水張の村:前編
姫狐がいらっしゃる 緑の野山を抜けて
姫狐がいらっしゃる 金の尾を揺らして
髪の先が焦げるよな 息吹 息吹 紅蓮の息吹
牙と牙の間から 火の粉が爆ぜて 散っていく
ほら 村のかまどに火が入る 姫狐が灯してく
――
玉藻は森の主だ。いつから森を治めているのか正確なところは定かではないが、村の伝承によれば、少なくとも数百年は生きているという。稀に人前に出てくることがあり、その際は狐面をつけた女神の格好で降臨する。目元に赤い隈取を施した狐面、森の色を纏うかのような碧緑の衣、そして黄金色に輝く九尾。それが真の姿なのかどうかさえ村人には分からなかったが、たとえ異形であろうと彼女に対する崇拝の気持ちは揺るがなかった。神秘的な姿や品格ある言動には、自ずと頭を垂れてしまうほどの確かな影響力があった。大陸にいたと伝わる美しくも恐るべき妖狐「玉藻」と同じ名で呼び馴らすことで、村人は姫狐への畏敬を忘れぬよう努めてきたのだった。
森の中は、村人が立ち入ることのできる領域と野に住まう獣の領域とが明確に区別されており、両者の境目が分かるよう木と木の間には注連縄がわたしてある。注連縄の向こう側は玉藻を筆頭とする獣の縄張りであり、彼女はそこに人間が立ち入ることを嫌っている。そのことを、村人はよくよく心得ていた。不可侵を破ったことで玉藻から重い罰を与えられた過去があり、当時の恐怖や反省は口伝で代々語り継がれ、今もなお村人が守るべき不文律となっている。分をわきまえ、玉藻の怒りにさえ触れなければ、彼女は村に森の恵みを分けてくれる。森の傍で人間が生活することを黙認してくれる。時には、村に悪さをしないよう獣たちに言い聞かせてくれる。だから、玉藻の機嫌を損ねぬよう、敬意と服従の表明として、村人は彼女を信仰の対象としてきた。玉藻から授かったとされる火を「不滅の狐火」と称して絶やすことなく管理し、秋が来れば盛大な豊穣祭を執り行う。玉藻にまつわる伝説や歌も数多く残されている。
狐火を崇めよ それは我らを導く
生者の未来も死後の路も あまねく照らし出す
――そう、玉藻は炎の異能を持つ狐である。
村の名にしても、玉藻の威光が永続するよう願いを込めて「永張」などの字を当てることもできたはずだが、火を司る獣を祀りながら「水張」の名を冠するには訳がある。それには、村の存在を世間から秘匿せねばならない最たる理由――「