いつか桜の下で①
早朝、境内を掃き清める箒の音がする。黙々と作業をしていた女はふとその手を止め、かじかんだ手を温めるように息を吹きかけた。野山に新芽が生えだした時期ではあるが、夜明け前の空気は未だに吐息を白くさせる。
明るさが増した空を見て、女は山の方へと視線を向けた。ちょうど山と山の間から、太陽が昇ってきたところだ。清らかな朝日を受ける女の横顔は、それだけで一幅の絵が描けそうなほどに美しい。
女は水張の人間だ。数え年で十五、今年の元日に成人の儀を済ませている。すらりとした手足に華奢な背中、そこへ流れる艶やかな長髪。後ろ姿だけでも思わず目を惹かれる存在だ。女と正面から対峙すれば、なお息を呑むこと請け合いである。その、あまりの美貌ゆえに。
赤子のときから「玉のよう」と褒めそやされた。幼くして既に、大人がたじろぐほど美しい顔立ちをしていた。うら若い乙女の仄かな色香をまとう頃には、その美しさがかえって人を寄せつけなかった。
黒髪や茶色の虹彩は村人全てに共通するものだが、この女の場合はどうにも「村人と共通」とは言い難い。女の髪も、黒といえば黒なのだが、日のもとではむしろ紺藍に見える。最も印象的な目にしてもそう、単に茶色と呼ぶには色素が薄すぎた。光の加減ではいっそう色が抜け、ともすれば桜の色を彷彿とさせる色味になる。加え、山暮らしの者とは思えぬほどの白く透き通った肌、柔らかく色付く頬と唇…、人間よりも桜の精霊と言われた方がまだ得心がいくような、そんな容姿なのだった。それこそ、爛漫と桜が咲き誇る春の季節に生まれたこともあって、当然のように女の名は「さくら」となった。
さくらが産声を上げたとき、そこへ姫狐が降臨なさったという。さくらが身を寄せる
当時、さくらの両親は――とりわけ母親は――姫狐の神託をありがたがるよりもむしろ大いに恐れ、幼い子どもなら誰もが罹るような一般的な病や小さな怪我でも仰々しく騒ぎたてた。「玉藻様から直々に御言葉を頂戴したのだ、これほど誉れ高いこともないだろう。しっかりしろ」という周囲の励ましも叱責と捉え、気に病んでいった。なまじ両親のどちらにも似ない、異様なほどの美貌が人間離れしているように思われ、確かに自分たちの子であるはずなのに愛着も湧かず、追い詰められた果てに心を病み、神託を忘れてさくらへ手をあげることが増えた。
「特別な務め」とやらを果たす定めにあるからこそ、子どものうちは子どもらしく、親に甘えていればいい。そう考えていた宮司も遂には見かね、さくらは玉灯神社の預かりとなったのだった。
元来、山里における寺社の立場は強い。こと水張のような閉ざされた集落では尚のことである。自ずと宮司の権限も大きくなる。水張にも当たり前に村長はいたのだが、万事を取り仕切るのは宮司の方であり、村長はその副官のように振舞うが常だった。先のさくらの処遇についても、宮司の言うことであればと皆が納得したため異論が出ることはなかった。
玉灯神社は「
姫狐の命令に愚直に従い、水神漣蛙の伝説を信じ、不可侵の洞窟を前にしても疑念を持つことなく、水張の者はずっと狐と蛙を二柱と仰いで尊んできたのであった。
姫狐の神託があり、特別な子が生まれたと知ったそのとき、真っ先に「漣蛙様に関わることだ」と見抜いたのも宮司その人である。宮司だけは、前もって姫狐から聞き及んでいた。近いうちに水神は目覚めの時を迎えると。百年も経過した古い封印など水神には脅威になるまい、いずれ外に出てくる。その際、水神が今と変わらず穏やかなままでいられるよう、心身を慰め続ける存在を捧げるといい。いわゆる災い避けの人身御供である――…その、贄となる人間が生まれたのだと宮司は悟ったのだった。成長するにつれ、大奥へと推挙されても問題なかろう輝くばかりの美貌を露わにしていくさくらを間近で見ていた分、宮司の仮説は確信へと変わっていった。ならば、神の贄に相応しいよう仕込んでいかねばならないと使命感に駆られたのも自然な流れであった。いくら美しい包装であろうとも、中身のない空箱を渡せば礼を失する。そう考えた宮司は、決してさくらを冷遇しなかった。礼儀作法をはじめ、読み書きに楽器や唄と一通りの教養を身につけさせた(閉鎖的な集落ではあるが神社内には書庫が備わっている)。
手塩にかけたのは、庇護欲からではない。さくらに恩を売っておくためである。親から虐待された辛さを忘れさせ、整った環境下で優しく育てられた記憶を刷り込み、いずれは恩返しで「喜んで水神様のもとへ嫁ぎます」と言わせる必要がある。また、自分がいかに恵まれていたのか進んで水神に話してもらわねばなるまい。「村ではひどい目に遭いました」などと吹聴されては、虐げても構わぬような者を――つまりは粗末な贄を送り込んできたのかと水神の機嫌を損ねて村ごと滅ぼされかねない。よって、宮司は打算と保身込みでさくらに接した。淑女へと育成し、きたるその日に備えるのだった。
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村人が畑に種を蒔き終えたその日の夜、雨が降ってきた。畑を潤す春の雨、穀雨である。妖精が小声で囁き交わすかのような雨の音は、人々を深い眠りへと誘うことだろう。
それに、湿っぽい方が、奴のもとを訪ねるにはおあつらえ向きだ。
玉藻は、雨夜の本殿にさくらを呼び出していた。宮司はいない。人払いも済ませてある。ふよりと浮かばせる狐火以外に光源はなく、薄暗い場所で人間の小娘とふたりきりだ。
さくらとまともに対峙するのは、これが初めてのことだ。彼女が生まれた当時は神託を授けることが主目的であり、馴れ馴れしく新生児を抱き上げたりはしなかったのだが、あのとき赤ら顔で力いっぱい泣いていた存在が、今や畏まった姿勢で玉藻に頭を垂れているのを目の当たりにすると、何やら感慨深いものがあった。
それにしても、…面を上げよと命じた際の、その顔立ちといったら。さしもの玉藻ですら目を細めてしまう花のかんばせである。背筋を伸ばして正座をするその姿までもが、やけに端正に見える。澄んだ眼差しで真っすぐに目を合わせてくる様は凛としており、乙女というよりも武人を思わせた。玉藻の神託を理由に気を病んだ親がさくらを虐げたと聞いたときには呆れて物も言えなかった(己の振舞いが裏目に出てしまった)が、玉灯神社に引き取られて以降は、よほど宮司が苦心したと見える。その甲斐はあり、さくらは気立ての良い聡明な娘へと成長した。謙虚で誠実、人の称賛を当てにせず不言実行で生きてきたことはきちんと把握している。直接話しかけたことはなくても、玉藻もまた、さくらの成長を影ながら見守ってきたひとりだ。
「おまえの務めを果たすときがきた」
狐面越しに話しかけると、さくらは「何なりとお申しつけください」と返してきた。惚れ惚れとするような、まさに鈴を転がすような声だった。前ぶれなく呼びつけたというのに、本人は、いつでも覚悟はできていたと言わんばかりの落ち着き払った物腰である。
その目で見た方が理解も早かろう。来なさい。そう言って、玉藻はさくらを連れて本殿の奥に向かった。例の洞窟へ繋がる扉である。
鍵はない。しかし、常に開錠されていようが人間には扉は応じない。
分厚い木戸だ。しかし、玉藻であれば容易く押し開くことができる。
「立ち入りを許す。そのまま歩いて問題ない」
さくらは小さく頷き、玉藻の後をしおらしくついてくる。
木戸を開けると、すぐに冷たい風が吹きつけてくる。玉藻の裾をはためかせ、さくらの髪を梳き、そして、岩壁に渡された注連縄の
自分の定めがようやく明らかになる。村の信仰の中心地へと向かう。それらに対する緊張はさすがに隠せていないが、それでもさくらは気丈であり、弱音を吐くことはなかった。冷静に「玉藻様の狐火のおかげで明るく感じられます。ありがとうございます」と告げてくる。確かに、玉藻は狐火を伴っているので、暗闇の中をむやみに歩き回らずに済み、足を踏み外して滑落するような危険も避けやすい。だが、洞窟の中で思いのほか視覚が働くのは、玉藻の狐火だけが要因ではなかった。
「そら、…とくと見るがいい。おまえたちが漣蛙と崇める存在だ」
階段を降りきった先の光景は、人間にはまず奇怪なものとして映ったことだろう。
おびただしいほどの蝋燭が岩床に岩壁にとあらゆるところに設置されている。灰黒色の太い蝋燭は、水張の者たちに定期的に奉納させている特別製の品だ。邪気払いの力を持つ麻を焼き、その灰を練り込んで作ってある。そこに玉藻の狐火を灯すことで、結界の強度を上げると共に、神域の清浄を保っているのだ。最初から内部が明るかったのも、狐火だけでなくこの大量の蝋燭によるところが大きい。
さくらは、固唾を呑んでいるらしかった。無理もない。ここには、蝋燭だけでない、その灯りを受けて爛々と目を光らせる蛙が群れを成しているのだから。小柄な体躯、水色の肌に首元の白い泡、…一見すると白雲浮かぶ青空を連想させて愛らしい。しかし、これほどの数が一所に集まれば立派な勢力であり、連中から一斉に見つめられては狼狽えもする。
そして――…無数の蝋燭と蛙が囲むその中央に、塊が、鎮座している。
荒野を駆けまわる
「ここの子蛙たちは、もうずっと以前から棲みついていてね。皆が水神の末裔だ。…尤も、子孫とはいえ経過した歳月を考えれば繋がりなど血の一滴にも満たんだろうがな」
どこから嗅ぎつけたのか、いつのまにか
「喧騒を呼び込まん限りは好きにさせている。なかなか物分かりのいい連中でな、静寂を保てと厳命したはるか昔から、この洞窟では鳴き声一つあげたことはない。まあ、無遠慮に見てくる点には目をつむってやれ。おまえのような客人が物珍しいだけだ、敵意はない」
玉藻がさくらを見遣る。一呼吸おいてから、さくらも視線を返してくる。
間近で目にした漣蛙の実体についてどう思ったか尋ねると、彼女は、微かな笑みを口元に浮かべた。
「懐かしい、と、感じました。真っ先に」
「……、…そうか…」
懐かしい、か。
玉藻は、味わうように反芻する。
「漣蛙様を前に、端女が生意気を申しました」
「構わぬ。ここでは偽りも
「水張の者は、幼き頃より漣蛙様の伝説を聞いて育ちます。漣蛙様の恵みを受けて育ちます。私たちの日常と共にある御方でいらっしゃいますので、初めてお会いしたように思えないのかもしれませんね」
「…なるほど。ならば、少なくとも嫌悪はないのだな。親しみを覚えるというわけか」
上手く事が運びそうな予感に安堵しながら、玉藻は改めてさくらに向き直った。
「おまえには、漣蛙の話し相手を務めてもらおうと思っている。…そのうちに、なぜおまえが選ばれたのか、おまえでなくてはならぬのか、わかるときがくるだろう」
目の覚めるような麗人相手に蛙の眠気も吹き飛ぼう。
百の年月で凝り固まったものをおまえが解してやれ。
歌うように任命すれば、さくらは、端から断る選択肢など与えられていない娘は、玉藻様がお望みになるのなら仰せのままにと殊勝に答えるのだった。
【 補足 】
・イメージ曲
水神龍蛙〜龍ケ崎、雨蛙フク伝説による幻想曲/阿部勇一
・漣蛙の姿(唐草模様)
参照:龍ヶ崎の
舞の演じ手が、唐草模様の衣装と雨蛙の被り物を着用する。
・洞窟内部
参照:天安河原(宮崎)/普天満宮(沖縄)