※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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春のかたみ:⑩

 ひとり羽繕いをしていたときに、はらりと、翼の先に舞い降りたものがあった。ほとんど白に近いような薄紅の花びらは、ルチャブルの赤い翼によく映えた。桜だ。顔を上げて辺りを見回すと、少し離れた場所に、桜の樹がそびえていた。あの枝から風に乗って花びらが運ばれてきたのだろう。ふと心惹かれてルチャブルは立ち上がり、樹の根元に向かった。

 満開だ。仰ぎ見る先は、桜の花で埋め尽くされている。

 東雲(しののめ)を背負う桜は、朝露で清められた桜は、夜明けの淡い光の中でひときわ神秘的な存在感を放っていた。このような桜の様子を朝桜と呼ぶのだと、それを教えてくれたのは博識な蛙の旦那様。彼によれば、桜は、その魅力から様々な異名を与えられているという。夢見草とか、花王とか。いずれの名も実に雅だ。自分の知識が増えたことも嬉しいけれど、ゲッコウガの両目の美しさを例える表現をより多く知れたことが、もっと嬉しい。彼の目もまた、美しい桜の色をしているから。

 そして、あの子は――…。ルチャブルは、昨年、金木犀の香りが漂う季節に親元を去っていった我が子を思い出す。

 子を産み育てる尊さを教えてくれた存在。凛々しく成長したゲコガシラの横顔を、振り返ることなく遠のいていった勇ましい背中を、今でもありありと思い描くことができる。

 あの子は無事に冬を越せただろうか。どこかでこうして桜を見ているだろうか。いつか、成体へと育ちあがったとき、父と同じく桜に染まった双眸を見せにきてはくれないだろうか。

 愛する者たちを心に浮かべ、感傷に浸るそのとき、一陣の風が吹き抜けていった。風に合わせて枝がざわめき、ルチャブルめがけてはらはらと花びらが降りかかってくる。

 

『 きれい 』

 

 ゲッコウガにも教えてあげなきゃ。

 密やかなルチャブルの呟きが、桜の花びらと共に散っていく。

 

 

+++

 

 

 男の生業は狩人である。父や祖父は言うまでもなく、それ以上さかのぼる祖先も、皆が狩りで生計を立ててきた。

 世代を超えて継承されてきた技と知恵を駆使して、獣を狩る。元より物静かで忍耐強いこの男に狩猟は向いていて、実際、糊口をしのぐ有り様ではあったがどうにか生活は成り立っており、家族にも最低限は食わせてやれていた。

 

 男には、妻の他には娘が一人。本当は、他にも子どもはいた。ころころと生まれ、今までに六人が産声を上げた。しかし、山での暮らしは厳しく、自然の脅威は女子供にも容赦がない。不慮の事故や獣害で子どもらは幼いうちに儚くなり、無事に生き延びたのは末娘だけである。それゆえに、ずっと手元で大事にしてやりたい気持ちがあったものの、子どもは育つし、女だからいずれは嫁いでいく。

 今年に入って、娘に縁談が舞い込むようになっていた。貧乏猟師の娘には勿体ないような話もきている。生まれの卑しさや貧しさがあってなお、娘の気立ての良さは、集落では有名だったから。それが、猟の腕前以上に、男にとっての自慢だった。

 

 

 嫁入り道具だけでも、まともなものを持たせてやりたい――…その想いを指先に込め、男は矢をつがえる。矢じりの切っ先は、目にも鮮やかな翼を持つ一羽の鳥に狙いを定めている。

 

 

 このあたりの森を、麗の森と呼ぶ。「麗」などという名称とは裏腹に奇怪な獣が跋扈する魔境であり、奴らを束ねる九尾の化け狐ともなれば付近の狩人にとっては恐怖の代名詞であった。

 化け狐は己の縄張りが人間に荒らされることを嫌うので、麗の森は禁足地であり禁猟地である。場所によっては注連縄がわたされたところもある。…そう、「場所によっては」。関所を置いたり森のふちを丸ごと注連縄で囲うことができれば理想的だろうが、そんなことは土台無理な話で、だから、実のところ獣の区域と人の区域の境目は曖昧だ。その曖昧さを「抜け道」とし、上手く立ち回って秘密裏に獲物を得る。狩人の腕の見せ所である。

 今、男が立つ場所は森の深部であり、人に許された領域を越えて踏み込み過ぎていることは火を見るよりも明らかだ。はっきりと、場の空気が違う。異様に肌がひりつく。男とて、以(・)前(・)な(・)ら(・)、こんな場所には滅多にこなかった。だが、男には秘策がある。狐の皮衣である。

 森の中で狐を殺すことは禁じられている。獣たちの親玉が狐であるため、同族殺しには殊更に怒り狂うのだ。露見したが最期、その人間は末代まで祟られるとされている。しかし、人里に現れる狐を退治するとなれば話は別だ。そういう手合いは、好奇心の強さから人里に近付くのではなく、化け狐からも見放された挙句麗の森を追い出され、何とか餌を手に入れようという苦肉の策でやってくるのだ。二年ほど前、男が狩った狐も、恐らくはそういう爪弾き者だったはずだ。くすんだ赤毛の、みすぼらしい一匹の雌狐。毛量はそれなりにあったが、どのような暮らしをしてきたのだかいかんせん体毛自体が荒れていて、売り物にはなりそうになかった。だから、男は皮衣を作ったのだ。男の家計に代々伝わる秘術である。

 自分で狩った狐の皮衣をまとう。そして、狐の肉を焼いて食う。あとは、肉を焼いた灰と狐の骨を砕いた粉を混ぜ、水でとき、顔や首、手足など肌が露出した部分に塗ると、人間の臭いと気配を完全に断つことができるのだ。森の獣はもちろん、化け狐でさえ欺ける。この秘術により、普段の狩りでは出会えない、もっと特別な獲物を探しに森の奥へと分け入っていくことが可能になるのだった。

 森の奥に入ったからといって、必ず獲物が見つかるとは限らない。仮に見つけられたとしても、必ず仕留められるわけではない。だが、一度当たれば、デカい。まとまった金を得られ、その元手を頼りに家族で一年を生き延びる――…狐の皮衣のおかげで、ここ最近は、生きてきた中でもかなりマシな生活を送ることができていた。

 

 近頃は、都の方で、鳥の羽根を使った髪飾りや根付などが流行っているときく。その影響だろう、派手な羽根ほど(それこそ飛ぶように)売れていく。流行り廃りは目まぐるしいから、今こそが稼ぎ時だ。貴重な収入源となるうちに、様々な羽根を集めておきたい。

 

 その点、あの見事な羽根ときたら。羽根の表と裏で色が異なるとは、…初めて目にする。こんな獲物がいるのだから、やはり、恐ろしくも麗の森は宝の山であった。市場へ持っていけば、さぞや珍重されることだろう。

 早朝の狩りで正解だった。夜間に活動する獣は巣へ帰り、日中に活動する獣はまだ眠っている時間帯だ。早朝から動き出すのは、多くは鳥で、奴らに的を絞りやすい。

 

 男は狩人としての全ての感覚を研ぎ澄ませる。獲物の動向に集中する。弓を引き絞る手に力を込める。

 初手で仕留めなければならない。仲間を呼ばれたらこちらの命が危なくなる。

 いま自分は一本の矢しか持っていない。予備はない。そう思い込む。言い聞かせる。はずしたら後はない、と、その気概を以て射よ。

 

 一呼吸、のち、刹那。

 会心の一撃を、放つ。

 

 

+++

 

 

 ――立ち竦む。

 横たわる小さな身体に向かって、ルチャブル、と、呼びかけてみる。

 ルチャブル。ルチャブル。ルチャブル。何度呼んでも、自分の声が虚空に消えるだけで、返事はない。

 

 待っていたのに。

 羽繕いから帰ってくるのを待っていたのに。

 昨日、森でルチャブルの好きな木の実がなっているのを見つけたから、こっそり持ち帰っておいた。朝食にするつもりで。ルチャブルが羽繕いから戻ってきたら見せてやろうと思っていた。

 ほら、と取り出したら驚いてくれたはずだ。そのあとすぐに喜んでくれたはずだ。

 ありがとう。一緒に食べよう。そう言って、いつもみたいに笑ってくれたはずだ。

 

 いつもみたいに。

 

 

 いつもと変わらない、朝だった。

 

 

 生きものとしての光が消えた目。ゲッコウガの爪先を濡らす血だまりの生温かさ。ルチャブルの胸から背中まで貫通して突き刺さったままの一つ矢。そのどれもが、ゲッコウガの心を壊していく。

 

『…そうか…。おまえの美しい声が最期に紡いだのはオレの名か…』

 

 だから、ゲッコウガはここに居る。

 愛しい小鳥に呼ばれてここに居る。

 

 

 ゲッコウガは、ルチャブルから矢を引き抜いた。彼女はもう、痛みに呻くことすらない。身じろぎもしない。なされるがままだ。

 

 未だ体温を残す柔らかな肉体を改めて抱きかかえ、ゲッコウガはその場にうずくまった。

 

『安心しろ…、誰にも渡したりしない…おまえはオレだけのものだから…』

 

 静かに静かに狂いながら、ゲッコウガは目を閉じる。後のことはもう、分からない。記憶も意識も何もかも、そこから途切れてしまったから。

 

 

 

 

【続】

 







 確かな手応えがあった。心臓を貫けた確信があった。鳥は鳴き声もあげずに倒れたはずだった。それなのに、…何だ、あの紺青の怪異は。見たことも聞いたこともない。どこから現れた?一秒たりとも目を離さずにいたのに、視界の中で進行する出来事への処理が追いつかない。
 突如として現れた正体不明の怪異が何者であるか、それを解き明かす暇はない。獲物を諦めて直ちにこの場からの逃走を図る、それが男のなすべき最善手である。

 撤退せねば死ぬと本能が告げている。男は、震える足を叱咤して、力の限り走った。

 ――獣たちは、種族を越えて様々な関係を持つ。信じがたいような交配も可能にする。それは、奴らの生態を熟知していなければならない狩人にとっての常識である。
 あの鳥と怪異も特別な仲にあったのだろう。怪異の眼差しには明らかな悲痛があった。奴が骸を視認した際の凍りつくような空気は、思い出すだに怖気を震う。
 あれは「溜め」だ。
 男には分かっていた。怪異は静かに佇んでいるように見えたが、あれは事態の理解に時間がかかっていただけだ。そのうち、感情が爆発して暴れ出すに違いない。巻き込まれる前に逃げなくては。
 男が肝を冷やしていたそのとき、案の定、背後から、心臓が止まってしまいそうなほどのおどろおどろしい咆哮が聞こえてきた。森が一斉に目覚める。瞬く間に、辺り一帯が、緊迫していく――……
 

 男は、待ち受ける未来を知らない。
 いくら走ったところで、何の意味もなかったのだと。このあと、己どころか大事な家族も、集落も、一切合切が根こそぎ濁流に呑まれた挙句に水底へと沈んでしまうのだと、知る由もなかった。
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