※この作品はR-18です。

雨風奇譚   作:はたた

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朧月は蘇芳色の夢を見る⑧

「はー…サボテンねえ…」

「旦那、ヒンヤリサボテンは見慣れねえですかぃ」

「身近なもんじゃねえな。ここいらの特産品か?」

「二、三年前から出回るようになったんでさ。前は収穫量が少なくってうちでもあんまり扱えなかったんですが、今年は当たり年らしくてね。たくさん入荷できて。最近じゃ、こいつを使ったスムージーなんて小洒落たものが娘っこに流行ってますよ。もちろん、そのままでもいけますぜ」

 

 ヒンヤリと名がつくとおりに、青くて丸いサボテンは見るからに涼しげだ。露店の主人は、積み上げられていたサボテンの中からひょいと一つを掴み、慣れた手つきで切り分けていく。いかにもサボテンらしい棘は、剥かれた表皮と共に処理されて、果肉のみが残される。緑がかった見た目に、ほのかな青臭さ。加工の過程を知らずに果肉だけを見たなら、サボテンよりも瓜だと思うかもしれない。

 試食にどうぞと渡され、くし切りにされた一切れの実を受け取った。矯めつ眇めつ眺めたあと、しゃくりと齧りつく。

 

「お!うまいな!ほら、おまえも食わせてもらえよ」

「はいよ、そちらさんの分」

 

 ヒンヤリサボテンは、凍らせていたわけでも、水につけて冷やしていたわけでもない。日陰に置かれていたとはいえ、ここは屋外、しかも気温は時間と共に上がる一方だ。通常なら中身も風味も劣化するはずだが、口に入れた果肉は驚くほど冷たかった。甘酸っぱく、瑞々しく、清涼感のあるこの食べ物が今まで流通していなかったなんて!

 

「…土産にしたい。この気温でも持ち歩けるか」

「カットせずに丸のままならもちますよ。ご覧のとおりに棘があるからさ、刺されんよう用心してくだせえ」

 

 懐の巾着から代金を取り出して、スッパが二つ買い求めた。隠密集団の巨漢は鳴りを潜め、そこにいるのはただの一般人。今は二人して、どこにでもいそうな中年男に扮している。顔立ちにも服装にも記憶に残るような要素がない、まさに「溶け込む」と表現するのが相応しい絶妙な塩梅だった。

 この店主にしてもそう、今は「まいどあり」と言いながらサボテンを紙袋に入れてにこやかに接客しているが、二人が去って数分もすればどんな風貌であったか忘れてしまうことだろう。

 

「旦那方も、やっぱ、あれですか。『チェスト』目当ての観光で?」

「そうなんだよ!ちょっとしたツテで、運よく木戸札が手に入ったもんだから」

「いやあ、羨ましいねえ。会場はこの店の目と鼻の先だってのに、オレには縁もゆかりもなくって。オレもいっぺんは観にいってみてぇもんです」

 

 他愛のない談笑のあと、スッパと共に人混みの中に紛れていく。辺りは騒がしく、ちょっとした会話程度なら、誰かに聞かれる心配もない。

 

「さっき買ったサボテンな。あれ、若い衆にも食わせてやろう」

「帰還後、予算を確認して急ぎ手配いたします」

 

 聞き慣れたござる口調も、変装中は封印だ。

 市井の一員として気ままにぶらついて、適当に買い食いして。行き交う連中も似たり寄ったりだ。どこまでも、単なる民草だ。この表現、言い得て妙だと思う。踏まれたって易々とはくたばらないしぶとさ。至るところに生い茂り、勝手に増えて広がっていく図太さ。民とはまさしく草だった。少し前までは、魔王の気配に怯えて萎れていたくせに、今ではどいつもこいつも笑っていやがる。かく言う俺様だって、女神が悪と判じるものそれすなわちイーガの正義なりと高らかに謳ってきたのに、このザマだ。このコーガ、けじめのために貴方(ガノン)様の後を追います…なんてこたァないわけで、むしろ積極的に討っちゃったわけで、それどころかこうして平和の恩恵に与かり、闘魔なんて娯楽に興じようとしている。

 

 戦を契機に、気付いてしまった。分かってしまった。

 俺様には、イーガ団(家族)がいればそれでいいってことに。

 

「楽しいなあ」と共感を求めれば、スッパは一も二もなく「はい」と首肯する。そこには些かの迷いもない。当然だと言わんばかりの口調が、嬉しかった。

 

***

 

 闘魔の会場に近付くにつれ、もう、すごいのなんの。

 試合開始はもう少し先だが、開場と共に観客がなだれ込んでくる。運営スタッフと思しき面々が、怒鳴り声を張り上げて、列を作って並ぶよう必死に指示を出していた。

 当然、観客から木戸札(入場券)を受け取る木戸番も大忙しだ。木戸番見習いらしい少年も手際よく札を回収しては客を座席へと案内し、ついでにつまみはいかがですか飲み物はいかがですかと売り込みも行っている。なかなかはしこい奴だ。

 何とか客席に座ることに成功し、ふうと息をつく。あいつらも首尾よく入れたかなと他の部下を思い浮かべながら会場内をぐるりと見渡すと、まあ見事に男ばかりで、むさくるしい(これだけいればゲルド族の男漁り(ヴォーイハント)が捗りそうだ)。

 タープの下とはいえ太陽ぎらつく屋外の会場内で野郎共とぎちぎちに詰め合って座る…これで暑くないわけがないのだが、ありがたいことにヒンヤリサボテンの効果が継続しているため汗一つかくことなく観戦できる。

 闘魔というものを知ってはいたが観るのは初めてで、さてどんなもんかと思っていたが、やはり百聞は一見に如かずだ。出会ったことのない珍しい魔物、ニンゲンにできない動き、技、そういうものが散りばめられたド迫力の戦い。脚本に沿った演出(やらせ)であるにせよ、…いや、演出だからこそ、確実にウケを狙ってくるので観ていて楽しい。こりゃあ人気が出るのも頷ける。稼ぎも相当なものだろうと俗なことまで考えてしまった。

 

 

「 さァさ、皆様お待ちかね!アガットの登場だーッ!!! 」

 

 

 司会の声に応じて魔物が飛び出してくる。紅い翼が軽やかにひらめき、瞬間、全客席から一斉に狂った音量の歓声が爆ぜた。音による振動で肌がびりびりと震えてしまうほど。

 最終試合で登場してきたことに加え、この周囲の反応。すさまじい人気振りだ。俄然、期待も高まる。

 

「あの魔物…」

 

 目を細めたスッパの表情が気になる。アガットとやらの戦い振りは前評判通りに見事だが、そこに感心しているわけではなさそうだ。「どうしたよ」と声をかけると、何やら左頬の傷が気になるのだという。

 

「…間違いありません。あれに助けられました」

「……、あー…、例の?マジ?」

「闘魔の団体に引き取られていたとは…」

 

 それなら、他の選手とは明らかに完成度が異なる奴の動きにも納得がいく。カースガノンを接戦の末に倒すことができる実力の持ち主とくれば文字通りに敵なしだろう。その腕っぷしがゆえに、俺様の部下は九死に一生を得ている。

 

 再度、熱を帯びていく試合に目を向ける。事情を知った今、因縁を知った今、舞台の中央で舞う紅翼の鷹がひときわ輝いて見える。最後にはしっかり勝ち鬨(かちどき)の咆哮を聞かせろよと激励する気持ちを込めて、声援を送ってやった。

 

***

 

「すごかったですね!試合中、オレ、ずーっと叫んでました!」

 

 集合場所に指定していた路地裏で、青年が上擦った声を出す。変装中により、面をはずして露わになっている――もちろん素顔ではない――その顔は、興奮で今もなお紅潮したままだった。普段は団内の部隊長を務めている奴だが、こうしてはしゃいでいるところを見ると余計に若さを実感する。夢中で観戦の感想を聞かせてくれる姿は微笑ましいし、連れてきた甲斐もあるというもので、実際、闘魔の試合内容はエンタメとして満点の出来だったといっていい…と、思う、…けれど。

 

 な~んか引っかかっちまうんだよなあ。

 最終試合中盤、例の鷹の、―――急変。

 ホントに予定されていた仕込みなのか?

 

 マジのトラブルだったんじゃねえの?

 

 ほとんどの観客は、試合中に突如として差し込まれたあの「変身」が演出の一環として疑わず、大いに盛り上がっていた。あれが本当に魔物の「進化」であったなら、試合中にそいつを拝むことになれば客にとってはこれ以上ないサプライズになるし、伝説の一戦と謳われるかもしれない(だが、永続する「進化」とは異なる一時的なものだったのでここでは便宜上「変身」と言っている)。

 何も知らぬまま観戦していたら、然しもの俺様とて「へえ、勇ましいこって」と吞気に感心していたことだろう。だが、そうはならなかった。俺様は見ちまったわけだ。観客とは別種のざわつき方をしているスタッフ連中を。あれはどう見たって「よっしゃ想定通りにウケてる!」と手応えを感じている顔つきじゃァなかった。絶対。思いっきり焦っていた。特別な訓練を受けている忍とは違うずぶの素人だから困惑も丸出し。俺様、ピ~ンときたね。ああ、想定外の出来事なんだなって。

 何より、試合中に木霊した悲鳴――…耳にこびりつくような、あの悲痛な叫び。

 あれを聞いてしまっては、以降、奴がどんなに奮闘してみせても無理をしているようにしか見えず、痛ましいばかりだった。隣の客席でスッパも微かに身体を強張らせていた。嫌なものを見聞きしてしまったという不快感が、雰囲気に滲んでいた。

 

 だもんで、思うところは一つだ。

 あいつをこのまま残してきていいのかねえ、と、いうこと。

 

 何つーか、虐待されてんだろーなあと察せられるガキとすれ違ったときみたいな後味の悪さ。助けられるもんならそうしてやりたいが実際には何もできないし、その場限りで金を握らせようが食い物を奢ってやろうが慰めの言葉をかけようが「自分が何かしてやった」気になりたいだけで根本的な解決は全く図れない、あの虚しさ。

 後ろ髪を引かれてもやついていたまさにそのとき、頭上から影が降ってきた。血の匂いと共に。

 

「うおぉっ!? 朧、おまえいきなり…」

 

 何しとんじゃい、なんて言葉は続かない。その場にいた一同、しんと静まり返ってしまった。路地裏で騒いで目立つのは避けたいだとか、そういう理由からじゃなかった。誰もが、朧の腕の中にいるものを見て固まってしまったのだ。

 今まさに話題の中心にいた鷹の魔物である。

 口元と胸の白い羽毛には、赤いものがべったりと。派手に吐血したらしい。闘魔会場で見た姿からは随分とかけ離れたその弱々しい有り様に目を見開くことしかできなかった。

 

「…おまえさー…、そっか、…そっかー…攫ってきちゃったかー…」

 

 ややあって、俺様は頭を抱える。だってそうだろ、どうすんだこの状況。

 スッパが気付いたんだから、朧の方も、恩ある魔物が試合に出場していることに気付いたに違いない。…で、こいつも、俺らみたいに、試合中盤の鷹の「変身」へ違和感を覚えたのだろう。独自に試合後の鷹と接触を試みて、奴が血を吐いて倒れたからここへ連れてきた…みたいな流れか。

 隣を見遣れば、スッパは相棒のやらかしを前に、ものすごく気まずそうにしていた。周りも何と声をかけていいものやら迷っているようだった。朧は「スッパが魔物になったらこんな感じになるんだろう」と思わせるくらい主人(スッパ)に似た生真面目な奴で、今まで一度も、指示から逸脱することや勝手な自己判断で動くことはなかった。それが、こんな、…ねえ?

 

「その…こやつも隠密の端くれで…、…攫うにしても秘密裏であったかと…」

「希望的観測だな」

「……面目次第もござらぬ……」

「今頃は騒ぎになってるかもな。…まあ、さすがにイーガ団(俺ら)の関与が疑われるまではねえだろ」

 

 鷹に近付き、その口元ですんと鼻を動かしてみる。

 

「妙な臭いがしやがる。…毒物の類か…?」

 

 毒と聞いて俄かに気色ばむ連中を後目に、俺様はううむと考え込んだ。

 ちょっとたんま、毒って結論は性急すぎたかも。こいつは稼ぎ頭だったはずだしな。殺してどうするよ。

 やっぱあの一時的な変身…否、強化が正しいか、あの現象を無理に引き起こすような何かを投与されたと考えた方が筋は通りそうな気がする。

 

「何はともあれ、本丸に探りを入れないことにはどうしようもねえな。スッパ、行くぞ」

 

 反射的な速度で「御意」と言うスッパは通常運転だが、他の部下たちは「コーガ様が直々に…!」と驚きを露わにしている。あら?そんな驚く?た…たまにはな…俺様だって若い衆に任せっぱなしには…ゴニョゴニョ…。

 コーガ様の御手を煩わせる必要はございません自分がやりますと挙手してくれた者もいたが、…そういう気概はありがてーんだけれども、俺様の右腕(スッパ)が世話になった奴の一大事とくれば話は別だ。

 

 報恩すべき相手が意図的に傷つけられたってんなら、それ、ふつーにムカつくし。

 

「何がどうしてこうなってんのか分からんからもう対処療法しかないな。この鷹、無理に吐かせたりすんなよ。呼吸に気を付けて、なるべく水を飲ませとけ。

 詳細は後から説明するが、イーガ団はそいつに恩がある。身内だと思って出来る限りのことをしてやれ。アジトについたら医療班に繋いどけよ」

 

 朧は鷹のことで頭がいっぱいという感じで、いかにも気忙しい様子だ。今のこいつは使い物にならんなと判断するには十分だった。

 

「おい、月白」

 

 呼べば即座に出てくるのが奴の長所だ。まさに忍の鑑とでも言おうか、どれほど至近距離であろうと見事に潜んでまるで気配を悟らせない。現に、いつからいたのだか、奴はすぐ傍の物陰からぬるりと出てきた。

 

「スッパと一緒に帰るから俺様の護衛は心配すんな。おまえはこいつらと帰って、途中で魔物が出たら駆除してくやってくれ」

 

 頷きを返しながら月白もまた朧を一瞥し、次いで、舌打ち。俺様と似たり寄ったりな判断を下したのだろう。

 

「はい、…ってなわけであとは時間との勝負だから。散!」

 

 パンと手を叩くと、全員がぼふんと札を残して一斉に去っていった。切り替えが早くて結構。部下が優秀だと楽ちんだぜ。

 

「さて、っと…鬼が出るか蛇が出るかだなあ」

 

 ぐるぐる腕を回して意気込みながら、二人でもう一度、闘魔のテントに向けて来た道を引き返した。

 

 

 

+++

 

 

 

 オレの勘違いかもしれないと思って、団長から貰った差し入れのことも、それを口にした所為でアガットがおかしなことになったんじゃないかって推測も、まだ誰にも話していない。

 とにかく、まずは、アガットの体調を確認しなきゃ。そう思うのに、少し目を離した隙にアガットの姿を見失ってしまって、だから、こうして探し回っているけど、…こんなに時間をかけてるのにあの派手な羽の一枚も見つからないのはどういうわけなんだ。胸騒ぎばかりが強まって、動悸がしてきて、息苦しい。

 

「何か探し物ですか?」

 

 不意に声をかけられ、びくりを肩を揺らしてしまう。

 振り返ると、そこには少年が一人。普段は木札番の助手をしている子だ。オレよりも随分と年下なのに、最近どんどん身長が伸びていて、背丈だけならほとんど大人同然だ。そばかすの散った顔は笑うと人懐こそうな愛嬌が出て、物怖じせずはきはき話せるし、緊張しいなオレと違って接客業に向いている。接客業に適性があるってことはよく周りを見ていて気が利くってことだから、今も、オレがうろちょろしてるのを気にかけてくれたんだろう。

 

「さっきから、思いつめた顔で歩き回ってるでしょ?手伝えることがあるなら言ってください」

 

 そうか、表情にも出ていたか。子どもに心配されるなんて恥ずかしい。

 

「そんなに、…暗い顔してたかな。いや、大したことじゃないんだよ。アガットを探してるんだ」

「アガット?」

「オレ、試合後はいつも羽や爪の手入れをしてあげてるんだけどさ、今日はまだなんだ。今回はいつにも増して動きも激しかったし、相当汚れただろうから気にしてるはずなんだけど…」

「そういうことでしたか」

 

 特に疑問に思うこともなかったようで、少年はあっさりと頷いてくれた。

 

「じゃあ、オレも探しときます。休んでるラピスを気にして見舞いに行ってるかもだし、今から確認してきますよ。見つけたらすぐに知らせますね」

「頼むよ」

 

 その場の空気を明るいものにしようとしてか、去り際に、少年は屈託のない笑みを浮かべた。

 

「それにしても、今日のアガットは冴えてましたね!お色直しの手品も盛り上がってたし。あんな演出があるって分かってたら、もっとお客さんに宣伝しといたんだけどな~」

 

 手品。無邪気な発想だ。実際、それ以外にないだろう。誰が事故を疑う?サプライズに客は喜び、興行も大成功。スタッフ間の事実はそれだけなのだから。

 

「あの手品、これからウチの新しい目玉になりそうですね」

「…そう…だね、うん…。団長次第じゃないかな…」

 

 言ってしまってから、はたと我に返った。今、無意識のうちに意味深なことを口走ってしまったんじゃないか?会話の流れはおかしくなかったか?反応が気になって思わず少年を凝視してしまったが、彼は笑みを崩していない。「ああ、そっか。それもそうですよね」なんて当たり障りのない返事をして、今度こそ、ラピスが寝かされているであろう治療室の方へ向かっていった。

 

 

 

 ――…おやおや、一人だけ様子のおかしい奴がいる。つついてみたら、案の定だ。な~んか事情を知ってるくさいな。

「団長が黒幕ってやつかね。推理小説にもなりゃしねえ」

 少年らしからぬざっかけない口調の独り言が、誰に届くでもなく虚空へ消えていく。

 

 

 

+++

 

 

 

 面倒事を予感し、人払いを済ませ、一人の男の入室を許可した。話せる環境を作ってやったというのに、胸の前で不安そうに帽子を握りしめて俯きがちにこちらを見てくる飼育係はとても成人には見えず、思わず鼻で嗤ってしまった。

 

「用件は手短に頼むよ」

 

 促すと、握りしめているその帽子に更に深くしわが寄った。ただのくたびれた帽子が勇気をくれるでもあるまいに、縋りついているみたいで実に滑稽な眺めだった。

 

「あの、…あの、っ、オレ…、アガットのことで…」

「大盛況だったなあ?さすがは『チェスト』の看板選手だ」

「そ、そんなことを言いに来たんじゃありません!」

 

 みっともなくわなわな震えながら、どうせどもるくせに、男は声を荒げてみせた。少しも怖くないところにいっそ哀れを催してしまう。

 所詮は魔物の世話くらいしか取り柄のない男、…人間相手にはいつも自信がない腑抜けである。

 

「血を吐いてました!血を!試合のあと、テントの隅で倒れてた…」

「…何だと?」

「みんな大騒ぎですよ!試合のときには元気そうだったのにって!こんなに急変するなんておかしいって!…オレ…こんなことになるなんて…」

「私だってそうだよ。こんなことになるなんて知らなかった」

「そんな!だって!」

「あ(・)の(・)薬(・)は魔物の力を強化するものだと聞いていた。動きが派手になってより盛り上がればと思ってのことさ、副作用なんてこちらとしても想定外だ」

 

 懐いている飼育係から与えられれば抵抗なく口にするだろうという目論見は当たったが、…くそ、粗悪品を掴まされたのか?忌々しい。

 

「まあ、…こうなった以上は仕方あるまい。魔物の替えはきく。人気者にしたって、別にアガットが全てじゃない。他にも華のある奴はいるしな。

 分かるだろう?これからが忙しくなるんだ、些事には構ってられんよ。アガットのことはそっちで適当に処理をしておいてくれ」

「些事って…」

「私のビジネスで飯を食っている身の上でありながら意見するとはおこがましいぞ共犯者くん。

 考えてもみたまえ、あれだけ派手なパフォーマンスだったんだ。観客は他に話したがる。すごいものを見たと自慢したがる。口コミが伝わって更に客が増えることだろう。ただでさえハイラルに娯楽は少ないのだから、尚更だ。起爆剤になってくれたアガットの尊い犠牲には感謝してるさ」

「まさか、…これからも薬を使う気ですか!危険性を承知で!?」

「いちいち消耗品に情を寄せるな、おまえの悪い癖だぞ」

 

 あとはよしなにと言って切り上げるつもりだったが、「やってらんね~」などと、一切予想していなかった言葉が返ってきたので相手をまじまじと見つめてしまった。

 先程まできゃんきゃん煩かった男は、一転、同一人物かと疑わしくなるくらいに冷めきった目をこちらに向けてくる。

 想像できるだろうか。見慣れた男から誰とも分からぬ他人の声が発せられた恐怖を。

 

「鎌をかけるまでもなかったな。勝手に語るに落ちて。…スッパ、取り押さえろ」

 

 全く理解しがたいことに、背後から、太い二本の腕がぬっと突き出てきた。叫ぶ間も与えられず、気が付けば椅子から引きはがされ床の上に押さえつけられていた。圧迫されて内臓が破裂するのではないかと危ぶんでしまうほどに体重をかけられ、身動きはおろか呻き声一つ出せないでいる。

 見慣れない仮面で素顔は隠され、赤い装束を纏い、淡々と命令に従う巨漢。鍛え上げられたその肉体と、力尽くの拘束に手慣れた様が、どう足掻こうと勝ち目がないことを分からせてくる。

 

「それで~?その『おくすり』ってのはどこにあるのかな~っと」

 

 こちらもまた慣れた手つきで周囲を物色し、まるで端からそこにあると知っていたかのような容易さで薬の隠し場所を暴いてしまった。

 

「ハ、しゃらくせえな。金平糖に見せかけてんのか」

 

 普段は気弱なあの男がおよそ見せるはずのない侮蔑の視線、それが矢のように鋭く射貫いてくる。

 この時点で自分の辿る末路がろくなものではないことを予感してしまい、冷や汗が止まらなくなった。だが、どうすることもできない。全ての主導権はこの不審者たちが握っている。

 

「現物の入手よーし。参考人の拘束よーし。撤収!」

 

 場違いなほどのおちゃらけた声が、かえって狂気を際立たせ、生きた心地がしなかった。

 

 

 

+++

 

 

 

「で、これからどうすっかって話なんだが」

 

 総長に筆頭――両者は肌に馴染んだいつものイーガの格好に戻り、サダイジャの引っ張るそりに揺られながらアジトへの帰途についている最中だ。

 そりの端には、二人の他にもう一つ、時折もぞもぞと動く麻袋が転がっている。アジトに到着する頃にはだいぶ弱っているだろうが、死にはしないだろう。必要な情報を搾り取るまでは、きちんと生かしておくつもりだ。

 

「何から手を付けていこうか…。ほれスッパ。適当に挙げてみろ」

「まずはこの男が薬を入手した経緯…、いつ、どこで、誰から手に入れたのか確認し、同じ手順を踏めば我々でも入手が可能か試すでござる。続いて薬の価格、世間での知名度、浸透の程度などを調査すると共に、イーガ団の総力を以てすれば、売人の捕縛と販売経路の把握、薬の製造元を突き止めるところまでは短期間のうちに完遂できるかと」

「よっしゃ、それでいこう」

 

 おまえがそう言うなら間違いはないと信頼しての…というか、丸投げというか…。出された書類に大して目を通さないまま印鑑を押すようなものだがイーガ団の日常は一事が万事こんな調子で回っている。そして、実際に、それで何とかなってきた(ので、大雑把なところがなかなか治らない)。

 

「薬を破棄するのか、我々が利用するのかで更に対応が変わってきますが…、コーガ様はどのような心算でござるか」

「今のところは後者にしようかと思ってるぞ」

「つまりは、横取り…」

「そうだな。悪漢共をとっちめて、あとはまるっと成果をせしめてやろうぜ。

 現物は手に入ったから、あとで解析させよう。ついでに、その結果次第じゃあの鷹の治療にも役立つかもしれねえ」

「コーガ様…なんと慈悲深き御言葉…!」

「だろ~?さすがは俺様だろ!な!」

 

 問答無用で拉致してきた人間を同乗させておきながら、まるっと存在を無視して、身内同士で和気藹々ときな臭い話題を楽しんでいく。

 

「あの薬、魔物の能力を強化する代物なんだろうが、それにしちゃあ効果の持続時間が短けぇよな。身体への負担もヤバいときてる…、まだそういう段階の薬ってことか。

 こんなもん開発する輩の気が知れねえが、…いずれは強化した魔物で軍隊でも作って国家転覆を狙おうって腹なのかもな。そういうの全部めんどいから、薬はイーガ団で独占しちまおう」

「…ならば、販路拡大を阻止するための工作が急務」

「そうそう。片っ端から潰さねえとな」

「独占が叶ったあかつきには?」

「う~ん、…そうさなあ、…次は俺らが厄ネタを売り捌く…ってのはナシ。どのみち、もっと研究して品質を上げねえと売り物にならんからな」

「品質向上というのは、…より高い効果、服用時の負担軽減、…ヒトへの転用でござるな」

「お!そこに気付くとはやるなあスッパ!

 ドーピング済みの魔物で代理戦争させるっつーのは確かに楽だが、…御しきれなかったときのリスクを考えるとむしろデメリットの方が大きいんだよな。強化した魔物が暴走してみろ、もう終わりだ終わり。その点、不測の事態でもまだ対処ができそうなのはニンゲンの方だからな(最悪、殺せばいいし)。ニンゲンに使える強化薬ってのは研究して損はなさそうだ」

「その手の薬は軍事利用されると厄介でござるが、例えば魔物から襲われた際の生還率を上げるために己の強化を図って窮状を切り抜ける…ということなら十分に価値があるかと」

「新入りに持たせればいいよな」

「近頃コーガ様が興味を持っておられる地底の調査にも有用でござる。未踏の地、未知の魔物を相手にする場合には心強い薬となりましょう」

「考えるだけでどんどん楽しくなってくるなあスッパ!」

 

 わっはっは!と高らかに笑ったあと、総長は人差し指でちょいちょいとスッパを呼び寄せ、互いの顔を近付ける。

 

「この際だ、『チェスト』も乗っ取るぞ」

 

 いたずらっ子のようなおどけた口調で、しかし、スッパの耳元で囁かれた内容には不穏なものがたっぷりと詰まっている。

 

「実際に観てよく分かった。あれはこれからも先細りせずに金になる」

「…経営陣の挿げ替えを…?」

「そうだ。おまえも困ってたろ、資金繰り。『チェスト』が手に入れば問題解決だ」

 

 金があればもっと団員たちの生活もよくしてやれるなあ!

 総長の囁きはどこまでも晴れやかだ。

 

「まずは団長に成り代わる幹部を見繕って…、そのあとは少しずつ構成員も潜り込ませて…」

「内部からの穏(・)便(・)な(・)乗っ取りでござるな」

「そういうこった!ほら、魔物の世話をしてみたいって若い衆は多かったろ?そういう奴らに声かければうまい具合にいけると思うんだよなあ」

 

 西日が強くてまだ暑ィな。スッパ、さっき買ったサボテン切り分けてくれよ。

 どこまでも飄々と、総長の軽やかな笑い声が砂漠を渡る風と共に響いていく。

 

 

 

+++

 

 

 

 団長がいないと分かっても、副団長は慌てた素振りの一つも見せなかった。

 撤収作業を済ませたスタッフを集めて団長の不在を話すときも口調は冷静で、「よくあることだし、おまえたちも気にするな」と落ち着き払っていた。団長どころかアガットもいないのに、そのことに気付いているらしいスタッフは少なくて、しかも副団長が何の事件性も感じさせない物言いをするから誰もざわつかなかった。千秋楽を無事に終えた安堵の方が勝って、皆、緊張の糸が切れている様子だったし、深刻に捉えることができなかったのかもしれない。

 

「予定通りに、明日発つ。今夜は各自好きに過ごしてくれ。…屋台に繰り出すのも止めはしないが、くれぐれも粗相のないようにな」

 

 お疲れ様でしたと挨拶もそこそこに、スタッフは方々へと散っていく。今夜は飲むぞ~なんてはしゃいでいる始末だ。

 オレはどうしてもそんな気になれなくて、一座の面々が去ったことを確認したあと、副団長に近寄った。

 

「あの、すみません。アガットの件で…」

「…いないんだろ。おまえ、探してくれてるんだってな」

 

 ここで初めて、副団長は強張った表情を見せた。

 

「ゲルド地方での興行は過酷だからな。スタッフの疲労はいつもとは比べものにならない。疲れてる所為で頭が回ってないから、オレの話に突っ込んでくる奴もいなかった。…だが、おまえは薄々勘づいてるんだろ。試合中に様子がおかしかったアガットのこと、その後の行方不明、おまけに団長の行先も分からない…何か裏があるのは間違いないが、何の手がかりもないから正直お手上げだ」

 

 心身共に余裕のあるスタッフなどいないから、これから土地勘のないバザールや砂漠を探して回るのは現実的ではない。とりあえず明日まで待って、出発までに事態が動かなかったら、それからまた考えると副団長は力なく肩を落としていた。

 かく言うオレも、…アガットが心配だったのは本当だけれど、砂漠特有の極寒の夜を前に身動きが取れず、結局はそのまま一夜を明かすことになってしまった。一睡もできなかった。アガットの無事を祈る傍ら、知らず知らずのうちに片棒を担がされたらしい自分のことが情けなくて、罪悪感が込み上げて、眠るどころではなかったのだ。

 

 一縷の望みに縋っても、やっぱりどうにもならなくて、朝になっても団長は帰ってこなかったし、アガットも見つからないままだった。

 今日も今日とて晴天で、手加減のない陽射しが空から照りつけてくるが、空模様とは対照的に、さすがに団内ではどんよりとした雰囲気が漂い始めていた。非常事態の収め方が分からず、スタッフの間に不安が広がっていく。

 

 本当は午前中には出発するはずだったのに、副団長が必死に商隊と交渉して正午まで延ばしてもらった。そして、この苦肉の策が、良くも悪くも新たな展開に繋がった。

 

 もうこれ以上は待てない、今すぐにでも発つ。そういう段階になって現場がピリピリしていたときに、来訪者があった。

 カラカラバザールの守衛たる女兵士たち、そして、すっかり見る影もなくなった団長である。

 褐色の肌、彫の深い顔立ち、そして風になびく赤髪はゲルド族特有の身体的な特徴だ。長身かつ屈強な二人の女兵士(ゲルド族)に連れられた団長は縄打たれ、あまりにわかりやすく、罪人として成り下がっていた。

 

「手短に話す。尚、この男の連行は覆らないことを念頭に置いて聞いてほしい」

 

『チェスト』のスタッフを前に、守衛は厳めしい威圧感を四散させながら切り出した。

 ――話によれば、闘魔のイベントに合わせて多くの観客が詰めかけることに便乗し、このバザールに違法な薬物を売りさばく不届き者が紛れ込んだのだとか。よって、売人はもちろん、買った者も、薬物違反で捕縛して回っているのだという。

 

「その薬というのが、魔物をみだりに狂暴化させるという極めて悪質なものだ。最近になって王城からもお触書が回ってきたから、我々も警戒していたところだ。此度、見ての通り、おまえたちの上司は捕縛対象となった。禁薬購入の廉(かど)でな。押収した薬の現物と共に、被疑者として引っ立てる」

 

 魔物の狂暴化――すなわち、異常。心当たりしかない。重苦しい沈黙が、この場にずしりとのしかかってくる。

 

「…次の興行はどこで?」

「王都です」

 

 副団長が答える。毅然とした態度から、自ずと彼がサブリーダーであることが守衛にも伝わったようだ。彼女は軽く頷きを返してから「追って沙汰する」と告げた。

 

「おまえが今の代表と考えていいな?」

「はい」

「では、しばらくはおまえが指揮を執ればいい。『チェスト』関係者で薬を買ったのはこの男だけだということは調べがついている。おまえたちはひとまず王都へ向かえ。砂漠に縁のない者をいつまでも逗留させたところでミイラが出来上がるだけだからな」

「承知いたしました。…皆様を騒がせ、大変なご迷惑を…、心よりお詫び申し上げます」

 

 彼女らから語られた内容は、団長を見限るのに十分過ぎるもので。頭を下げる副団長を見つめた後、僅かに、守衛が目を伏せた。

 

「…あとは、これを」

 

 差し出されたものを目にした瞬間、オレは全身を巡る血という血が凍るような思いをした。

 守衛の手にあったのは、紅と碧が表裏一体となった一枚の羽根。アガットのものだと、すぐに分かった。

 

「今朝方、路地裏で見つけた魔物の羽根だ。血を吐いて事切れていた。よほど苦しい思いをしたのか、胸元を掻き毟った痕跡があって…、周辺に散らばっていた羽毛もおびただしい量だったよ。渡した羽根も、そのうちの一枚だ。

 この辺りには生息していない魔物であったこと、おまえたちが配って回ったポスターにそれらしい魔物が描かれていたこと、左頬に特徴的な二筋の傷跡があったこと…以上を踏まえて、『チェスト』に所属していた個体と判断した。この男と同様に、昨夜から行方不明であったことも聞き及んでいる。

 …被疑者は、取り調べの中で、事情を知らぬ従業員の一人を言いくるめて対象の魔物に薬を服用させたと自白した。実際に、試合の最中に禁薬の効果が現れていたのだろう?それらしい現象は、多くの者が目撃している」

 

 アガットはオレたちから遠ざかろうとしたのだ。だから出ていった。

 妙な薬を与えられ、苦しみを与えられ、信用できない場所にはいられないと離れたのか。それとも、弱っていく姿を見られたくなかったのか。自分の綺麗なところだけを見せていたいって、そういう、見栄っ張りな一面があったから。

 いずれにせよ、…彼はもういないのだ。いつでも皆の中心にいた魔物なのに、孤独に逝ってしまったなんて。そこに思い至ったとき、ぶわりと、目から涙があふれた。

 

「せめて、遺体を弔いたいのですが…アガットは今どこに?」

 

 羽根を受け取った副団長が沈痛な面持ちで尋ねても、守衛は首を振るだけだった。

 

「残念だが、おまえたちの元には返せない。薬がどのように魔物の肉体に作用したのか調べる必要がある」

「……、…腑分けということですか」

「そうだな。然るべき機関に引き渡さねばならん」

 

 だから、せめて。羽根を持ってきてくれたのは、守衛から気遣いだった。

 このときのどうしようもない遣る瀬無さを、オレは死ぬまで忘れないと思う。今、スタッフ全員が、それぞれアガットの勇姿を思い描いているに違いなかった。強くて、華やかで、称賛されることが好きで、目立ちたがり屋で、可愛げのある魔物だった。所属して以降ずっと『チェスト』に貢献し続けてくれた。そんな彼の末路があまりに酷くて、聞いているだけで吐き気を催してしまう。

 こいつの軽率な振舞いの所為で。

 団長を睨みつけても、奴はずっとうなだれるだけで、一度もオレたちの方を見なかった。

 

 

 

+++

 

 

 

「今日から私がこの闘魔団体の監視役を務める」

 

 王都でのイベントが開催される前に、甲冑を着た男が部下らしき小男と共にやってきた。

 魔物に禁薬を使用した実例の発生を重く受け止めた王からの辞令により、派遣されてきたという。今回の王都での催し以降、ずっと同行することになっているらしい。詳しくは書簡を確認してくれと、男は副団長に辞令書を渡した。

 陽を反射させて鈍く光る甲冑は、ハイラル軍において上官が着用するものだ。団長不在の『チェスト』を取り仕切ってきた副団長よりも社会的な身分は上の相手となる。そんな人物が、監視を名目に『チェスト』内部に入り込み、実状を探り、あれこれと指示を出していく――…要するに、彼が事実上の団長となるわけだ。外様の者を、王城の関係者を頭に据え置くことで、『チェスト』に首輪をつける狙いがあるのだろう。

 

「件の薬は、魔物の軍勢をつくるという荒唐無稽なことを実現すべく研究されていたものだと分かった。『チェスト』ではヒトの指示通りに動ける魔物を多く抱えている…そこに目をつけて売人が接触してきたのだろう。今後も油断ならんが、国に仇なす賊については我々ハイラル軍が厳しく取り締まっていく。安心してくれ。

 今回、「ヒトと共に団体行動がとれる訓練を受けた魔物」が一定数いることを利用されかけた…それを理由に『チェスト』の解体を検討すべきとの意見もあったが、議論の結果、より強固に管理した方が適当であろうという結論が出た。この団体の保護が優先されたということだ。民の娯楽を一方的に取り上げることへの疑問視や、運営に携わる者たちの雇用にも配慮されたため、こうして私が派遣されている。闘魔に関しては門外漢だが、おまえたちと過ごす中で私自身も学びを得ていくつもりだ。よろしく頼む」

 

 男はサレットをとり、顔面を露わにしたあと軽く頭を下げてきた。身分の割には謙虚な振舞いで、顔つきも精悍、目には知的な光が宿っている。見るからに出来物という印象だった。

 実際に、この新たな団長はよく働いた。己の身分や闘魔素人であることを言い訳にせずスタッフの言うことにしっかりと耳を傾け、問題を解決せんと誠実に対応した。前の団長なら決して手伝わなかった作業もスタッフの間に交じって積極的にこなし、労働を共にすることでスタッフからの信頼を強め、同時に、闘魔についての知識技能も高めている様子だった。

 新団長の指示のもとで不祥事を乗り越え、以前にも増して活気ある組織として生まれ変わった『チェスト』。彼が上手く立ち回ってくれたおかげで、アガット不在の闘魔イベントであっても観客は減ることなく、稼ぎも安定している。

 

 皆が喜んでいる。新しい上司を歓迎している。前だけ向いている。アガットを忘れて。何もなかったかのように。

 

 

 私は違う。染まってなどやるものか。

 おまえが嘘つきなのは分かっている。

 

 

 新団長に向けるラピスの目つきは鋭い。

 どんなに優しげに振舞ったって、私は見抜いている。おまえの根底には常に嘘がある。何を企んでいるのか定かではないが、私だけはおまえに対する警戒を緩めたりしない。

 前の団長のように欲深い波動を感じないから静観しておくだけだ。『チェスト』の皆が幸せに笑っていられるうちは手出ししないが、おまえが少しでも不穏をちらつかせたそのときは――私が必ずや牙を剥こう。

 





【 補足 】
・『チェスト』の今後
 スタッフの前に現れた「旧団長」「ゲルド族の守衛」「王城から派遣されてきた騎士(と、その下男)」はいずれもイーガ団員の成りすましです。変装に自信がある者、人心掌握に長けた者が選出されています。発言のほとんどは勿論うそっぱちです。
 魔物(ポケモン)へのよりよい飼育、訓練、調教に関する有益な情報が盛り沢山の『チェスト』。図鑑に載っていないコツ、生きた知識の数々が『チェスト』に潜入している団員を通じてイーガ団に筒抜けとなります。言うまでもなく、稼ぎもイーガ団が横領。最終的に、『チェスト』はイーガ団の子会社のようなものになっていくのでした。

・ラピス
 自分が療養している間に蘇芳(アガット)が夭折したと聞かされ、一時期はかなり落ち込んだものの、後々「アガットの分も頑張ろう」と再起しました。
 波動を駆使するポケモンですが、その能力で他者の思考を正確に見透かせるわけではないため、新しくやってきた団長の企てやその詳細を看破しきれていません。しかし、怪しいという一点に関しては確信を持っているので警戒を続けることに。
 一般人に扮したイーガ団の構成員が働き手としてどんどん『チェスト』に入り込んでくるため、じわじわと侵食されていく恐怖を感じて悩む日々。ラピスは彼らがイーガ団関係者とは知らないものの、「新団長と同類」「嘘つきなのに雇われている」ということは分かり、気味悪く思っています。
 
 ちなみに、新団長(イーガ団幹部)もラピスが自分に全く懐かないことやその理由を察しており、互いに牽制し合っている状態。

・禁薬の調査
 旧団長の表情やら視線やらで薬の場所はモロばれでした。コーガ様にかかれば目当てのものを探し出すのはお茶の子さいさい。
 アジトでの尋問(≒拷問)を経て、用済みになったら旧団長は殺処分。これは確定事項。大恩あるルチャブルが害を被ったので、容赦しません。
 この禁薬について更に調べを進めていくうちに、「薬を服用した後に『運動』による刺激が加わることで身体に影響が出る(FDEIAのような特殊なアナフィラキシーに類似)」ということや「赤月の夜でないと製造が成功しない」ということなどが分かってきます。

 秘密裏に薬をつくっていた輩は、薬によって人為的に魔物を操り、国政が混乱している現状を狙って国家転覆を図ろうとしていました。現時点で薬の製造、売買に関わっていた者は片っ端からイーガ団が処していきます。販路も潰します。コーガ様には「もう血生臭いことから足を洗ってもいいかもな~」とか思っていた時期があったのですが、てのひらくるん。団員たちとしても、暗殺の仕事が一気に増えたことを喜び「そうこなくっちゃ!」という感じです。

 薬のレシピが判明してからが本番。この薬をどのように改良し、どのように利用していくか、イーガ団内での研究と議論が続いていきます。
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