判じている。
『デートに応じたんなら、あの二人が正式に番になるのも間近ってことだろ?』
イチゴに話を振ると、彼は『ほぼ勝ち確だと思うが』と肯定しつつも逆接を紡ぎ、デートは回数を重ねるものだとの見解を述べた。ふむ、そういうものか。人間のレンアイは複雑である。
メッセージの遣り取りをしながら時間をかけて関係を築き、デートのプランを練って、相手の了承を得てスケジュールの調整をして、当日は好感度を上げる工夫を怠らずに過ごす。無論、マンネリ化しないようデートの内容は更新し続ける必要もあるはずで、サクラにとっては気の遠くなるようなマルチタスクに思えてならないのだが、人間は平気なのだろうか。これほどに労力と費用をかけても「破談」の結末があり得るのが恐ろしい。その点、野生界では生き物としての強さが物を言うし、身も蓋もないがそうした「秀でたもの」は先天的であることがほとんどだ。生まれつきの体格の良さや毛並みの美しさ、体色の鮮やかさを雌に気に入ってもらえれば交尾に持ち込める。他の雄と雌を取り合うときも、恋敵を凌駕する個としての強さがないとお話にならないわけで、強者であることが全てというのはあまりに単純明快な真理だった。だが、そんな単純な理屈は人間(の恋愛事情)には通用しない。交尾への道のりが遠すぎるのである。
『同じ時を過ごし、同じ体験を共有しながら、相手との波長や相性が合うかどうかを探る。ユキは、そういうプロセスを重視している女だと思うぞ』
貴方のことを知りたい。そして、私のことを知ってほしい。その上で、答えを出したい。関心を持った相手だからこそ、余計に。…そういう心の動きは、サクラにも理解できる。イチゴの気を惹きたい、互いの関係を深めたいと願ってやまないゆえに、尚のこと。
本当は、自分自身に呆れているのだ。もう、とっくの昔に、イチゴとは家族なのに。これ以上、何を望もう?
そう思う心の裏側で、イチゴに触れたいと――…恋仲を前提とした触れ合いを求めている自分は、どうしたらいい。イチゴを愛おしく思うのと同じだけ欲情していることが知られたら、イチゴはどんな反応を示すだろう。
今でも、サクラにとって、イチゴは運命の相手だと信じている。イチゴの言う「波長や相性」の観点で見れば、イチゴとサクラは合っていると思う。合っているから、これまで一つ屋根の下で穏やかに生活できてきた。相応の信頼関係もある。…だからと言って、イチゴに選ばれるかどうかは別の話だった。
イチゴは人気がある。彼と共に暮らしていれば嫌でも思い知らされる事実だ。人間にくっついてパンを買いにきたふうを装いながら、実のところイチゴを目当てに来店していると思しきポケモンがいるし、町を歩けば誰もが彼に挨拶がてら話しかけてくる。イチゴを知るポケモンたちは皆一様に口を揃えるのだ、『あいつはいい奴だ』と。一度でも目にしたら記憶に焼きつくほど美しく、それでいて気さくで、明朗で、思いやりに満ちているイチゴだ。いざとなれば腕っ節も強い。周囲が魅せられるのも当然だった。
イチゴは人気がある。だから、その気になれば番う相手は選びたい放題。番として魅力的なポケモンが現れたら、イチゴはそちらに目を向けることになるだろう。それはイチゴの巣立ちであり、
でも、サクラは、…願い続けている。イチゴの心を奪うような相手が現れないことを願い続けている。誰からも好かれるイチゴの長所は、サクラにとっては不安要素に転じてしまうのだ。
――最近、よく考える。イチゴの幸せを祝福できない自分は、いずれ、イチゴの未来を阻害する存在になるだろう。それはダメだ。それだけは、ダメだ。……、…つまり、イチゴを諦めきれないのに、イチゴを想えばこそ身を引かなければならないときがきたのだ。ユキの元から、イチゴの元から、去るための心の準備を始めなければいけない。
思えば、いかにも己は軽率だった。惚れた相手との暮らしに浮かれてばかりで。想いを伝えてから家族になればよかったのに、先に家族になることを選んだから想いを伝えられなくなってしまった。
『何に重きを置くのか、それぞれの価値観に依るよな』
前置きをして、声が震えないように努めながら、サクラは『おまえはどんなポケモンと番になりたいんだ』と尋ねた。その答えを知ったところで応援する気もないくせに。ただ、一つのけじめとして訊いたのだ。イチゴが理想とする相手と出会えたとき、これでよかったのだと自分に言い聞かせるためにも必要な情報だった。
これといった間はあかなかった。気まずくもならなかった。イチゴが『何だよいきなり』などと照れ隠しをすることもなかった。普段通りに会話をするテンポのまま、イチゴはさらりと言葉にしてきた。『番うならおまえがいい』、なんて。
屋内は相変わらず賑やかで、ざわめきに溢れている。サクラとイチゴの間で、結構すごい遣り取りが交わされたのだが、そのことに気付くポケモンは誰もいなかった。イチゴからの求愛は周囲の雑音に紛れ、しかし、届くべき相手であるサクラにのみ、確実に、伝わっていた。
時を追うごとに体の芯から温まっていくのは、何も、傍らにあるヒーターの所為だけではない。
なんと都合のいい幻聴を耳にしたことだろう。そう思いながらも、サクラは縋るようにイチゴを見つめる。彼は、決して緊張の面持ちを浮かべてはいない。そこには、見慣れた柔らかな微笑があるばかりだ。その目の奥には、断られるはずがないという確信に満ちた光が宿っていた。実際、サクラが断るはずもなかった。もう答えは決まっていた。直前までの鬱屈した哀しみは、きれいさっぱりと、消え失せていた。