漣蛙の話し相手になってやれ。奴の孤独に寄り添い、心を慰められるかどうかやってみろ。そう命じられたあの夜以降、週に一度の頻度で、さくらは玉灯神社の本殿で玉藻と会うことになっている。いわば、進捗状況の報告だ。
玉藻と会うたびに「漣蛙とは上手くやれているか」と確認されたが、その問いに対してさくらが首を横に振ったことは、一度もない。
最初こそ「優しくしてくださいます」と当たり障りのないことを答えるだけだったが、玉藻から「もっと詳しく」と催促されてしまい、さすがに簡潔過ぎたと反省して具体的に話しだしたところ、不思議と弾みゆく心を自覚した。自分がどんなに喜びを感じているのか、それを思う存分に放出することがこんなにも爽快なものとは知らなかったのだ。そこからは、あっという間だった。淡白だった物言いが嘘みたいに、日を追うごとにさくらは饒舌になっていった。あの洞窟内で、漣蛙とどんなに心温まるひとときを過ごしているのか話したくてたまらなかった。漣蛙からの言葉、仕草、表情に惹かれゆく己を素直に吐露した。
さくらは、「惚気話ができる」という幸福に完全に味を占めていた。最近では、前のめりになって浴びせかけるように話す所為か「睦まじくて何よりだ」と玉藻を呆れさせてしまうこともしばしばで。
漣蛙は、一切、さくらを否定しなかった。かの水神は、さくらに向かって決して尊大な態度を取らなかった。
いつでも穏やかに会話に応じてくれたし、彼の低くて温かみのある声音が耳に心地好かった。習い覚えた物語や演奏を披露すれば、彼は目を細めて嬉しそうな反応を示し、そして必ず、さくらの励みになるような優しい感想を述べてくれるのだった。このときばかりは、手厚く施された教育に感謝したものである。
これまで、宮司や村人を相手に芯から心を許したことのないさくらであったのに、漣蛙の前では心身ともにほぐれてすっかりと安らぐことができた。
さくらは、周囲の思い描く「理想」を拒む間もなく次々と押しつけられ、それらを必死に受けとめながら自分のものにしてきた。漣蛙と対峙したことで、初めて、自分が修めてきたことを発揮する機会に恵まれたのである。そのときになってようやく、自分は誰かに何かを与えたことのない女であったと気付かされたのだ。自分の働きかけに対し、他者が喜びを以て反応してくれる幸せを知ったのだ。だから、漣蛙には惜しみなく披露したい、与えたいという気持ちが湧いた。さくらのことを知ってほしかったし、漣蛙のことも知りたかった。尽くすことがまるで苦にならない――…そう、神に対する敬意だけではない、別の感情が芽生え始めていた。身の内にあるものを全て明け渡したいとすら思うまでに、時間はかからなかった。
記憶を失い、自由を奪われ、水を生み出す力をあてにされ、搾取され続けた百年。これらの境遇を、漣蛙は己に課せられた懲罰であるとして受け入れていた。一方、罰を課した当の玉藻は、百年も経過したとあれば刑期満了と見なしてよかろうなどとあっけらかんとしたもので、その物言いは、現在の結界が消えれば漣蛙が晴れて釈放されることを示唆していた。
ならば、贖罪を果たした漣蛙との未来を考えたい。そう願う。あの美麗な羽根を受け取り、それを身につけるに足る存在になりたい。
さくらは、とっくに、連れ添う心構えができていた。正式な契りを結ぶ前から、夫婦のつもりでいたのである。
だから、漣蛙が恥ずかしそうに目を伏せながら求婚してきたときには、胸の高鳴りを抑えられなかった。涼しい洞窟の中にいるはずなのに身体の隅々に血が巡って汗ばんだくらいで、かあと頬が火照るのを感じていた。
万が一にも断るわけがないのに、こちらの顔色を不安そうに窺って、それでいて期待を手放せない目で見つめてきて。いつもの落ち着いた様子からは考えられない漣蛙の初々しさに眩暈がした。
なんて可愛らしい御方!
さくらは一も二もなく承諾した後、高揚醒めぬまま、浮かれた足取りで玉藻に会った開口一番に仲人を依頼したのであった。
「結婚の話が出たこと自体は驚かないが…」
玉藻はさくらを試すような口振りで「本当に、あの蛙が元に戻ってもその決意は揺らがないのか」と続けた。
「奴が真名を得て本来の姿を取り戻したとして、その美醜も能力も性格も分からぬうちから嫁いで後悔しないのか。人語を解すのか、今のような円滑な意思疎通ができるのかも不明だ。後から、話が違う裏切られたと文句も言ってもどうにもならんのだぞ。この妾を仲介して結ばれる契りだ、一旦成立してしまえば破棄はできない。今一度よく考えろ」
忠告だ。しかし、止めておけと反対はしてこない。なぜなら、この問答はさくらの覚悟の程度を確認するためのもの。さくらが気概を示せば、それで十全。若さゆえの浅慮とそしられようと構うものか。元より、揺さぶりをかけられたくらいで怯むようなら、添い遂げる資格などない。
「あの御方が、存外に寂しがり屋でいらっしゃることは心得ておりますので。どうして私から離れることがありましょう」
さくらは、美しく微笑む。その顔つきには、十代の小娘とは思えない凄みがあった。
「話し相手になること、孤独を癒すこと…、どちらも終わりのないことです。だから、私はあの御方についていく。私であれば添うていける。その意味で、玉藻様が以前おっしゃっていたように『私でなければならない』のです」
玉藻は、それ以上追及してこなかった。
その代わりに、内緒話をするように声を潜めてさくらに笑いかけてきた。
「ならば、夫となる
――数日後、さくらは玉藻に付き従い、洞窟の石段を降りる。漣蛙に初めて会いにいった、いつぞやの雨夜の再現のようだ。
茜染めの麻着物に、森で採れる蜘蛛の糸と藤で織った帯をしめて、自分が用意できる一番上等な格好で、さくらは歩を進めていく。
「 いざ夫婦の契りとこしなえ 」
玉藻の声が洞窟内に高らかに響き渡る。
さくらは、いつもの草の円座に正座して三つ指をつき、漣蛙に向かって深々と頭を下げた。
結界が解けるのはまだ先のことだが、その間に心変わりをせず、他の男へ嫁ぐこともないと証を立てるため、今のうちから正式に漣蛙との婚姻を結ぶ。
さくらは家族というものを知らない。夫婦となったその後の作法であるとか、そうしたものにも疎い。しかし、拙くたっていいから、漣蛙の傍にいたいのだ。彼と共にある時間が楽しいから、大事にしたいのだ。
彼を、もう、ひとりにはしたくない。
私も、もう、ひとりになりたくない。
この初恋をふたりで育てていきたい。
いつか、彼とこの村を出よう。居残ったって好奇の目で晒されるだけだから。
今まで閉ざされた村で暮らしてきたから、いきなり世間と交わるのは難しいことかもしれないけれど、ふたりの生活を守るためならいくらだって働ける。私はどうやら容姿に恵まれて、色々と芸も身につけているし、大きな町にいけば日銭を稼ぐことは難しくないはずだ。
大丈夫。私たちは、ちゃんと、生きていける。
「このたびは、漣蛙様に嫁ぐ栄誉を授かり、恐悦至極に存じます」
座礼で屈んだまま、さくらは口上を述べる。
「私の生まれは、玉藻様と漣蛙様が育まれた里『水張』。
桜の咲く季節に産声をあげましたので、…
仮の名。
それを声に出した途端、場の空気が俄かに張り詰めたものへと変わる。
玉藻に仲人を頼んだあの日、彼女はさくらに秘密を教えてくれた。
おまえの名は仮のものだよ、と。
真名は、玉藻が与えはしたものの、さくら本人はおろか両親にも宮司にも誰にも明かすことなく密かに預かっていたらしい。
「おまえが漣蛙と深く関わることになる者だと赤子のときから見抜いていたからね。
神と対峙するとき、己の真名を軽々しく口にするのは危険だ。…真名は、
結婚するとなれば、相手に心身を委ねることになるのだからね。真名を告げることは最たる信頼の証となろう。打ち明ける場としても適切だ。
安心しろ。おまえの真名と同様に、漣蛙の真名も、いずれは私が返すから。
「生まれたのは、日が落ちてから。
麗らかな春の夜、空には月が煌々と輝いて、あたりには草花の柔らかな匂いが漂っていたそうです。満月のもと、香りが満ちる夜に、皆に祝福されながら生まれ落ちた者。名付けられた真名は、――
真名を告げた段階でようやく顔を上げ、さくらは漣蛙を見た。真直ぐに見据えた。目が合った。彼は大きく見開いていた。いかにも、衝撃をまともにくらった、というように。
どっしりとした漣蛙の全体が震えだした。体表を覆う唐草模様が、本当に生きた植物みたいに伸長を始め、漣蛙を覆っていく。見方によっては、全身が唐草状にひび割れて、これから崩壊していく予兆のようでもあった。
「 あなた! 」
さくらが叫ぶと同時に、漣蛙から強烈な光が迸り、周囲に四散した。眩さに耐えかね、さくらは咄嗟に両腕で目を庇った。むせかえるような神気をいっぺんに浴びたためか、意識が次第に遠のいていく。この大事なときに、なぜ、と悔しく思いながら気を失いゆくさなか――…誰かが、大きな手で抱きとめてくれたように感じた。
+++++
身体から余計なものが削ぎ落され、身軽になっていく。後に残るのは芯、…というよりは搾りカスの方がより適当かもしれないが、カスで上等。身の丈に合っている。
どうして忘れていられたのだろうと不思議なくらいに、己の名も、記憶も、鮮明に思い出せていた。ありがたいことに、さくらとの日々もしっかり上乗せされて。
ゲッコウガは、ゆっくりと崩れ落ちていくさくらの体躯を受けとめた。抱きしめた。そうだ、今を以て、触れることができる。
『ずっと、共に在ったんだな。おまえのために切り分けておいたオレの影は』
改めて横抱きにし、さくらの顔にかかった髪をそっと払ってやる。額や頬に触れた己の指先が、予想外の冷えを拾ったので、咄嗟に玉藻の方を見遣った。
『さくらが冷たくなっていく』
『存在そのものが不安定になっているのだろうさ』
種明かしでもするような気軽な口調だった。
『さくらが母親の胎にいたときから、妾には分かっていたぞ。人の器ではあるが、中にはあの小鳥の魂が宿っているとな。おまえたちが出会えばすぐに惹かれ合うことも想像に難くなかった。
だから、一計を案じたんだ。さくらがおまえのもとに嫁ぐ決心をするまで私が真名を預かっておく。その後、夫婦の儀式の場で口にされた真名が
もちろんだ。
もう、何度その名を呼んできたか分からない。ゲッコウガの生涯において、最も多く、声にしてきたもの。
『おまえの献身が嬉しかった。ありがとう』
百年を経てやり直すべく巡り逢い、再び結ばれるに至った
『その誠心に、新たな真名と羽根を授けることで報いよう』
起きてくれ。―――ルチャブル。
おまえの美しい琥珀色の目に、オレを映してくれ。
ルチャブルの名を言霊にのせたとき、ゲッコウガの所持していた羽根が仄かに光を帯びた。輝きを纏ったまま、羽根は確固たる意志を持っているような振舞いでゲッコウガの手からすり抜け、浮かび上がり、そのまま吸い込まれるようにさくらの――ルチャブルの身体に溶けていった。
その後、次第にルチャブルの全身も輝き始め、白く発光を続けながらゆっくりと姿を変えていった。人間から、鳥の姿へと。
いつしか、ゲッコウガに抱かれて眠るのは、色彩豊かに染まる一羽。
抱きかかえるその身体は、すっかり温もりを取り戻していた。
『めでたしめでたし、というやつか』
玉藻が笑う。やっと肩の荷がおりたと言いたげな、穏やかな表情だった。
長きにわたって続いてきた御伽噺が、完結しようとしている。
ゲッコウガが見つめているさなか、ルチャブルはゆるりと目を開けた。『オレのことが分かるか』と訊いてみると、ルチャブルは眠たそうにしながらも、何とか頷いた。
『…はい。瞳の色も、眼差しも、…私がお慕いする御方と同じですから』
ルチャブルはまるで住み慣れた巣の中にでもいるかのような有様で、背中を丸めてゲッコウガの胸元に頬を寄せる。自分に訪れた変化には、未だ気付いていないようだ。既に人でなくなったことも、人の言葉を話していないことも。真名を得て「元に戻った」ゲッコウガとは異なり、ルチャブルは「新たに組み替えられた」ため、ルチャブル自身のものとして定着するのに時間がかかっているのかもしれない。
『…今度こそ、ずっと傍にいる。何があっても守る。だから、安心して休むといい』
ルチャブルは幸せそうに微笑んで、また、眠りに誘われていった。
ゲッコウガがルチャブルに誓いを立てたその瞬間に、事の成り行きをじっと見守り続けていたケロマツたちが、満を持したと、待っていましたと言わんばかりに、盛大に祝福の鳴き声をあげた。花嫁の休息を最優先にしろというゲッコウガの苦言が掻き消され、空間全体を揺さぶるほどの音量であったというのに、それでもルチャブルの安眠を妨げるものにはならなかったようだ。彼女はずっと、安らかな寝息をたてていた。
+++++
濡れ縁を進む足を止め、宮司が振り返る。気配を察知したのは気のせいではなく、視線の先には、確かに客人がいた。
「…茶でもいかがですか、玉藻様」
突然の訪問にも動じず、それどころか狐面の神を誘ってみせる。その胆力が認められたのか、玉藻からは愉快そうな声で「いただこう」との返事が寄越された。
今日は天気がいいから縁側でいい。玉藻がそう言うので、本当に、縁側で茶を淹れた。白い湯呑に釜炒り茶特有の薄黄色が映え、芳しい香りが漂ってくる。柔らかな午後の陽射しが心地よく、思いがけないこのひとときは、まるで年寄りの一服のようだった。
「いよいよさくらが嫁ぐぞ」
狐面を少しずらして、一口、玉藻が茶をすする。口元を目にするのは初めてだ。その唇には、丁寧に、紅がひかれていた。
「…私は、何も聞いておりませんが」
「そうだろうな。妾が知らせる必要はないと言ったのだから尚更だろう」
「何故そのような、…ただの村娘が嫁にいくのとは訳が違う。我々にも準備というものが…」
「華々しく祝宴でも開くというのか。
神に嫁ぐとはそういうことだと、衝撃的な内容であるにも関わらず玉藻はやけにあっさり言ってのける。実際、玉藻くらいの格ともなれば、大したことではないのかもしれなかった。
漣蛙の洞窟にさくらが通うようになって約一年。この間、彼女に詳細を説明するよう求めたことはなかった。神との逢瀬の話など聞き出す方が野暮だと思っていたし、さくらが常に「何事もつつがなく」と言っていたし、何より、報告させたところで偽りなく真実を語る保証はないわけで。
また一口、玉藻は茶を飲んだ。そして、湿る口元を三日月にして笑みを見せた。そこに嘲りを含ませてあると、すぐに察せられた。まるで、口元の動きだけで顔全体の表情までもが伝わってくるような笑みだった。
「どうにも白々しいな。おまえはこの結末を承知していたはずだぞ。漣蛙に気に入られるようにとさくらを仕込んだのは、他ならぬおまえ自身であろうに」
その通りだ。実際、驚いてはいない。
――今代の玉灯神社宮司は、歴代の中でも突出した霊力を誇り、相応にあらゆる能力が高くなっている。占いを得意とするからこそ吉兆の判断に優れ、呪術にも精通し、呪術の材料となる薬草を扱ううちに調薬も習得するという傑物の神官であったため、集落における人望も厚い。
宮司自身、水張の集落のことを「己が好き勝手にできる箱庭」と捉えており、その発想自体は些か傲慢ではあったが、自分のものであるからこそよりよくしようという意志が強かった。ゆえに、策を見出さねばならなかった。自分の代で封印が解けてしまう漣蛙をどうするか、ということについては。
「後のことは頼むぞ」と言い残して先代は逝ったが、そこに「いざというときはおまえの命を賭してでも結界の維持に努めろよ」という意味が含まれていたことは分かっている。冗談ではない。宮司は、殉職する気など更々なかった。だから、己の死を回避する意味でも、水神関連の問題を解決する糸口を掴まねばならなかったのである。
漣蛙というかつての大水害の元凶を抱える羽目になったからこそ、水張は他の里との交流を断たねばならなかった。愚直な水張の民は百年もの間、徹底して隠れ里と化し、内から出ていくことも、外から招くこともよしとしなかった。万が一、村を出ようとする者が在れば極刑も躊躇わなかったし、外から迷い込んできた者が在れば決して元の場所には帰さなかった。集落の墓地の奥には簡素な塚が築かれており、水張で処された者たちがまとめて埋葬されている。
人間の血を穢れたものとして忌避している玉藻であるが、意外なことに、不穏分子を嬲り殺しにする水張の者を咎めるようなことはしてこなかった。その本心を問うたことはないが、宮司は、彼女もまた本質は獣であるがゆえに、一連のことを縄張り争いの一環と考えているのだろうと推察している。群れを管理するために逸脱者を始末するのは当たり前のことだ、と。玉藻が何も言ってこないので、結果としてこの悪習も根深いものになってしまったのであるが。共に罪を犯し、秘密を抱えることで余計に村の結束力が増した感もあり、「村を守るため」という大義名分が殺しを正当化する。閉鎖的な村における
水張の者は集落外へ出てはならぬという禁を率先して破ったのも宮司である。いずれ里を開くなら、事前の準備は抜かりなくやっておきたい。腹心の部下に命じて、彼らの死を偽装したうえで秘密裏に外へ派遣し、世間の情報を集めさせた。この活動は今なお続いている。定期的に書簡の遣り取りをしており、その際、宮司と各地の部下とを繋いでくれるのは鳥獣たちであった。生来の霊力の高さによって、鳥獣との意思疎通は宮司にとって造作もなく、日頃から何かと用を言いつけることは多かった。したがって、鳥獣を介して遠方の者と連絡を取り合うこともそう難しいものではなかったのである。
外の情報を仕入れた結果、百年前の水害はどの里でも語り継がれていないことが判明した。当時の水害を覚えている者も生き残っていない。ならば、何を恐れることがあろう。漣蛙をむしろ積極的に広めて、他の里からも信心を集めてはどうか。いっそのこと、売りにしては。
さくらが生まれ、彼女に関する玉藻の神託があって以降は、俄然やる気が出た。いつか漣蛙がさくらを気に入れば、たとえ結界が解けても、これから先も水張に居ついてくれるかもしれない。そうなれば、雨乞いや止雨、灌漑、水難防止と、治水に関わること全般に霊験あらたかな御利益があると里外に喧伝して。信者を増やして。信仰によって漣蛙の力を更に強化して…。こと稲作を始めとした五穀豊穣には狐である玉藻も無関係ではなく、この二柱の信者を同時に増やすことも十分に可能だ。当の玉藻だって、崇め奉られることに悪い気はしないだろう。玉藻から命じられ、漣蛙の結界用に作ってきた例の蝋燭も、魔除けの縁起物として売れば、需要は必ずあるはずだ。部下からの報告によれば、お守りだの祀る神を模った人形だのを売っている神社もあるそうだから、そうした品を村人に作らせれば雇用も生まれて一石二鳥となろう。
人間を嫁にもらう気はないということで、さくらの任が解かれてしまう場合も考えられるが、そのときはありがたく彼女を再利用させてもらうつもりだ。厳しく躾けてきたので立ち振る舞いは問題ないし、ある程度の教養も身につけさせた。何より、あの美貌。そこに「神に仕えた神聖な巫女」と銘打てば逸品が完成する。水張は神の加護もあって暮らしに不自由することはないが、如何せん
漣蛙が里を出ていくという可能性も、…なくはない。引きとめたいところだが、無理を言って相手の機嫌を損ねては元も子もないので、去る者追わずの姿勢でいた方がいいだろう。そうなると、村人たちの間に水神を失うことへの不安が広がるに違いない。まだ玉藻がいてくれるという安心感よりも、在ったものが欠けてしまったという衝撃が上回るはず。だから、たとえ漣蛙がいなくても村として立派にやっていけるという自信を持つために、やはり金の力が要るのだ。信仰を当てにしない、独自の強み…何らかの特産品を作り出しておくにこしたことはない。外に派遣している部下からもたらされた情報を参考にしながら、宮司は茶の栽培と薬草採取、和紙作りに力を入れ、村人にも奨励してきた。この里では一般的な「釜炒り」の茶は、どうやら他所にはない珍しいものであるらしく、だとすれば立派な売りになる。珍重という点では薬草も同様で、水張の近辺でしか採れないものがあり、これらも上手く宣伝すれば高値がつくだろう。あとは、和紙だ。周辺の山野に
いきなり「神頼みではない生計を立てるぞ」と言えば余計な心配をさせるので、あくまでも表向きは「神事に用いるもの」として、茶も、薬草も、和紙も、必要なものだと説得し、村人の生活に根付かせてきた。数十年をかけて。
様々な事態を想定し、備え、万端を整えてきた。
だから、玉藻から「さくらが漣蛙に嫁ぐ」「嫁ぐ際に人間でなくなる」と言われ、挙句に「ふたりは新天地を目指すそうだ」と教えられても、宮司にとっては「なるほど。では、今後、水張の村は特産品勝負になるわけだな」と選択肢が絞り込まれただけのことであった。
特段、感慨深くもないな。
玉藻との茶飲みから数日後、宮司は、一張羅を着て洞窟の奥へと消えていったさくらのことを思い返しながら本殿で一人佇んでいた。
大事に育てたとは思う。だが、その「大事に」というのは、親愛のこもったものではない。お偉いさんに大事にしろと言われたので従ったまでだ。利用価値のあるものなので丁重に扱ったのだ。
この期に及んで、幸せになれよなどと父親面をする気はない。その資格もない。
ただ、黙って見送るだけだ。
本堂に待機してしばらく後、突如として洞窟から大量の蛙が湧き出てきたときも、宮司の心は凪いでいた。蛙の量に、鳴き声の大きさに圧倒されはしたが、肝は据わっていた。そのうち、目にもとまらぬ速さで、何ぞ紺と紅の塊が宮司のすぐ傍を過っていった。それらの正体は分からなかったが、何となく、新たに結ばれた一組の夫婦であろうと悟った。
本堂に静けさが戻る。
しかし、外では、未だに蛙の鳴き声が響いている。なだれこんできた蛙の群れに騒ぐ村人たちの声が聞こえてくる。そこへ、雨音も混ざり始めた。蛙が雨を呼んだのだろうか。
「…では、これからの話でもしようか」
冷たく、しかし甘やかな女の声。
――これからの話。
立ち止まって過去に浸る暇はない。今後を見据えねばならない。その「今後」に、もう
「今日は、茶ではなく酒をお持ちしましょう」
己の声音が予想外にしんみりしていることに驚きながら、宮司は「めでたい日ですからね」と続けた。神饌として供えるはずだった上等な酒が蔵にある。うまいはずだが、しかし、今の自分には少々ほろ苦く感じられるだろうなと、思った。
【 水張のその後 】
・玉藻までまさかの引退宣言。
・玉藻の秘蔵っ子であるジャローダ(後述)を祀るよう宮司に指示。
宮司の方も、「
・神社の新たな御神体はジャローダの鱗。
本殿にあった玉藻の木像は蔵にしまい、漣蛙がいた洞窟の入り口は封鎖した(漣蛙がいなくなった後、洞窟を住処にする獣が増えてしまい、彼らが村に入り込まないようにするため封鎖せざるを得なかった)。
・宮司が「玉藻と漣蛙の二柱から信任された新たな神」としてジャローダのことを言葉巧みに説明したため、村人側の混乱も少なくて済んだ。
・鎖国体制を解いて、少しずつ世間と交わるようになっていく。
村史における重要な節目であることから、村の名前も神社の名前も一新した。
・宮司の目論んだ事業は概ね当たり、村は栄えていく。
茶、薬草、和紙、蝋燭という特産品以外にも、後に木炭が売れ筋となる(「麗の森の木を炭にすると上質なものが出来上がる」と知れたのは里を開いて随分と経ってからだった)。
クヌギを原料とした、いわゆる「菊炭(茶席で用いる最高級品)」が主力商品で、都で茶道を嗜む者たちに飛ぶように売れた。欲に目が眩み、過剰な樹木の伐採が行われたため、ジャローダを始めとする森の獣たちが激怒。村に攻め込む。結果、村人は離散し、村自体が消滅することになった。宮司が代替わりをして間もない出来事であった。
【 新たな森の君主:ジャローダ 】
・サイズXL(オヤブン個体)
一目見たその瞬間からひれ伏したくなるような巨体である。その姿に相応しい圧倒的な強者の風格が備わっており、彼が麗の森の君主となることに誰も反対しなかった。ロイヤルポケモンは伊達ではない。
・色違い個体。威風堂々とした様はもちろん、赤い目と青い鱗により炎と水の融合を思わせ、村人からは「確かに玉藻様と漣蛙様の後継者であらせられる」と崇められた。ジャローダ自身は草タイプだが、もちろん、村人はそんなことは知らぬままである。
・百年前、水害の影響で麗の森が壊滅的な状態になったとき、玉藻が助けを乞うたポケモンの中にセレビィがいた。
その後も、森が順調に回復しているかどうか度々確認しにくるセレビィ。そして、『この先の未来でも麗の森は変わらず美しいけれど、それは代替わりが上手くいったからだよ』と言って、玉藻に一つの卵を授けていった(水張の宮司が代替わりに失敗した件とは対照的である)。
卵からはツタージャが孵り、玉藻は森の君主に相応しいポケモンになれるよう時間をかけて英才教育を施していく。
・ジャローダは周囲の信頼と期待を裏切ることなくしっかりと森を治め、人里とも上手く折り合いをつけて中庸を保っていたのだが、人間が許容範囲を逸脱した(私利私欲による環境破壊を行った)ため制裁を加える。この一件以降、人間に友好的でなくなり、森の奥深くで静かに暮らしている。