そこまで露骨な性描写はないのですが、ゲコルチャ間に情事があったことを明示しているのでタイトル横に★をつけております。
そうよね。あの御方に嫁ぐにあたって、今後自分がどう稼いでいこうか考えていたけれど、それって些末なことだったんだわ。
ルチャブルは、池の水面に映る自分の姿をうっとりと見つめた。以前、ゲッコウガは『人間の姿にも愛着はあっただろう、その点は申し訳なく思っている』と謝り、ルチャブルを事あるごとに気にかけてくれるのだが、当のルチャブルは現状を受け入れているし、新生活を早くも気に入っている。夫から直々に与えられた名と羽は、こんなにも軽やかで自由な姿を象ってくれたのだ。何を不満に思うことがあろう。
人間であった頃、「女」という性別が何かと足枷になり、窮屈を強いられることが多かった。育つにつれて増えていく周囲からの好奇の目が煩わしかった。嫌でも自身の美貌に自覚せざるを得なかった。美しいと評されること、それすなわち「人と違う」ということであり、違う扱いをされるということであり、必ずしも幸せにつながるとは限らない現実がある。自分はどうやっても目立ち、他人に様々な感情を抱かせてしまう。自分では決めようがなかった生まれつきの要素で理不尽な目に遭うのはよくあることで、うんざりしていた。
語弊を恐れずに言うならば、美しいことに飽きていた。
思えば、ゲッコウガが漣蛙であったとき、彼は一度も美貌について言及しなかった。下心が透けて見えるようなお世辞もなく、いやらしい色事を想起させない初めての異性だった。彼は、常に、生まれついたものではなく努力によって獲得したものを褒めてくれた。
だから、嬉しくて。幸せで。好きになった。その好きな相手が授けてくれた新しい姿はもちろん新鮮で、ルチャブルは、日に何度も水鏡に自分を映しては楽しんでいた。
姿を映すこの池は、森の木々に守られるような有様でひっそりと存在している。決して大きな池ではないが、ゲッコウガと
空の青よりも森の緑が溶け込む池の水は美しい翡翠色をしており、水底の白い砂粒や水草の揺らぎにいたるまで目視がかなうほど透明で、いつまでも覗き込んでいたくなる。ゲッコウガの話によれば、山を一つ二つと越えてようやく辿り着いた場所だという。多くの子蛙を引き連れての大移動はさぞや過酷だったことだろう…、と、このようにルチャブルが伝聞でしか語れないのも、自分自身は終始ゲッコウガの腕の中で眠っていたためだ(目覚めたときにはすっかり喉はからから、おなかはぺこぺこで情けない)。『今回おまえに訪れた変化がそれだけ負担になったということだ』とゲッコウガはルチャブルを労わってくれたけれど、眠りこけていた身としては、恥ずかしいったらなかった。
恥じ入るばかりのルチャブルとは対照的に、他の蛙たちもゲッコウガ同様心配しきりで、今でもルチャブルの体調をこまめに気遣ってくれる。水張の洞窟にいたときには、ざっとした目算でも間違いなく二百以上は子蛙――ケロマツという名であることを教わった――が犇めきあっていたのだが、今では両の手で数えるほどしか残っていない。ゲッコウガのもとに残った彼らは謂わば少数精鋭で、ゲッコウガに対する群を抜いた忠誠心と確かな実力とを兼ね備えており、日頃はゲッコウガとルチャブルの身の回りの世話をやいてくれるほか、自分たちの縄張りである池を守っている。従者や衛兵といえば分かりやすいだろうか。いずれも頼もしい者たちばかりで、最近では、ゲコガシラへと進化を遂げた者も混じっている。今までケロマツばかりであったのは、眠り続ける一族の祖に倣い、肉体の変化を敢えて止めていたことが理由らしい。ゲッコウガの方も、小さな池を新たな住処に選んだのは「大勢の子蛙を養うのは物理的に不可能」であるということを視覚的にはっきり示すためだったようで、全員は住めないから自分の居場所を自分で見つけにいけとケロマツのほとんどを旅立たせたのだった。
『 ルチャブル 』
呼ばれて振り返った際、大きなてのひらが優しい手つきで頭を撫で、冠羽を梳いていく。
『朝餉を用意した』と、ゲッコウガが木の実を差し出してくる。ありがたく受け取り、池のほとりにふたり並んで腰をおろした。少し離れた場所では、食事のひとときを部外者に邪魔させないようケロマツやゲコガシラが見張りとして立っている。今となっては見慣れた光景である。
薄紅の果皮に覆われたまるい木の実は爽やかな甘さで、瑞々しく、食べるだけで空腹だけでなく喉の渇きも癒されていく。舌触りも滑らかだ。あんまり美味しいので、ゆっくりと食べ進めた。ゲッコウガは『決して嫁を飢えさせはしない』とルチャブルに誓ってくれたばかりか、人間であったときの記憶を残しているルチャブルに配慮して、いきなり虫や小動物を食べさせたりはせず、抵抗なく口にできる木の実を選んでくれた。彼が採ってくる木の実はどれも美味しいものばかりで、今のところ食の不自由は何もない。今日はどんな木の実が食べられるのかな、なんて、心待ちにしているくらいだ。そして、…どんな木の実を食べても口に合うという事実に対し、何も気付かずにいるほどルチャブルは鈍感ではない。ゲッコウガはこちらの好みを知っているんだろうということは自ずと察せられた。百年前の、ルチャブルの好みを。
ゲッコウガとルチャブルが百年前にも番であったこと、かつて番を失った悲しみで彼が荒魂と化したこと、人の姿であれ番の生まれ変わりと再会できて嬉しかったこと…、ゲッコウガからは要点のみを掻い摘んで説明されている。必要以上のことは話さず、当時の思い出を語ることもないゲッコウガに対し、ルチャブルも詳細を知ろうとはしなかった。もちろん、訊けば答えてくれただろうけれど、正直に言えばまず訊くこと自体に気が進まなかったのだ。ルチャブルは何も覚えていないから、あのときは楽しかったね、懐かしいねなどと共感できない。だから、身に覚えのない昔話をされたって、きっと悲しくなるだけだ。百年前の自分に、今更、嫉妬したくもなかった。当のゲッコウガは、そのあたりの機微をよく心得ているらしく、以前のルチャブルと現在のルチャブルを比較するような素振りを微塵も見せなかった。かつての日々を思い出してくれと懇願してくることもなく、百年前の関係の再現を試みようとすることもなかった。
ルチャブルという名で、姿で、本来なら生まれてくるべきであった命だ。それは理解を越えた直感で、腑に落ちている。だからといって、ルチャブルは単に「過去の番の代理」というわけではなかったし、現に、ゲッコウガはあくまでも現在のルチャブルを認めて、愛してくれている。ルチャブルがさくらであったときのことを話題にして、あの頃に聞いた物語が面白かった、続きがあるのなら聞かせてほしいなどとこれまでに共有してきたものを軸にして接してくるから、新しく始まったふたりの関係に不安を覚えることはなかった。
『あとで花見にいこう』
木の実を探している途中で、百合が咲いている場所を見つけたから。花弁の色が違う百合が混ざり合って咲き乱れていて、だから、見せたくなった。そう言いながら目を細めるゲッコウガ自身が、一輪の花のようで、綺麗だ。彼の穏やかな声音が耳に心地好かった。
まだひとりで森の中を出歩くのは怖いので、池から離れるときは常にゲッコウガと一緒だった。手を繋いで歩き、知らない道をただゲッコウガに導かれるがまま進んだ果てに、野原に辿り着いた。風が吹き抜けるたびに葉が擦れてさらさらと音を奏でて、日当たりのよい、清々しい場所だった。風は、葉擦れの音を運ぶだけでなく、辺りに芳香を漂わせた。これこそが、まさに百合の香りだった。白い大きな花弁で存在感を放つ山百合、橙赤色の花に黒い斑点を散らす独特な風情の鬼百合、淡紅色で慎ましく身を飾る乙女百合。緑の葉にそれぞれの色が映え、見事な景観を作り出していた。
『綺麗だね』
誘ってくれてありがとう。
ルチャブルが笑うと、ゲッコウガも微笑みを返してくれた。
『これからも、ゲッコウガと色んなものを見れたらいいな』
彼が洞窟から解放されて外の世界に出てきたら、綺麗だと思ったものを一緒に見たいと願ってきた。ささやかな体験を積み上げて、かけがえのないものにしていけたら幸せだと思う。いつか、そこに子どもが加わる日もくるかもしれない。
―――子ども。
ゲッコウガは、百年前のルチャブルと共に子どもを作っていて、現状、ふたりの子孫は順調に数を増やして現在に至っている。通常なら決して見ることが叶わないはずの一族の末裔、その彼らを部下にするというかなり特殊な経験をしている真っ最中でもあった。
結論から言えば、ゲッコウガは「己の子孫を残す」という獣の本懐を既に遂げていることになる。だから、もしかしたら、彼にとって子どもは殊更望む存在ではないかもしれない。
でも、…今の私との間にも、
繁殖して栄華を誇る百合の花々を眺めながら、ルチャブルは不意に胸の内に湧いた切なさをこらえるのだった。
+++++
遡ることひと月前。
新しい住処を探すべく、ルチャブルを腕に抱いて野山を駆けるさなか――…ゲッコウガの足元を埋め尽くさんばかりにつきまとってくるケロマツたち。彼らがゲッコウガとルチャブルの血筋として百年の間連綿と命を繋いできた連中であることや、自分が漣蛙だったときに世話になった記憶があるため、露骨に態度に出して邪険にすることはしなかったが、元の冷淡なゲッコウガに戻っている今では、早速、ルチャブルとのふたりきりを阻害する因子として鬱陶しく思い始めていた。
何つーか、…当たり前みてーな顔してふつーについてくるなこいつら…。
ただ、せっかく心機一転の契機を得たわけだし、今までの自分のやり方に固執することを改めた方がいいのかもしれない。特に、部下を持つことでルチャブルの守りを厚くするということに関しては、一考の余地があった。
そうと決まれば、ふるいにかけるか。
一度決断すれば行動に移すのがはやいゲッコウガである。途中に立ち寄った森で美しい池を見つけたそのとき、こういう場所で暮らせたら楽しかろう、ルチャブルも気に入るはずだと口にした。すると、ゲッコウガの言外の意図を即座に理解した数体のケロマツが、身を躍らせて飛び出していき、先に池に棲みついていたポケモンたちを追いだしにかかった。瞬く間に横取りを完了させる手際の良さ、容赦のなさ、判断のはやさ、そして戦闘能力。ゲッコウガは池の奪取に関わったケロマツに合格を言い渡し、それ以外のケロマツには巣立ちをしろと促して、体よく厄介払いを果たしたのだった。横暴ともいえる仕打ちであったはずだが、驚くべきことに異を唱える者はなかった。むしろ、広い世界へと出ていけることに喜んだ者が大半であったと記憶している。他の場所で子を増やし、一族の更なる繁栄に寄与しますと張り切り勇んで跳ねていった。
一方のルチャブルはといえば、心身の安定に時間が必要なのか一日のほとんどを眠って過ごしていたのだが、一週間も経つ頃には起きていられる時間の方が長くなり、共に食事を摂ったり軽い散歩に出かけることができるようになっていった。
ルチャブルが人間であった当時、かつての真名が「
ゲッコウガが存命の状態でルチャブルだけが生まれ変わりを果たすという初の例外であり、どうやらバグが生じたらしく、通常では「転生後、ゲッコウガが保持している記憶はルチャブルに伝えることができない」という縛りが働いていたのだが、今回は百年前の事情――ふたりが恋仲であったことや、ゲッコウガがまつろわぬ存在に堕ちた経緯をきちんと話せた。
だからといって、安易に同情を誘ったり、百年前の思い出を
オレたちはかつてこんなふうに暮らしていたんだと言って、それで、どうするのか。その「かつての暮らし」とやらを再現するつもりはない。昔のルチャブルはこうだった云々と伝えて、今のルチャブルにそれらしい言動を強いるのはおかしい。
今のルチャブルも好き。それだけの、単純な話で済ませればいい。
ろくな弔いもできなかった代わりに、鎮魂として、この腕の中に舞い戻ってきてくれた今のルチャブルを幸せにしよう。共に生きていこう。そのためにも、とにかく、優先すべきはルチャブルへの支援。ゲッコウガの都合で彼女を人の姿から鳥の姿へ変化させたのだから、フォローアップは当然の責務である。
ルチャブルは自身に訪れた変化に対して嫌悪感を抱いておらず、それは大いに結構なことだが、ポケモンとしての生活に順応するための手助けを必要としていた。彼女が前向きに物事を捉えているために調整自体は順調に進んでおり、ゲッコウガとしても胸を撫でおろしているところである。
『身体の動かし方が全く分からないということはなくて、…勘を取り戻していく感じに近いかも。運動を続けていけばすぐにでも馴染んでいくんじゃないかな』
ゲッコウガが乞うたがゆえに、ルチャブルは努めて敬語を排しながら話してくれるようになった。当初、ルチャブルから『ゲッコウガ様』なーんて呼びかけられたときには正直グッとくるものがあったけど、主従関係を連想させる言い回しで倒錯的な興奮を覚えるのは嫌だったので、もっと気安く話してほしいと頼んでおいたのだ。
『そもそも武術を得意とする生態であったと聞いていますし、…聞いてる、し、…だから、いずれは戦うための身体の使い方とかもゲッコウガから教わりたいなって…』
相変わらず殊勝なことを言う。お望みとあらばどこまでも付き合う所存だ。共に鍛錬することも多かった間柄だし、手解きは任せてもらおう。
『それにね、…今は、私に気遣って木の実を探してきてくれてるでしょう?でも、それだけじゃダメなのも、分かってるよ。いつかは狩りをして、自分で血肉を摂取しないと。だから、なおさら、身体の使い方を覚えたい』
『…心がけは立派だが、焦らなくていいからな。捕食の際の殺生についても、抵抗感が拭えないならオレが獲ってくる』
実際、おまえが身重だ抱卵だと動けなかった間はオレが餌を用意していたし…という言葉は既のところで飲み込んでおいた(今のルチャブルが覚えていないことは極力蒸し返さないよう気を付けている)。
『おまえは猛禽だし、消化器官等は生肉食に適応している。だからといって、加熱したものを食べられないわけではない。肉を食べるにせよ、加熱調理をしたものがいいなら遠慮なく言ってくれ』
『ほ、…本当に…?』
急に肩の力を抜いて、ルチャブルは目に見えて安堵していた。口では頑張ると言ってみても、人間であったときの感覚が色濃く残る分、血の滴る生肉や臓物を食べねばならない日を思い描いては緊張していたのだろう。素直な反応を見せるルチャブルを微笑ましい思いで見つめながら、ゲッコウガは頷きを返した。
『鳥獣にはそれぞれの得意分野がある。たとえば、オレが水を操ることを得意とするように、火の扱いに長けた獣もいる。自分の異能を以て「食材を焼いて食べる」ことを日常的にやっているんだ。そういう手合いに、食材を分け与えることを条件にして交渉すれば、肉を焼くことくらい引き受けてくれるはずだ』
こうして、ルチャブルはどうありたいのか聞き出し、要望を叶えるべく行動していく中で、平時の生活は穏やかに営まれていった。ふたりで食事を済ませた後は、地理を把握するという実利も兼ねて森を散策して、時には飛ぶ練習をしてみたり、組み手に挑戦してみたり。人間であったときから様々な芸に通じていただけあって、ルチャブルは物覚えがよく、特に近接格闘に関してはゲッコウガの指導のもとでどんどん実力を伸ばしていった。そもそもが格闘タイプのポケモンということもあり、まさに「水を得た魚」である。誰かから押しつけられた技術を学ぶのではなく、自分から望んだことだからこそ習得へのやる気も漲るらしく、毎日が楽しそうだった。
ルチャブルが活き活きと明るく過ごしていることで、何となく周囲も感化されるらしく、ルチャブルが笑顔で話しかけるだけで相手の表情も明るくなり、たとえ初対面であってもすぐに打ち解けるのだった。森を歩く途中で出会ったポケモンと仲良くなることが多く、今なお交友関係を広げ続けている…のは、ルチャブルを独占していたいゲッコウガとしては複雑な気持ちではあるものの、ルチャブルの私生活の充実のためにも大目に見ることにしている。中でも、肉や魚を加熱するときに毎回世話になっているバオップとはもはや親友と呼んでも差し支えない間柄となっており、『私にとっての最初の友だちなの』とルチャブルがそれはそれは嬉しそうにしているので、己のつまらぬ嫉妬で水を差さないよう気を付けていた(ふたりの距離がやや近い気がしないでもないが、
ゲッコウガが生成した水の小刀を用いて、ルチャブルは獲物の皮を剥ぎ、肉や魚を巧みに捌く。その光景を目の当たりにしても『別に私が捌かれてるわけじゃないから』と顔色一つ変えない猛者。それがバオップであった。肉食ではないのに『何でも炙りたくなるよね~、美味しいし。私も木の実を焼いて食べるから気持ちは分かるな~』とルチャブルに共感さえして、出来上がったものを分かち合って食事を共にする場合もあった(それが木の実でなく肉であったとしても)。
ルチャブルがバオップと過ごすとき、ゲッコウガは大抵席を外す。女子会に野郎が挟まってもな、という配慮であり、代わりに気心知れた護衛をつけておくので抜かりもない。
『今日は、お土産を用意してきたの』
太い木の枝に隣り合って腰かけながら、ゲッコウガはルチャブルが取り出したものを見つめた。わざわざ
『モモンの実をくし切りにして、断面にミツハニーから分けてもらった蜜を塗って、焼いてみたんだ。すごくすごく美味しく仕上がって、だから、ゲッコウガにも食べてほしくって』
バオップも絶賛してたから味は確かだよ。試作品だからたくさんはないの、だから他の皆にはまだ内緒。ゲッコウガに身を寄せて、こしょりと小声で話して、悪戯っぽく笑って。そこにモモンの実と蜂蜜由来のあま~い香りが立ち込めれば、一から十まで「かわいい」一色である。
『ありがたくいただこう』と包みを開けると、濃密で芳醇な香りが一気に弾けた。絶対に美味いと確信させる匂いで、早くも口内では唾液がじゅわりと湧き出てくる。中身は二切れ。元は瑞々しかったであろう木の実は、加熱によってくったりとしている。だが、ゲッコウガは別の世界線で焼きりんごなるものを見聞きした経験があり、今回の焼きモモンも類似したものであろうと推察した。
さて、何にせよルチャブルの自信作とあらば楽しみだ――…そう思いながら口にした瞬間、反射的に目が見開かれた。
これが本当にモモンの実なのかと、ただただ驚愕するほかなかった。記憶にあるモモンの実とは違う、食べ慣れたその食感や味とはかけ離れた、それでいて新境地とでも言うべき、秘められていたポテンシャルを存分に引き出した結果が舌の上で踊っている。
単なる生食では知り得ない、意図的に調理したのでなければまず辿り着けない、それほどの心ときめく鮮烈な甘みだった。
『…ルチャブルはいつでもオレに新しい味を教えてくれるな』
焼いたことで酸味が飛んだのか、ひたすら甘味が凝縮されている。完熟した実を思わせる柔らかさであり、口の中で実が潰れるたびに果汁と蜂蜜が混ざって、極上の味わいが紡がれていく。喉の奥も、胃袋も、新たにやってきた美味の塊を歓迎していた。…無論、もっともっと味わっていたかったけれど、二切れは悲しいほどにあっという間で、朴の葉の上にはもう何も残っていない。
『食べ終わってしまうのが惜しくなるほどだった』
『よかった、気に入ってくれて。…ふふ、ゲッコウガが話す度にすごく甘い香りがするね』
ルチャブルがふわりと微笑む。彼女の顔が絶妙な位置にあったので、ゲッコウガはほとんど無意識のうちに距離を詰め、気付けば流れるように口付ていた。
ちょんと触れて、離れて、その瞬間にも口と口の境目でほわりと芳香が生じた。
ルチャブルは、一拍置いた後、事態への理解が追いついたのかぶわりと全身の羽を膨らませた。反応が鳥らしくなってきたなと思いながら見守っていると、ルチャブルはやっと絞り出したかのようなか細い声で『初めて、した』と一言を零した。
『甘い思い出にできたのなら何よりだ』
『…そうだね…、…こういうこと、…してほしいなって、ホントはずっと待ってた…』
今にも消え入りそうな様子なのに、しっかりと、ゲッコウガの心に爪痕を残すような殺し文句を放ってくる。相変わらず、胸中を搔き乱してくるのが上手い我が小鳥だ。
『寂しい思いをさせたか、…すまなかった。
おまえとオレとの関係、おまえの姿、生活環境と、あらゆるものが変わっただろう?おまえの心身が落ち着くまでは、その、…色事までむやみに上乗せすまいと考えてのことだった』
『うん、…ゲッコウガが配慮してくれてるんだろうなって分かってたから、私も言い出さないようにしてたんだけど…』
『だが、そうも愛らしい顔つきで「待ちかねた」と言われてはな…』
ルチャブルの腰に舌を伸ばしてそっと引き寄せ、互いの身体を密着させながら囁いた。
『おまえに手を出す許可をもらったと解釈するぞ。いいのか』
いよいよ羞恥が極まったらしいルチャブルは、こくんと頷くだけで精一杯だったようで、首を縦に振った後は抱き寄せられたままじっとしていた。彼女の身体は小さくて、温かくて、柔らかくて、愛おしさが募る。
この彩鷹の処女はオレが貰い受ける。彼女は、オレがこれから教え込む
晴れてすけべ解禁か。いや~、よかったよかった…と言いたいところだが頭をよぎるのは「卵」や「育雛」といった、世間一般では喜ばしい、しかしゲッコウガにとっては疎ましい以外の何ものでもない単語である。
ガキンチョ?
いや~、ビタイチいらないッスね。
と、言い捨てるだけならあまりに簡単なのだが、『私もゲッコウガの子どもを産みたい』と雄冥利に尽きる切実な訴えは、切実な眼差しは、ゲッコウガとの間に卵を望んでいた百年前のルチャブルのものとそっくりそのまま重なった。無下にはできない。
しっかし、…改めて振り返ってみれば、よくもまあこれほど子孫が増えたもんだと呆れてしまう。自分の周囲に集まっているのはケロマツだけだが、どんなポケモンとも異性であれば子作りできるこの世界のことだ、…「蛙の姿ではない子孫」や「この場にいないだけで各地に散らばっている子孫」も大勢いるに違いない。
すごくね?もう十分じゃね?これ以上こさえる必要ある?
必要ない、と断言できる。ゲッコウガの中では結論が出ている。つまり、「ガキは要らないんだけど嫁とヤりたい」というスタンスは百年前から変わっていないのだった(カスの思考)。
百年振りの交尾だからなあ、そりゃあ楽しみたいに決まっている。体を重ねたなら、きっと、そこに、あのとき失ってしまった彼女の温もりをも見出せることだろう。過去も現在もひっくるめて、二羽の小鳥を可愛がるつもりで抱いてやりたい。今すぐにでも。
さすがに百年もご無沙汰ならオレも枯れちゃってんじゃねーのと思ったこともあったが、そりゃ~もう見事に杞憂だった。ですよね。ルチャブルを前にして愚息が反応しないわけがないのだった。今までがっつかないようにしようと自重していただけで、『やべー…嫁が可愛すぎて滅…』となる瞬間はいくらでもあったし。
『今夜が初床だな』
予告すれば、嫁御殿は可哀想なくらいに顔を赤らめている。頬まわりの緑の羽も、翼と同じ紅に染まってしまいかねないほどに。
さて、記念すべき一発目はどこで楽しもうか。
安心して身も心も委ねられるような場所、思い返したときにうっとりとできるような場所、この
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『君、水の匂いがする』
黒茶の目をゆるりと細めて、バオップはルチャブルを覗き込みながらすんと鼻を動かしている。
昨晩、
そうか。
残り香がするほどに。
第三者から指摘されると余計に、繰り広げられた官能のひとときを思い出さないわけにはいかなかった。
誰の気配も感じられない森の奥で、仰向けになった昨夜。周囲が闇に閉ざされている分、眼前に広がる満天の星空が明るく思えた。根元から見上げる木々は、空に向かって伸ばされる黒々とした手に見え、まるで金平糖のような星を掴もうと躍起になっているみたいだった。そんな空想をするくらいに、瞬く星々の光は白く美しいものだった。
気恥ずかしいときは、星空の方へ意識を散らすといい。ゲッコウガはルチャブルに優しく言い聞かせてくれた。決して苦しい思いをさせないと約束するが、少しでも嫌だと感じたら話してほしい。必ず中断する。そう言って、あくまでもルチャブルを優先して、尊重してくれるのだった。
現場にはそこはかとなく芳香が漂っていて、その香りを嗅いでいるだけで不思議と心が落ち着いてくる。必要以上に緊張せずに済みそうだと伝えたところ、ゲッコウガによれば、フシギバナの香りの効果だろうということだった。この辺りにはフシギバナの寝床があるらしいから、そこから香ってくるのかもしれない、と。推測する口振りではあったが、これらは決して偶然ではあるまい。ゲッコウガのことだから、星がよく見える綺麗な場所や、心和ます香りの漂う場所を意図的に選んで、ルチャブルを気遣ってくれたに違いなかった。細かな配慮を忘れず、また、それを当然としてルチャブルを大事にしてくれるゲッコウガへの好意が、また一段と、深まっていく。
ゆったりと口付けを堪能することも、これまで誰にも触れることを許さなかった(それどころか自分でも触れたりはしない)秘所を曝け出すことも、何もかもが初めてで、勝手が分からないルチャブルを迷子にしないようゲッコウガが導いてくれたわけだが――…すぐに気付いた。気付いて、しまった。自分の肉体が、目の前の雄を待ち望んでいたことに。
行為のさなか、だらしなく蕩けた母音が涎と共に口の端からたらたらと垂れていく。
愛撫をされてあっけなく屈服して、みっともないほどに股を濡らして、いざ挿れられても身構えていたはずの異物感は全くなくて。凹凸が隙間なく埋まり、きれいに一体化した一対の雌雄。ルチャブルの心を置き去りにしたまま、不可解なほどに、肉体だけがどこまでも先行して快楽に悶えていた。そう、
そして、ゲッコウガの動きもまた、全てにおいて的確だった。どこをどう触ればいいか知り尽くしている。ゲッコウガに触られたところが、全部、全部、気持ちがいい。満足のいく完成度で技を繰り出せたときの爽快感、美味しいものをたらふく食べたときの喜び、そういったものとは全く異なる別次元の快楽だった。互いの間に獣じみた所作はなく、交尾と形容するような野性味もない。ゲッコウガは、丁寧で誠実な触れ方に徹していた。それでありながら、与えられる刺激は視界を白ませるほど鮮烈な感覚を刻む。このまま快楽に浸ってしまった先で、自分がどうなってしまうのか分からず、それが怖いのに、身体は善がりきっていた。もう、星空へ視線を向ける余裕はなかった。意識の全ては、ゲッコウガで占められていた。
私の身体は、百年も前からゲッコウガのことをずっと覚えていたんだ。ゲッコウガも、百年も前の抱き方をずっと覚えていたんだ。
初夜だったのに簡単に快楽を拾えてしまって、心と体の練度が食い違ったまま時が過ぎる。破瓜の痛みを知ってみたかった、なんて、贅沢なのかもしれない。ただ、既に抱き方が完成しているのなら今のルチャブルと新たな境地を探っていく余地はないのだと身を以て体感してしまい、それが、悲しかった。
その悲しみさえ呑み込む、塗り潰す、依存性の高い甘美な絶頂がいっそ恨めしい。でも、口から出てくるのは、恨み言ではなく声高な嬌声ばかり。切なさを内に秘め、そのくせ結局はゲッコウガとの睦み合いにのめりこんでいく。抑圧されていた里から森での暮らしに移り、その解放感からくる反動か、うら若いルチャブルが色事に耽溺してしまうのも無理はなく、初夜以降は暇さえあればゲッコウガを求めるようになって――…そんな日々を繰り返していればいずれ腹が膨らむのは必然だった。
――はらりと、翼の先に舞い降りたものがあった。
ほとんど白に近いような薄紅の花びらは、ルチャブルの赤い翼によく映えた。桜だ。顔を上げて辺りを見回すと、少し離れた場所に、桜の樹がそびえていた。あの枝から風に乗って花びらが運ばれてきたのだろう。ふと心惹かれて、ルチャブルは樹の根元に向かった。
満開だ。仰ぎ見る先は、桜の花で埋め尽くされている。
そして、この子も――…。ルチャブルは、今まさに腕に抱く、生まれたばかりの雛に微笑みかけた。
無垢な羽毛をふわふわと風にそよがせる一羽の雛。一目でルチャブルの同族と分かる鳥の姿だが、纏う色は大きく異なっている。瞳の色は父譲りの桜色。他にも、ルチャブルの持つ紅――鼻先や翼に広がる紅の箇所が、見事までに紺青へと置き換わっていた。父親の色を背負って生まれてきた雛を見るたびに、ふたりの子であることがありありと可視化されているものだから、抑えようのない多幸の想いが溢れるのだった。
母の感傷などつゆ知らず、雛はぷわあと暢気な欠伸をして、その際にちょうど一陣の風が吹き抜けていった。風に合わせて枝がざわめき、ルチャブルめがけてはらはらと花びらが降りかかってくる。
『 きれい 』
ゲッコウガにも教えてあげなきゃ。
密やかなルチャブルの呟きが、桜の花びらと共に散っていく。
『…何を、教えてくれると?』
すぐ傍で声がした。
隣を見遣れば、いつの間にやらルチャブルの影から出てきたらしいゲッコウガが立っている。
『今年の桜も綺麗だよ、ってこと』
貴方とこの景色を見たいと思っていたの。――たぶん、ずっと前から。
不意に目頭が熱くなってしまい、涙ぐんだことを悟られたくなくて、ルチャブルは目を閉じる。
これから、本当の意味で、百年前の続きが始まるんだ。家族が一所に集える幸せを想い、その永続を祈ったとき、一筋の涙がルチャブルの頬をつたうのだった。
【 了 】
【 補足 】
・衛兵たちについて
・ゲッコウガのお眼鏡にかなった者たちで構成されている。計8体。
・当初はケロマツしかいなかったが、後に全員が最終進化を果たす。
・気が利くし、万事においてそつがない。
・言わずもがな全員がゲコルチャ推し。「漣さく」からの生え抜きである。
縄張りの池はいわば人気物件なので、自分たちが追い出した元住民からのリベンジや新たな侵略者の襲撃に備えねばならず、攻防に勤しむ毎日。主たる
時折、ルチャブルの鍛錬に付き合ったり、彼女の護衛をしたり。ゲッコウガに比べればルチャブルの方が圧倒的に気さくなので、親しくしているようだ。
意外にも、木の実探しなどルチャブルの食事に関することは任せてもらえていない(ゲッコウガのこだわりゆえ)。
ゲッコウガとルチャブルの間にヒナが誕生して以降は、子育てにも嬉々として協力する。