水張の村:後編
【 村の現在 】
晩秋、野山の木々は自身を飾っていた赤や黄の葉をすっかり地面へと脱ぎ捨てて、寒々しい枝を晒している。
吹きすさぶ乾いた風の中には冬の訪れを予感させる冷たさがあり、背中を丸めて身を縮こませながら年寄りや女子供が村の作業場に集まってくる。男衆が畑や漁に出向いている間、作業場で住民分の日用品を作るのが
「どれ、一つ昔話でもしようかね」
作業中、必ず、年寄りが誰かしら口を開く。村に伝わる様々な唄や物語を聞かせてくれる。このように、村の子どもらは作業場で村の謂われを教わり、伝統を習い覚えることになっていた。
中でも、耳に胼胝ができるほど聞かされ、それでもなお語ってくれと子どもらにせがまれる昔話がある。それが――…
「今日は、
…――怒り狂う水神の咆哮が、平穏な日々の終わりを告げる。
水神の働きかけに呼応してか、異様なほどに黒くて分厚い雲が空を覆い隠し、ちらとも陽が射さず、さながら真夜中の眺めであったという。その黒雲から、地表めがけて矢継ぎ早に突き刺さる落雷。断末魔じみた凄惨な轟音が辺り一帯に響き、大地を震わせる。これは何だこの世の終わりかと人や獣が逃げ惑う。彼らを嘲って踏み躙るように、雷の先触れが済んだ後は堰を切ったように雨が降ってきた。それは一言、豪雨であった。汚れを洗い流すために、躊躇いなくたらいに張った水をぶちまけるような、容赦のない冷酷な雨だった。瞬く間に河川が暴れた。山が崩れた。草木も、村も、全てがなす術もなく押し流され、その地に根付いてきた命は濁流の中に消えていった。
神秘の力をその身に宿し、森の長が――姫狐の玉藻様が水神を討って岩戸に封印なさった。かの御方の狐火は、どんなに雨が吹きつけてこようと勢いは弱まらず、煌々と燃え続けたとされている。
おまえたちの村から咎人が出た。責任をとれ。生き残りが業を背負い、荒魂を畏れ敬い、祀って鎮めるのだ。
神託にも等しい言葉を前に、断る人間がいようはずもない。多くを失い、極度の不安に苛まれていた村の生き残りたちにとって、玉藻様は拠り所であり、指針であり、だから、言われるがままに従った。
荒魂は、祀ることで鎮まり、いずれは
たとえ、祀る対象が自分たちから全てを奪い去った相手だったとしても、誠心を示し続けなければならない。水神が再び機嫌を損ね、敵対してきたら、今度こそお終いだ。その驚異的な力を振りかざされる方がはるかに恐ろしい。水神を封じる
玉藻様は、水神の名を「
水の化身、水神の漣蛙様。
誰も本当の御姿と真名を知らない。蛙に似た姿をしていらっしゃること、水を司ること、漣蛙とはあくまで仮名であること、玉藻様が教えてくださったのはこれだけだ。玉藻様は、神の真なる姿と名を知ることは不敬であると説かれた。それが証拠に、玉藻様もまた村人の前には仮の姿で降臨なさるし、本当の名も明かしてはくださらない。
「漣蛙様の『漣』はね、涙を流すことを意味するんだ。泣いていらっしゃるんだよ。ずっとね。
荒魂のときは怒りがおさまらずに泣き、和魂となった今では、怒りのままに周囲を滅ぼしたことを悔いて泣く。…決して無慈悲な御方ではないのさ。むしろ、涙を流し続けるほど情に篤い神様なんだ。
漣蛙様の涙が地中に染みこみ、大地を潤し、川を成す。あたしらは井戸水にも困ったことがない。豊かな水があるおかげで、作物がよく育つ。森も青々と栄えている。かつての災厄などなかったかのように、命が戻ってきた。漣蛙様が絶え間なく流す涙が、あたしらを生かしてくださる」
漣蛙様は、今となっては村の大事な
炎の玉藻様、水の漣蛙様。二柱が村を守り導いてくださる。しかし、村人はこの神々のことを外部の者に漏らしてはならない。獣を崇めることをよく思わない領主もいる。特に、この村だけでない、他の里にも甚大な被害を出した漣蛙様のことは隠し通さねばならない。元凶を退治するでなく、それどころか祀っていると知られたら厄介だ。だからこそ、二柱を守るために、再建した村の生活を守るために、村人たちは自ら外部との交流を断った。
【 玉藻の事情 】
――度し難く荒れた嵐の中枢に向かって、玉藻は跳躍した。そこに、悪しき力の源がいる。我を忘れて暴走する蛙がいる。…もっとも、蛙と呼ぶにはいささか異形が過ぎる姿に成り果てていたが。かつて森の獣たちからもてはやされた美貌は見る影もない。蛙としての面影もない。どうにか例えるならば、黒い手足の生えた暗闇の塊だろうか。誰が見ても、「正体不明の恐ろしい魔物」である。その魔物は、依然、腕に番の骸を抱いている。しかし、魔物の禍々しい力の只中にあることで骸は原形を留めぬほどに損壊しつつある。そのことに気付かず番の肉片を後生大事に抱きしめて、周囲を威嚇し喚き散らしている様は、まこと憐れであった。
奴がなぜ堕ちたのか、その理由を森の主たる玉藻は把握している。人間の侵入を阻めなかった己の不甲斐なさに苛立つと共に、主としての責務を果たさねばと自ら奮い立たせている。
あの魔物が番を失ったことでこんなにも異常な壊れ方をするとは完全に予想外であったが、実際にこうして災厄が引き起こされてしまった今となっては、討伐に専念するより他にない。しかし、討伐といっても、それが容易には達成できないことに、玉藻はすぐに気付かされた。数百年を生き、人間や獣たちの信仰を糧にして強大な力を身につけてきた玉藻であったが、その妖狐が不覚にも冷や汗を流してしまうほどに、魔物の力は凄まじいものだった。炎に水、相性としてもまず最悪である。得意とする
至近距離で水の刃に切り刻まれながら、深手を負いながら、激痛に苛まれながら、それでも玉藻は離さなかった。討伐が難しいならせめて封印しなければならない。そのために、玉藻は相手の傷口から直接自身の力を流し込んで、本体の魔力を相殺し、鎮静化を図った。あくまで応急処置だ。魔物が一時的に弱った隙に、周りの空間に働きかけて、空間ごと封じてしまおう。
玉藻の決死の行動は実を結んだ。
魔物を――蛙を深い眠りの中へと誘い、その身を封じ、洞窟の奥深くへと隠した。人間に命じて洞窟の出入り口には注連縄をつけさせ、社を建てさせ、畏敬の念を示し続けるよう言い渡した。厚遇すれば水神も気を好くしておまえたちに恵みをもたらす存在となるはずだと言いくるめたのである。
壊滅的な被害を受けた麗の森――…玉藻はその復興を諦めなかった。蛙を鎮める際に受けた傷によって満身創痍の中、災厄を免れた他所の野山の獣たちに助力を要請して回った。
あの玉藻が助けを乞うている。その事実によって、玉藻が従来の力を失っていることが露見し、麗の森を奪い取ろうと攻め込む獣が現れだした。新しい主を決めよう、あの水神をもう一度呼び起こそうと画策する獣もいた。
回復しきっていない、思うように動かなくなった身体。かつては雑魚と嗤い歯牙にもかけなかった連中なのに、奴らを相手に手こずる屈辱。あまりに惨めだった。それでも玉藻は敵を退け、窮地を乗り越えてきた。たとえ幾度となく傷つけられようとも、脅かされようとも、自分を育み、また、自分が育ててきた森を何としてでも守らねばならなかった。
妾の眼が驕りに曇っていなかったならば狩人など見逃しはしなかったのに。愚かな人間を引き金とした災厄も防げたはずなのに。その負い目が、ずっと、あった。
あの惨劇から、百年が経とうとしている。
今もなお、蛙は眠り、その身から水を生み出し続けている。封印は定期的にかけ直してきたが、どんなに慎重に扱い、繕っても、経年劣化は避けられない。封印は限界を迎えている。新たに封印の術式を組み直すほどの力は、老いた玉藻には残っていない。
――だから。
眠れる蛙を呼び起こし、彼の破れた心を慰めてくれる存在が現れるそのときを、ずっと待っている。