オンバーンの叶わぬ恋の話
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ
――夏の野の草むらに咲いている姫百合が、誰にも気付かれぬままであるように、愛する人に知られることのない恋とはこれほど苦しいものなのですね。
***
己の母を、男が連れ出していく。
二人を背に乗せたギャロップが、その美しい火焔のたてがみをなびかせながら、力強く、颯爽と駆ける。
その後を、ファイアロー ――姉上と、兄上、そして自分が、飛翔してついていく。
特定の目的があるわけではない。
ただ、野山を駆けて、それだけだ。
「城は窮屈だからな」と豪快に笑う男は、一人で行けばいいものを、このところは母を誘い、あるいはさらっていく。
母が厭うて抵抗する気があるのなら自分が噛みついてやってもいいと思っていたけれど、どうにも、彼女はまんざらではなさそうだから、番としての仲はいいのかもしれない。
夏だ。
天地がそろって若々しく、青々と、生命力に満ちている。
影を濃くする強い陽射しが、容赦なく照りつけてくる。その日光を背に受け、ぬけるような青い空を背にして飛ぶのは、心地がいい。
休憩のためか、森の中でもひときわ立派な樹の根元に腰を下ろして、二人は何やら話を交わしている。
その近くに銘々が降り立つが、比較的大柄なギャロップや自分を含めて尚その場にいる皆を丸ごと覆い尽くす木蔭の大きさに、そびえる大樹の荘厳を知る。
『ねえ、兄上』
内緒話のつもりで囁き声を出すと、綺麗な琥珀色の目が、こちらに向く。
それだけのことが、もう、こんなにも嬉しい。
『近くで草の揺れる音がするんだ。草原があるんじゃないかな。
もしかしたらそこで野花が摘めるかなって思うんだけど、一緒に探してくれない?オレ、母上に届けたいんだ』
びっくりさせたい。
そう言って誘うと、『名案だな』と兄上も優しく顔をほころばせる。
ふたりしてこっそり抜け出す際、ちらりと姉上の方へ視線を送ると『任せておけ』というように頷き返された。
これで、ゲッコウガの兄者を足止めすることも叶うだろう。
彼もまた、影に潜みながらついてきていることは承知している。母を守る名目であるし、大方、今はどこぞこの巨木の枝にでも佇んでいるのだろうと思う。
母の番である男には粗暴な立ち振る舞いが目立つが、なぜだか、彼はオレを気に入っている。頻繁に呼び出し、連れ歩く。そうなると自然、彼の右腕として生きてきたファイアローの姉上とも近しくなった。
姉上は凛々しくさっぱりとした性格で、よく、相談にのってもらっている。
兄上とふたりになれる時間が欲しいとこぼすと、機会があれば協力してやろうと請けおってくれたのがつい先日のこと――そのときの約束は、彼女も、しっかりと覚えているようだった。
姉上が兄者の相手をしてくれている今のうちに、抜け駆け。
不意打ちの悪戯をしかけるみたいで、なんとも楽しい気分だった。
***
少し進めば案の定、ぽっかりと拓けた場所で緑が波打っている。
むせかえる草いきれの、青い香りがまとわりついた。
『見て、兄上!姫百合がこんなに!』
はしゃぐこちらを眩しそうに眺めて、兄上もまた『綺麗だな』と笑いかけてくる。
『まったく、…図体がでかくなっても、そういうところはまだ子どもだな』
『だって!せっかくの城外なんだもん、楽しまなきゃ!』
ねえ。
はしゃぐのも、無理ないでしょ。
今はあなたとふたりなんだから。
一緒にいたいと願ったかつての無邪気さは、今ではもう、一緒にいたいと焦がれる慕情へと、肉の進化と共に変わってしまっていた。
時が経つごとに、言えない想いだけが深くなっていく。
『すっと背筋が伸びて、緑の葉に濃紅色の花が咲いて。なんだか、姫百合って兄上に似てる』
『おまえもそう思うか』
おどけたように翼をひろげて気取った仕草をみせる兄上の姿がおかしくって、そういうところもやっぱり大好きで、…こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
花の名を知っているのは、「誇り」という花言葉と共に母から教えてもらったため。
誇り――そう、きっとこの花は、気高い兄上にこそよく似合う。
『…鳴る神の』
『ん?』
『少し
雨も降らぬか。
君をとどめん。
雷が少しばかり鳴って、曇って、雨でも降ってこないだろうか。あなたを引きとめておきたい。
想いをのせた和歌が、口をついて出た。
『オンバーン、おまえ、…』
――その、兄上の言葉を遮るは、雨音。
空気が重く、沈む。水分を含んでいる。
束の間の通り雨が細やかに降りそそいで、さあと視界を白く染めていく。
咄嗟に左翼で笠を作り、飛膜の影へ兄上を引き込んだ。
『おまえが濡れる、』
『大丈夫、気にしないで。兄上は雨宿りしてよ』
我ながら、隆々と成長した。
はるかに見下ろすばかりとなった彼。つい最近まで、自分の方が、表に牡丹裏に若葉の麗しい両翼にいだかれていたのに。
しかし、体格差が生じながらも、兄上の目に映るオレは幼い姿のままなのだろう。だから、茶化される。
『おまえがあんなことを言うから雨が降ってきたんだろう?』
『…え、』
『おまえのようにすらすら諳んじることはできないが、何を言われたのかは一応わかるぞ。あの御方を主人に持てば、自然と耳に入るからな』
甘えたいなら遠慮せずに言え。
兄上が穏やかな手つきで、オレの頬を撫でる。
『別に、雷や雨を待たなくても、おまえが望むなら相手をする』
鳴る神の少し響みて降らずとも
その返歌を意識してかけてくれた言葉だろうけれど、嗚呼――届かない。
違うよ、兄上。
オレが呟いたのは恋の和歌なんだよ。そこは、そこまでは、知らないんだね。
言の葉を知るばかりで、込められた奥の想いまでは、…あなたは。
子どもっぽく甘えたいわけじゃないんだ。遊び相手になってほしいのではなくて、オレは、あなたと…
頭から水滴を浴びる今、雨垂れが頬をつたっていく。
よかった。雨に濡れていて。涙は上手く誤魔化せているだろうか。
『…、…ありがと、兄上』
声が震えぬようこらえながら、話題をそらす。
『花束にしたら、母上は、…喜んで、くれるかな』
『もちろん。存外嬉しいものだぞ、贈られた側は』
細められた彼の目に、刹那、なまめかしい気配がよぎった。
花を贈られたことがあるらしいその口振りが、切なかった。
普段であれば決してオレには向けてくれないあでやかな顔をしたのだ、花の送り主にも見当がつく。
おまえが望むなら相手をする。
先程の、兄上の言葉が蘇った。
本当に?
本当にオレが望めば相手をしてくれるの。
じゃあ、そうしてよ。暗がりでゲッコウガの兄者と何をしているのか、どうやったらあんなに妖艶な声を兄上から引き出せるのかオレにも教えてと――迫る意気地は。この場では、出てきてはくれなくて。
遠く、上空の彼方。
音の切れ間を耳が捉えた。
もうすぐ、雨も、あがる。
この気温、元より撥水の皮膚だ。しめる身体なんてすぐに乾いてしまうだろう。
小さな水滴の余韻など、最初からなかったかのように。あっという間に。
【 了 】