「おまえが特別な役割を担っているのだとしたら、それは間違いなく漣蛙様に関することだ」
差し向かいで正座をする中、玉灯神社の宮司がさくらに言い放つ。
さくらは物心がつく頃から「おまえは特別だ」と言われながら育ってきたのだけれども、その「特別」に水張が総出で崇める存在が関わっていると明言されたのは今回が初めてだった。当時、齢は十。それは、そろそろ事情を知ってもいい頃合いであると、そう判断されるに足る年齢らしかった。
呼び出された和室にこもるイグサの香り。障子に貼られた和紙を透過してくる穏やかな日差しが、畳の上にふたりの影を伸ばす。
「玉藻様が直々にお出ましになり、まだ赤子であったおまえを指名した。以降は沈黙なさっているが、それは機が熟すのを待っておられるためだろう。おまえが成人し、一人前となったそのときに再度声をかけてくださるはずだ」
結界が脆くなってきているのだと、宮司は深刻そのものの顔つきで話し続ける。
秘匿せねばならない極めて重大な情報であろうに、それをさくらに打ち明けてくるのだから、自分はよほど信頼されているようだとさくらは察した。同時に、機密事項を共有させることで大きな計画に巻き込まれたのだと理解する。さくらは賢い。そして寡黙だ。「内緒だよ」と言われたら必ず内緒にする実直な性格をしている。秘密を知らされたところで決して言いふらさないので、周囲の混乱を招く心配のない娘であった。
「玉藻様の絶大な神力あってこそ結界は百年もの間破られず、漣蛙様も眠ったままでいられた。しかし、経年の劣化や風化に完全に耐えうるものはこの世に存在しない…、今はまだ結界として機能している術式も、いずれは消滅する。この問題は、先代の宮司も気にかけていた」
「……、…宮司様のおっしゃりようですと、新しく結界を構築し直せばいいという単純なお話ではないのですね」
「そうだな」
苦々しく、宮司は息を吐き出す。その疲れた表情が、彼の顔のしわを一層際立たせた。
「偉大な御方ではあるが、玉藻様もお年を召されている。強力な結界を張るには命を削らねばならんからな、…長らく我らを導いてくださった御方に再要請できることではない。さりとて、我々人間があの御方の結界に匹敵するようなものを用意しようとすれば、霊力の高い人間が必要だ」
「贄、ということですか」
「然様。とはいえ…、条件に合う者を複数たて、彼らの命を犠牲にしても、構築できるのは半世紀もつかどうかといった代物でしかなかろう」
この先もずっと、永遠に、水神の恵みを得ていたい。豊かな資源をみすみす手放すのは惜しい。それが人の欲というものだ。だからといって、人死にが出るような儀式は禁忌である。敢行しようものならきっと玉藻様がお怒りになるだろう。
そもそも、儀式を執り行うに際して霊力の高い人間が要るというのなら、その筆頭は宮司になる――…水神のもたらす水を日頃から常飲し、水神のもたらす水で作物を育て、姫狐がもたらす火で煮炊きする暮らしのおかげか、水張の者は身体が丈夫だ。子どもの数も多く、滅多なことでは命を落としたりしない。だから、かつての僅かな生き残りから「村」としての体裁を整えて立ち直るにも時間はかからなかった。稀に霊力の高い者が生まれることもあり、人智を超えた相手と感応しやすかったのが宮司の家系なのである。
結界を再構築せねばならぬ状況、すなわち宮司が殉死せねばならない理由を作るわけにはいかない。仮にも、さくらには宮司に対する恩がある。虐待から救われ、衣食住を保障され、そればかりか質の高い教育を施してもらっているのだから。…決して驕ることなく芸を磨けと言われてきた理由が、今なら分かる。さくらは、漣蛙様に気に入ってもらえるような女にならねばならぬのだ。近く結界という縛りを失い、お目覚めになる漣蛙様に取り入って、村が滅びぬよう、再び結界が必要とならぬよう(つまりは宮司が犠牲にならぬよう)漣蛙様には和魂でいてもらわねばならない。
「結界の再構築は最後の手段だ。切り札頼みにならぬよう、おまえの働きに期待している」
「はい。これからも精進してまいります」
期待。聞こえのいい言葉だが、さくらには「死にたくないからおまえが何とかしろ」と言われているような気がして、尚のこと空虚に感じられた。しかし、内心の虚しさなどおくびにも出さずに、さくらは深々と座礼した。
これもまた実質的な人柱である、とは、さくらは考えない。己の責務である。そのために生きてきたのだ、何を今更厭うことがあろう。
誰かがやらねばならない。己にしかできない。ならば、どのみち道は一つだけだ。この身が今まで里を潤してくださった漣蛙様への慰安に役立つというのなら、喜んで捧げよう。たとえ、相手がどんなに異形の神であっても構わない――…やけに物分かりがいいさくらだが、それは、彼女の諦観の表れでもある。
幼少期から定めを背負わされ、虐げられ、苦境から救われたかと思いきやそこに誠の情はなく都合のいい人形扱い。実際、さくらは人形のようなものだった。礼儀作法を事細かに確認され、それは些細な仕草さえ常に監視されているも同然で、息が詰まりそうだった。習い事が多く、練習漬けになり、さくらは言われるがまま振舞うだけでも精一杯で、自我を表に出す暇も、反抗を思いつく余地すらもなかった。一事が万事この調子なのだから、何かに対して心から楽しいと思えたことは一度もない。しかし、本人の胸中はどうあれ、本来の身分には不相応の、贅沢な状況に身を置いていることは確かなのだった。事実、周囲はさくらが羨ましいようで、大いにやっかまれた。特に、良くも悪くも目立つ容姿については、賛辞と陰口の両方がつきまとった。宮司が公表せずとも、小さな集落のことだ、さくらがいずれ神の嫁になるという噂はすぐに広まった。「相手を慰めることが仕事になるのよ」と女たちが嗤い、男たちは「慰め」に不埒な意味を重ねて下卑た視線を送ってくることが多々あった。美しいさくらを貶めることで、各自の溜飲を下げているのだろう。
で、あるからして――両親にも、村人にも、生まれ育った集落にも、さくらは大して愛着を持っていない(ひょっとしたら、自分自身の命に対しても関心がないのかもしれなかった)。だが、目の前で滅んでいく様を見て見ぬ振りができるほど冷酷でもない。だから、さくらは水神に会いにいく。宮司の真意を悟ったあの日から五年経った今宵、雨夜に玉藻の誘いを受け、ついていく。自分の存在意義を確認するために、洞窟の奥へと進んでいく。
初めて水神と対峙した瞬間、胸の中で弾けた鮮烈な感動。さくらの心がいかに震えたか、それはさくらがこれまでの人生で得てきた言葉程度では到底言い表せそうになかった。
得体のしれない存在に対する嫌悪感は欠片も湧いてこない。神々しい巨体を伝う涼やかな水、蝋燭の灯りに照らされる翡翠のような緑の表皮、それを飾りたてる真白の唐草模様。嗚呼、早くお目覚めになってはくださらないだろうか。その目で私を見てほしい。声を聞かせてほしい。さくらは、自分でも不思議なほどに、欲が溢れてくることを感じていた。ことさら何かを欲したことのない女が、豊かな感情で潤っていく。乾ききった大地に雨が降ってきたみたいに、会ったばかりの水神が、さくらに染みこんでいく。馴染んでいく。その拒みようのない馴染みようが、さくらに「懐かしい」と答えさせた。
「おまえには、漣蛙の話し相手を務めてもらおうと思っている。…そのうちに、なぜおまえが選ばれたのか、おまえでなくてはならぬのか、わかるときがくるだろう」
知りたい。
私でなければならない理由を知って、…そのあとに、きっと、漣蛙様に御礼を申し上げよう。貴方様との出会いが運命であったのなら、生まれてきたことを初めて誇りに思えそうです、と。
起きるのを待とうが今起そうが大した違いはないと玉藻が言うので、さくらはすうと息を吸い込み、そして、歌声を紡いだ。
水張には古くから子守歌がある。銀の葉にくるまれ 金の風にだかれて 水よ清らかに 穏やかに――子どもをあやすようでいて、その実、水神の心を慰め、鎮め、静かに眠りにつけるよう歌い継がれてきた唄だ。しかし、今回は眠りから呼び覚ます唄を歌う。
凍てつく土は和らいで 雪解け水で顔を洗う
冬去り 我ら息を延ぶ 春よ春よ 今ここに
萌黄の野辺に花が咲く 春よ春よ 甘やかに
素晴らしい美声に、祈りを添えて。どうか、心地よい目覚めとなりますように。
誰もがうっとりと耳を傾けてしまう歌が、無機質な洞窟の中で、余韻豊かに響いていった。
緩やかに繰り返されていた寝息が、束の間、消えた。たっぷりとした間を置いたあと、水神の巨体が身じろぎした。どっしりとした太い首が、ゆったりと持ち上がった。さくらが見守る中、ゆるりと、両目が開いた。
今の季節には似合いの、桜の色をした双眸。
――嗚呼。私の目は、貴方様とおそろいなのですね。
滅多に笑うことのないさくらの目元がほどけ、和やかに口角が上がる。薄暗い洞窟にはいっそ似合わないほどの清廉な微笑みが、彼女の口元に浮かんでいた。
【 補足 】
・作中のさくらに関して
参照:ビジュアル/平松想乃さん
イメージ曲/千の海を越えて(河井英里さん)
Sis Puella Magica!(梶浦由記さん)