※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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朧月は蘇芳色の夢を見る⑦

 

 蘇芳は、『チェスト』に属して各地を巡る生活や、闘魔の一員として活躍する場を与えられたことを早々と受け入れ、共に暮らす魔物たちと仲間意識を強めていった。

 華やかな見た目でありながら左頬の二本傷によって荒くれ者の印象をも与える蘇芳は、男性が大半である闘魔の観客にウケがいい。また、観客を魅せることを意識して動けるという元野良とは思えぬ器用さが高く評価され、蘇芳は極めて短期間のうちにスター選手へと上り詰めた。「肉体美の誇示に余念がない」「とどめの大技を出す前は必ずポーズを決める」なんて、野生界では反撃の隙しか生まない生態上の特性(弱点)も、闘魔では観客の視線を集めて選手にクローズアップする「見得」へと転じ、重要な演出として役立っている。観客にとっての見どころでもあるので、蘇芳がポーズをとれば「待ってました」と歓声が上がり、対戦相手の魔物も見得を切る間は空気を読んで暫く攻撃を控えることになっていた。

 もちろん、新入りの人気をやっかむ魔物もいて、蘇芳は意地の悪い仕打ちを受けることがあった。しかし、蘇芳のメンタルは生まれつき頑健であるからして、嫌がらせ程度で挫けるはずもなく、『俺にはこんなことをされる覚えがないぞ。言いたいことがあるならはっきり言え』と真正面から言い返すくらいには気が強かった。ラピスからも『力でねじ伏せてどちらが上か分からせるのが一番効果的な解決方法だぞ』と助言をされたこともあり、それはもう盛大な喧嘩をやらかして、取っ組み合いの果てにきっちりと落とし前をつけさせた。喧嘩に関してはニンゲンたちからこっぴどく叱られる羽目になったが、蘇芳としては意味のあることをしたと思っているので特に反省はしていない。蘇芳は単独で行動する生態の魔物であるが、こうして群れに交じって生活していくことになったからには、序列の上位にいた方が何かと都合がいいと考えていたし、今回の喧嘩は自身の強さをアピールするうえでも利用価値が高かった。手を出されたらやり返す魔物であることを知らしめ、実力で黙らせた甲斐もあり、以降、『チェスト』の中における蘇芳の立場は盤石のものとなったのである。

 

 認められてからは、他の魔物たちと打ち解けるのはあっという間だった。闘魔の会場を盛り上げるには対戦相手と息を合わせる必要があるから、日頃の信頼関係や共に鍛錬をした時間の積み重ねがものを言う。上手く連携するためにも親しいに越したことはない。

 舐められたら容赦はしないという一面があるだけで、普段の蘇芳は気さくであったから、揉め事さえなければ仲間作りは容易だった。そもそもが、転々と住処を変える暮らしをしてきており、行く先々で上手に馴染んできた魔物である。環境の変化には強く、順応する力も高い。いつしか『チェスト』の魔物たちとは同じ釜の飯を食う間柄となり、今日に至っている。

「飼われて管理されている」という現状も、身の安全と食糧が保障されている生活を考えれば些末なことだった。見知らぬ土地に行ける巡業は新鮮で楽しかったし、命懸けの殺し合いではない、娯楽としての戦いを蘇芳は面白いと感じるようになっていた。何より、己の身一つで観客を喜ばせ、喝采を浴びるときの高揚感といったら!聞けば、自分を目当てに会場へ足を運んでくれる客もいるそうで、それはつまり稼ぎに貢献しているということであり、皆の生活を成立させる手助けができているということだ。自分の働きが、身近な者たちの役に立っている。そのことに、蘇芳は確かな幸福を覚えていた。

 

 そして、現在。

 訪れたのはゲルド地方――大砂海と呼ばれるのも納得の、果てしない砂漠が蘇芳の眼前に広がる。『チェスト』と同じくカラカラバザールに向かうという隊商(キャラバン)と一時的に組み、野生の魔物を警戒しながら進んでいく。お気楽な観光気分ではいられないわけだが、それでも、途中に点在する遺跡や石像は勇壮に感じられたし、夜になれば月明かりに照らされて青く染まる砂漠が幻想的に見え、冷え込みを堪えてまで眺める価値のある景色だった。無論、極端に乾燥した空気や、日中に照りつけてくる陽射しの強さ、羽の隙間に入り込んでくる砂など辟易することは幾つも挙げられるのだが、実際にその場へ出向き、身を以て体験すること一つ一つが、蘇芳の心身を豊かにしてくれる気がしていた。一座に同行することで、蘇芳単身では決して見聞きすることのなかったものに出会える。旅先で得られるものを大事にしようと、いつも、思っている。

 

 滞在したカラカラバザールでの二週間も、これまでと同様、大いに盛り上がった。開催地の位置や周辺の環境を考えれば、およそ気軽に出かけられるような場所ではないはずなのに「闘魔を観るためだけにきた」という熱心な観客は大勢いて、初日から向こう、ずっと盛況続きだった。順調に稼ぐことができているためだろう、『チェスト』スタッフの顔も明るい。

 各日の最終試合、いわゆる結びの一番は蘇芳が出ることになって久しい。特に今日は千秋楽、この試合を以てカラカラバザールでの営業は終了となる。いっそう気合が入ろうというものだ。

 

「はい、いつもの水」

 

 世話役のニンゲンが小さなコップを差し出してくる。自身を落ち着かせ、改めて集中するための、試合前のルーティンだった。一杯分の水が蘇芳の喉を通り、身体中に染みわたっていく。ほんの少しだけひんやり薬が混ぜてあるおかげで、暑さに負けることなく戦い抜くことができる。立っているだけで汗が噴き出てくるような砂漠地帯において、この冷たさと潤いはありがたい限りだ。

 

「あとは、おまけ。団長からの差し入れなんだけどさ」

 

 世話役は、蘇芳の手のひらに、ころんと一粒を転がしてきた。そこにあると思わなければ重さすら感じないような、小さな小さな赤い粒。見た目はマックスドリアンそっくりだ。トゲみたいな小さな突起が、まんべんなく全面に、ぽこぽこと。

 

「コンペート?…って砂糖菓子なんだって。ほら、飴玉みたいにさ、甘いものを口に入れて、元気出して、最後まで頑張ってこいってことじゃないかな」

 

 あの団長が?

 失礼ながら、蘇芳は首を傾げる。どういう風の吹き回しなのだろう。団長とはそう接点があるわけではないが、『チェスト』に加わってから今に至るまで、印象はよくないままだ。稼ぎ頭となっている蘇芳に猫撫で声を出してくることを常々気持ち悪く思っていたし、スタッフたちに高圧的な態度で接している場面も何度か見かけたことがある。差し入れなんて気の利いたことをするような人物ではないから、こんなふうに唐突に砂糖菓子を渡されたって、感謝よりも困惑の方が勝ってしまう。

 それでも、この差し入れとやらを蘇芳が口の中に放り込んだのは、善意に満ちた世話役の微笑みを見て「まあいいか」という気にさせられたためだ。この世話役の青年は、数多くいるスタッフのうちの一人に過ぎない。しかし、闘魔に身を投じる魔物たちに対して、実に親身になってくれる数少ない存在なのである。嫌な顔一つせず魔物たちの小屋を掃除し、餌を配り、毛皮や爪の手入れを欠かさない。魔物の不調にはいち早く気付いて対応してくれる。誰よりも魔物を気遣い、誰よりも魔物を応援している。演じてどうにかなるものではない、しっかりした倫理観と優しさを持つニンゲンである。だから、もしこの差し入れに不審な点があれば、世話役は蘇芳に渡すことはしないはずだ。そういう信頼があった。

 砂糖菓子は、しゃりしゃりとした軽い食感で、極めて小さかったこともあり瞬く間に溶けていった。口内の甘い余韻まで飲み下して、蘇芳は、ばさりと翼を翻した。

 

 

「さァさ、皆様お待ちかね!いよいよ花形の登場だ!こいつを観なきゃァ帰れない!麗しの戦鷹アガット~ッ!!!」

 

 

 赤い翼に由来して、『チェスト』では瑪瑙(アガット)の名を与えられている。今や新しい名にも慣れた蘇芳(アガット)は、司会者の声に合わせて、会場内へ颯爽と翔けていく。

 静かな森暮らしを営み、狩られることを警戒して人里には近付かない魔物「ルチャブル」。『チェスト』の闘魔で初めて目にする観客は多く、蘇芳(アガット)の美しさに感嘆されるのはいつものことで、それが、蘇芳(アガット)の誇りである。

 見かけ倒しではないことを証明するための戦いが、幕を開ける。手始めに蘇芳(アガット)は拳に炎をまとわせ、対戦相手に飛びかかっていった。

 

 

+++

 

 

 ラピスは、己もまた人気のある魔物のひとりと自覚している。最も盛り上がる千秋楽の最終試合に必ず蘇芳(アガット)の相手になるよう組まれていることが、その証左であった。

 蘇芳(アガット)が加入してくる前は、ラピスこそが今の蘇芳(アガット)の立場だった。しかし、自らスカウトしてきた彼が、見込んだ通りに人気者になったことを嬉しく思っている。妬くことすら馬鹿馬鹿しく思えるほど、闘魔での蘇芳(アガット)は魅力的だったからだ。流石は私が選んだ一羽だと、そうこなくてはと、何度思ったかしれない。だからといって、単なる引き立て役になってやるつもりは毛頭ない。蘇芳(アガット)を輝かせるためにも、まずは対戦相手であるラピスが観客を魅せなければ。

 

 ――ラピスは、避けない。苦手も苦手な蘇芳(アガット)の炎のパンチを、真正面から受ける。思いきり左の頬を殴られたが、それでも、倒れたりしない。そりゃあ痛いに決まっているが、呻いたりもしない。不敵に笑んでみせる。おお、と会場がどよめく中、ラピスは殴りつけてきた蘇芳(アガット)の右腕を掴んで引き寄せ、そのまま彼の鳩尾(みぞおち)に雷パンチをくらわせてやった。バチバチとプラズマが弾け、火花が散る。遠慮なしに殴ったのはお互い様、これで痛み分けだ。無論、この程度で蘇芳(アガット)が行動不能に陥ることはなく、それどころか果敢に蹴り技を放ってきた。大した胆力だ。

 

『初手からえげつないな』

 

 蘇芳(アガット)から早速のクレームである。全く、どの口がほざくのか。

 

『腹パンて、…おまえさあ、吐いたらどうすんだよ』

『吐かないくせに』

『まあな』

 

 フィールドを汚して観客が興ざめするようなことは決してしない。それが蘇芳(アガット)だ。軽口をたたき合いながら、互いに臨戦態勢を整えていく。

 試合中に繰り出す技については、事前にスタッフから指示されている。ここぞという場面で見せるべき大技も指定されている。蘇芳(アガット)もラピスも、相手がどんな技を使うのか把握したうえで闘魔に臨む。ただし、どの技をどのタイミングで発動させるのか、それは魔物側に委ねられている。相手が次に出す技を先読みし、どのように受ければ会場が盛り上がるか考える――『チェスト』の魔物には、常に意図的な演出を意識して動くことが求められた。対戦相手は、観客を喜ばせるという目的が共通している同志でもあるわけで、刺激的な画作りのために協力すべき仕事仲間である。ラピスにとって、蘇芳(アガット)は、実力が近いこともあってかなり合わせるのが楽な相手だった。技を出す前の予備動作も分かりやすくしてくれるので、見栄えする演出の組み立てが容易である。日頃から蘇芳(アガット)とは過ごす時間が長く、「次の試合ではこんな動きを取り入れてはどうか」という打ち合わせめいたこともよくやっており、その甲斐あって試合は阿吽の呼吸で進んでいくのが常だった。

 

 ――そろそろ頃合いか。

 打ち合い蹴り合いが続く傍ら、ラピスは絶えず試合の展開を気にしている。戦いも中盤というときに、観客が飽きないよう蘇芳(アガット)が大技を出してくることは把握済みだ。技を出す直前に、彼が見得を切ることも。その瞬間を観客が心待ちにしていることも。見せ場を蘇芳(アガット)に譲っている間に、ラピスも技の仕込みを始める算段である。相手に見劣りしない技、今回指定されている中では波動弾が妥当だろう。溜めの要る技なので、観客の興味が蘇芳(アガット)に向いているのはむしろ都合がいい。そんなことを考えているうちに、ふと、相手の動きが止まった。ああ、想定より蘇芳(アガット)の動き出しが早かったな。タイミングを見誤ったか。ラピスが自身の動きを調整しようとした、そのとき、…目の前の相手から予想だにしない波動を拾った。

 

 くるしい

 

 思わず、波動を感知する己の房を引き千切りたくなるほどのノイズ。驚愕で目を見開くラピスは、何事かと蘇芳(アガット)を見遣った。ほとんど同時に、蘇芳(アガット)の口から叫び声が上がった。魔物にはどうやっても金切り声にしか聞こえないそれを、観客は雄叫びと受け取ったらしく、蘇芳(アガット)に歓呼の声で応じている。

 いたい いたい いやだと、張り裂けそうな気持ちを抱えているはずの蘇芳(アガット)は、突如として身を仰け反らせ、白い光に包まれていく。こんな現象は知らない、こんな演出は聞いていない――…ラピスは観客の更なる熱狂の他に、運営スタッフの明らかな狼狽の波動を感じ取っていた。やはり、これは身内にとっての異常事態(トラブル)だ。中断させた方がいい。そう思うのに、目の前の蘇芳(アガット)から目が離せない。

 

 発光が止むと同時に、姿を現したのは様変わりした魔物が一羽。

 

 しなる鞭を思わせるほど長さを増した冠羽がなびき、顔から上半身は通常と全く異なる金と黒の羽毛で覆われている。体格も見違えており、全身の筋肉が肥大して肉体が強化されたことが一目瞭然だ。この変貌も、観客の目には演出の一部としか映らないようだ。それが証拠に、観客の喜びようが過去に例が無いほどの有様となっている。息を弾ませ、手を叩き、拳を突き出して。彼らの歓声が会場内に木霊し、砂嵐のように渦を巻いている。やがて風にのり、ゲルド地方の端から端まで響き渡るのではないかと思わせるほどの大音量だ。

 こんなにも観客が熱烈に反応してくれたら、普通は魔物とて嬉しいばかりだ。この喝采のために生きているとすら思える。今の蘇芳(アガット)の姿にしても、醜悪とはまるで正反対なのだ。雄々しくて、煌びやかで。もしも自分が同じ姿になれたならきっと得意満面になる。もっと見てくれと、これでもかと周囲に見せつけることだろう。

 だが、実際には、何一つ喜べる状況ではないのだ。

 今もなお、ラピスに届く蘇芳(アガット)の波動は拭えぬ苦痛にまみれている。彼が悪夢のような状態にあることを、ラピスだけが正しく理解していた。

 どうすべきか熟考する余地はなかった。蘇芳(アガット)がラピスに覆いかぶさるように攻撃を仕掛けてきたためだ。ふたりは組みついた。腕を突っ張り、手と手をがしりと掴み合い、膠着状態となる。しかし、早くもラピスは窮地に立たされていた。完全に圧倒されている。ラピスの足が地面にめり込むほど押さえつけられている。

 何というでたらめなパワー!

 ラピスはゾッとした。これほど急激な変化、間違いなく肉体に尋常でない負荷がかかる。蘇芳(アガット)の波動が荒れているのも当然だ。強大な力を御しきれず暴走する可能性も高い。このまま蘇芳(アガット)が正気を失い、前後不覚に陥って会場内で暴れ回ったら大惨事となる。

 

 私が倒すしかない。

 

 そう思うのに、どこかで『無理だ』と分かっていて、ラピスの額には今、冷や汗が滲んでいた。

 

『おい、大丈夫か。どうなってる』

 

 絞り出すような声でどうにか問うと、幸いに『大丈夫なわけねーだろ』と、(憔悴した声音ではあるが)蘇芳(アガット)からまともな応答があった。この時点で、彼が膠着状態を敢えて作り出したこと、それによってラピスと話をする時間を稼いでいることに気付く。

 

『俺にも何が起きているのか分からん』

『心当たりは』

『試合前に妙なもん食わされたのが原因かもな。おまえも気をつけろよ』

 

 ひょいと爆弾を放ってくるのだから始末が悪い。

 とんでもない情報に頭を抱えたくなるが、今は精査する暇などない。代わりに舌打ちを見舞うのが精々だ。

 

『何つーか、たぶん、この状態は長続きしない気がする』

『勘か』

『勘っていうか、体感。体力が急速に減っていってる』

『試合は』

『続行だろ』

『…だよな』

『俺たちを観たくて金払ってる連中なんだし』

『そこを気遣えるあたり、おまえもすっかり闘魔の選手だな』

『おかげさまで』

 

 力と力で弾き合い、ふたりは距離を取って睨み合う(ように見せかける)。

 

『次はフライングプレスだ。どうにか対処してくれ』

『いつもみたいに受けるから心配するな。ここまできたんだ、遠慮なくやれよ』

『そうだな。頼む。今、俺、手加減とか繊細なことすんの無理』

 

 言うが早いか、蘇芳(アガット)は、どうっと地を揺るがすような力強さで真上に跳躍した。十分な高さに到達したあとは、空中で身体をひねり、回転を加えながら落下してくる。回転と落下のスピードで威力を増幅させ、標的にのしかかる技「フライングプレス」は蘇芳(アガット)の得意技であり、試合では必ず指定される大技でもある。

 手加減だと?ふざけたことを。そんな気遣いは結構だ。これまでに、いったい何度その技を受けてきたと思っている。…そう啖呵を切りたかったが、今のラピスは、鋼を複合する己の肉体強度を信じるほかない状況にあった。

 いつもみたいに受けるとは言ったが、「いつものフライングプレス」だと思わない方がいい。あの肉体から放たれる技なのだ、「流星群」あたりの規格外な威力と同等であると考えるのが妥当だろう。

 このあと、私は絶対に戦闘不能になる。そういう嫌な確信を抱かせるだけのものが、今の蘇芳(アガット)にはある。

 正直言うと勘弁してほしい。当たり前だろう。誰が気絶を歓迎するんだ。しかし、やはり避けるという選択肢はない。むしろこの身に相手の技を直撃させることこそ会場が望む展開なのだ。準ずるしかあるまい。それもこれも、会場を盛り上げるため。苦しみを抱えながらも試合の続行を選んだ蘇芳(アガット)に応えるため。彼がここで大技を決め、体力を切らしてくれたらいい。そうすれば暴走の懸念もない。試合時間は短くなってしまうが、決着としては派手だし、観客も満足してくれるはずだ。

 自分に向かって急降下してくる蘇芳(アガット)を見据え、ラピスは覚悟が揺るがぬよう、大きく息を吸った。

 

 

+++

 

 

 土煙の中から抜け出して、蘇芳は会場に向かって手を振った。変身は解かれ、見慣れたいつもの姿に戻っている。観客からは一際大きな拍手が送られ、口笛や賛辞なども聞こえてくる。蘇芳の身に起きたことが深刻なイレギュラーであったことに気付いた様子はない。蘇芳の変身は、観客にとってはあくまでも一時的な、そして特別な催しの一部と捉えられているらしく、場を白けさせずに何とか試合を終えられて、蘇芳は胸を撫でおろした。

 この安堵の気持ちを抱えたまま、すぐにでも、自分もラピスと同様に気を失ってしまいたい。それができたらどんなに楽だろう。そう思うのに、エンターテイナーの端くれとしては、どうしても無様なところを晒すわけにはいかないのだった。

 完全に白目を剥いてしまっているラピスを米俵のように肩に担いで、会場をゆっくりと見回しながら笑顔をふりまく。観客の上がりきったテンションを最後まで大事に扱い、せめて颯爽と見えるよう足取りに気をつけながら、堂々と見えるよう胸を張りながら、蘇芳はラピスと共に会場から立ち去った。

 駆け寄ってきたスタッフたちに、ラピスを預ける。あのラピスが失神するなんて、と、皆が一様に驚いていた。「今日は一段とヤバかったもんな」「あんな隠し玉があるなんて知らなかった」と口々に感嘆され、千秋楽の内容としてこれ以上ない有終の美だと褒めちぎられる中、一人だけ、例の世話役の男は青ざめた顔を隠そうともせず「体調は」と蘇芳を気遣ってきた。やはり、他のニンゲンよりも物が分かっている男だ。それに、責任を感じているのか、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 ある意味、この男も被害者なのかもな。

 そう思いながら、蘇芳は気にするなと伝わるようひらひらと手を動かして、世話役の前を通り過ぎた。

 

 早くひとりになりたかった。

 平気な振りをして強がるのも、もう限界だった。

 

 すれ違う者は皆、蘇芳にすごかったなと声をかけ、手を伸ばして頭を撫でたり背を叩いたりしてくる。今の蘇芳にとって、そのどれもが鬱陶しくてたまらなかったが、それだけ試合内容に満足している彼らの興奮に水を差せず、我慢を重ねるしかなかった。

 少しでも気を抜いたらその場に吐瀉物をぶちまけてしまいそうだった。気分は最悪だし、頭痛もするし、耳鳴りがひどくなってきた。全身の骨も筋肉も軋んで、怠くて、まるで自分の身体ではなくなったみたいだ。

 

 そう、確かに、試合のさなか、自分の肉体は乗っ取られていた。

 勝手な改造、尋常ならざる力。馬鹿にしている。自分が時間をかけて培ってきたものを丸ごと否定されたようなものだ。人工の紛い物で強制的に引き出された力など、どうして受け入れられようか。

 

 本来なら、この憤りを鍛錬の原動力にして昇華することもできたはずだ。しかし、意に反して脚が痙攣を始め、足元がふらつき、ついに身体を支えていられなくなった蘇芳は人気のないテント裏で膝をついた。次いで、ごぽりと濁った音と共に血反吐を吐き、その血だまりの上に倒れ込む。瞬く間に血に染まって汚れていく羽を気にすることもできず、そのまま意識を手放してしまった。

 

 

+++

 

 

 朧は、スッパに似て生真面目な性格である。闘魔は彼にとって娯楽とはならない。出場している魔物たちを具(つぶさ)に観察し、それが会敵したことのない種族であれば尚更で、彼らがどんな身体の使い方をするのか、どんな技を扱うのか、自分が彼らと戦うことを想定した場合どんな対処が可能か分析する。そういう魔物だ。

 しかし、今の朧は、生真面目とは程遠い状態にある。

 観戦しながら学べと総長からも言われていたのに、それこそが朧にとっての今回の主目的であるのに、ポスターを見た衝撃で全てが吹っ飛んでしまい、以降、気もそぞろであった。有象無象の試合を眺めたところで記憶にも残らない。朧の関心は、完全に、ポスターの中央に描かれていた魔物だけに向けられていた。いつ登場するのか。スター選手であればトリを務めるのだろう。嗚呼、早く他の連中の試合が終わってほしい。ポスターのモデルは蘇芳なのか。はたまた蘇芳と同一種族というだけの別個体なのか。それをはっきりさせたい。

 

 強い想いを抱えていただけに、判明のときを迎えた瞬間の朧は、爆発的な興奮に見舞われた。

 

 呼吸が浅くなり、心臓と胃が痛いくらいにぎゅうと収縮した。司会者が呼ぶ「アガット」の名に応じて会場内へ翔けていく魔物は、朧が求めてやまなかった蘇芳だった。見間違えるはずがない。今日に至るまで何度も思い返してきた姿だ。そして、あの夜に刻まれた左頬の二本傷。痛ましいが、しかし、彼を特定するための重要な特徴である。

 

 そうか。嗚呼、そうだろうな。御主ほどの魔物なら人気が出るのも頷ける。誰の目にも魅力的に映るだろうから。

 

 どこを探しても見つからなかったわけだ。野生の魔物であるという先入観が捜索の妨げとなってしまった。人と共に暮らし、団体に属し、各地を転々としていたとは思いもよらなかった。

 しかし、闘魔の在り方は蘇芳に合っていたのだろう。彼の楽しそうな戦い振りを見ていれば分かる。今、彼の対戦相手になっている魔物が心底羨ましかった。代われるものなら代わりたい。手合わせを願いたい。すっかり癒えて万全となった自分を見てほしい。逸る気持ちを必死に抑えながら、朧は目の前の試合を凝視する。

 

 蘇芳の一挙手一投足を見逃すまいと目で追っていたからこそ、彼が妙なタイミングで身動きを止めたことが気になった。

 戦いの流れを不自然に断ち切る「停止」の違和感。そして、次の瞬間、会場内に砕け散っていく蘇芳の悲鳴――…尋常でない鳴き方だった。蘇芳が光に包まれ、異様な変身を遂げたことからも何かよくないことが起こったのだと判断するには十分だった。

 一見すれば、変身後の蘇芳はマッシブで逞しい。立派な立ち姿であり、観客も喜んでいる。しかし、当の蘇芳は、苦痛を押し殺した顔つきをしている。木箱の隙間に潜む朧のすぐ近くで、運営スタッフと思しきニンゲンたちが「何だあれは」と困惑する様子も伝わってくる。彼らにとってもまた、予想外の展開だったらしい。

 

「何って、…進化だろ」

「でも、あいつ、図鑑には進化しない魔物だって…」

「…知るかよ。別にいんじゃね?客の反応もいいし、アガットも普通に戦えてるんだし」

「こういう仕込みがあるってのは事前に知らせてもらわんとなあ」

「どうせ今回も団長の思いつきだろ。手の込んだサプライズってことにしとこうぜ」

 

 朧が経験してきた進化とは違う気がする。確かに、進化のさなかに光を放つし結果として姿が変わる。蘇芳の身に起きた現象と共通点はある。だが、魔物に起こる進化とは、心身が高揚するものだ。決して苦しみを伴うことはないのに。

 それに、普段から蘇芳と生活を共にしているであろうニンゲンたちにしては目が節穴だ。普通に戦えている?どこが?苦しんで暴れ回っているようにしか見えない。何より、客の反応がいいことを理由に試合を中断させない彼らの判断に不信感が募る。聞き及ぶに、上層部も頼りないようだ。

 

 いっそのこと拙者が介入してしまおうか。

 

 そう思ったが、会場の中央で組みつく蘇芳とその対戦相手が互いに何かを囁き交わしているのを目撃した。ふたりが試合を放棄すれば話は早いのだが、どうやらその気配はない。彼らもまた自分たちの意志で試合の続行を選んだものと見える。…ならば、朧が余計な手出しをするわけにはいかない。事と次第によっては朧の行為は妨害という迷惑行為と化し、蘇芳を愚弄することになる。もどかしいが、部外者でしかない朧には、見守る以外は許されないのだった。

 

 蘇芳が試合中に倒れやしないかと気が気でない朧の目の前で、彼は、実に華々しいフライングプレスを披露した。何の心配もなく観戦を楽しめていたら、今日一番の興奮を得られたであろう名場面。実際、観客はそういう楽しみ方をしている。蘇芳の苦しみに気付くことなく、こんな大技を出しては心身に過剰な負荷が上乗せされたはずだと不安になることもなく、のんきに歓声を上げるだけだった。

 技の衝撃に伴って舞い上がった土煙が治まった頃、気を失った対戦相手を肩に担ぎながら、元の姿に戻った蘇芳が客席に向かって手を振った。割れんばかりの拍手に笑顔で応じたあと、蘇芳がゆっくりとした足取りで帰ってくる。堂々たる勝者の振舞いに見えても、歩みを進めるたびに脚が震えていることを朧は見逃さなかった。あくまで平気な振りをして誰にも自分の不調を悟られないようにしているのだと、最後まで客席を白けさせないことに徹したのだと知れて、朧の心は千々に乱れていく。

 

 隠れていた場所から音もなく抜け出て、朧は蘇芳を尾行した。目に見えてぐったりしている対戦相手はすぐに運ばれていったが、治療が必要なのは蘇芳も同じだというのに周囲のニンゲンはお気楽に彼を褒め称えるばかり。朧は苛立ちのあまり頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。蘇芳は声をかけられるたびに取り繕ったような笑みを浮かべつつ、少しずつ集団から離れていく。その気持ちはよく分かった。手負いの獣ほどひとりになりたがる。隠れてその身を癒そうとするものだ。

 やがて蘇芳は人影のないテント裏にやってきて、ついに、気を失った。ぱしゃりと液体のはねる音がしたのは、自ら吐いた血の上に蘇芳がそのまま倒れ込んでしまったため。朧が駆け寄って抱き上げると、蘇芳の顔色は失せ、ひゅうひゅうと隙間風のような掠れた呼吸を繰り返すばかりだ。

 今すぐに関係者をこの場に連れてくるべきだった。普通なら。だが、朧が呼びにいくことはない。…確かに、今の蘇芳にとって、ここは居場所であろう。仲間もいるだろう。それでも、蘇芳をこんな目に遭わせる組織は信用できない。

 試合中における蘇芳の変貌、あれは誰もが予期せぬことだった。観客はもちろん、闘魔に関わる身内さえ。きっと蘇芳自身も混乱の只中にあったはず。一時的な変化ではあったが、身体能力を大幅に向上させる作用があったようだ。試合を盛り上げるというためだけに、あの苦しみを強いられたのだとしたら?蘇芳も知らぬうちに諮られたか、…一服盛られた可能性だってある。朧は、現状から、蘇芳の身に起きたことの真相について中らずとも遠からずの結論を導き出していた。

 

 ずっと、再会を夢見ながら頭の中で蘇芳との模擬会話を重ねてきた。

 もし再会できたら、何と声をかけるか。どうやって自分のことを思い出してもらうか。気のきいたセリフの一つや二つは言えるよう知恵を絞って、…そんな時間さえも楽しかったのに。

 まさか、こんな形で蘇芳の身体の温もりや重みを知ることになるなんて。

 

『今度は、拙者が御主を助けてみせるでござる』

 

 まずは総長たちと合流しなくては。

 朧は蘇芳を抱き上げると、大きく跳躍してその場を後にした。

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