夜明け前の起床はもはや習慣化しているが、その日は、いつもの時間になっても女がベッドに横たわったままであるところからして妙だった。普段なら目覚ましが鳴るより先に起きているような人間だというのに。
定刻になるとスマホが起動し、アラーム音を発する。それを聞いたのも随分と久しぶりだったが、女はいかにも怠そうな仕草で音を止めて、それきりだ。イチゴとサクラは顔を見合わせ、ふたりでそっと近付いた。覗き込んでみれば、女はいつになく険しい顔をしており、背を丸めて布団の中で縮こまっている。
「…今日…お店は無理かも…」
ようやく薄目を開けたかと思えば、乾いてかさついた唇をまたいで弱々しい声が零れ落ちる。店?無理?だろうな、そんくらいおまえの様子を見れば分かるっつーの。いいから休んどけ。
のろのろとおぼつかない手つきで女はスマホをいじり、臨時休業の旨をどうにかSNS上に投稿したようだが、作業を終えたその手からスマホが滑り、ごとんと床に落下する。女は拾う気力すらないのか、スマホをそのままに、腕をだらりと垂らしている。
サクラが身を屈めて掌を女の額に当てた。「つめたくてきもちいい」と女は微笑むが、体調不良者の笑みというものはどうにも痛々しく見えていけない。
『ユキはどうしたんだ?病気なのか?』
熱の高さに驚く様から、サクラの動揺が伝わる。対するイチゴはいたって冷静だ。季節性の風邪が大流行中の冬場だし、接客業だから不特定多数の人間と関わる機会は多いし、配達やら日用品の買い出しやらで町中もよく出歩く。どこで誰から感染しようが何らおかしくはない。本人は体調管理にかなり気を遣っていたのだが、まあ、それでも発病することはある。仕方のないことだ。
『熱が出ているということは、身体が病原体と戦っている証拠だ。発熱自体は正常な反応だから狼狽える必要はないんだが、早く治すためにも、病院で診察を受けて薬を処方してもらいたいところだな』
『…病院…は、俺たちで連れていくしかないか。俺でよければいくらでも背負うぞ』
『それは最終手段だな。今の彼女にスクーターを運転させるのは危険だから避けるべきだが、たとえ背負うにせよ、この寒さだろ?外気にさらした状態で病院に向かうのも身体に障るだろうし』
ってなわけで、さっさと応援を呼べ。人間のことは人間に対応してもらわねば。
イチゴはテーブルの上に飾られていた写真立てを見遣る。写っているのは、噴水前で肩を寄せ合う一組の男女。旅行先のカラフシティで撮ったものだ。こういうときに駆けつけねー野郎なら切れよ。そういう思いを込めつつ写真立てを取り、拾い上げたスマホと共に女に渡す。イチゴの意図は女に伝わったようだが、この期に及んで「あの人は仕事があるし…」などとごちゃごちゃぬかしているので、つい苛立ってしまい、写真立てとスマホを押しつける手に力が入ってしまった。
『相手のことを考えられるユキは立派だが、今はあいつを頼れ。オレたちだけじゃ看病もままならないんだ』
本音としては『今のうちに連絡しとけば奴も出勤前に立ち寄るくらいできるだろうが!いいから一報入れろやブス!!!』という感じなのだが、それらは包み隠し、努めて優しく語りかける。このパン屋と奴の安アパートはそう離れておらず、徒歩圏内だ。様子を見にくるくらいのことは大した労力になるまい。遠慮する必要もなかろう。
初めこそ逡巡していた女だったが、やがて、おずおずと何やら打ち込み、送信ボタンを押す。そして、送ったそばから「あ、もう既読になった」と安堵の滲む声を出した。病気で心細かったところに、すぐに気付いてもらえたため嬉しさが勝っているようだが、イチゴは内心でドン引きである。ようやく五時半を回ったばかりだぞ。秒で既読って、おい。しかも、続けざまに「すぐ行きます」と返信があったらしい。…連絡を取るよう促しておいてアレだが、あいつも大概きめえな…(惚れた相手に対する熱量がどこか似通っていて、認めたくはないが同族の臭いがする)。
ほどなくして、外から足音が聞こえてきた。走っている。そして、明らかに、パン屋に近付いてくる。状況を考えれば、奴だろう。ついでに、がしゃがしゃとビニール袋が擦れるような音もするし、コンビニで何ぞ買ってきたのか。
『見てくる』と言って、サクラは窓を開け放ち、ひょいと飛び降りていった。野郎は店の出入り口しか知らないし、この部屋に来てもらうためには裏の勝手口へ案内しないとな。そう思っていたのだが、表通りでは「あれ!サクラ!え、ちょ、何っ、…うわあ!」と騒がしい。直後、ぎしりと窓枠が軋む。見れば、青年を脇に抱えたサクラがダイレクト帰宅をかましたところだった。うーん、これぞ我が番。大胆。
「ユキさん!おはようございます!お邪魔します!お加減はいかがですか!!!」
おまえはどこの体育大学生だと呆れたくなるほどきびきび言い放ち、ジャージ姿の青年は躊躇いなく窓から部屋に入ってきた。
「とりあえず、スポーツドリンクとか、ゼリーとか、インスタントのスープとか買ってきました。食欲あります?何か口にできそうですか?台所使っていいなら、俺が用意しますんで」
コンビニのロゴマークが印刷されたレジ袋を机の上にどさりと置いたあと、青年は女の手をぎゅっと握った。
「連絡もらえて、マジ、よかったッス。俺の知らないところでユキさんが寝込んで苦しんでるとか、そういうの嫌だから」
「…アイビーくん…」
「俺、頼ってもらえて嬉しいんです。精一杯やります。タクシー手配するし、病院の予約もするし、付き添いだってしますから。しっかり休んで、元気になって、また美味しいパン食わせてください」
「…ありがとう。すごく助かる。…でも、ごめんね。お仕事のこととか…」
「何言ってんスか!こういうときのための有給ですよ!それに、これから一緒に住むようになったらこういうことは何度もあるだろうし。俺が助けてもらうこともあるだろうし。支え合いッスよ」
…こいつ…、どさくさに紛れてしれっとプロポーズしやがったな…。あとは想像の通り、二人だけの甘い空気ってやつだ。若いねえ…と苦笑しながらサクラを見ると、彼は二人の遣り取りを受けて大層感動したらしかった。『こいつに任せておけばユキは安心だな…』とまるで父親みたいなことを言いながら頷いている。さすが。オレと違ってピュアだ、そういうところも好き。
***
爽やかな風が吹き抜け、女の――…ユキ、の、ウエディングベールをふわりとなびかせた。会場内に飾りつけられた花の香りのみならず、そこに、微かに潮の香りが混ざる。
海上では船が行き交い、雲一つない快晴の中を
『天気に恵まれてよかった』
本日は、お日柄もよく。
サクラは朝から終始にこやかで、賑わう会場の様子をテラス席から眺めている。式を楽しみにしていたことはもちろん、後からゲストにプチギフト――ユキの焼いたパンと手作りのジャム――を配って回る役を仰せつかっているので、彼は見るからに張りきっていた。
サクラは、ユキが絵に描いたような幸せに包まれていることを喜んでいた。「皆から祝福される
一方のイチゴは、感激を露わにするサクラとは違い、同居するポケモンが増えるのではないかという点を危惧していたわけだが、どうやら杞憂で、新郎側には個人のポケモンがいないらしいことが分かった。聞けば、奴は牧場の次男坊で、実家ではミルタンクを筆頭に数えきれないほどのポケモンを抱えているそうなのだが、一人暮らしに際し、ポケモンを養う経済的な余裕はないと判断して誰も連れてこなかったのだとか。今の職場ではゾウドウとバディを組んでおり、これからはイチゴとサクラがいる。だから寂しくないのだと笑っていたことを思い出す。
『二人の生活に寄り添って、そのうちに子どもが生まれて、俺たちがその子の遊び相手になったりして…。楽しみがたくさんあるな!』
新居を探し、店も移転させ、いずれは夫婦でパン屋を営んでいけたら…という話し合いも進んでいる。彼らの明るい未来を信じる瞳の輝きも、喜びをいっぱいにまぶした笑顔も、ルチャブルそのものだ。…イチゴは、サクラさえいてくれるのならそれでよく、彼こそが絶対にして唯一の幸福だと思っている。自分より大事な存在がいることの尊さを誰よりも理解しているつもりだ。だが、サクラは――ルチャブルは、必ずしもゲッコウガとふたりきりであることを必要とはしない。彼はゲッコウガ以外の存在や物事にも喜びや幸せを見出すことができる。それが、いつだって、寂しい。でも、…他者の幸福を素直に言祝ぐことができるおまえだから好きなんだ、ルチャブル。
今世では、ジム巡りをしてバッジを集めるだとか、チャンピオンリーグを制覇するといった明確な目標がない。鎬を削るような好敵手もいない。
『新しく始まる家族の幸せを、オレたちふたりで守っていこうな』
うわべだけでない、イチゴの真心が言葉になる。格好をつけるでも、心にもない演技でもなく、ごく自然にその
【了】