目を開けたとき、第一に天井が見えた。アジト内の天井や壁はどこであれ似通ったものばかりだが(そして、それがゆえに侵入者を迷わせ追いつめるわけだが)、それでも、朧は、医務室の天井だと分かった。微妙な凹凸の差を見分けたというよりは、薬臭さが充満していることを嗅ぎ取ったためである。
クソジジイの攻撃をもろに食らってしまって、…それ以降の記憶がないので気絶したということだろう。医務室に運び込まれて寝かされているのも納得だ。仰向けに寝転んだまま、僅かに首だけを動かして左を見遣れば、目の覚めるような紅の色が視界を染める。蘇芳は腕を組み、胡坐を組み、その状態で眠っていた。見舞いにきて、そして、朧の傍にずっといてくれたのだ。理解が及んだとき、朧は目頭が熱くなった。檻の中から情けない言動を繰り返す朧を見て、どんなに呆れたかしれないのに、蘇芳は朧を見放すことなくこうして来てくれたのだ。蘇芳が起きたら、もう一度、ちゃんと謝ろう。そう心に決めた。
――交尾、か。
蘇芳の寝顔を見つめながら、朧は心の内で独り言つ。
既に番がいる身なのに雌をあてがわれ、それによって異性への苦手意識が更に強まり、…今回の出来事は何から何まで辟易させられっぱなしだったが、一つだけ、有益なことがあった。
交尾、交尾、交尾とうんざりするほど繰り返し命じられ、交尾のことだけを考えるよう強要されたからこそ、そのうちに朧は思いついたのだ。…もしや、可能だったりするんだろうか。異性だけではない、同性と。蘇芳と。交尾。と、そういう発想を得られたのは唯一の収穫と言っていい。
やり方は知らない。しかし、随分と以前に仲間から飛んできた下品な野次にヒントがあるような気がする。あいつらは「ケツ穴ってのはどんな具合だ」「今度オレも試していいか」などと言っていて、…あのときはかけられた言葉の精査をするより前に、下卑た声音や嘲笑の方が癇に障り、侮辱されたことを感じ取って鉄拳制裁を加えたわけだが、今にして思えば単に揶揄われたにしては違和感のある単語ばかりだった。特に、「ケツ穴」の「具合」なんて、日常で聞くことはない。
つまり、同性同士の色恋の過程で、使う可能性があるということではないのか。尻の穴を。その具合を確かめ合う、交尾に似た行為があるのでは?だから、それをネタに冷やかされた…そんなところか。
蘇芳なら知っているだろうか。何かしらの性的な行為があると仮定して、それを朧が試みた場合に蘇芳は喜んでくれるだろうか。
そうしたことをつらつら考える訳は、一応、ある。
繁殖を目論まれて檻に入れられる前。コーガ様に呼び出される前。あれは、任務から帰還した直後のこと。一息ついたら蘇芳のもとへ行こうと思っていたそのときだった。アギルダーに声をかけられたのだ。『腑抜けた
『…オレは貴様に一目置いていたんだがな…、色恋でこれほど堕落するとは嘆かわしい限りだ』
『相変わらずおまえは手厳しいでござるなあ…』
このアギルダー、名は
『同性同士で契るなんざ別に珍しいことでもなんでもないが、…貴様は気の利かんところがあるからな。蘇芳を繋ぎとめる努力をしないと、奴はあっという間に別の停まり木へ飛んでいってしまうぞ』
何やら、意味深なことを言う。
赤銅の話に依れば、以前から、蘇芳は団内の雌たちに人気があるのだという。しばらくは朧が蘇芳の隣にべったりだったので近付くことができず、遠くから密かに恋い慕うだけだったらしい。しかし、最近は朧の不在期間が長くなった。これ幸いとばかりに、蘇芳が鍛錬場にくる機会を狙って、懇意になろうとアプローチをかける雌が増えてきたのだとか。
『蘇芳は客商売に身を置いていただけあって、あしらいが上手いからな。生え抜きのオレたちとは違って、雌には奴の丁寧な接し方が新鮮に思えるんだろう。おまけに強いとくれば、…雌からの人気が出るのも、まあ、道理だ』
『…拙者の存在は百も承知だろうになぜそんなアバズレが湧く…?』
うっかり口汚くなりながら低い声を出す朧を後目に、赤銅は肩をすくめるばかりだ。
『子を成せるというのが雌の最大の強みだからな。生涯の伴侶に選ばれずともせめて子種だけは欲しい…そういう雌もいるってことだ。ことイーガの魔物とあらば、貞淑など縁遠い…。目的を達成するための色仕掛けくらい平然とやる』
さて。貴様は孕める雌以上の価値を蘇芳に差し出せるかな。
雑談を切り上げ、赤銅はその場から風のように去っていった。赤銅なりに忠告してくれたのだろうことは理解できる。仲間内の恋の矢印の向きなどとんと疎い朧であるから、蘇芳に少なくない数の矢印が向けられていると知れた点は有意義だった。
朧がいると知りながら慕うのは自由とばかりに秋波を送るようなクソアマの存在は気に食わないものの、朧は必要以上に取り乱したりはしない。朧の不在時に蘇芳が言い寄られたとしても、どうせバレないと高を括って靡くような雄ではないと知っている。蘇芳は朧を裏切らない。朧も蘇芳を裏切らない。互いに固く約束した。だから、蘇芳の周りに不届き者の影がちらつこうが大丈夫だと信じていられる。
だが、赤銅の「孕める雌以上の価値」という言葉は朧の心に引っ掛かった。うまく呑み込めなかった魚の小骨のように。
朧にとって、蘇芳は特別だ。これは疑いようのない事実だった。心酔しているといってもいい。蘇芳と会えば高揚し、それでいて、その隣にいれば安らげる。豊かな情緒を備えている…とは言い難い朧ではあるけれども、蘇芳に向ける己の想いは「愛」なのだと理解できている。蘇芳と過ごすひとときに幸せを見出している。何にも代えがたい至高の価値――それを説明することは、朧にとって容易い。
だが、蘇芳はどうだろう。
朧に価値があると認めてくれているのだろうか。…大切にされているとは思うのだ。だって、番なんだし。朧を抱き寄せてくれるときの腕も、寄越される口付けも、あんなに優しい。
まあ、その、…一回も、好きだとか愛してるとかそういうことを言ってもらったことはないけれど、ふたりの間に甘い言葉を挟まなくたって、蘇芳の誠実さは出会ったときからずっと知っているつもりだから。
直接訊いてみよう、と決めた。明日、蘇芳に会いにいったときに尋ねたらいい。拙者は蘇芳を満足させられているだろうか、と。何か望みがあったら言ってくれと。
思考を整理した朧は、やっと落ち着くことができた。心に余裕が生まれた。明日が待ち遠しいと思っていたら背後からスッパ殿の呼ぶ声がして、それで――…総長室に向かって。コーガ様から繫殖に関して打診されて虚無顔になり。ひとまず檻に入って機をうかがう羽目になり。紆余曲折を経ての、――現在。朧は、己の不甲斐なさを恥じ、早く蘇芳に謝りたくてたまらなかった。朧が気絶している間に月白によって雌が籠絡されてしまったことや、その煽りを受けて団内で魔物の乱交騒ぎが起きていたことなどつゆ知らず、このときの朧は、ただ、己の傍らで居眠りをする蘇芳の目覚めを待っていた。
結局、起きた蘇芳は朧の謝罪をあっさりと受け入れた。朧には蘇芳に伝えたいことがまだまだ沢山あったのに、『おまえの意識が戻ったから俺は戻る』という言葉を皮切りに、蘇芳は『医務室で長話をする気はない』『治療に専念しろ』と立て続けに述べたあと、くるりと踵を返してしまって。
遠ざかるその背を追いかけたかった。だが、蘇芳を追ったら『休んでろって言っただろうが!』と怒られるに決まっている。
蘇芳は朧の療養の邪魔にならぬよう出ていったのだ。それが分かるからこそ『ここにいてくれ』と言えなくて、代わりに、溜息が漏れ出る。
休暇を心の支えに任務を終わらせてきたのに、ろくでもないことに巻き込まれて台無しになってしまった。『蘇芳…』と呟いてみたところでかの最愛に届くことはない。込み上げる寂しさを紛らわせたくて、朧は、再び目を閉じた。
+++
『朧を知らないか』
蘇芳が声をかけたのは、馴染みのツチニン――卯ノ花である。
一旦巣に戻ったものの、やはりその後が気になって、翌日を待ってから蘇芳は再び医務室を訪ねた。しかし、そこに朧の姿はなく、寝台も片付けられていたため、アジト内を探していたのである。その過程で偶然にも顔見知りに出会えたので、呼び止めたというわけだ。
卯ノ花は少しばかり視線を彷徨わせ、言いにくいものを口に出すように声量を落としながら『筆頭殿と一緒にいるところを見たよ』と答える。
『何かさ、こう、…朧は雌と揉めたんだろ?その所為で檻に入れられてたんだって聞いた。さっき筆頭殿とふたりで女部屋の白暖簾をくぐっていったから、…雌に用事があるってこと?謝罪かな?揉め事が尾を引いてるのかもしれないね』
うーん…、檻に入れられていた理由は中らずと雖も遠からずというか…。
遠い目をする蘇芳には気付かなかったようで、卯ノ花はいくらかの雑談の後、『蘇芳は戻ってなよ。朧と会ったら、蘇芳のところに行くようおいらから言っておく』と親切に申し出てくれた。おそらくは蘇芳を厄介事から遠ざけようというつもりで提案したようなので、蘇芳もその言葉に甘えておくことにした。
果たして、巣で待っていると、朧が現れた。卯ノ花と話してから半日以上経っていた。夕方近くの肌寒い時間帯である。すぐにぎゅうと抱きついてくる朧の身体は冷えきっていたので、やれやれと呆れながら蘇芳はその瘦身を翼で覆い、抱き返して温めてやった。
『体調は?』
『…もう大事ないでござる』
『雌のところに行ってきたんだって?』
『そう!そのことなのでござるが!』
急に張りのある声を出し、朧は事の顛末を蘇芳に話しだした。
何でも、騒ぎを起こしたことを謝りにいったらしいのだが(卯ノ花の予想通りだ)、その場にいた雌たちから凄まじい罵詈雑言を浴びせられたのだとか。深窓の令嬢が聞いて呆れる、野郎でもそうそう口にせんぞというほど聞くに堪えない悪罵だったそうな。
『…雌に対するおまえの仕打ちが広まって警戒対象になったってことだな。で、…それを、なんでちょっと嬉しそうに言ってんだよ』
『嬉しくもなるでござるよ。同族の雌から蛇蝎のごとく嫌われておけば、今後、拙者が雌の相手をさせられることもないでござろう?』
要するに、朧は、これからは決して異性問題なぞで煩わせたりはしないとアピールしている。もう蘇芳を怒らせることもないだろうと、それが嬉しくて弾んだ声を出しているのだ。こういうところが、何というか、こいつの可愛いところだよな…などと思ってしまう蘇芳である。
『それに!同族の雄たちは感謝してくれたでござるよ。これで自分たちにも交尾のチャンスが巡ってきたって』
『……、…そうか、…そういう考え方もできるわけか…なるほど…』
『拙者は異性との縁が切れたも同然だから安心してくれ』
いや別にそれを心配したことはない…と言いかけた蘇芳だが、あまりにも朧がにこにことしているので、水を差すような言葉は引っ込めておいた。
失礼ながら、コイツ雌にウケないだろうな~…とは前々から思っていた。見目よく、文句なしに強く、魅力的な雄だろうと思うのだが、…こう、どちらかといえば内向的だし、社交性に欠けるし、おまけに異性に寄り添えないし。同性としか話が合わせられない典型例。蘇芳といるときの朧は会話を楽しんでいるように見え、饒舌な印象を受けるのだが、実のところ、朧はよほど親しい間柄でない限り口数は少ないのである。
朧との付き合いは短いが、それでも、異性に対する関心が極めて薄いのはすぐに分かった。修業と任務に明け暮れる過酷で抑圧された生活の影響だろう。異性との絡みが全くないということはないのだが、接し方が非常に淡白なのである。傍から聞いていて、『おまえ…言い方…』と何度思ったことか。朴念仁…とまでひどくはないにせよ、根本的に異性から好かれるタイプではない。それが、朧に対する蘇芳の所感である。だから、番が異性との浮気にはしる懸念は端から蘇芳の中にない。
蘇芳が朧に振り回されているとすれば、それは恋愛経験皆無の朧が繰り広げる突飛な思いつきや思い込みによるものであって、…まあ…案外そんなところも可愛いが…と感じ始めているあたり割と末期だなと自覚している今日この頃である。
キスしたいと朧がせがむので、蘇芳は応じた。口の大きさから舌の長さや厚みに至るまで何もかもが違うので、舌を絡ませ合うような深くて濃厚な口付けはできないのだが、そこは緩急をつけたり、甘噛みしたり、舐めたり、吸ったりと工夫することでふたりらしいの情の交わし方を形作れていると思う。朧も今やすっかり慣れて、嬉々として蘇芳に口付けてくるし、蘇芳は蘇芳で、甘やかなこの時間を好ましく思っていた。
はあ、と色香がのる湿った吐息。蘇芳を見てくる朧の薄紅の目が細められる。
『拙者は蘇芳を満足させることができているだろうか』
『……、いつもながら唐突だな…。今この空気で訊くことか?』
こいつ…また何か妙な思い違いをしているんじゃないだろうな…と身構えるような、それでいてどんなことを言って驚かせてくれるのか楽しみでもあるような、奇妙な心地で蘇芳は朧の次の言葉を待った。
『拙者には、…雌が持つような甘い声や、柔らかな身体はない。孕むこともない。だが、それでも彼女らには負けたくないでござる。拙者なりに蘇芳へ愛情を示しているつもりだが…拙者のやり方で蘇芳は満足してくれているだろうかと気になったでござるよ』
拙者が番であることに後悔してほしくない、と言う。
何だそんなことで悩むなとすぐに返してやればよかったのだが、真っ先に、っは~…と盛大な溜息を吐いてしまった。いかん、これでは朧が不安になると内心ではすぐに反省したのだが、それでも、蘇芳は嘆息せざるを得なかった。実際、何を言い出すかと思えば、と呆れている。しかし一方、ちらりと、こいつといると本当に退屈しないなというようなことも考えていて、とにかく目が離せないし手を焼かせるが、それが朧相手だと不思議と嫌ではないのだった。
『おまえ、…おまえはさぁ、ほんと、…勝ち負けの話じゃねえだろ…』
あれか。最近雌とのいざこざを経験して、思うところがあった感じか。最初こそ一部の者しか知らなかった朧の繁殖事情だが、月白が介入したことで大変な騒ぎになってしまい、そのことで誰かから何かを吹き込まれたとか、そういう線もあり得る。どちらにせよ、今一度朧にはきっぱりと言い渡しておかなければ。こいつに曖昧な表現は通用しない。肝心なのは断言と明言だ。
『あのな、…まず、俺は雌の代わりにおまえと番ったわけじゃないぞ。分かってるか』
自信なさげに、朧がこくんと一つ頷きを寄越す。いや何で弱気なんだよそこはもっと胸を張れよ番として。
『逆に訊くけどな、おまえはどうなんだ。なぜ俺を番にした?』
『好きだから』
先程とは打って変わって、実に堂々とした即答だった。一点の曇りも迷いもない告白に胸をつかれ、心臓がどくんと一際大きく脈打ったことを実感する。
『俺も同じだ』
朧の両目を見据えて、己の言葉一字一句を刻み込むように、蘇芳は告げる。
『他と比べるべくもない。おまえが好きだから一緒にいる。それだけだ』
すると、相手の目の輝きが増した。美しい光を宿していた。潤んだその目玉は宝石のようで、これを間近で見ることの叶う特権を有しているのは自分だけなのだという想いが、蘇芳の優越感を煽った。
『幸せだ…』
再度、抱きしめられる。
背に回された朧の両腕から万感が伝わってくるような、じんわりとぬくとい抱擁だった。
『…初めて…蘇芳から好きだと言ってもらえたでござる…』
言ってなかったか?と口を開きかけるも、今までの記憶をざっとさらった結果、確かに言ったことなかったかもなと思い直した蘇芳は、こんなにも自分に尽くしてくる相手に気の毒だったかもしれないと少々の罪悪感を抱くのだった。
『とにかく、だ。俺に不満はないし、仮にムカつくことがあったら我慢なんてしない』
『…そうでござるな。蘇芳は喧嘩っ早いから』
『なんだよ、さっそく喧嘩売ってんのか』
『まさか。シンプルで好ましいと言ってる』
抱擁ついでに、すり、と甘えるように頬擦りされた。時折、朧は臆面もなくこうした愛らしい仕草をしてくることがあって、これを雄ながら恥じらいなくできるのは色恋と無縁だったためだろうか。どこか幼さが感じられて、平生の朧との差があり、それもまたなかなかどうして味わい深い。
『今のところ蘇芳に不満がないと分かって安心したところで、一つ、提案してもいいだろうか』
『…どうした?』
『現状に新たなものを加えようという試みでござる』
直後、『雄同士でも交尾ができると思うか』と想像だにしなかった爆弾発言をかまされ、束の間、蘇芳は何の反応もできずに茫然としてしまった。
できるわけないだろと一笑に付す…というのは一つの手だったかもしれないが、蘇芳はそこまで性格の悪い振舞いはできなかった。思わず沈黙し、その蘇芳の沈黙を朧はある種の肯定と捉えたらしく、『方法を知っているか』と問いを重ねてきた。朧の声が、どことなく期待を込めて響いていることに蘇芳は気付いていた。
遂にきた。きてしまった。
色っぽい方面、性的な行為に疎い朧が、交尾、それも同性同士のそれに自分から興味を持つとは考えにくい。思いつきもしなかったはずだ。今だってそう、両者間にある恋仲らしい接触はハグにキス。この程度。幼児にだってできるスキンシップに終始していた朧が、いきなり、何段かすっとばして穏やかな触れ合いの範囲外に出ていこうとしているのだから必ず理由がある。引き金は間違いなく直近で巻き起こった例の騒動であり、思考が飛躍しやすい朧のことだから、あれこれと思考を巡らせた挙句「蘇芳と交尾は可能なのだろうか」というところまで辿り着いてしまったのだろう。
――蘇芳は、アジトで卯ノ花と交わした雑談を思い出していた。
卯ノ花が、朧が雌と揉めたというところに関心を持っていそうだったので、変に嗅ぎ回られても面倒だと思った蘇芳は、あいつは色事の機微だとか異性の心情だとかに気配りできないから相手を怒らせたんじゃないかと軽口をたたいて興を削ごうとした。すると意外にも、卯ノ花が『そうだよねえ』などと同意を示してきたのである。
『朧はさ、切った張ったの世界で生きてきたくせに、変なところで無防備なところがあるというか、すれてないというか…。何か、こう、自分にも他人にも興味が薄くて、「欲」みたいなもの全般から縁遠い奴で…』
今では蘇芳に首ったけでびっくりしてるけど!と余計な茶々を挟みつつ、卯ノ花は話を続ける。
『任務のときは、そりゃ冷酷だったり非情だったりするかもだけど、…仲間内では柔らかいところも見せてくれるし、おいらは朧のこといい奴だと思ってるよ。あいつは筆頭殿と一緒に育ってきたから基本が真面目で、誰かに嘘ついたり、陥れたりすることもないし、そういうところが周りに好かれてるんだと思う。でも、朧のこと、お高くとまってるように感じてる奴らもいてさ。…そいつらが朧に何するか、想像つくかい?』
『実力で勝てる奴はいないから面と向かっては喧嘩をふっかけたりしないんだろうな。…そんな手合いの溜飲が下がるとすれば、奴をおちょくっていじるときか…』
『そういうこと。ほら、例えば下ネタとか陰口って身内の連帯感を持たせやすいじゃん?褒められた話題じゃないんだけどさ。ただ、朧って、そこに混ざってこないんだよね。品のない話だとしても適当に乗っかってその場をやり過ごす…みたいなのもできないし。あいつ、それで、…何というか…「みんなが知っていて当然のことをひとりだけ知らない」感じになっちゃうんだよ…』
『ズレるんだろ。想像がつく』
『うん。それで、エロ系のことにはマジで疎いから、話を振られても
『あー…それはもうしつこく擦られるだろうなあ…』
『さすがに朧も嫌気がさしたみたいで。だから、その手の話からはどんどん遠ざかるし』
『色恋方面の情緒がまるで育ってない理由がよく分かった』
『別においらが言うことじゃないんだけど、…でも、ごめんよ蘇芳。おいらたちって口も育ちも悪いからさ、朧には余計に嫌な思いをさせたはず…。その所為で恋愛沙汰を毛嫌いしてる節があったからね、あいつ。いざ付き合ってみて苦労してんじゃないの?』
『…別に。不慣れでもいい。それならそれで、俺好みに仕込む楽しみがあるだろ』
『うわ~ぉ!やっぱ蘇芳は言うことが違うなあ!』
格好つけた物言いになったが、もちろん、これはその場限りのテキトーな発言である。蘇芳は「相手を自分の色に染める」ことに何の興味もない。興奮もしない。そもそもが恋多き鷹ではないのだ。どこぞの老蛙みたいに浮名を流しまくったことはないし、百戦錬磨からも程遠い。朧と比べれば経験値が上で、多少は物を知っている…というだけのことである。
蘇芳は、一応、性にまつわる世間並みの知識を有している(と、自認している)。雌と交尾して子を成した事実があるし、闘魔団体に所属していた頃は仲間内の猥談に参加させられたこともあるし、下ネタを聞かされていちいち反応するような可愛げなど全くなかった。それは、同性同士の性事情に対しても同様のスタンスであった。つまり、蘇芳にとって、特別視することではなかった。ニンゲンとの共同生活が前提にあるイーガ団ではどうなっているのか知らないが、少なくとも野生界では、同性の番はそこかしこで散見される。異端な在り方ではない。蘇芳としては、双方が納得してくっついているのなら好きにすればいいと思っていた(いずれ自分がその当事者になることなど微塵も予感していなかったわけだが)。
同性の番が育児放棄に遭ったどこぞの幼体を養子にして育てたという話は割と聞く。いつか雌と交尾するための予行練習として雄を相手に練習する種族もいる。他にも、…胸糞悪いところでいくなら、群れのヒエラルキー最底辺にいる雄を慰み者として
だから、不本意ながら、知ってはいる。結論――朧の言う「雄同士の交尾」というやつを、その概要を、知ってはいる。身を以て経験したことはないけれど。
『仮に、な』
『うむ』
『俺たちが交尾できるとして、…それって必要な行為か』
蘇芳は、性欲旺盛とは言い難い。他の雄たちが頻繁に口にする「ムラつき」だの「ちんイラ」だのというものがいまいち実感としてピンとこない。このあたりは、鍛錬などを通じて激しい運動を日常的に行っていたことでうまいこと発散されていたのだろうと思う。
要は、性交に大したこだわりがない。己に絶対に要るもの…とは、どうしても、感じられなかった。正直、子どもを作ったのも、本を正せば雄として生まれたからにはやることやっておこうと思っただけであって、その気になったときに運よく身近なところに好みに合う雌がいたので娶ったというのが事の真相だったりする。
異性に対してさえがっつかなかった蘇芳である。同じ雄であるところの朧に対して性衝動を覚えるかと問われたら、ぶっちゃけ、否だった。
番になったからといって朧との交尾に積極的になれるとは限らないと冷静に判断していた蘇芳は、これまで、朧が性の知識に乏しいのをいいことに問題を先送りにしてきた。
朧のことは好きだ。その想いは、最近になって、ようやく蘇芳の中に定着した。初めは馴染まずにどこか他人行儀だった感情も、やっと自分のものとしてしっくりくるようになった。
朧は信頼に足る相手だ。だから、心と体を預けて組み手などの特訓ができる。本音を晒すことができる。朧が巣へ訪れてくれたら嬉しいと思うし、一緒にいられる時間を大事にしたいと思う。抱擁も接吻も抵抗なく交わせる。相手から向けられる好意を受けとめ、自分からも好意を返して、番としては十分に成立しているはずだ。たぶん。
今のところ不満はないと話したばかりなのに交尾の追加を提案されているわけだが、何だ、他の刺激が欲しくなったってことなのか。マンネリもクソもないだろ。一応新婚だぞ俺たち。様々なことを胸中に巡らせる蘇芳の前で、交尾が必要か問われた朧はきっと蘇芳の考えなど勘定に入れぬままに、ただ『必要だ』と頷いた。この野郎。
『交尾で蘇芳を喜ばせることができるなら、拙者は習い覚えたいでござる』
…習い覚える、ときたか。
この言動一つで、蘇芳が重ねて問うまでもなく朧から「童貞です!」と元気に報告されたに等しく、さてどうしたものかと蘇芳は腕を組む。
別に俺は交尾したいと思ってないからこの話は終わりな。そう言い放てないのは、朧が好奇心丸出しの顔つきで蘇芳を見てくるためだ。わくわくした子どもの目をしている。こいつもいい
『…俺を喜ばせたいとか、そういう奉仕の精神は一旦脇に置いてだな。おまえ自身はどう思ってるんだよ。俺のために、って無理をしなくてもいいんだぞ』
『まったく全然これっぽっちも無理はしていない。蘇芳が許してくれるのなら、拙者は蘇芳とドすけべなあれそれをヤってみたい意欲に満ち満ちているでござる』
『……、…わかった。落ち着こう』
『落ち着いているが?』
すげー
え、何て?ドすけべなことヤりたい?俺と?…幻聴ならよかったが、生憎、現実は思い通りにいかないのが常である。
落ち着かないといけないのは蘇芳の方だった。番から肉欲を向けられている事実と向き合わないといけないし、これが問題を先送りにし続けたツケでもある。
年貢の納め時、というやつだ。
『おまえさ、…交尾をしたことがないのは分かったが、例えば見たことは?』
『ない。話に聞いたことがあるだけだ』
ふむ…、これまでの経験からして、こいつの「聞いたことがある」って内容はこっちが思うよりも浅いことがままあるんだよな…。卯ノ花の『朧はエロネタに疎い』という発言もあったことだし、「聞いたことがある」というのも本当に聞きかじっただけの可能性が高い。
『…まずは見学からだな』
『見学!』
『俺だってなあ、交尾経験が多いわけじゃないんだぞ。するにしても雌が相手だ、雄とはヤったことない。やり方は分かる…が、それをいちいちおまえに説明するより、実際に見た方が早い。百聞は一見に如かずって言うしな』
イーガ団は男所帯だから、一組や二組くらい野郎のペアがいるだろ。明日探しにいくぞ。
蘇芳が思い立ったが吉日と段取りを決めていくのを隣で聞きながら、朧は「何でも蘇芳に従います」とばかりに、逐一に、こくこくと首を縦に振る。あからさまに、ものすご~く嬉しそうなのは、蘇芳がふたりの交尾に向けて具体的に話を進めているためだろう。
朧を抱くことになるのか、朧に抱かれることになるのか、それは分からない。具体的なイメージも浮かばない。蘇芳は自身の肉体を「雄との交尾に用いるもの」として意識したことはなかったし、朧相手に興奮できるのか甚だ疑問であった。
ただ、…交尾の気持ちよさをこいつはいっぺんだって味わったことがないんだなと。好いた者をいっとう近くに感じられるあの経験がないんだなと、そこに思い至ってしまうと、何とも言えない感情が生じた。もしかしたら、それは憐みにも近いものだったかもしれない。とにかく、その感情の所為で、蘇芳は「俺でよければ」なんてことを考えてしまったわけである。
こうなったら腹を括るしかねえな。
身を寄せ合って丸くなり、安心しきって眠る朧の寝顔を眺めながら、蘇芳はひっそりと息を吐いた。