※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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春のかたみ:⑤

 うわ…という心の声を聞かれてしまいそうなほど露骨に顔に出してしまった。

 苦手な相手とばったり出くわしてしまったことで、ルチャブルは少しばかり気分が落ち込んだ。せっかく、番との新生活に心を弾ませていたところだったのに。

 

 フォクスライとはあまり関わりたくない。それが、ルチャブルの本音である。実際、なるべく避けるようにしているし、この狐と直接的に絡むことは少ない。ただ、彼女は遠くから取り巻きたちと共にルチャブルへ意味ありげな視線を送ってきて、くすくすとわざとらしく笑ったりして、いつも感じが悪かった。そうした不愉快の積み重ねが、明確な苦手意識となってルチャブルの中に巣食っている。

 

『あら、巣作りの際中?…いい場所も早い者勝ちだもの。あなたはほとんど最初に番が決まったようなものだし、さぞや一等地を押さえることができたのでしょうね』

 

 話しかけられ、辟易する。楽しい会話になることはないと分かりきっているがゆえに胸中で溜息をつきながら、ルチャブルは会話に応じた。

 

『…おかげさまで、住処によさそうな大きな樹を見つけたところ』

『この辺りの大木ねえ…、もしかして、あの古い楠のことかしら。 樹齢の高い樹って幹が空洞化してるらしいじゃない。倒木しやすいってことよね。…うふふ、台風の被害でおうちが台無しにならないよう祈ってるわ』

 

 どうしてこんなに棘のある言い方しかできないのだろう。

 ルチャブルとて、少なからず苛立ってはいる。しかし、すぐに憤りを通り越して、何というか、自分の価値観とはかけ離れている相手のことが不可解なのだ。哀れにさえ感じてしまい、結局、本気の喧嘩をするに至らないのである。

 適当に話を切り上げて早くこの場を去ろうと思ったのだが、フォクスライはルチャブルのことなど微塵も顧みずに『そういえば』と新たな話題を放ってくる。

 

『さっき、あなたのお相手と会ったのよね。…そう、あなたには勿体ないほどの、立派な蛙のご亭主』

 

 釣り合っていないと言われたも同然だ。そんなことは、フォクスライから揶揄されるまでもなくルチャブル自身が自覚している。だからといって、必要以上に自分を卑下する必要はない。ゲッコウガが認めてくれた部分は自分の長所として素直に大事にすればいいし、足りないところはこれから補っていけばいい。ゲッコウガに相応しくなれるよう努力をすればいいのだ。

 フォクスライに陰険な態度をとられようと、ルチャブルは容易くは屈しない。淡々と『それで?』と先を促す。

 

『質問されたの。狐は他のポケモンの抜け毛を巣に使うことはあるのか、ですって。彼、いくつか鳥ポケモンの羽根を持ってたし、巣材にしていいかそれとなく知りたかったんでしょうね。…迂遠だわ。雌の意見を参考にしたかったのかもしれないけど、私に訊かれてもねえ…』

 

 フォクスライは、小馬鹿にしたように鼻先で笑った。

 

『私たちに、鳥の巣作りみたいな手間はないもの。横穴を掘ればいいだけだし。巣穴の中には、…まあ、枯草を多少敷くこともあるかしら?精々、その程度よ。他のポケモンの臭いがする巣材なんて、私だったらまっぴらだけど…、まあ、鈍感そう…あら違うのよごめんなさいね、そういうことに無頓着そうなあなたなら別なのかしらって言いたかったの』

 

 こちらの神経を逆なでないと気が済まないのだろうその不躾な口元では、嘘みたいに白い牙が輝いて、ゆうらりと尾を揺らす様も実に優美なものだった。ちぐはぐだ。思わず、不条理という言葉が脳内に浮かんでしまう。

 

 

 ――ゲッコウガがフォクスライに話しかける、…果たしてそんなことが起こり得るだろうか。

 残念ながら、ルチャブルは違和感に気付かない。ゲッコウガとは、ついさっき出会ったばかりだ。本来のゲッコウガが大して社交的でないことも、ルチャブル以外には基本的に塩対応であることも、何も知らない。

 フォクスライから逆恨みされ、彼女が企みを以て近付いてきたことも、当然ながら見破れるはずがなかった。

 

 

『私に訊くより番に直接尋ねなさいって返事をしておいたわ。…今ならまだ会えるかもね。行ってみたら?』

 

 フォクスライが踵を返す。この苦痛でならないひとときが終わりを迎えそうな気配に、思わずルチャブルは胸を撫でおろした。

 去り際の彼女から『オボンの実がなる木、近くにあるのは知ってるわね?其処よ』と情報が残される。…羽根は温かいし、軽いし、柔らかいから、巣の底に敷けば卵を抱くときに都合がいい。生まれてくるヒナにとっても居心地がいいはずだ。ゲッコウガも色々と考えて羽根を拾ってくれていたのだろうに、フォクスライは、何だか侮るような物言いだった。それが悔しい。

 私は羽根を巣材にするのは賛成だよ。嬉しいよ、って伝えにいこう。フォクスライと別れた後、ルチャブルはオボンの木に向かって翔けていった。

 

 

+++

 

 

 一方のゲッコウガも巣材集めに着手していたが、決して遠出はせず、ルチャブルを待つため、そして場所取りを確実なものとするために、営巣予定地が自分の視界に入る範囲で行動していた。豊かな森であるし、営巣するつもりの場所からして大樹なので、枝葉や蔦をわざわざ探し回らずとも調達は容易い。短時間のうちに、巣作りに役立ちそうなものを積み上げることができた。『こんなに沢山見つけてきてくれたんだ!ゲッコウガはすごいね!』とか!そんなふうに褒めてくれるのではないだろうか。にへ、とゲッコウガの顔に締まりのない笑みが浮かぶ。

 巣材の量も種類も確保できた自信はあるが、全てを用いることにはなるまい。ルチャブルの好みもある。好きに選んで使ってくれたらそれでいい。ああだこうだと言いながら巣材を組み合わせて、ふたりで少しずつ理想の巣を作り上げていく作業…、思い描くだけで楽しくなってくる。

 早く戻ってきてほしいと願いながらルチャブルが向かった方へ視線を送ると――…待ちわびている相手とは程遠いポケモンがやってきた。明らかに意図してゲッコウガを見つめながら、一体のフォクスライが近付いてくる。通りすがりというわけではなさそうだ。

 

『こんにちは。…あなたがルチャブルの番ね?』

 

 ……、…いつかの世界線で、クソまずい砂糖菓子を口に入れてしまったことがある。この女狐の声を聞いているだけで、当時の不快感が再び口の中に蘇ってくる気がした。人工甘味料の、あの過剰なまでの甘ったるさ。

 

『偶然、ルチャブルと行き合ったの。ちょうど彼女も私のことを探していたみたい。驚いていたわ。私に相談したいことがあったらしくて…、ふたりで話をして、それから…最後に言付かったの。だから、あなたのもとを訪ねたのだけれど…』

 

 目を伏せ、哀しみを含んだ表情を作(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。見ていれば分かる。その憂い顔が不自然に美しいからだ。素ではない、こいつは美しく見えるよう顔つきを整えている。

 不穏を察していながらゲッコウガがフォクスライと対峙するのは、「ルチャブルからの託(ことづ)け」とやらを聞くためであることに加え、雌が贔屓にされがちなこの麗の森ですげなくするのは悪手だと判断したためだ。雌に乱暴な態度を取っては後から玉藻にどんな制裁を加えられるか分かったものではないし、まずはフォクスライの出方を窺うことにした(もちろん、フォクスライ次第でゲッコウガの翻意は十分にありえる)。

『話を聞こう』とゲッコウガが促すと、フォクスライは『あなたにとっては悲しい伝言になるわ』と前置きをする。

 

『…でも、伝えないわけにはいかないもの。悪く思わないでね』

 

 微かに震えが混じる声。深く吸い込まれた息。一大決心をしたかのように、フォクスライは語りだす。言いにくいものをどうにか表に出す、そのように見せかける演技としては巧みな方だ。初めから疑ってかからぬ限り、彼女にころりと騙される者も多かろうと思われた。

 

『私、モモンの宴で見ていたわ。あなたの奮闘。どれほど熱心にルチャブルを求めていたのかも、理解できているつもり。だけど、…ルチャブルはね、怖気づいちゃったのよ。確かにあなたは魅力的で、だからこそルチャブルはあなたの手を取ったわけだけど…、そうね…魅力的すぎるのも考えものということかしら。あなたの所為じゃないの。ただ、あなたの眩しさに怯んでしまったのね。これから先、あなたの隣にいる自分を想像してしまって、…劣等感に苦しむ未来が待っているようにしか思えなかったんですって。

 そんなふうには見えなかったでしょ?きっと、あなたを喜ばせるようなことも言ったはずよね。でも、ルチャブルは取り繕っていただけなの。あなたに選んでもらえて嬉しかった、私のことは忘れてもっと相応しい相手を見つけてほしいって…そう言ってたわ。彼女、巣材探しを口実にして、あなたから離れたの』

 

『長台詞を噛まずに言えて何よりだ』と嘲ってやりたかったのだが、こらえきれず、先んじて乾いた笑いを漏らしてしまった。

 どんなことを言ってくるかと思えば、…なんという稚拙な脚本。悪タイプが悪タイプを騙すつもりなら、もっと巧妙でなくては。悪タイプ同士で邂逅した場合、生まれついた性(さが)ゆえに互いが狡猾であることは知り尽くしているので、用心に用心を重ねても足りないくらいだ。しかしフォクスライからは、ゲッコウガに対する警戒心がまるで感じられない。フォクスライは、ゲッコウガのことを見た目通りの水タイプでしかないと思い込んでいるのだろう。つくづく詰めがあまい女狐だ。

 これ以上付き合うのも馬鹿らしくなって、『言いたいことはそれだけか』とゲッコウガが問うと、何を勘違いしたのかフォクスライは『すぐに受け入れられない気持ちは分かるけど、できればルチャブルのことは放っておいてあげて』などとほざいてくる。

 

『残念だけど、縁がなかったのよ…』

 

 縁がなかった、か。

 これまでの事情を何一つ知らない者が塗り重ねていく滑稽な空言(うそ)が、不快指数を上げていく。よりにもよって、「ルチャブルが別れたがっている」などという冗談でも許されないクソみたいな戯言(たわごと)を…よくも…。この森の制約がなかったならすぐにでも毛皮を剥いで細切れにしてやるのに。

『ずっと一緒にいよう』と約束したときの、ルチャブルの幸せそうな顔を思い出す。あの表情の裏でこちらに引け目を感じていたなんて、考えたくもないことだった。

 

『ルチャブルを諦めて、…どうしろと?まさかおまえを後釜に?』

『あら、…やぶさかじゃないわ。あなたが望むのならね』

 

 どんな立場で物を言っているのだか。茶番に付き合い続けたら自分にも馬鹿がうつりそうな気がして、ゲッコウガは見え透いた虚言ばかりを聞かせてくるフォクスライを冷酷な目つきで見下ろした。

 

『勘違いも大概にしておけ。モモンの宴を経てもなお番を作れないようなアバズレなど願い下げだ』

 

 見るからにこいつは美貌を鼻にかけてきたくちだ。もてはやされて下手に自信をつけた者ほど煽り耐性がない。案の定、フォクスライは「アバズレ」と聞いた途端に目の色が変わった。顕著な変化だった。瞳孔が垂直方向に伸びきって、まるで爬虫類の目に見える。

 

『ルチャブルの解像度が低すぎて話にならんな、杜撰な嘘で水を差しやがって。…せっかくだ、頭の弱い狐にも分かりやすく教えてやろう。ルチャブルはな、大事な決断ほど他者に委ねたりしないんだ。面と向かって言いづらい別れ話だろうが何だろうが自分の気持ちは直接自分で伝えにくるんだよ阿呆め』

『な、…あ、あんただって、あの鳥と今日会ったばかりのくせに、何を知ったふうな…!』

『知ってるんだ。ず(・)っ(・)と(・)前(・)か(・)ら(・)。…おまえには関係のない話だ』

 

 激するあまりに口調が崩れ、怒気で頬が紅潮し、口の端が引きつりつつあるフォクスライに、ゲッコウガはどこまでも底冷えた声を浴びせかける。

 

『…ところで、当のルチャブルがこの場にやってきたらあっさりバレる嘘をなぜそうも平然と口にできる?』

 

 決まっている。単純な話だ。この狐、ルチャブルがくることはないと確信している。

 

『おまえ、…ルチャブルに何をした』

 

 

+++

 

 

 とにかく、ルチャブルが掴んだ幸せを踏みにじって台無しにしてやりたい一心だった。

 ルチャブルは、あの底辺の雄たちに見つかっただろうか。そのまま、つがった相手ではない雄に犯されて傷物になってしまえばいい。…でも、ルチャブルは俊敏だから、ひょっとすると魔の手から逃げおおせるかもしれない。だったら、万が一逃げだせたとしても、蛙のところに戻れたとしても、元通りの生活ができないようにしてやる。ふたりの仲に亀裂が入るよう蛙には疑心暗鬼の種を蒔いておかなければ。ルチャブルのことが信じられなくなるような話を吹き込んで、引っ掻き回してやる――…そういうことを考え、しかも実行に移すような悪辣さが、フォクスライにはあった。ついでに、蛙を横取りできる隙が見つかるようならば、己の美貌を以て迫ってみてもいい。

 

 嗚呼、楽しみ。

 

 ――ところが、実際はどうだ。蛙は、フォクスライに無関心だった。情に訴えるような口調を心掛けたし、話題はルチャブルのことだったのに、蛙は終始退屈そうな態度を隠さなかった。狼狽える素振りの一つも見せなかった。フォクスライの話を端から偽りとして聞き流している。『で?だから?』と軽くあしらわれているようで、苛立ちが募る一方だった。

 元から、フォクスライには堪え性がない。ぞんざいに扱われた挙句、『アバズレ』と言い放たれては、激昂するのも無理からぬことだった。

 

 こうなってくると、「ルチャブルを傷つける」という目的が「どうにかしてこの蛙の取り澄ました顔つきを歪めたい」というものへすり替わっていく。

 だから、渾身の一撃のつもりで言い放ってやったのだ。『ルチャブルに何をした』と問われたそのときに。

 

『何をしたか?あはは!そんなことはもう問題じゃないわ!手遅れなんだから!』

 

 一際の高笑い――そして。

 

『今頃あんた以外の子種で仕込まれてる最中よ!』

 

 口から出ていった言葉は、決して戻ってはこない。取り消すこともできない。結果、フォクスライは自ら地獄を引き寄せる羽目になる。

 刹那、殺気が、矢のごとくフォクスライを貫いた。

 背筋を駆け抜けていく悪寒。自分でもそれと気付かぬうちに、がたがたと四肢が震えだしている。元凶は、当然、蛙だ。蛙の目だ。絶対零度の冷酷な双眸。痛みすら錯覚してしまうような鋭い視線。いつの間にか耳を伏せ、尾を丸め、今やフォクスライの総身が蛙に怯えていた。

 

『…よかったな。オレの気を引くには十分な発言だったぞ』

 

「寝取られ」という、蛙にとっての特大の地雷を思いきり踏み抜いたことなどフォクスライには与り知らぬ話ではあったが、たとえ知らずとも怒りを買ったことだけは分かる。自分はしくじったのだと、正しく「口は禍の元」という通りになったのだと理解する。

 怖い。息ができない。毛が逆立ち、拍動は乱れ、冷や汗が流れ、涙も滲んでくる。肌が痺れるほどの威圧感にのしかかられて潰されてしまいそうだ。不可視の圧力によって、骨が軋むのではないかとすら思われた。

 無力だ。惨めだ。

 しかし、どうしようもない。逃げることすらも許されない。だって、…なんで、動けないの。なんで。何、何なのこれ。ひとりでに地面の草が成長して、伸びてきて、脚に巻きついてくる。草結び?でも、あれはこんなに強力な技なんかじゃ…。得体が知れない。分からないことが、こんなにも恐ろしい。私はこれから何をされるの⁉

 

 ひたりひたりと迫りくる蛙――その美しい容貌あってこその凄みがあり、今は夜叉さながらに見える。

 終わった、と、…思った。しかし、直後、事態が急変する。突如、蛙は遠くの音を聞きつけたようにハッとした顔をして、次の瞬間には姿を消したのだ。

 

 今のは?地面に潜った?何が起こってるの?別の技が発動する?…それとも、助かった?否、依然として草の拘束は解かれていない。丸腰で、しかも身動きの取れない状態のまま森にいるのはまずい…!焦燥に駆られてもがいてみるのだが、やはり無駄だった。絡みつく草はいっそ憎たらしいくらいに丈夫で、動けば動くほど脚に食い込み、フォクスライに疼痛を与えるのだった。

 

 

+++

 

 

 あの角を曲がれば、オボンの木だ。ルチャブルは速度を緩めず、勢いよくその場に出て――…鉢合わせた。そこにゲッコウガはおらず、代わりに見知らぬ雄が大勢いて、彼らはぎょろりと音が聞こえてきそうな様で目を動かし、一斉にルチャブルへ視線を向けてくる。

 思ってもみなかった光景に一瞬思考が停止し、ルチャブルは足を止めてしまった。

 

 雌だ、と誰かが呟いた。

 雌だ。雌だ。雌だ。雌だ!小さな石が投げ込まれて波紋が広がっていくように、雄たちの声量も興奮も大きくなっていく。

 何体か、どたどたと不格好な足運びでルチャブルへ迫ってくる。抜け駆けすんじゃねえと怒号が飛ぶ。この集団は急ごしらえなのか、統率も連携もない。洗練されたものでなかったことが、ルチャブルにとって不幸中の幸いだった。

 先走って向かってきた雄を、ルチャブルは冷静に捌く。身軽さを活かした戦いは得意とするところだし、たとえ緊急事態であっても、手足は強張ることなく滑らかに動いてくれた。日々の鍛錬は裏切らない。

 だが、ルチャブルを侮って考えなしに突っ込んできた者を二、三体伸(の)したところで、さほど意味はなかった。多対一の場合、「多」に属する側は気が大きくなる。数の力を当てにできる。いくらか駒を失っても大した損失ではない。ルチャブルの抵抗は脅威にも牽制にもならず、周囲には依然として大勢の雄が控え、ルチャブルを無遠慮に眺めては舌なめずりをしている。

 

 

 雌は、確かに選ぶ側だ。しかし、このとき、雄は思い出す。雌を組み敷いて支配する立場を。力任せに蹂躙できる立場を。所詮、雌とは、雄にとって、孕ませるための肉袋に過ぎないのだ。

 

 

 剥き出しの欲望があまりにおぞましく、ルチャブルは凄まじい嫌悪感に襲われた。

 応戦している場合ではない。逃げなければ。そう思うのに、ぐらりと目の前が揺れた。血の気が引いて、足から力が抜ける。かくんと膝をついてしまったそのとき、周囲から歓声があがった。そう、歓声だ。ゾッとする。肝心な場面での急激な弱体化、…追いつめられたことでルチャブルは胃が縮むのを感じた。動悸がして、息苦しい。

 首筋にぬるいものが垂れている感覚があり、触れると、ぬるりとした。てのひらを確認してみれば、血液が付着している。

 

『へへっ!正面切って戦うだけが全てじゃねえってことだな』

 

 血の気が多いようだから、ちっとばかり抜いといたぜ。

 牙の先から血を滴らせ、クロバットが得意げな顔をしながら羽ばたいている。嫌でも目に入る四枚の翼――…素早さに定評のあるポケモンであることは、ルチャブルも知っていた。知っていたが、まさかこれほどとは想像だにしない。それぞれの翼を大きく動かしているにも関わらず、耳をすませようが羽音は聞こえてこなかった。速度と静音性を兼ね備えた驚異の飛行能力、これでは接近を察知できなかったのも頷ける。加えて、あの牙。あれほど鋭利なら、血を吸われても痛むことはなく、すぐには噛みつかれたことに気付けない。現にルチャブルもまんまと吸血され、貧血に陥っている。

『そんなセコ技あるなら何で他の雌に使わなかったんだ』と野次られ、クロバットは『使う間もなく振られたんだよ、って皆まで言わせんなバカ!』と悔しそうに応答している。

 

 私、今から嬲られるの?こんなに大勢の雄に囲まれて?

 忌まわしさによって込み上げてくる吐き気をこらえながら、ルチャブルは必死で声を張り上げた。

 

『やめて、ッ、…来ないで!私にはもう番がいるの!』

 

 懸命に訴えてみる。…しかし、無情にも、聞き入れられることはなかった。それどころか、冷淡なせせら笑いが寄越され、ルチャブルに絶望を突きつけてくる。

 

『でもさあ、交尾まだっぽいじゃん?あんた、精液(ザーメン)臭くないし』

 

 なあ、オレが最初でいいだろ。馬鹿言ってんじゃねえ、俺だ。おい、誰か手足押さえとけよ。こいつ二輪挿しいける感じ?口も使わせようぜ。…半分以上は内容の意味が分からないが、ろくでもないことだけは感じ取れる。そのろくでもない話が、ルチャブルの気持ちの一切を無視して、勝手に進んでいる。身体の内側からぞわぞわとして、気持ち悪くてたまらなかった。

 

 どうしよう。…どうしよう、動けない。力が入らない。私はゲッコウガの番なのに。ゲッコウガを裏切りたくないのに。ゲッコウガと一緒に卵を作りたかったのに。こんなところで、私…。

 

『…たすけて…』

 

 ぽろりと零れる涙と一緒に、独り言のような懇願が漏れ出る。

 

『 助けて、誰か、……、ゲッコウガ…っ! 』

 

 

 ――魔法、みたいだった。

 縋るような思いでゲッコウガを呼んだら、一瞬のうちに、彼の背中が目の前に現れたのだ。ルチャブルと雄たちの間に割って入り、立ちはだかり、ルチャブルをその背に隠して守ってくれている。

 彼がどんな顔をしているのか、見ることは叶わない。だが、まるで背中から青い炎が生じて燃え盛っているように思えて、つまり、…激怒している気配が、背中越しであれひしひしと伝わってきた。

 

 

『…よってたかって、オレの嫁に何の用だ』

 

 心臓が凍りついてしまいそうなほどに冷たく、低い、唸るような声。敵意が迸っている。ルチャブルと談笑していた際の、穏やかな声音は何だったのか。同じ声帯から紡がれているとは俄かに信じがたい変わりようだった。

 

 相対する雄たちに、今のゲッコウガはどのように見えているのだろう。先程までの威勢はどこへいったのか、皆一様に黙り込み、顔は蒼褪め、場の雰囲気に呑まれている。

 

『手籠めにでもするつもりだったか。…そうか…』

 

 

 

 殺すぞ。

 

 

 

 虚勢ではない。はったりでもない。どれだけ相手の数が多かろうが、彼ならひとりと残さずに、必ず宣言通り鏖殺(おうさつ)してみせるだろう。そんな常識外れなことですら力尽くで納得させる、圧倒的強者としての佇まい。今このとき、雄たち各々が、自分にとっての天敵を思い描いているに違いない。遭遇すれば死ぬ。そういう存在が、目の前にいるのである。

 

 ぎゃあ!と耳を塞ぎたくなるような悲鳴があがった。

 一体いつ攻撃を仕掛けられたのか、クロバットの左上の翼、その付け根に水くないが刺さっている。ものの数秒でくないは液体(みず)に戻って形を失ったが、そこに残る深々と抉られた傷が痛々しい。

 

『てめえの口から嫁の血と同じ匂いがしてんだよこのクソ蝙蝠。…絶対に許さない、絶対にだ。ツラは覚えた。印もつけた。後から死ぬより惨い報復をしてやる、覚悟しとけよ』

 

 日のもとで冷たく光る、逆手持ちの水小太刀。

 

『雌を巡る争いは、このモモンの宴に限り「恒例行事」として処理される。そうだな?

 誰からでもいい、どこからでもいい。オレにかかってこい。相手になってやる』

 

 どうやら、それが止(とど)めになった。

 一目散というほかにない様で、情けないくらいに尻尾を巻いて、雄たちは我先にと走り去っていった。ポケモンは、獣であるがゆえ本能的に察する能力に秀でている。弱者は格上に逆らわない。数の上では圧倒的に不利であったはずなのに、ゲッコウガはその根本を覆して、威嚇だけで全員を追い払ってくれた。

 

『……、最悪は免れたか…』

 

 危険が去ったことを確認し、ようやく、ゲッコウガが振り返る。

 そこに怒りは見出せない。険しい表情でもない。落ち度を責めてくることもなかった。優しい目でルチャブルを見つめ、膝をついて目線を合わせ、そっと頬を撫でてくる。ルチャブルを不安にさせないよう気遣ってくれている。それが分かるから、鼻の奥がつんとして、目頭がじわりと熱くなった。

 

『何体か気絶している奴らがいたな。怯まずに立ち向かったのか』

 

 勇敢な嫁御殿でござる、とゲッコウガは微笑を浮かべる。 

 

『どこにいても必ず駆けつける。…その約束が果たせてよかった』

 

 ルチャブルは勢いよくゲッコウガにしがみついた。抱きつかずにはいられなかった。即座に抱き返してもらえたことが嬉しくて、安堵のあまり涙が後から後から溢れて止まらなくて、周囲をはばかることなく盛大に泣きじゃくるのだった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どうなってんのよ、この草…っ、…全然噛み千切れない、ぁあ゙もうッ!イライラする…!

 ……、…あ…? 何よ、なに、…近寄るんじゃないわよ!あんたたち、この私にこんな、ッ、…やめろって言ってんだろ!触んな!

 あ、あ、…ヒッ、…やだ、やめっ、…いやぁあぁぁあああ゙ァッ!!!

 

 

 

 

 




【 補足 】
・たとえば、クロバット。
 モモンの宴において様々な雌に一生懸命アピールしたのですが、
 ① 平均的な「クロバット」の体格を遥かに下回る貧弱な体つき
 ② 体格に恵まれた同族の雄(競争相手)がいくらでもいる
 以上を理由に見向きもされませんでした。
 アピールしたって意味がないのだと半ば自暴自棄に陥っており、ルチャブルに対しては、アピールではなく「攻撃」を仕掛けて強制交尾に持ち込もうとしています。
 他の雄たちも、似たり寄ったりな事情です。


・目をぎらつかせた雄の群れが迫ってくる…、ルチャブルには『ブラッ●ハーレーの馬車』みたいな絶望感があったはずです。怖い思いをさせて本当にごめんね、ルチャブル。


・ゲッコウガは、「草結び:強化ver」とでもいうべきバグ技でフォクスライを拘束し、情報を吐かせようとしたのですが、その直前でルチャブルからの救援を察知。助けに向かいます(その手段に関しては次回に…)。
 放置されたフォクスライは脱出を試みるものの、どうにもならず、虚しく時が過ぎるばかり。やがて、ゲッコウガから逃げてきた雄たちに見つかり、容赦なく無体を強いられることになります。自慢の毛並みを見る影もないほどに汚され、瀕死寸前まで追いやられるのでした。
 その後、父親が分からない(しかも雑魚の)子を身ごもった事実に耐えきれず、産み落とした卵を捨てていきます。
 しかし、幸運にも「モモンの宴にはもう何年も参加していない」「年配の」「肝っ玉母ちゃん」的な雌ポケモンが遺棄卵を発見。「まあ、これも何かの縁だし…」「久しぶりに腕が鳴るねえ」と、面倒をまるっと見てくれるし、生まれてきたヒナも里親のおかげで健全に育っていきます。
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